公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四三七 竜門雑誌 第四八五号 昭和四年二月 ○青淵先生説話 ○中略 商売は明るく正しくあれ(DKB80063m)
別巻第8 p.167-169 ページ画像PDM 1.0 DEED
四三七 竜門雑誌 第四八五号 昭和四年二月
○青淵先生説話
○中略
商売は明るく正しくあれ
会社重役の責任
凡そ社会に立ちて合本法によりて一事業或は一会社を経営せんとするには、其の当事者たるものは宜しく立憲国の国務大臣が、国民の輿望を負うて国政に参する程の覚悟を以てこれに当らなければならぬ。例へば一会社に於ける重役が、株主から選ばれて会社経営の局に当る場合には、会社の重役たる名誉も、会社の資産も、悉く多数株主から自分に嘱託されたものであるとの観念を有ち、自己所有の財産以上の注意を払つて管理しなければならぬ。併し乍ら又一方に於て、重役は常に会社の財産は他人の物であるといふことを深く念頭に置かねばならぬ。それは会社経営上に就いて、一朝株主から不信任を抱かれた場合は、何時でも会社を去らなければならぬからである。なぜならば総て重役が其の地位を保ち、其の職責を尽して居るのは、必ず多数株主の希望に依るものであるから、若し多数人の信任が無くなつた際は、何時でも潔く其の職を去るのが当然のことである。而して斯かる場合には公私の区別が判然として、会社の仕事と自己の身柄と、直ちに判別がつき、其の間に聊かも私なく、秘密なきことを期さねばならぬ。これ多数株主の輿望を負うて其の任に当る会社重役の、常に心得ざる可らざる肝要の条件であらうと思ふ。
商売に秘密はいらぬ
然るに現代に於ける事業界の傾向を見るに、まま悪徳重役なるものが出でて、多数株主より依託された資産を、恰も自己専有のものの如く心得、これを自儘に運用して私利を営まんとするものがある。それが為め会社の内部は一の伏魔殿と化し去り、公私の区別もなく秘密的行動が盛んに行はれるやうになつてゆく。真に事業界の為めに痛嘆すべき現象ではあるまいか。
元来商業は政治などに比較すれば、却つて機密抔といふことなしに経営してゆかれる筈のものであらうと思ふ。唯銀行に於ては事業の性質として幾分秘密を守らねばならぬことがある。例へば誰に何程の貸付けがあるとか、それに対して何ういふ抵当が這入つて居るといふことは、徳義上これを秘密にして置かねばならぬであらう。又一般商売上のことにても、如何に正直を主とせねばならぬからとは云へ、此の品物は何程で買取つたものだが、今これこれに売るから幾らの利益があるといふやうなことを態々世間へ触れ廻す必要もあるまい。要するに不当なことさへないならば、それが道徳上必ずしも不都合の行為ともなるものではあるまいと思ふ。併し此等の事以外に於て現在有るも
- 別巻第8 p.168 -ページ画像
のを無いといひ、無いものを有るといふが如き、純然たる嘘を吐くは断じて宜しくない。故に正直正銘の商売には、機密といふやうなことは先づ無いものと見て宜しからう。然るに社会の実際に徴すれば、会社に於て無くてもよい筈の秘密が有つたり、有る可からざる所に私事の行はれるのは如何なる理由であらうか。余はこれを重役に其の人を得ざるの結果と断定するに躊躇せぬのである。
事業経営の適任者と非適任者
然らば此の禍根は重役に適任者を得さへすれば自ら絶滅するものでなく、現在にても重役としての技倆に欠けた人で、其の職に在るものが少くない。例へば会社の取締役若くは監査役などの名を買はんが為めに、消閑の手段として名を連ねて居る所謂虚栄的重役なるものがある。彼等の浅薄なる考へは厭ふべきものだけれども、其の希望の小さいだけに、差したる罪悪を逞うするといふやうな心配はない。それからまた好人物であるけれども、其の代り事業経営の手腕のないものがある。左様いふ人が重役となつて居れば、部下に居る人物の善悪を識別するの能力もなく、帳簿を査察する眼識もない。