公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四二八 生糸経済研究 第二号 昭和三年三月 生糸経済座談 【子爵 渋沢栄一】(DKB80054m)
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四二八 生糸経済研究 第二号 昭和三年三月
生糸経済座談
子爵 渋沢栄一
日本産業界の恩人たる渋沢子爵は、本会の事業を賛助せらるる意味に於て、昭和二年十月三十日午前九時、本会同人たる横浜高商の井上亀三、森田優三、井上鎧三の三学士を飛鳥山の自邸に引見せられ、約二時間に亘つて明治蚕業史ともいふべき有益なる談話を試みられたのである。因つて本会は当日東京朝日新聞社速記者吉田七郎氏をして右談話を速記せしめて玆に掲載するものである。従つて文責は固より本会に存するところである。
尚本会は老子爵の好意に対して深厚の謝意を表すると共に、此挙を斡旋せられた横浜渋沢義一氏、及河杉信勇氏の尽力に対して深甚なる感謝を致すものである。
お需めに依りまして、我が国に於て外国輸出貿易上最高位にある生糸に関して、明治初年頃の模様などについて記憶を辿つてお話し致したいと思ひます。
蚕業と申しましても結局は生糸になるのでありますが、農業にも蚕業があり、又工業にも蚕業がある。然し工業ばかりでは尚満足せず、玆に商業的の取引関係を生ずるのであります。この生糸は結局農工商の三方面が都合よく経済的に運ばなければ完全とは言へないのであります。生糸と云ふ問題について解釈を致しますと、只今述べた三つの方面に分れるのであります。然らば私が其の三方面を悉く好く知つてゐるか、其の薀奥を究めて居るかと申せば、然りとは申上げられぬのであります。
既に故人になられましたが、当時皇后宮(只今の皇太后陛下)大夫をして居られた大森鐘一さんと云ふ人がありました。私は至つて御懇意な間柄で、其の頃度々蚕業のことについて私の方へも御出で下さつたり又私も皇后宮職の方へ出掛けてお話をしたりした事があります。其当時皇后陛下(皇太后陛下)が宮中で養蚕を御飼育遊ばされる事になつた。それより前に先の昭憲皇太后様が蚕業について、色々と御心配遊ばされた記録があります。其の時大森さんが御出でになつて、蚕業―詰り生糸でありますけれども―皇后陛下(皇太后陛下)には蚕業は我が国として非常に必要なものであるからと仰せられ、昭憲皇太后の思召を継承遊ばして宮中で盛んに養蚕製糸について御心を用ひられてゐらせられる。聞く所に依ると昭憲皇太后が皇后陛下で在せし御頃蚕業について御心配遊ばされ、宮中に蚕室をお造りになり、又出来た
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繭を糸に挽くことなどまで遊ばしたと云ふことから、皇后陛下(皇太后陛下)が頻りに蚕業について御研究遊ばしてゐらつしやる。随つて以前に増して設備も御経営も大規模にして居られた。其の事について私が前に養蚕の事を述べた事などあつたものですから、一度出来た品物を遣はしたり、話を聞いて見ろと仰言つて大森さんが私の宅へお出で下さつたのでした。その時も前に述べたことを少し詳しく申し上げました。大森さんは宮中に御帰りになつて詳しく陛下に申し上げた由でした。其の翌日私が御礼に皇后宮職に参上しましたら、特に召されて拝謁を給はり、種々申し上げたことがあります。それについては一寸した一つの記録があります。今其の原稿は何処かに入つてゐて見付かりませんが。
蚕業は日本の国と致しましては、海外貿易の主たるもので、私は大蔵省に職を奉じてゐた時分から既に蚕業については多少力を用ひたのであります。明治初年頃にパークスといふイギリスの公使が日本に来てゐました。大変短気な人で極くアクチーヴな人でした。却々八釜しい叱言を言ふ人で、或る場合には横車を押したなどと言はれたが、日本のためにはなつた人であります。その人の代理公使でアダムスといふ人が日本に来てゐました。別に偉い人ではないやうでしたが、多少学問のあつた落付いた人でありました。そのアダムスについて非常に面白いことがあります。御承知の如く、蚕児が繭を作つた後に、その繭の蛹が蝶になるのと、蛆になるのがあります。