デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
昭和期 四二〇 日本魂 第一二巻第一一号 昭和二年一一月

■資料

四二〇 日本魂  第一二巻第一一号 昭和二年一一月  明治天皇と明治時代 【子爵 渋沢栄一】(DKB80046m)
別巻第8 p.131-133 ページ画像PDM 1.0 DEED

四二〇 日本魂  第一二巻第一一号 昭和二年一一月
    明治天皇と明治時代
                   子爵 渋沢栄一
 私が今日まで送つて来た月日の大半は、明治と称ばれて居た為か、明治時代ほど私の記憶に種々な印象を与へられた時はないのである。
 明治元年は私の二十九歳の年であるから、相当に世故にたけては居たやうなものの、善くもあれ悪しくもあれ私が新しい世間の浪に当つた一年である。それから二十年ばかりの間に日本は悉皆生れ代つたやうになつた。其の悉しい話をすると多くの頁数を費すことになるから私の記憶してゐるものの中で代表的なものを述べよう。
 何は兎もあれ明治初年は種々な変化を来した。そして其の変化の結果は善いとも又悪いとも何方にも云ひ得る。が、然し、日本としては斯う云ふ時代が現れたと云ふことは此の上もない幸福である。
 若しもあゝ云ふやうな大変遷を来さなくて、変な方面へ捻くれてしまつたならば、元亀天正年時代のやうな長い動乱が続いたかも知れない。それが瞬く間に平穏に帰したと云ふことは、我が皇室の御威徳と
 - 別巻第8 p.132 -ページ画像 
一般国民が此の上もない尊敬を皇室に対して持つて居つたからであると思はれる。
      ◇
 玆に於て我々は忘れることの出来ない、否毎に尊嵩の念の新なる
明治天皇の御偉業を賛嘆し、且つ感謝し奉らざるを得ないのである。
 維新の当時 明治天皇は御年未だ御若かりしにも拘らず、斯の如き御偉業を完成遊ばさるるまでには、其の御心労の如何に甚大なりしか拝察し奉るだに恐懼に堪へない次第である。尚輔弼の任に当つた人が宜く時勢を弁へ、皇謨を翼賛し奉りて誤りなく、善く民心を帰嚮せしめたと云ふことをも感謝しなければならない。
 側近に伺候したことの少い私が、斯う云ふことを申上げるのは真に畏多いことであるけれども、 明治大帝は種々の方面に真に広く御心を配らせられ、深く御研究遊ばされたので、総てのことを滞ほりなく御裁断遊ばされた。
 殊に御歌を非常に御好み遊ばされたやうに拝察し奉る。其の御歌は細い処まで宜く御気付き遊ばされ、総て国民の精心を作興せしむべき訓誨的な御歌が多いのである。 天皇は御年若な時から下万民のことを御心に懸けさせられ、御歌を御詠じ遊ばさるるにも文字の遊びに堕することなく、強い大きな御心を以て詠ぜられたので、品格の正しい拝誦する毎に感涙を催さざるを得ない御歌となつたのである。
 此の点から拝察しても総てのことに深き理解を御持ち遊ばされたと云ふことが解るのである。殊に雄大なる御心を御持ち遊ばされたことの宜き例は遷都の問題である。これは経済上思想上其他幾多の方面に動揺を来すべき重大問題である。それを御躊躇遊ばさるることなく速に遷都の案を御採用遊ばされたと云ふことは、如何に決断力に富ませらるる雄大なる御心を御持ち遊ばされたかと云ふことの宜き一例である。
 又国家的の事柄に就ては、日清日露の両戦役は申上ぐるまでもないことであるが、明治二十四年五月十一日、滋賀県の大津で津田三蔵と云ふ巡査が露国の皇太子を傷けた時には、一般国民はもとより当局者の心痛は非常なものであつた。其の時に 天皇は直に御見舞の為の行幸を仰出されたのである。此機宜に即した御処置に依つて、当局者はもとより下万民は安堵の胸を撫下したのである。此の一事を拝しても国家の将来を御軫念遊ばさるることの如何に大なりしかが拝察せらるるのである。
 政治界、外交界のことはまた極めて深く御研究遊ばされたやうに拝察し奉ることが数多くある。畏多くも斯く拝察し奉ると 天皇は唯国家の為国民の為に御尽し遊ばされたと申上げるべきであらうと思ふ。
      ◇
 さて、明治から大正、大正から昭和に至るまでの間のことを考へると勿論不足なことが数多くあるが、決して失敗とのみは云はれない。世の中を観るのに善悪の何れかにのみ偏して見るのは正鵠を得たものではない。不足を感ずることが人類向上の要素であるから大に不足を発見するが宜い。而して善い方面をも成長させなければならぬ。明治
 - 別巻第8 p.133 -ページ画像 
四十五年間には時々困つたと思ふやうなことがないではなかつたが、宜くこれまで進んで来たと感心する方が私には多いのである。
 私は始め倒幕論を主張してゐた。そして慶応三年に慶喜公の弟御の民部大輔と云ふ人のお供をして巴里の博覧会へ行つて、彼国の制度文化の整つたのを見て益々其の志を強うした。が間もなく明治の御代となつたので、五年間留学の積りであつたのを急に明治元年の冬に帰つて来た。それから明治二年に大蔵省へ勤めるやうになつて、井上さんの助役のやうな仕事をしてゐたから、其の時代のことは宜く知つてゐる。其の頃の行り方は寧ろ乱暴であつた。其の一例は有名な廃藩置県である。此の事によつて兵馬と財政の権を完全に朝廷に収めてしまつた。此の乱暴に近い行り方の為に総てのことが順序よく運んだのであらう。
 斯様なことに依つて明治時代は、総てのものが急激に進んだのである。然しそれは形の上のことだけであつて実力が伴つてゐない。現在でも総てのものの根柢が確りしてゐないのである。明治初年から見れば確に進歩はしてゐるが、これで宜しいとは云ひ得ない状態にある。伊太利のムッソリーニ首相から来たメッセージに、模倣のみしてゐると軈てその精神まで失ふに至る。日本の青年は然うではなからうと云ふ意味のことを云つて来た。日本人が模倣性に富んでゐると云ふことは一面から云へば宜いことであるが、併し独創的が欠けてゐるから、軈て其の精神までも失ひはしないかと云ふ心配がある。我々は 明治大帝の御聖徳に感謝すると同時に、此の弊を改め確乎たる日本文化を建設すべく努力しなければならないのである。