デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
昭和期 四一七 竜門雑誌 第四六六号 昭和二年七月

■資料

四一七 竜門雑誌  第四六六号 昭和二年七月  ○青淵先生説話集其他 ○中略 無成算の実業家と 無理解なる参加者に警告(DKB80043m)
別巻第8 p.125-129 ページ画像PDM 1.0 DEED

四一七 竜門雑誌  第四六六号 昭和二年七月
  ○青淵先生説話集其他
○中略
    無成算の実業家と
      無理解なる参加者に警告
 凡そ一事業を起してそれに成功するといふことは何時に於ても容易の業でなく、余程大なる決心と綿密周到なる注意を持つてかからなければ覚束ないのである。第一に事業を起すに方つて、自己の企てつつある事柄が果して時勢に適し、且つ将来あるものか何うか、此の問題から解決することが肝要である。若しも此の研究を懈り、漫然甘さうな目前の形勢を頼みにして仕事を起すならば、その仕事は真に危険千万なものと言はねばならぬ。
 斯の如き無成算、不用意の企ては孟子の所謂「泰山を挟んで北海を超ゆる」と等しく、事業として到底出来ない相談で終るのであるが、然かも世間には、これに類する事業を企てて恬然たるものがあるから
 - 別巻第8 p.126 -ページ画像 
驚く。最近企業に対する考へが大分真面目になり、殊に不景気のために不確実な事業は片端から自然的に整理されて、事業界の内容は余程堅実になつて来たが、今に景気が癒ると又気まぐれに起らぬとも限らぬ。さうした不確実な仕事は景気を悪くする大きな原因となるのであるから、自他共に誡めてこれを防止しなければならぬ。
 出来がたき企業の強行は、徒らに有害無益の結果を遺すことになるが、これに反して出来得る性質の事業ならば、何事でも企てて宜しいかと云ふに、これには企業家たるものは深重の考慮を要すると思ふ。
 例へば富士山巓に完全なる旅館を建設しようといふ者があるとするならば、それは決して不可能の事ではない、出来得べき事業である。さりながら若し富士の頂上に旅館が出来てもそれが果して経営して行かれる見込があるか何うか、これ疑問を超越して不可能たるに何人も異存はあるまい。例としては極端かも知れぬが、併し出来得べき事業でも、それが必ずしも成功なすものでないと云ふことを証するには足るであらう。
 事業は実に左様に複雑、且つ面倒なものであるから、苟くも一事業を企てんとするには細心精慮、万遺漏なきを期した上にも不断の注意を払はねばならぬ。そこで今企業家として最も注意すべき要項につき自分の思ひついたままを左に指摘し、これに説明を加へて見よう。
〔一〕其の事業は果して成立すべきや否やを探究する事。
〔二〕個人を利すると共に、国家社会をも利するものなりや否やを知る事。
〔三〕其の企業が時機に適合するや否やを判断する事。
〔四〕事業成立の暁に於て其の経営者に適当なる人物ありや否やを考ふる事。
 此の四個条を具有してゐる事業ならば、先づ見込みがあると云つて差支ないから、ここに始めて着手して宜しいと云ふことになる。
 そこで第一条項は前に述べたところの、出来得べきものか否かと云ふ議論ではなく、一歩進んでその事業が果して成立し得べきものであるか、そして成立の後に充分経営してゆけるものであるか何うかと云ふ実際上の研究である。約言すれば数字の問題であり算盤の問題である。諺に「勘定あつて銭足らず」といふのがあるが、全く人間の仕事にはさうした矛盾の場合がいくらもある。数字の上や算盤の桁では充分見込みのある仕事でありながら、実際に経営して見るとうまくゆかない。勿論それにはうまくゆかない原因をなすところの欠陥が存するのであつて、斯ういふ欠陥のなきやう事前に於て充分に研究しなければならないと云ふのである。
 企業家や発明家には往々事業そのものに惚れ込んで、これが経営の考慮に粗漏勝ちの欠点がある。此の事業は有望である」とか「世間の需要が集るだらう」とか、始めと終りだけを一人定めにして肝腎な中間の経営を抜いてゐるから、縦令その事業が真に有要なものであつても経営難のために物にならない場合がある。まして事業に対する観察もただ漠然と「有望だらう」「需要があるだらう」と云ふ極めて皮相な「だらう」勘定で始めたのでは、先づ十中八九まではキット失敗に
 - 別巻第8 p.127 -ページ画像 