蚕児が繭は作つたがその後の蛹は蛆のために喰はれて居るのであります。私共にはその理窟は判らなかつたが、我々の百姓研究では桑の性質に依つて蛹になるものと信じてゐたのであります。蚕の虫が繭を造つて、その中で蛹になり、蛹が蝶に変ずる、それが蝶にならぬ為に蛆になつてくるのであります。それを私共は蛆は蛹から生ずるものだと思つてゐたのであります。所がアダムスは決してさうではない、蠅が蚕の身体に種を植付けて置く、それが蚕が蛹と変ずる時は彼の蠅の産みつけた卵が蛆となり、蛹の中へ寄生して居る。それが段々と成長するに随つて蛹を殺してしまふのであると言はれ、大変アダムスと議論をしました。アダムスが言ふに「貴方は昆虫学を研究したか」と言ふ。「昆虫学の原理からして自然に虫が生ずるなどといふことはない。貴方は日本ではそれがあると言つても、私はどうしても同意出来ない」といふのであります。勿論私は昆虫学など研究したのでなく、ただ百姓学問で論じてゐたのですつかり閉口したことがあります。丁度富岡製糸所の出来た頃であります。
生糸を海外へ輸出するといふことは、維新以前の貿易に於ても唯一の事でありました。元来日本の養蚕は気候に適し、地味もよく、従つて桑も成育するのであります。維新になつて貿易の進歩を図るについても生糸貿易の一層大切なるを痛感し、それにはどうしたらよからうかといふことになつた。当時の糸は製造が余り粗末で、どうしても西洋の縦糸にならない。従つて値段が安い。それには是非デニールを揃へねばならない。デニールを揃へるには糸の取方を違へねばならぬ。これには何かよい方法はないかといふので、明治三年頃、大蔵省で頻
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りにこの蚕業に対して――特に製糸に対して改良を加へなければならぬといふことが、主として論ぜられたのであります。これを主唱したのは大隈さんが大蔵大輔として、伊藤さんが大蔵少輔として全権を握つて居られたのであります。それで生糸の改良を頻りに論ぜられて居りました。その頃前橋辺りで速水堅曹さんと云ふ人が養蚕製糸のことを論ぜられてゐました。伊藤さんもよく外国人から生糸の改良をしなければならぬと云ふ注意を受け、聞学問で製糸改良のことを論ぜられたが、しかし大隈さんも伊藤さんも蚕といふものは少しも知らないのであります。私は多少知つて居りましたが、私の職は低く、二人の支配を受ける方でありました。お二人共頻りに講釈はするが、聞学問であるから間違つたことばかり言つてゐる。そこへ私が出ると「渋沢も幾らか養蚕のことを知つてゐるか」と言はれたので、「私も少しは知つてゐる」と言ふと「どうしても製糸を改良しなければならぬ」「如何にも左様であります」「それにはどうしたらよいか」といふやうなことの講釈がありましたので「甚だ失礼だがあなた方は蚕と云ふものを土台知らないでせう。仰つしやることが間違つてばかりゐる」「君だつて知るまい」「いや私は知つてゐる」「何そんなことを言つても知つてゐるものか」「それでも私は百姓ですから」といふので、私は蚕の概括的なお話しをし、生糸の改良といふことは却々難しい。費用も余程要るし、辛棒も要ると思ふがやつた方がよろしいと思ふ。しかし吾々には一寸案が立ない。オランダ八番のカイゼルハイメルといふ人に相談して見ると、「今のやうなことでは、ヨーロツパ、アメリカに行つて縦糸にならない。それを直すには政府で模範工場を造つて、世間をこれに傚はせるやうにすれば商売もしよいし、国の為にも大変に利益だ。それには糸の扱ひを知つてゐるものが居なければならぬが、日本には本当にデニールの揃つた糸の扱方を知るものが居ないから、私の知つてゐるフランス人でブルナーといふ人があるから、その人を傭つてやらなければならぬ」といふので、その人を傭ひ富岡製糸場を起したのは、多分明治三年と思ひます。