為めに知らず識らずの間に部下の者に愆られ、自分から作つた罪でなくとも、竟に救ふ可からざる窮地に陥らねばならぬことがある。これは前者に比較すると稍々罪は重いが、併し孰も重役として故意に悪事を為したもので無いことは明かである。然るにそれ等二人の者より更に一歩進んで、その会社を利用して自己の栄達を計る踏台にしようとか、私慾を計る機関にしようとかいふ考へを以て重役となるものがある。斯の如きは実に宥す可らざる罪悪であるが、それ等の者の手段としては、株式の相場を釣上げて置かぬと都合が悪いというて、実際は有りもせぬ利益を有るやうに見せかけ、虚偽の配当を行うたり、又事実払込まない株金を払込んだやうに装うて、株主の眼を瞞著しようとする者などもあるが、此等のやり方は明かに詐欺の行為である。而して彼等の悪手段は未だそれ位では尽きない。その極端なる者に至つては会社の金を流用して投機をやつたり、自己の事業に投じたりする者もある。これでは最早窃盗と択ぶ所がない。畢竟するに此の種の悪事も結局その局に当る者が、道徳の修養を欠けるよりして起る弊害で、もしも其の重役が正心誠意事業に忠実であるならば、そんな間違ひは作り度くも作れるものではない。
社会公衆の利益の為めに
自分は常に事業の経営に任じては、其の仕事が国家に必要であつて又道理に合するやうにしてゆき度いと心掛けて来た。仮令其の事業が微々たるものであらうとも、自分の利益は極めて小額であるとしても国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽んで事に任じられる。故に余は論語を以て商売上のバイブルと為し、孔子の道以外には一歩も出まいと努めて来た。それから余が事業上の見解としては、一個人に利益ある仕事よりも、多数社会を益してゆくものでなければならぬといふことを常に心として居た。福沢翁の言に「書物を著してもそれを多数の人が読む様なものでなくては効能が薄い。著者は常に自己のことよりも、国家社会を利するといふ観念を以て筆を執らなけれ
- 別巻第8 p.169 -ページ画像
ばならぬ」といふ意味のことが有つたと記憶してゐる。事業界のこともまた此の理に外ならぬので、多く社会を益することでなくては正当な事業とは云はれない。仮に一個人のみ大富豪になつても、社会の多数が為めに貧困に陥るやうな事業であつたならばどんなものであらうか。如何にその人が人を富を積んでも、其の幸福は継続されないではないか。故に余は国家多数の為めに富を致す方法を講じなければ駄目であるとの意見を抱き、明治六年以来専ら銀行業に身を委ねてから、この心は終始一貫して今日迄渝る所が無かつた積りである。
自他の差別を明かにせよ
惟ふに国家を自分一個人の家にするといふことは、真心なる立憲国の為政者の為すべきことではない。左様なことが有るとすれば、そは所謂正道に反くものであるから、何人もそれを黙視して置かぬであらう。事業を経営する上にも矢張それと同一の観念が無くてはならぬ。余は実業界に入つて以来未だ一日も此の観念を失つたことはない。曾つて自分が第一銀行に在職中、相応の勢力と信用とを維持し、株も一番多く持つて居たから、若し自分が此の際銀行を自由にしようと企つるならば或る程度迄出来ないことは無かつたらうと思ふ。だが余は何時第一銀行の頭取を罷められても差支へ無いやうにして居た。といふのは第一銀行の業務と渋沢の家事とは塵一本でも混同せず、其の間には劃然たる区別が立ててある。余は自己の地位を利用し、第一銀行の金で私利私慾を計ると云ふやうなことは微塵も無いのみならず、時として私財を割いて迄も第一銀行の為めに尽し其の基礎の安固ならんことを図つて来た。余が実験談を述ぶれば実に上述の如きものである。而して若し一般世人が余の所説の如く、多数社会の富に留意することを立脚地として、其の事業の経営に任ずるならば、其の間に大なる間違ひの生じ様はなからうと信ずるのである。(商業世界一月号所載)