終る。故に企業上第一に心すべきは数の観念であつて、それを最も精細綿密に算定し、右から見ても左から見ても間違ひなきやうにしなければならぬ。而して此の算定が完全に出来れば、その事業は大体に骨組だけ成立したと云つてよい。
 第二項は、凡そ事業の性質も目的もただ自己を利するばかりでなく同時に国家社会をも益するものでなければならぬと云ふことである。世の中がデモクラシーになつた今日の実業家等は、口を開けば社会の公益とか、共存共栄と大変立派な主義を高唱するのであるが、その実薩張実行が伴はないで、自己の利益ばかりを打算しためにいろいろ非難されたり恨まれたりしてゐる。尤も多数の実業家中には、真に社会共存の精神を事業上に体現してゐる立派な例外もあるが、多くは感心の出来ない言行の不一致者だから困る。
 斯の如きは実業界のためにも社会のためにも痛嘆すべす[痛嘆すべき]事柄であつて、吾人の最も考慮を要するところである。抑々事業の対象は社会の大衆であつて、縦令それが自己の利益の為であつても、社会公衆を相手にせずして目論見も出来なければ成立も出来ない。然らばその肝腎の相手の利益を計る事に薄くして、自己の慾望のみ恣にするといふことは、事業本来の約束に背馳した所業で到底存在を容されないのである。此のやうな不合理な事業は、仮令一時順境に向ふことがあるとしても、それは要するに槿花一朝の夢で、やがて社会の同情を失墜して非運に陥るは火を睹るよりも明かである。幸に今日はさうした不合理の事業は次第に寂滅しつつあるは慶ぶべき現象である。併し今後好景気になつて、事業熱が起るやうな場合があると、世の所謂虚業家等に依つてまたまた利慾事業の実は資本家泣せの朦朧事業が擡頭するかも知れないから、大に警戒を加へねばならぬ。
 猶ほ此の件については、新規企業の場合ばかりでなく本誌の読者の如く商工業に従事する人達に対してもまた同様なる意味に於て望ましきことがある。例へば見本と実際の商品との品質に相違があるなぞと今日なほ耳にすることであるが、此のやうな胡麻化し手段はたとひ一時暴利を貪り得ても却つてそれが不信を買ふ原因となり、永久の損失となる。
 商品の対象は実用であつて、実用に利なき品物は商品たるの資格がない。これには製造家も責任があるが、商人が真に社会人の利益に忠実の観念があれば、その売るべき品物、需要者に利益ある商品を選択してこれを正当の値段で供給すべきである。斯くしてこそ始めて生活資料の供給者たる商人の使命を果すことになり、そこに信用が生じて商売は繁昌する。
 私は事業家に対して、総べてを挙げて社会公衆の犠牲に供せんことを望むものではない。尤も社会公益のために自己の利益は勿論、何も彼も打ち込んで奉仕することは理想として如何にも立派なものに相違ないが、併し実際社会に事業を経営しようとするには恐らく最善の策ではあるまい。なぜと云ふに、その仕方は全く国家社会の公益になるとは申せ、経済的に収支相償はぬやうな事業は決して持続することができないからである。
 - 別巻第8 p.128 -ページ画像 
 然れども、それが国家の事業であるとすれば、その解釈もまた自ら別になる。則ち大局から打算して取かかるから、目前に利益は見えなくとも、そのなすべき方法は又は成立たすべき方法は幾らもあらう。併しながら個人として若くは個人的団体の事業としては、それに伴ふ利益を得ない以上とても永続しないので、如何に理想は社会の公益を計ることになるとしても、事実はそれに伴はぬものとなり終らねばなるまい。
 故に事業といふ以上は、自己を利益すると同時に社会国家をも益することでなくてはならぬのである。
 第三項は事業と時機の関係を考察することで、事業の性質が良くて成立の見込がつき、同時に公私の利益が充分に認められるものであるとしても、若しその事業が時機に適合せぬものならば望みがないのである。よく「機を見るの明」といふ言葉を聞くが、事業を起す場合にはこれが極めて必要である。時機の好悪を充分に見抜いてから着手しないと、時の潮流のために折角の事業が圧倒されて仕舞ふ。
