デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
昭和期 四一一 向上 第二一巻第四号 昭和二年四月

■資料

四一一 向上  第二一巻第四号 昭和二年四月  模倣の話 【子爵 渋沢栄一】(DKB80037m)
別巻第8 p.111-112 ページ画像PDM 1.0 DEED

四一一 向上  第二一巻第四号 昭和二年四月
    模倣の話
                   子爵 渋沢栄一
 人には模倣の本能があり、そして本能はその道を過たねば人類の向上発展のために甚だ有益なものである。
 単に外形の模倣だけでも尚且善美なるものがある。即ち聖人君子の行などは、たとひその形に表はれた所だけを倣つても益になる。孟子も(告子章句下に)「尭の服を子服し、尭の言を誦し、尭の行を行へば、是尭而已矣。桀の服を子服し、桀の言を誦し、桀の行を行へば、是桀而已矣」と言つてゐる。
 併しながら人間と言ふものは、不幸にして他人の善い方面を模倣することは中々不得手であつて、その反対に、とかく他人の悪い方面の模倣に傾き勝きのものである。その最も適切な例は「声色使ひ」である。名高い俳優の台詞等を巧みに真似るのを聞くと、いかにも感心させられるが、よく味はつて見ると、みなそれぞれの悪い癖だけを取つてゐるのである。それ故、巧みに模倣は出来てゐる様でも、何処かに「本物でない、命が抜けてゐる」といふ感じがある。
 かやうな悪い方面の模倣は、孟子の曰つた処とは大に懸け離れてゐるが、併し之も人の自然に陥り易い傾向である。
 今日の日本では、政治にも教育にも、技術、経済その他、風俗、習慣等凡ての方面に外国の模倣が甚だ多い。言ふまでもなく之等の模倣には事実有益な事も沢山あらうが、中には実質的に何の利益のないものや、或は却つて害のあるものを、ただ多数の人が為るのでその流行に駆られるといふ様なのも少くはないと思ふ。又その半面に、人々の気付かずに見逃してゐる事柄の中にも、甚だ有益な、模倣に値することが案外沢山あるかも知れない。
 そこで、ただみんなが為るからといふのではなくて、事柄そのものの本質を見究めた上で、それに倣ふか倣はぬかを判断する様にせねばならぬ。
 - 別巻第8 p.112 -ページ画像 
 昔支那で、殷の紂王があまり暴虐であつたので、遂に多くの良民がこれが為に苦しむのを見るに忍びず、周の武王が紂王を討つて之に代らうとした。此時、伯夷、叔斎の兄弟は武王の馬を押へて「臣の身を以て君を弑するは道でない」と言つて諫めた。諫めが容れられずして遂に武王の天下となつた時、彼等兄弟は武王の治下に衣食するを屑しとせず、首陽山に隠れ蕨を食つて居たが、遂に餓ゑて死んだと言ひ伝へられてゐる。伯夷、叔斎の考へが果して正しかつたか何うかは、私にも判断はつかないが、「よし天下が靡くとも自分が善と信じないことは断じて模倣せぬ」といふ態度に於ては、蓋し最も徹底したものであらう。
 明治維新当時の開国論と攘夷論との争ひなども、模倣に由来する処が多かつた様である。不思議に其頃の漢学者系統のものは皆攘夷論者となり、自分も漢学を修めてゐた関係から熱心な攘夷論者の一人であつた。二十六歳の時一橋家の役人として備中へ行つた時、阪谷朗廬といふ人(今の阪谷男爵の父であつて、阪谷男はその時二歳の赤坊であつた)に逢つて、そこでも攘夷論を初めた。ところが阪谷氏から「孔子の教を奉ずることには賛成だが、併し今日の時勢に孔子が現存されたら何といはれるだらうか。夷や中華と区別を立てて、何でも外国の物は凡て悪いと頭から決めてかかるのは不当で無からうか」と言はれたが、尤もなお説と思つた。開国論者にも攘夷論者にも事の真相を究めないで附和雷同してゐるものが少くなかつた様に考へられる。
 併し結局模倣は何うしても免れぬもので、この模倣の為に日本が益を受けてきた処も少くないと共に害を受けてゐることも少くはない。ただ、学問にしても、政治にしても乃至は人情風俗に於ても、よくその本質を見判けて、模倣の途を誤らぬ様にしたいものである。