公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四二三 竜門雑誌 第四七一号 昭和二年一二月 昭和二年を送る 【青淵先生】(DKB80049m)
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四二三 竜門雑誌 第四七一号 昭和二年一二月
昭和二年を送る
青淵先生
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昭和二年の歳末に際して静かに本年の経過を回想すれば、甚だ多事なる一年であつたと申さなければなりませぬ。昨年暮には畏れ多くも先帝大正天皇神去りましたのでありまして、誠に恐懼に堪へない次第であります。従つて我が国は天日晦冥の間に此年を送つたのでありますが、更に不幸にして政治界も経済界も、実に騒がしい年であつた。殊に経済界にあつては、彼の未曽有と云はれた金融恐慌が襲来し、銀行経営者などは特に大いなる衝動を受けました。私の如き現在実業界に直接の関係を持たない者までも、強い刺戟を受けたのであります。
素々我が国に銀行を創設し、其の経営に任じた私としては、最初から実業は道理正しく経営すべきもので、徒らに富を致さうとせず、人格を高めつつ努力するならば、自ら相当品格も高くなり、又其の力も強大となるであらう、そして斯うした実業上の進みは自然一国の富ともなり力にもなる、就中血液となつて経済界を養ふ金融の事業に従事する以上、金融界は社会の良し悪しを敏感に受け入れるものであるだけ、別して此の考へが必要である、との意見を持つて居りました。幸にして自分が銀行業者であつた四十年間は多少の変動はあつたが、大した支障も生せず経過することが出来ました。ただ明治七年小野組が破産しました。それは不謹慎の為めであつたのでありますが、小野組は第一国立銀行の重な株主であつたから、私は非常に憂慮して其の整理に努力したのであります。爾来銀行業者は調子に乗るやうな行動を為してはならぬ、慎しみに慎しみを重ね穏健に自然と世の進みに適応して行くべきである、得意の時であるとて俄かに進まうとすれば破れる。古い言葉に「敗事多因得意時」と云ふのがありますが、其通りであるから、きわどい働きは成るべく避けた方がよい。例へば檜や樟の如きは何時大きくなつたか判らぬ間に大木となる、併し筍は竹となるに過ぎないが一夜のうちに延びる、此の理に依つても筍の如き成長を為すことのないやうに、そして先づ地盤を固め精神を打ち込んで事を為すよう、所謂「だらう考へ」は事を敗る、との強い信念を以て業務に従つたのであります。現に第一銀行は、此の私の主義を守つて経営せられて居りますから、華々しくはないが、堅実であつて、業務の進歩を図るにも軽卒に調子に乗ると云ふことを避けて居ります。
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今回破綻を暴露した銀行は、悉く此の堅実なる基礎を固めることを忘れ、一般的な経済社会の風潮に誘はれ、心を唆られて、俄かに進まんことを望み、不健実なる経営を敢てしたからであります。十五銀行
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なども、初め創立された当時は頗る穏健であつて、私も其の経営者とは懇親の間柄でありましたが、それ等の人々は今は何れも生存して居りませぬ。どうして斯くの如き始末になつたのか、其の成行を聞けば聞く程驚かずには居られないのであります。斯の如きは広く経済界一般の病弊であつて、決して目前の一二例のみのことではないから、銀行業者たる者は何処までも此事を心得て警戒せねばならぬと思ふのであります。私は現在の地位として、之に対し如何に処すべきかと云ふ評論は出来ないが、大体から論じて見ると、表面を手際らしくやるのは善くない、寧ろ野暮に堅実を主義として、中正を誤らぬやうにしなければならぬ、必ずやきわどい仕事は敗れる因であると思ふのであります。