初めは前に述べたやうなことで、大隈さん、伊藤さんの経済観念から起つたのですけれども、事余りに熟知してござらんものだから、「まあ貴様が主任になつて大いにやれ。」といふので、指揮は受けたが、しかし大体のことは私が世話人は勤めましたが、私の知つた人で局長のやうなものをつくつて富岡製糸所が出来ました。続いて地方地方に福島県ばかりだつたか、他の県もあつたか、十六ケ所ばかりありました。幾らか金を出して試験的に、これ程のものではなかつたが、先づその大体の費用をそれによつて、日本風の二つ取りといふ趣向でなく本式の製糸方法を以てやり出す場所を経営したのであります。それが生糸改良の一革新といつてもよいのでありませう。模範的に工場を経営させ、かうすればかういふ生糸が出来るといふことを示してやつたので、あれを以て営利にしようといふのではなかつたのであります。しかし私も間もなく大蔵省を辞しましたから、後のことは詳しく知りませんが、原富太郎さんが引受けて、今でも原さんが経営して居ります。富岡に場所を求めたのは、ブルナーに撰定させたのでありまして
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何処がよからうといふので各地を視察させ、福島にも信州にもやりましたが、信、上、岩代の三ケ所を調べた結果、富岡が一般に向つて教授する上にも範囲が広いといふので決定した訳であります。生糸改良については明治三年頃からの話で、追々にそれが成功したが、あの場所に於て、大いに利益を上げたといふことは申されません。けれども兎に角完全な生糸が出来ることになりました。その一つの成績によつて、あそこにもここにも本式な製糸場が出来て来たといふことは事実でありますから、日本の生糸改良の上に模範になつたといふことは言ひ得るだらうと思ひます。しかし富岡製糸所と云ふ事について利害得失を論じたならば、寧ろ損があつた。あれだけのものを若し、私人として経営したならば、余程の失敗に終り、その人はことによつたら破産したかも知れぬといふことになる。但し一般に向つて模範的の仕事をしたと云ふ方から云へば、己れは損をして一般を利したといつた方がいいだらうと思ひます。それから進んで来た有様は悉くは覚えて居りませんけれども、今お話した福島県下の小さい製糸工場の出来たのも、富岡が始終模範になつたといふことは事実のやうであります。
ブルナーは生糸を鑑別することが非常に上手でありました。当時西洋人を傭ふといふことは多少の問題ではあつたが、吾々は却つて斯くした方がよいと思ひました。若しも大隈さん、伊藤さんでなかつたならば、外国人を傭ふといふことは或は困難であつたかも知れぬが、これらの人が本筋に学んだ者にやらせるがよからうといふので傭入れることになつたのであります。
蚕業について沿革をお話するといろいろありますが、今申す生糸改良について富岡製糸所が出来たのも一問題だが、その外に始めにはイタリーの蚕種が大変に病気のために悪くて、日本の種紙を海外へ輸出するといふことが一つの事業にならうかといふ有様がありました。それははつきりと記憶は致しませんが明治五年頃だと思ひます。今は故人となつた今の古河虎之助さんの親で、亡くなられて最早三十年近くも立ちませうが古河市兵衛さんといふ人は、却々新しい商売に考へをつける人であつて、蚕の種紙を日本から海外へ輸出する趣向がないかと考へて、所謂種紙を投機的に、悪く言へば買占めてそれを外国人に売つたことがあります、それから日本の蚕業について種紙が主なる輸出物になりはせぬかと云ふ感じを持つたことがありましたが、しかし私共は大変な反対意見で、そんな馬鹿なことがあるものか、種紙を売るといふのは間違つてゐるから是非生糸にしなければいかぬといふので、古河さんを説得して商売をやめろといつた位であつたが、肝腎の見定めがつかぬので、明治五年の十一月だつたか、今の横浜にある渋沢商店の義一さんの親喜作さん、これが大蔵省に役人をしてゐたが、製糸及び製種の模様を充分視察させるためにわざわざイタリー、フランスにやり、古河さんの方でも浅野幸兵衛さんといふのを一緒にやりました。その後井上さんが大蔵省を辞めることになつたので、私も辞し、その人達の帰る前に大蔵省は頭が変り、帰つて来て見ても種紙は到底いかぬといふことは論ずるまでもなく、誰もその後種紙の輸出といふことに力を入れる者はなく、どこまでも生糸にしなければならぬ