 而して事業上に於ける時機の適不適とは専ら経済界の調子の好悪を指したもので、如何に有利有益な事業であつても、国家の経済が不振で、世間一般に不景気の時代には所詮成立は不可能である。例へば彼の欧洲戦争当時、我が経済界は実に古今未曽有の好景気を出現し、事業熱も殆んど頂点に達した。此の時に於ける世人は、兎角潮流に乗じて実力以上の膨脹を試みたがるから、従つて事業は雨後の筍の如く乱興した。私の所謂時機を見るとは此処を指すので、何でも構はず景気にまかせて事を起すと云ふことは大なる誤であると共に、却つて将来に禍根を残すことになる。現にさしも黄金世界を誇つた経済も、その原因の戦争が終熄すると同時に沈静に赴いた結果、一時景気を追うて起つた事業は片端から倒れたり、行悩みに陥つたりして、そしてそれが不景気を大にし、且つ長曳かする主要の一因となつてゐる。この事実は世の事業家に取つて真に好個の活教訓であると思ふ。されば如何に周囲の景気が沸騰してゐても、それが一時的のものであるか、或は永久的のものであるかをよく判断し、弁別してかかることが企業家として大切の用意である。
 第四項は事業と人の関係であつて、如何なる事業でもこれに従事する適当の人物を得なければ成就するものでない。実に事業は人物があつて後のことで、資源が如何に豊富でも、計画が如何に立派でも、それを経営してゆく者に適材を得なければ資本も計画も無意義になる。例へば此処に精巧な一の機械があるとして、機械は自ら動くものではなく、それに人力とか火力とかいふ動力を加へなければ機械の働きをなさないと同様、事業の経営に適任者を得るのは、恰度機械を動かすに適度の動力を必要とすると同じ関係である。
 而して此の人材を得ると否とは、事業上より見て二重の損益なることを知らねばならぬ。即ち適任者を得ざる事業は、折角成立しても遂に失敗に帰するが如き悲運に陥るに反し、適任者を得たる事業は、縦令事業が一時不成績であつたとしても、これを既倒に回することを得るのみならず更に進んでこれを隆運に転ずることが出来る。事業は真
 - 別巻第8 p.129 -ページ画像 
に人物の如何にあるといふことは、忘るべからざる企業家の要旨である。
 以上述べる所は事業を起さんと志すものの是非とも服膺しなくてはならぬ条項である。併しながら人間は万能でないから、如何に緻密詳細に考慮したことでも時に見誤りがないとは限らぬ。例へば自分が此の人ならばと見込んだ人物でも、存外見当の外れることもあるし、又は時機の見損ひをしたり、計算に遺算があつたりすることもあるから時と場合に依れば万々善いと見きわめたことでも、仕損じが出来るのである。故に事業を起さうとする場合には、上述の四点について充分熟慮してから始めることを重々忘れてはならぬ。
 私は以上の如く企業者に望む一方、またその事業に参加する側の人人に対し、更に一言警告を呈しておきたい。それは如何なることかと云ふに、事業家の発起した事業に賛成して加入する際、自分の出資程度を量ることと、道徳心を尊重するといふことである。私は過去に於て屡々人に推薦されて、事業の創始者やその委員になつたことがあるが、左様の場合に私は自分の資力以外に、若くは身分に過ぎた出資をするといふやうなことは決してしなかつた。然るに世間の事業協力者の中には、自分より資力が少なからうと思はれる人が、却つて自分よりも遥かに多くの株を申込み、自分が二三百株しか持たぬところを、その人は千株も二千株も持つことがあつた。
 その頃私は「あの人は何時の間にあんな大資力を造つたであらうか」と心窃かに不審を懐いたほどであつたが、さていよいよ払込をすると云ふ段になつて見ると、先に千株二千株を申込んだ人が、実際は百株か二百株分しか払込まないといふ有様で、ために創立者側が非常に迷惑をしたと云ふことが度々あつた。
 それらの人々の心中を洞察すれば、恐らく会社の創設を機会に権利株を売つて、私腹を肥さうといふのであらう。けれどもそれでは事業そのものに対する誠意がない。既に最初から忠実を欠いてゐるのだから、国家的観念を以て事業に加入するといふが如き意志は更にないのである。中にはそれほどの意趣はなく、沢山申込んでおいても払込は何とかなるであらう位に考へて申込むのもあるであらうが、それでは自己の分限を知らぬ人と謂はれても仕方がない。そのいずれにせよ、道徳心の薄いことは争ふべからざる事実である。
 凡そ事業を起すに方り、その協力者の不道徳不信用ほど恐るべきものはないので、迷惑の及ぶ所はその者一個人の上ばかりでなく、事務進行上に渋滞を来して容易ならぬ悪影響を齎らすことになる。斯の如きは実業家としても最も戒心せねばならぬ。
 以上は比較的纏つた事業、即ち会社の如き規模の大きな仕事を対象として述べたのであるが、此の道理は如何なる小規模な事業、若くは個人経営の仕事の上にも共通する。即ち如何なる事業も道義の上に立脚して自他の共栄を計る仕組でなければ、永遠の繁栄と福利とを楽むことが出来ないといふわけになるのである。
                    (商業世界四月号所載)