公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四〇五 竜門雑誌 第四五八号 大正一五年一一月 秋 【青淵先生】(DKB80031m)
別巻第8 p.92-95 ページ画像PDM 1.0 DEED
四〇五 竜門雑誌 第四五八号 大正一五年一一月
秋
青淵先生
秋と云へば、先づ私は欧陽永叔の「秋声賦」を思ひ出します。之は
- 別巻第8 p.093 -ページ画像
欧陽修が秋に対する感想を、童子との問答体として作つたもので、最も善く秋の物象を形容して其の意を述べて居ると思ひます。即ち
欧陽子方夜読書。聞有声自西南来者。悚然而聴之曰。
と書出し「異哉」と驚いて「初浙瀝以蕭颯。忽奔騰而砰湃」と謂ひ、
如波濤夜驚。風雨驟至。其触於物也。鏦鏦錚錚。金鉄皆鳴。又如赴敵之兵銜枚疾走。不聞号令。但聞人馬之行声。
と形容し次で「予謂童子。此何声也。汝出視之」と命じて居ります。すると童子は答へて
星月皎潔。明河在天。四無人声。声在樹間。
星や月はよく見えるが四辺には人の声はない、声のあるのは樹の間である、と曰ふ。そこで
予曰。噫嘻悲哉。此秋声也。胡為乎来哉。
と述べ、此処で欧陽修は初めて、之れを秋の声であると断じて居ります。そして秋なるものを説明して
蓋夫秋之為状也。其色惨淡。煙霏雲斂。其容清明。天高日晶。其気慓洌。砭人肌骨。其意蕭条。山川寂寥。故其為声也。凄凄切切呼号憤発。豊草緑縟而争茂。佳木葱籠而可悦。草払之而色変。木遭之而葉脱。其所以推敗零落者。乃一気之余烈。夫秋刑官也。於時為陰。又兵象也。於行為金。是謂天地之義気。常以粛殺而為心。
と言ひ、更に進んで、
天之於物。春生秋実。故其在楽也。商声主西方之音。夷則為七月律。商傷也。物既老而悲傷。夷戮也。物過盛而当殺。嗟夫草木無情。有時飄零。人為動物。惟物之霊。百憂感其心。万事労其形。有動乎中。必揺其精。而況思其力之所不及。憂其智之所不能。宜其渥然丹者為槁木。黟然黒者為星星。奈何非金石之質。欲与草木而争栄。念誰為之戕賊。亦何恨乎秋声。
と頻りに感慨に耽り、そうして人生に対して想を馳せ、終りを「童子莫対。垂頭而睡。但聞四壁虫声喞喞。如助予之歎息」と結んで居ります。此の文章には詩経や易の句が引用してあつて、中々難かしく、到底私などが説明をすることは出来ないが、実に秋の情を形容して余蘊なしと云ふことが出来ませう。「実際、秋の気候は清涼玉の如き感じがするのであつて、秋声賦にもある通り、物の取締り、締め括りを為す時期で、春の浮立ち、夏の勢盛なるに対しては秋は成熟の時であります。「秋収めて、冬蔵す」と云ふこともある通り、どうしても秋は充実したる緊縮の時であります。随つて人の気象も自然懶惰の風がなくなるのであります。或は悠然とした柔さには欠けるかも知れませぬが、何処となく粛然たるものがあります。だから春や夏の如く懶惰放慢な時代には心ある者は秋の気持を欲するのであります。
かくの如く秋は単に自然の現象として総ての取締りを為すのみでなく、人生に於ても同様の意味を持つから、秋を大切に過すことは最も肝要であります。勿論、春、夏、秋、冬、何れも寸陰を惜んで何事にも当らねばならぬことは殊更に云ふまでもないけれども、特に秋は大切にしたいものであると思ひます。
- 別巻第8 p.094 -ページ画像
秋に関する古からの詩文は前に挙げた欧陽修を初めとして他にも沢山あり、此処に一々云ふことが出来ぬ程でありますが、一例を挙げると韓退之の「勧学文」の中にも
時秋積雨霽。新涼入郊墟。灯火稍可親。簡編可巻舒。豈不旦夕念為爾惜居諸。
と云うて居ります。此居諸は月日のことで、月日を惜むと云ふ意味であります。此文章の意味は改めて云ふまでもなく、秋は灯火親しむべく読書の時期であると云ふのであります。そして其の秋に充分勉強せねばならぬと云ふことが短い句の中に、極く親しい情合を含んで現はれて居ります。それは韓退之が自分の子供に与へたものであるからであります。