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と云ふことになりました。ただ一時種紙で古河市兵衛さんが大いに利益を得たといふことから、一時疑惑を起したが、種紙を以て輸出貿易の振興を図るといふことは間違ひだといふことは、識者を待たずして論断せられたのであります。
明治五年の関係から、明治九年に沢山種紙を横浜へ出して大騒動を起し、焼棄てたことがあります。大隈さんが大蔵当局であつたが、それについては幾らか資金の貸出しなどをして、程よく始末をつけるために或る部分を焼き棄て、或る部分の価を保つたのであります。当時にしては随分思ひ切つたことをしたのであります。しかしそれは何がいいかといふやうな悪くいへば混沌たる有様であつたから、遂にそんな迷ひを抱いて造つたのだが、到底種紙を輸出品にしようといふことはいけないといふ論は殆ど左迄に迷つて、大いに力を入れるといふことはせずにしてしまひました。
私が扱つたうちで生糸に関して一寸問題となつて記憶に残つてゐるのは、明治十四年に名前は忘れたが、甲九十番と言つてシーベルフランとか何とか商館の名でしたが、それが横浜に於ける主なる生糸の買人でした。それが一軒ではないけれども主としてそれが大抵主唱者のやうな訳で、殆ど跋扈して居りました。横浜の生糸の売買の習慣といふものは、取りも直さず好く私共の家等で出入り呉服者が半襟や何かを持つて来る、「お気に入つたのを取つて呉れ」といふ。「それで幾つだけ取つた」「ヘイ有難う」と残りを持つて帰る。本当の商売ではないが、生糸の売買が斯ういふやうな遣り方であつた。初めがそんなことで商売が成立つてゐたものであるから、その悪弊がちやんと残つて居り、何日にこれを改めて見るといふのではなく、それが習慣となつて存してゐたので、横浜の今の原富太郎さんの親の善三郎さんといふ人、それから亡くなつた茂木惣兵衛さん、渋沢喜作さん等の主だつた売込商店、今の問屋といふ連中が、これは実に馬鹿らしい、情けないから、これを直したいが、直すには却々骨が折れる。甲九十番といふのが鼻息が荒く、うつかりなことを言ふと、そんなことなら買はぬと言はれるかも知れぬ。その時力がないとヘイ恐れ入りましたと引下るやうでは残念だといふので、その頃、馬越恭平氏が物産会社の主脳者で矢張りその一人だつたと思ひます。その他にも吉田幸兵衛さん等といふ人もありましたが、何しろ明治十四年の事ですからはつきり記憶しません。そこで私に相談して来たのは渋沢喜作さんであります。喜作さんは私と兄弟同様の間柄で、原善三郎さん、茂木惣兵衛さんといふ人等は生糸については立派な商人であつたから至つて懇意にしてゐた。殊に第二銀行といふことについては私が第一銀行を造つたから、兄弟分のやうな間柄でありました。そこでこの不利益極まる取引の習慣を改良しようといふことになつたが、それには随分困難の伴ふことを覚悟しなければならず、こちらの要求で容れない場合は大いに奮張る力がなければならぬので、当時大隈さんに、ある場合には少し金を貸して貰はなければ困るといつたら、いよいよ改良が出来るならばやつて見るもよからうといふ内意を受けて取り掛かつた。果して予想通り、先方ではそんなことなら買はぬと言つた。そこでこつちも買はぬ
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なら売らぬいふことで突張り出した。さうすると横浜の問屋はよいが問屋へ持つて来る生糸商売人が困つた。附いて来た為替を払はねばならぬ。
地方の銀行や金貸しはそんなことを知らぬから、それは困る、何故早く売らぬか。斯ういふ訳で売らぬ。売らないなら金を返せといふやうなことになつた。その金の融通を付けなければならぬとこのことが生ずるだらうといふので、已むを得ぬからその場合にはどの位だつたか数字は覚えないが、二百万円まではよいとか、三百万円まではよいとか、第一銀行が幾ら出さうとか、銀行同志がその事を申合せた。政府はそんなことに力を入れてくれないから、生糸荷預所といふものを造つて荷を預かつて金を貸す。横浜の橋の際に一の場所があつて、それを用ひて荷預所として、銀行が出張して荷預りの切符を出せば金を出してやるといふことになつた。倉庫と金融とをやつたのです。何でもそれが九月頃から十一月頃まで殆ど二ケ月か三ケ月続いた。それで睨み合ひ、争ひが結んで解けず頻りに新聞も多少評論していろいろ言ひ合ふ有様となつた。