公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四〇六 実業之世界 第二四巻第一号 昭和二年一月 米寿を迎へた私の思ひ出の数々 【子爵 渋沢栄一】(DKB80032m)
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四〇六 実業之世界 第二四巻第一号 昭和二年一月
米寿を迎へた私の思ひ出の数々
子爵 渋沢栄一
○一番困つたこと
私は今年八十八歳、所謂米寿を迎へた訳になるが、この長い生涯には色々な事件に遭遇した。その事件の内にも今も尚忘れる事のできないものもある。それを思ひだすままに語つてみよう。
私がまだ一橋家に勤めて居た時分、歩兵組立と云ふ事を建議した。これは歩兵を希望する志願兵の募集であるが、元来一橋家は幕府の賄方で、幕府の親戚だから地位こそ高いが兵備と云ふものが全くなかつた。そこで兵備をつくらうと建議し、私自らも募集に出掛けたものであるが、思つた事は実際と反対で最初は一人も応ずるものがない。建議した責任上、一時は腹を切つてとまで思ひつめたが、気を替へ表面から募集する事は止めて、書生青年と会合する機会をできるだけ作つ
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て見た。斯うして居る内に、渋沢もモトは百姓だつたが、いまはあの様になつた。俺も志を立ててと云ふ様な者もでてきて、これらの者から募つたと云ふ次第である。これは私の一番困つた経験である。
○一番嬉しかつたこと
次に生涯中で一番嬉しかつた事は、明治初年大政奉還があつたのでフランスから急に帰朝した時、両親や妻や子供たちの健全なのを見て喜んだ事があるが、これが一番嬉しかつた。いま一つは明治三十六年の六月二日に、シカゴで慶喜公が公爵になられた電報を受けとつた時である。当時謹慎中の公を世に出すためには、桂さんを始め、伊藤さん井上さんを説きまはつた。この念が届いたのであるから、その嬉しさは一しほであつた。
○感化をうけた人、骨折つたこと
感化を受けた人物に私の従兄の尾高藍香がある。氏は人を感化さす人格を持つて居た人で、私は兄同様に思つて、能く行状や撃剣に就て教へをうけた。実に思ひやりの深い人であつた。私が一番骨を折つたと思つてゐる事は、一橋家で産業奨励のため大阪の陣屋の人と協力で新しい仕事を始めたが、仕事が新しい上に経験のないものばかりであるから、その困難は名状のし様がなかつた。いまもその苦しさは憶つて居る。
これといま一つは、明治二年に政府の役人となり、四年に井上さんについて廃藩置県をやつた時で、これをやるのは大蔵省民部省であるが、主として井上さんが係つて居た。丁度この時井上さんの下で監査局長だつた私は、言はば井上さんの差図で実際の仕事は私がやつたのであるが、繁忙のため幾度徹夜したか知れない。この様に働いても、方々から小言を云はれると云ふ有様である。その期間は僅か一年であるけれども、骨を折つた事は大したものであつた。
○いぢめられたと思つた事
いぢめられたと思つたことは一橋家に奉公をして居つた頃、奥口番人となつた事があるが、この時私は二十五で、六十ばかりの同役の所につれて行かれたが、この時私は何も知らずに畳一枚ばかり上の方に坐つて居つた。すると同役は江戸では礼儀はかまはんか知らんが京都はさうでないから、能く畳の目を見て坐るがよいと言はれた。その畳は名ばかりで目などは見えなかつた。若い私は此の畳には目がないではないかと減らず口を叩くと、そんなものでないとたしなめられたが之れなどはいぢめられた方で、その外には殆どない。
○一番腹の立つたこと
腹の立つたことは、慶喜公が駿河に謹慎して居られる時で、民部さんも会へないと云ふ場合であつた。私が民部さんのお伴をして手紙を持つて水戸へ行く筈になつて居つたので、草稿まで私が認めて之を持て慶喜公に伺つた。所がその返事に「民部も水戸へ行くに及ばん、渋沢も手紙を持つて行くに及ばん」と云ふのであつた。之を見た私は腹を立て慶喜公も藩庁も余り冷淡である。親子の情を解しないものだと大いに罵倒した。私の罵倒を聞いた大久保一翁は私を呼んで、実は民部さんを水戸へやれば、水戸党となり渋沢も水戸党となり、これは民
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部の為にも渋沢の為にも良くないからであると聞かされ、初めて深い考へのあつたことが判り、憤つたことを取消したことがある。間違つて腹を立てたことではあるが、この位腹の立つたことはなかつた。
○一番痛快に感じたこと
痛快を感じたことは、明治三十年頃朝鮮に京城鉄道を敷設すると云ふ時に、井上さんも伊藤さんも恐露病に罹つて、その敷設に賛成しなかつたけれども、山県さんや、桂さんはその反対に鉄道は敷設しなければならぬと云ふので遂に敷設することになつた。私は井上さんや伊藤さんの肩を持つことが多かつたが、鉄道には山県さんや桂さんにつかなければならぬやうな不思議なことになつた。所が三十三年になると井上さんから、日露戦争が始まらうとする時に、鉄道敷設が捗らんやうでは困るではないかと言ふ小言であつた。私は、あなたは鉄道の敷設に反対されたではありませんかと言つてやつたら、井上さんはそれは謝まるが、今は急を要するから成るべく早く敷設するやうにしてくれと言はれたが、この時こそ一種の痛快さを感じた。
○一番残念に思つたこと
残念に思つたことは私は日本に鉄道を多く敷設しようとして、民設鉄道法なるものを制定して法律にした。所が、之れと反対に国有となつて、その法律を実施することが出来ないのは今以て残念に思つて居る。若しさうでなかつたら日本の鉄道は今よりも一層多く敷設されて如何に国民の利便を図つて居つたか知れない、と思ふと今以てその感が深い。