尚ほ韓退之の勧学文に関連して、聊か読書と云ふことに付て申して置きたいと思ひます。私の見る所では一般に日本人は書物に対しての観念が薄いやうであります。三字教に「頭を梁に架け、錐を腿に刺す」とあるが、之は古人の読書に対する態度の如何に真剣であつたかを証するものでありませう。又薪を背負うて読書するとか、牛を牽ひて書に親しむと云ふやうなことが、賢者と云はれる古人の物語りには残されて居ります。これは寸暇のない身でよく読書をしたことの形容であらうと思ふが、文明を誇る今日の有様は如何かと云ふと、今申した様な態度のないことは云ふ迄もなく、書物を読むことさへ廃れ勝であります。かくの如く読書の風が廃れる傾向にあるのは歎かはしい次第であります。勿論近代の人々は西洋流の新しい学問もして居るから読んで理解する力も増して居るであらうが、入念に読書する習慣がなくなつて居るやうであります。此点では支那人に劣り、西洋人にも遠く及ばぬのであります。昔のやうに特殊な人のみが読書し、他の人々は無学文盲であると云ふやうなことはないが、読書力は甚だ低いから一層読書の観念を盛にする必要があると思ひます。それには此秋の好時節から心掛けられたいものであります。
私自身に付て云ふと、兎角多忙に暮して居るため読書の暇も余りない状態にあるが、少青年時代からの習慣の為か、常に何かの書物を読まぬと心が安んぜないので何かしら読んで居ります。ただ其読み方が敢て順序を立ててやるのでないから、甚だ効果が少いのであります。今少し定つたものを読んで居ればよかつたと思ひ、筋立つた学問が出来なかつたことを残念に思つて居ります。読書の効果から云ひますと、最近に於ては読んでも忘れる方が多くなりましたが、之は年齢の関係もあらうかと思ひます。青年の頃は読む分量が多かつたのと忘れる部分が少かつた為、差引しましても幾分残がありましたが、此頃では読む分量が少く、忘れる方が多いから何にも残らぬのであります。今此のお話をするにつけて「秋声賦」がすぐ思ひ出せるのも、畢竟青年時代に読んだ為めに記憶して居つたからであります。然し私が斯く読書を勧めますものの、敢て業を捨て、己の主旨を曲げてまで読書せよと云ふのではなく、一般的に書物に親しむの念を強からしめたいとして云ふのであります。此読書に関連して思ふのは、比頃出版物が矢鱈に多くなつたことであります。今日出版せられる書物の中には、無
- 別巻第8 p.095 -ページ画像
くもがなと思ふやうなものも少くないから、さうしたものは何等かの方法で成るべく整理する必要があらうと切に思つて居ります。かくの如く出版物が多過ぎる為めに其煩に堪へず、結局読書を妨げる様になり、人によつては書物が多過ぎるから読まぬなどと云ふに至るのであります。此は単なる口実に過ぎないにせよ、今日の様に出版物の多いことは考へねばならぬと思ひます。
斯様に此頃、余りに多数の書物が出版せられる為に、色々の読書法の研究と云ふやうなものが行はれて居るやうでありますが、私は一向に不案内であります。私の知つて居る所では福地源一郎氏が中々読書力がありました。福知君が余り種々のことを知つて居るので、如何なる方法によるかと訊いたことがありますが、氏の説明によりますと、書物の最初と最後のみを読む、すると中途は自然に理解すると云ふのであります。大体論文なども先初めに論旨を述べ、終りに結びを付けるからでありませうが、兎に角一種の読書法と云へませう。然し此頃の哲学書のやうに、何処まで行つても掴み処がなく、結局最後まで読まねば解らぬものなどには応用出来ない様であります。私は読書法は極く野暮な方で、初めから終りまで通読する方であります。
扨て今日多少とも世の中のことを敢て憂へると云ふのではないが、常に其の成行に注意を払つて居る私として、人から秋に対する感想を尋ねられるならば、春、夏、冬もさることながら、特に秋を大切にせよ、と答へるでありませう。かくて日本の現状を親しく観察する時、政治界でも経済界でも、社会或は教育の事にしても何れも速かに秋たらしめたいと切に思はざるを得ないのであります。彼の精神作興の詔書に「質実剛健の気象を養ひ」と仰せられた意味も、亦実に「秋たれ」との御事であると特に拝察する次第であります。
(十月二日朝談話)