それから遂に十一月の何日だつたか忘れたが、アメリカ公使にウインガムといふ人があつて、この人がどういふ訳であるか、余りにそのことが愚であるから仲裁したいというて顔を出した。外国人でイギリスのその時分の英一番といつてゐたか、何処の商館であつたか、何でもウエルキンといふ人があつた。それからアメリカのトーマス・ウオールスといふ人と、この二人とアメリカのウインガム公使が相談して、どうしても喧嘩させて置くのは面白くない。日本からも相当の人を出し、お前方も力を入れて調停すればいいぢやないかといふ注意から、双方で調停役を依頼した訳である。私共は益田孝君に相談があつた。何せその儘に置くことは第一に貿易品の渋滞を来たす訳で双方共困るから解決出来るやうにするがいいといふので、双方共に直接事業に関係がないから、申さば中間に入つてここらで折合ふといふことに糸を買ふ人に計つたが、よからうといふことになつた。所が重要な問題は日本側からいふと、糸の問屋に来た品物の見本を見てこれで幾らと値を決める。けれど荷物は俺の方の倉に入れる、拝見と唱へて改める。買人の方の随意でこちらの都合にはいかない、十日でも十五日でも置かれる。その間はただ放つて置く。預り証書も出さなければ、火災保険も付けぬ。そんな馬鹿々々しいことがあるもんか。荷物を入れたら確かな預り証書を出せ、荷物は火災保険に付ける方がいい、さもないと殊によるとかういふ不都合がある。後に海外の景気がいいと余計取り、悪いといふと約束の分の僅かの分しか取らぬ。景気が悪いと難癖をつけて良くないといつて刎ねる。さういふやうな随意な受渡しをされた日には、売人損で買人都合といふことになるから、それでは困るからといふと、相手の言分は荷物を入れる場所がないではないか、俺の倉より外ないから俺の倉に入れろ、それから改めないで唯取るといふことは何が入つてゐるか判らぬ。第一目方にしてもどの位の水分が含まれてゐるか判らんし、船の都合もあるからお前方の勘定通りにはいかない。その日に取るというてもちやんと荷渡しの出来るやうな場所がないぢやないか、と買方の方の反駁だ。
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それで兎に角預り証を出す。火災保険だけはやる。その他のことは決める訳にはいかぬ。いよいよ品物を本当に取引する場所が出来た上のことにしようと、大体そんなことで折合ひ、ウインガムが仲裁に入つてここに漸く仲直り、荷預所を止め、生糸を段々引込むといふことになつた。然しそれでは勝つたとはいへず、寧ろ敗けた方であつたが多少効能はあつたやうであります。それから後の生糸の商売といふものは、今までのやうに横浜で乱暴に買ふといふことはなくなり、追々日本に於ても物産会社とか原とかいふやうな有力なものが自身輸出するやうになり、生糸合名会社も出来、生糸輸出状況は寧ろ日本側が強いやうに変化して来たから、その問題があつたために相当効果があつたとも言ひ得るのであります。何しろその時の騒動は大変なものでした。大変心配もしました。
私は事件の主脳者といふ訳ではないが、何しろ勧進元をしたのですから、銀行ではその時何でも六百万円ばかり出しました。今日では六百万円なんかそれ程とも思はぬかも知れぬが、その頃の六百万といへば今日の何千万円というものに相当するのですから、心配したのも無理はありません。大蔵省に金を貸して貰うと交渉に行きましたが、大隈さんは既に辞されて松方さんになつてゐましたので却々うまく交渉が運びませんでした。その時の政府の更迭は普通のそれとは少し変つてゐて、何でも薩長関係で威張つて他の藩の人を追出し、大隈さんが改進党で議会を造るといふことを、薩摩や長州の人と相談せずに自分で世間で公表したといふので、大隈は実に怪しからぬ無礼だといふのでした。大隈さんに代つた松方さんは堅いことばかり言つてゐて、金は出さぬし、糸屋の方からは責められるし、殆んど困り果て泣くばかりにして松方さんを説得して、二百万円程融通して貰つたのでしたがあの時程心配もし、苦しんだことは覚えて居りません。結局は前に述べたやうなことで解決がついた訳でした。その時の苦しみは実に容易なものではなかつたが、多少とも商権回復の一段階になつたと言つてもよいと思ふのであります。
