デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
昭和期 四三六 大阪朝日新聞 第一六九五六号 昭和四年一月三一日

■資料

四三六 大阪朝日新聞  第一六九五六号 昭和四年一月三一日  実業家の輿論製造所 五十年前の思ひ出 【子爵 渋沢栄一】(DKB80062m)
別巻第8 p.166-167 ページ画像PDM 1.0 DEED

四三六 大阪朝日新聞  第一六九五六号 昭和四年一月三一日
   実業家の輿論製造所
      五十年前の思ひ出
        子爵 渋沢栄一
 朝日新聞の創立五十周年を迎へて、朝日新聞が今日までの幾多の事業や功績が、国運の伸展に貢献するところ多かつただけに一層慶賀に堪へない。五十年前、私にも当時の大新聞記者として自他相許した福地桜痴居士の如き友人があり、しばしば時事を談じたことがある。福地君や同君が知遇を得た伊藤博文公などは新聞の勢力年とともに大を加へることを予想してゐられたが、私は新聞が今日ほどの大勢力を持つに到らうとは思はず、この点誠に先見の明がなかつたわけである。何にせよ五十年前のこと当時輿論の徴すべきもの殆どなく、それについても思ひ出すのは、明治十一年商業会議所の前身商法会議所が創立された時分の事情である。これより先わが外務当局が外国人との折衝に当つてよく「日本の輿論がかうであるから」といつて突込んだものだが、それに対しイギリス公使パークス氏などは「輿論といはれるがどんな輿論です、たとへば御用商人などがお役人に、皆のものがかう申しますといつた風のものですか」と皮肉をいつたりしたので、大隈さんが「こんなことではいかぬ、何か輿論代表の機関を」といふことで、私に実業家の輿論製造所を作らぬかといふ相談があり、それで出来たのが商法会議所である。かういふ時代であるから当時なほ官尊民卑の風が遺つてゐてお役人と商売人との気位が違つてゐた。実はこのことはその十年前民部公子のお伴をしてフランスに渡つた時、フランスのナポレオン三世が任命した公子の教育掛、つまり官吏と、会計掛のフロリヘラルド氏の関係を見て痛切に感じたものである。フ氏は銀行を経営してゐて相当見識のある人だが、申さばただの実業家、教育掛の某氏とは当時日本でならば地位に格段の相違のあるべきところ、この二人は常に対等で公子のことを相談し、時に議論にわたることがあつても正しい方が勝を制するといふ風であつた。私はよくさうした議論の席にゐ合はして、なるほどこれでなくてはと思ひ、帰朝後実業界に立つの決心をするとともに、官民対等の気風を誘致することに努
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めようと思ひ、今日漸くその努力が報いられつゝあるやうに思はれるのである。五十年前後を対照せば他にもいふべきことが少くないが、今申したやうな点については殊に朝日新聞の功績甚だ大であつたことを述べて、朝日新聞のためにお祝を申上げたい。(談)