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近頃の有様として一般的に世の進みがさうなつて居るが、若い人否若い人のみに限らずおしなべて、経済上、政治上の風潮が各人の働きに於てよく本分を守るとか、力一杯に努めるとか云ふことがない。そして何れも判然とした目的を持つて居らぬやうに見られます。従つて多数の者が一つの仕事を為して居ても混然として居る。殊に目立つのは、卑俗な言葉で云へば「権兵衛が種蒔き烏がほじくる」の喩の如く甲が造れば乙が壊し、乙が創めると甲が邪魔をすると云ふ風であつて少しでも他人の働きを援けようとか、成功せしめるやうにするとかと云ふことがないのであります。而も之れが知識の進歩した者の間に多く、徒らに非難攻撃して事の是非を分別せず、只管に他の者より己の方のものが好いとするが如きことが、今日一般の世態人情となつて居るやうであります。
欧米の制度文物を採り入れるにしましても、日本の現状に適応した己の性格に又行動に之れが好いと云ふものを見極めて採るのでなく、ただ漫然と模倣追随を事とする。例へば相撲が流行すれば身体の強弱をも考へないで病身の者も之れに赴き、声の良し悪しに拘らず唄を学ばうとするが如きもので、我が国の現状は此の悪結果に陥つて居るものと申して不可はないと思ひます。
畢竟今年の財界騒乱は、斯様な模倣追随が害を為したもので、十五銀行の有様などを聞くと、取引先の仕事に対して、それが完全にやれるかどうか判らぬものに無分別にも放資して、破綻の原因を為したと云ひますが、これ其の基礎を固めることを考へず、行がかりのみで経営したからであります。然し斯様な事実は単に十五銀行ばかりではなく、一般的な風潮であつたと見られます。
其処で私は平素から云つて居ります。知識が進めば世の中が或る点までは好くなるであらうが、絶対に好くなるとは思はれぬ。知識を進める為めには学問が必要であるけれども、其の方へのみ進むと、中正を失つて、利害得失を考へ、悪を避け道理に基くことを忘れ勝ちになります。何故ならばただ之を自己の維持にのみ用ひるならば、さして害の生ずることもないが、他と比較してより善く智恵を出さうとすると道義を無視するやうになり、知識と道理とが矛盾するばかりでなく却つて背馳して徒らなる競争を行ふに到るのであります。極く卑近な
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例を挙げますと、軍事上の如きに於ては知識の進歩する程惨害を増すのでありまして、鉄を鍛へて大砲の打ち抜けないやうな防禦物を作ると、それを打抜き得る能力ある大砲を更に発明するとか、飛行機で爆弾を投下するとか、毒瓦斯を用ひるとか、兎に角敵軍を殺せば戦争に捷つから、防備も攻撃も競争上行走ることになるのであつて、知識が道義と平衡を得ないのみか、却つて逆行して居る有様であります。
基督教や仏教では如何に人道を論ずるかよく知らないが、私は詳しく説明出来る程ではないけれども、論語主義で終始し、孔子の教へた忠孝仁義を守ることを心掛け「孝弟也者、其為仁之本与」と云ふ言葉など重んずべきものとして、守つて居ります。然るに世の中の有様は斯様な仁義道徳を忘れて居るのであります。私は昔から経済道徳合一の説を唱へ、経済の働きが人道的に延びるやうにと、事ある毎に申して居ります。別して近頃の世態人情を見ては其の必要を感じ、古聖賢は真に我を欺かないと、道義に基いて経済上の経営を為すやう鼓吹しつつあるのであります。
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今年は此処に過ぎ去らうと致して居ります。果して来年からは少しでも此の私の説が用ひられるやうになり、より善く進むに到るであらうかどうか、――世は如何にあらうとも、藤田東湖の回天詩史に「苟明大義正人心、皇道奚患不興起、斯心奮発誓神明、古人云斃而後已」とある通り、斃れて後已むと云ふ覚悟と精神とを持つて貫き度いと思つて居ります。此「斃而後已」とは孔明の出師の表にある言葉で、之れより以上の覚悟はないから、人としては極度の考へであらうと思はれます。私も老人の事故遠からず斃れるでありませうが、それまでは人々の道義心を少しでも増さしめる為めに尽力するでありませう。
要するに現状の如く何物に限らず十人が作つて十人が壊すと云ふ風では困つたことでありまして、人数が多くなれば多くなる程結果は悪くなります。然らばどうして此弊害を除くかと云ふに就て、今具体的に申すことの出来ぬのを遺憾と致しますが、事実に於て昭和二年は斯くの如き不合理なる状況の下に経過したのでありますから、今後に於いては善いことならば、何処までも他人の仕事を援けて成功せしめると云ふ精神を養ふことが、特に緊要であると信ずるのであります。(十二月七日)