今横浜で図と申して、渋沢義一さんの経営して生糸問屋がありますが、義一さんの父喜作さん、これは私より二つ年上で、二人が一緒に百姓をやめて国事奔走のために世の中に駆け出した。それは迚も出来さうにないので、私は一ツ橋の家来になつたのでありますが、それからいろいろ変化して、私はヨーロツパに行く、帰つて来ると大蔵省に出るやうになり、喜作さんは函館に行つて賦軍に入つて力を入れて居つたが、到々榎本などと一緒に降参して三年ばかり牢に入つてゐましたが、明治四年か五年に引出されて私に引渡されたので、ここに初めて明るい体になつて大蔵省の役人となり、その翌年ヨーロツパへやつて貰つた。丁度その翌年私は辞した。その時帰つて来たが喜作さんは仕事がないので、私とは死生を共にした間柄であり、私が銀行屋になつてゐたので、銀行から金を貸さうからお前は生糸の荷為替の取扱をするやうにして、生糸の輸出に対する内地から横浜に出る一つの取扱ひを商売とし、そればかりでは困るから冬は米と二つの商売をやつたらよからう。金は私の方で考へるからどうかといふので、利益を一緒
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にするのではなく、別にして取引をやらうといふことになつて、第一銀行から私が金融して始めたもので、やり損ひもあつたりしたが、到々忰の作太郎さんが暫くやつて、今では義一さんが問屋を専心やつて居ります。今ではどうやら相当な店になりおはせたのであります。私と義一さんは従兄弟であります。
当時は未だ、為替などといふものが発達してゐなかつたものですから、地方から東京へ荷物を出すには非常に不便で、従つて費用も余計掛るといふので、今のやうな趣向にしたので、地方からの荷物が東京へ出るには非常に楽になり、図の店に行けば為替は何時でも取れるといふやうになり、殊に上州の糸は東京に出るのが大変便利になつたのであります。これは第一銀行がその資金の融通に専心努めたのでありました。又銀行が地方の製糸家に金を融通するのは、直接製糸家に対するのではなく、中間に問屋があつて、問屋が借りて地方に、例へば岡谷、片倉とか林組といふやうな向に問屋から金を出し、その代り荷物は問屋へ持つて来て売る。それで口銭を取るといふやうなことにしたのでありました。
生糸業者の救済といふことはずつと以前はどうか知らぬが、近頃は大正三年です。欧洲大戦で俄かに生糸が買止められ、ひどく安くなりさうな有様になつたので、何とかしてこれを防禦してやらなければなるまいといふので、一種の救済法を立てたがよからうといふので、私共はその時分には前のやうな関係は持つてゐませんでしたが、昔からの関係などが幾らか相談相手に出掛けて、生糸救済の会社が出来たのであります。その以前の荷預所なども生糸救済の一つといふことが出来るのであります。昔はこれも自力でやらうとしたのでありますが、しかし今日では品物が余計になつたので、日本銀行で大いに力を入れたならば、単に政府とのみいはずに民業でやつていけないことはなからうと思ひます。日本銀行を財源にして第一銀行が金を借りてやつたならば、その救済は出来るが、さういふ仕組が完全につかないのに、一方の発達が強いものでありますから、どうしても救済の必要に迫られるといふことになるのであります。
生糸の値段についてもアメリカの需要が増加してゐるにも拘らず、その値段が下るのは日本の商売人が互に競争して、勝手に値段を下げるといふやうな者もあり、又生糸の供給が余り多過ぎるので値段が下るのだといふ説をなす者もありますが、しかし私としてはその問題はもう少し立入つて、輸出の模様や生産の模様などを詳細調べた上でなければ、必ず斯くあるといふことは断言出来ませんが、しかし何れかと云へば生産過剰といふやうなことになるのではないかと思ひます。私は高く売るといふことがいけないといふのではないが、養蚕家の方を第一に戒め、且つ生糸製造者に向つても値を上げたいといふ観念があるが、それは却つて己れの商売を障害し、且つその品物に対して利益を与へずに不幸を与へることになる。年々値が上つて行つたならば消費者はどうなるか、結局どこまでも上げるといふことは出来ないから、寧ろ反対に品物を幾らか良くするか、値段を安くるかといふことを考えるのが、農村蚕業の完成を期する所以であると思ひます。製糸
