公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四二九 中外商業新報 第一五一五三号 昭和三年四月二三日 感涙会が最後 渋沢子暗然として 五十年来の交友を語る(DKB80055m)
別巻第8 p.155 ページ画像PDM 1.0 DEED
四二九 中外商業新報 第一五一五三号 昭和三年四月二三日
感涙会が最後
渋沢子暗然として
五十年来の交友を語る
渋沢子爵は感慨にたへぬ面持で語る。
大倉翁とは老人仲間で親しくしてゐたのに残念なことです。十八日石黒さんから大変悪いといふ話をきいて
見舞に行つた時は、家人が渋沢が来たといつても、もうよく分らないらしい様子でした。八日感涙会へは喜七郎さんから老人が会ひたがつてゐるから来てくれとのことで、そのときは色々すぎこし方の話をしました。医者は難かしいやうなことをいふので
「わしの先輩は君一人だから死んでくれるな」といふと
「大丈夫だ。今から死ねぬ」と元気なこと言つてゐました。大倉翁とは、先方が輸出入、土木をやつてゐるのに、私は銀行専門で、商売はすこし違つてゐましたが、五十年来の親しい交はりでした。最初知り合つたのは明治十年頃、支那の甘粛、陜西両省で飢饑があり左宗棠の部下の金順といふ男が大隈蔵相に金をかりに来たとき、
第一銀行で貸したらよからうといふ話で、支那へ出掛けての帰り、長崎の宿屋へ泊つてゐる所へ、西南戦争の最中朝鮮へ行つてゐた大倉翁が来合せ、同じ宿に落合つた。若い時分のことで一緒に芸者を呼んだりしたのがはじまりです。その翌年には大隈さんが英国公使のパークスから
「日本の経済界には輿論を知る機関がない、あなたのいふ輿論はお出入の商人の言葉でせう」と皮肉をいはれたのに憤慨して、民間に商業会議所を起すことになつて、大倉翁や、益田男と一緒に尽力しました。そんなことで爾来社交上や会社の関係などで始終親しくしてゐたのでした。重病ときいて非常に心配し、どうかよくなつてくれと祈つてゐましたが、ほんとに残念です。
○大倉翁ハ喜八郎。栄一トノ交遊ニ就テハ本資料第二十九巻並ビニ第五十七巻「交遊」ノ条参照。