公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四〇八 竜門雑誌 第四六〇号 昭和二年一月 大正天皇を悼み奉る 【青淵先生】(DKB80034m)
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四〇八 竜門雑誌 第四六〇号 昭和二年一月
大正天皇を悼み奉る
青淵先生
先帝陛下の御崩御遊ばされたに就て特に感想を申述べることは誠に畏多い極みでありますが、此の際竜門社よりの請に対して静かに過去の日を顧み、大正天皇の御事に関する思ひ出を辿り、奉悼の微衷を披攊するのも敢て不敬ではあるまいと思ひます。
私は、皇太后陛下には幾度か拝謁の光栄に浴しましたが、大正天皇には私の地位や私の事業の関係上其の機会が余りなかつたので、陛下に就て知る処は極めて少ないのであります。ただ東宮にあらせられた時のお噂を、親しくして居た伊藤博文公から聞いたことがあるのと、早稲田大学に行啓あらせられた折、呎尺して御下問にお応へしたことがある程度に過ぎませぬ。
伊藤公は明治大帝から非常な御親任を受け、国家の重臣として尽された方でありますが、懇親であつた私には帝室の現在とか将来とかに関する公の考へを話されました。殊に明治大帝の御事蹟や御日常のことは屡々語られました。勿論明治大帝は聡明にましまし、允文允武の聖天子であらせられましたから、御行動などもしつかり落ち付いて重厚であらせられ、臣下の為す処を安んじて御覧になりながら、御自ら
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政務を臠はすと云ふ風であられたと承りました。私は別に君徳に就て御尋ねした訳でありませぬが、伊藤公から斯様な御噂を再度ならず聞かされたのであります。私はよく伊藤公に慶喜公の御話をしたので、それと関聯して明治の維新や、明治大帝御平素の御様子などを承るやうになつたのでありませう。時を確かに記憶しませず、御幾つ位であらせられたかも判然しませぬけれども、当時東宮で御在になつた大正天皇の御事をも拝聞致したことがあります。伊藤は「我が帝国は国体の関係上どうしても聖賢の君主に相継いで出て頂かなければならぬ。所で陛下の聖明にましますことは申すも愚なことであつて、我が国の為め真に慶すべき極みであると常に思うて居る。而して又有難い事には東宮殿下(先帝)も亦誠に御怜悧であらせられるのであつて、寧ろ余りに御怜悧に過ぎはせぬかと拝する位である。それに付て斯様なことがあつた。西洋の皇室のことを御承知と見えて、或る時我が帝室のことが余りに手重に過ぎはしないか、今のままでは尊厳に失して居るやうに思はれる。西洋の如く簡易にしてもよくはあるまいか、と仰せられた。私はそれに対し御尤もの仰せではありますけれども、日本は古来から礼儀の頗る鄭重な国柄でありまして、今之を簡易卒直に致しますと、大体整頓した国風を破る虞れがあります。鄭重と云ふことを単に外面的な取扱ひのみであるとお考へ遊ばすように存じますが、鄭重と申すことは日本の誠によい風習になつて居りまして、寧ろ簡易に勝るものであります。殊に帝室の御事に関しては尊厳に致すことが必要であります。と諫言がましく進言したことがある」と語られた。私は之を聞いて成る程重い位置に在る人の君に仕へるにはさうなくてはならぬと感じたのでありました。
其後明治四十二年、私が欧米を漫遊して帰国した時分であると思ひますが、未だ東宮にましました頃のこと、一日大隈侯が御願ひして早稲田大学に行啓を仰ぎ、学校の全部を御覧に入れたことがあります。先帝陛下は東宮として大学の各部各科を隈なく御巡視になりましたが其の時私は学校の関係者として御側近く侍することが出来ました。御巡視後午餐の際も御陪食の光栄を得ましたが、其時は主人たる大隈侯の右に、時の東宮殿下、後の先帝陛下が御着座になり、侯の向ふ側に私が年長者と云ふ意味で席を与へられましたから、私は東宮殿下と斜向ひになり親しく拝したのでありました。此の時「渋沢は幾つだ」とか「若い」とか「丈夫」だとか雑談を交しておいでになりましたが、大隈侯は「渋沢を優しい老人だと御覧になつて居られる御様子でありますが、彼は中々物騒な男で、討幕軍を起して天下を覆へさうとしたこともあるのでございます」などと戯談であるが、酷い批評をしたものだから「さうか、それは怖いネ、然し今はさうでないだらう」と笑つて仰せられ、私から「御安心なさいませ。今は大丈夫で御座います」と申上げたこともありました。それから御食後、温室でお茶を召上つた折に、私もお伴した処、お付の方が「御遠慮なく御話をなさるやうに」と云ひ、先帝も傍に空いた椅子があるのを御覧になつて、「掛けたらよからう。私は前に何所かで渋沢に会つたことがあるやうに思ふ」と仰せられ、尚ほ「経済界のことに就て尋ねたいが、今日の
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事態はどう成るのであらう」と御下問がありました。当時日露戦争の一時的な好景気の後を享けて、不況が継続して居た時期であつたから特にさう云ふ御下問があつたのでありませう。其処で私は「日本の事業は総じて基礎が強固でない弊があります。よく踏みしめて居ない嫌があります為め、兎もすると崩れ易いやうであります。然し場合によりましては基礎を鞏固にしないで進まねばならぬこともあります。故に個々の事業に付て考察致しまして、此事は好いから進める、これは悪いから圧へると云ふやうにしなければなりませぬから、一概には申せませぬ」と申上げますと、「それでは今どうすればよいか判らぬではないか」との仰がありましたので、畏れ多いことではありますが、申上げたことを御理解遊ばされたことと拝察致しました。そこで私は更に「それ故如何にして適当な措置を執るべきかと云ふことを申上げるのは難しいのでありますが、今日としては退嬰にならぬ程度に緊縮して整理すべき時代であると思ひます。上滑りしないやうに注意せねばならぬと信じます。然し日本はどうしても欧米に較べて、後から進んで居ります関係上、駆け足で行かねばならぬ時のあるのは已むを得ませぬ。でありますから積極的に出ることを一概に悪いと批難することも出来ませぬ」と、大要右の通り叮寧に申上げました。するとよく御理解になつた御模様でありましたから、御賢明にあらせられると拝したのであります。
私が、大正天皇に就て知る処は以上の通りで、要するに先帝は明治大帝の遺された大事業たる新国家の御経営を御継承遊ばされ、益々日本の国威をして世界に発揚せしめられました。ただ御壮健にあらせられなかつた為め、御思召も完全に御遂行遊ばすことが御出来にならなかつたかと拝察致しまして、畏れ多くも遺憾に堪へないと存じて居ります。
私としては尚ほ申述べたいことも少なからずありますが、先づ只今大正天皇を悼み奉るに就ては、事実に触れた点のみを些かお話した次第であります。