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家についてもただ値段を高く売るといふことばかりでなしに、もう少し重宝な糸になることを考へるのが必要だと思ふ。例へば片倉組の糸は多く何処の縦糸に用ひられる。何の生産品にはあれでなければいけないといふやうな特徴を持つたものにする。例へば欧洲のビロードの縦糸にはそれでなければいけないといふやうなものにする。果してさういふやうな特徴な品物になるかどうか知らぬが、あれでかういふものに用ひるといふ指定された需要向があると、値段も自然上ると思ひます。さういふことを考へた方がよろしいと思ふ。ただ安く造るといふことを主義とした考へ方がよいと私は思つて居ります。しかし物は一歩一歩に進歩があるから、値段を上げるのもよいが、品物を良くするのも進歩の大事なものでありますが、まだ完全には行きません。
ただ蚕業の中で農の方面に於ては確かに進歩したと思ひます。私共の養蚕をしてゐた時分には――私等は上手でした。殊に私のお母さんは大変に上手でしたが、――気候を取違へたりして、稚蚕の時分に悪くすると縮蚕を作つたり、「休まず」を出したりしたことが間々あつて、違蚕のことがあつたが、近頃は種もよいのでせうが、気候は悪くても縮蚕が出来たり、「休まず」が出来たりすることは少くなつて来ました。蚕種の製造法も今日では大分上手になつて、掛合はせといふことをやる。掛合はせといふことはどういふ方法にするのか私はよく知りませんが、掛合はせると虫が非常に強くなり、気候が悪くても、桑のくれ方が遅れても虫が病を起さない。曰はば一寸無理をしても風を引かないといふやうな蚕になるやうで、その趣向は大分うまくなつたやうであります。昔はなかなかうまくいかないで、起き縮みを拵へたり、「休まず」が出来たりして川に流したといふやうなことは幾らもありました。又桑の培養についても、殊に私共の郷里埼玉県下などではどうしても悪いと思ひます。私が行くと百姓達にこれではいかぬではないか、私共の丹精した時はこんなではなかつたと叱言を言ひましたが、それでも近頃は大分よくなつたやうです。私の生れた家の主人で今八基村の村長をしてゐる治太郎さんなどは、私の桑畑も大分よくなつたと自慢して居りました。成程大変立派に出来て居ります。
しかし未だ製糸の方は十分でないと思ひます。今井君などはあれだけの人物であるから幾分かよいでせうが、押しなべてもう少し堅実な考へを持つて、ただ高く売るといふことばかりでなく、永久的の事業として一歩一歩極く穏健に進歩を計つて行きたいと思ひます。それについては相当の設備の必要があり、どうしても組合の趣向がないといけないと思ひます。従来の方法によると掻き下ろした生繭を直ぐ糸屋が買つてしまふ。さうしないと後の始末がつかない。それですから景気がどうなるか判らぬが、先づ思惑に買ふといふことになる。あれを養蚕家の相当の方法で倉庫に入れて、時期に応じてそろそろ売つて行くといふやうな趣向になつて行つたら、余程よいと思ひます。(完)
附記
談話中子爵が、皇太后陛下(当時皇后陛下)の御下問に奉答せられた当時の記録は、本談話の節並に三学士退邸の時、後日送付せらるる事を約されたが、十一月四日附を以て右記録「感恩秘録」一篇を
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新たに浄書の上本会へ贈与せられたのである。
右記録によれば、大森皇后大夫が子爵を訪問せられたのは実に大正十五年六月三十日であつて、時に、陛下は大森大夫訪問の序を以て特旨により宮中紅葉山養蚕所に成れる絹布一巻及真綿一束を御下賜になつたのである。因つて七月一日子爵は右御礼言上のため皇后宮職に赴かれた時、慮らずも拝謁の光栄を賜り、且つ特別の御沙汰によつて蚕業について詳しく種々言上せられたのであるといふ。特に此事を附記して子爵の重ね重ねの好意を深謝する。
○右ニ本会トハ横浜生糸経済研究会ノコトナリ。
○「私と義一さんとは従兄弟」トアルハ誤リ。喜作ト従兄弟ナリ。作太郎、義一ハ喜作ノ子。