公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四四〇 竜門雑誌 第四八七号 昭和四年四月 新日本建設時代に於ける英国人の貢献 【――パークス氏及びシヤンド氏に就て――】(DKB80066m)
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四四〇 竜門雑誌 第四八七号 昭和四年四月
新日本建設時代に於ける英国人の貢献
――パークス氏及びシヤンド氏に就て――
一
明治維新が我が近代文化の革新期となつたことは申すまでもない。従つてこの時に際し、厚意に満ちた外国人の指導誘掖が、我が文化進展の上に大いなる貢献をなした数々は実に少からぬのであつて、私としては今歴史の一頁としてそれを語るといふよりも、親しくその改革の任に当つた関係から、現実の事柄として考へずには居られないのである。外国人にして、明治政府の新施設に対し、或は外部から或は内部から、立入つて注意し顧問となつた人々も少くないが、特に英国人は一時的でなく継続的に且最も深く、各種の世話をしてくれたので私共は常に感謝して居る。
当時公使として我が国に駐在してゐたパークス氏の如き、百事に精通した人であつて、日本の西洋式進歩発達に貢献する所が多かつた。
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そしてその事に臨むや、時に熱心の余り干渉的にさへ見られる程の親切さで尽力された。中にも重要なる貨幣制度の改正に就ては、自ら意見を述べ、金本位の効果と必要とを力説して造幣局の設置をすすめ、遂に香港にあつた造幣設備を大阪に移転して、逸早く造幣寮を建設せしめるとか、又は航海上に無くてはならぬ灯明台の設置をするとか、その他いろいろ実際上の配慮をしてくれたのであつた。
二
当時は外国人の注意を受けていろいろの新施設を行つたのであるが明治三年大蔵省に改正局を置き、総ての新計画を為さうとした。大蔵省の主脳者は大隈(重信)侯、伊藤(博文)公で、改正係の主任は私の兼任であり、先づ太政官紙幣引換のこと、それに関聯して兌換制度を如何にしようかと云ふやうなことが中々問題であつた。又大蔵省の事務も改正して新式にせねばならぬと、あれこれ評議した。伊藤公が米国へ視察に赴いたのも、改正係からの建議に基いたのであつた。調査研究の重要事項は(一)貨幣制度、(二)銀行制度、(三)公債制度、(四)大蔵省財務取扱等であつて、三年冬出発し翌四年春帰朝した。然るに、明治新政府の頭に立つ人々は、大久保(利通)公、木戸(孝允)公、西郷(隆盛)さんなどであつて、大蔵省の実務を見て居た大隈侯、伊藤公の意見に物議があり、遂に大隈侯は参議になり、伊藤公は大阪造幣局へ転任され、大蔵省へは新たに卿に大久保公、大輔に井上(馨)侯が就任した。そして伊藤公が米国で調べて来た事柄を充分利用せられる事になつた。然し其中で紙幣の銷却及び兌換方法は特に重要であるとて、その解決と、金融の流通に資する為め、米国の国立銀行制度を採用するのがよいと、井上侯も伊藤公と仲のよかつた関係から直ちに賛成して、改正係で立案することになり、私は芳川(顕正)伯、福地(源一郎)氏等と共に日本最初の銀行条例を起草したのである。但し此の時には米国で千八百六十三年に発布した国立銀行条例に則つた伊藤公の案に対し、吉田(清成)子が英国流を主張し、中央銀行を建設するのがよいと吉田案を出し、甲論乙駁したものであつた。然し私達は伊藤案をよしとし、井上侯もこれに賛成したのである。後銀行条例は改正せられ、英国流に中央銀行も松方(正義)公の手で設置せられた。
斯くて銀行条例の実施に就て、其の実務、又帳簿のことに詳しい人が必要である処から、誰の世話であつたか、横浜のチヤータード・マーカンチール・バンク・オブ・インデイア・ロンドン・エンド・チヤイナと称する銀行に居たアーラン・シヤンドと云ふ英国の人を大蔵省に招聘した。此の人は政治家でも学者でもない、純然たる実際家であつて、真に日本の銀行の発達に就て心配し、且つ尽力してくれた。
三
私は明治六年五月、大蔵省少輔事務取扱の職を辞し、八月予ての素志であつた民間事業たる、第一国立銀行の経営に任じたから、其の後大蔵省に於けるシヤンド氏の仕事はよく知らないが、銀行条例の発布後、国立銀行の設立がぽつぽつあつたので、銀行実務の教授所を大蔵省内につくり、シヤンド氏が教授となり、帳簿の取扱方、報告書の作
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製方、計算書の作り方等を親しく日本の銀行員に教へた。そして「簿記精法」を著し、又銀行家の訓言としてギルバルトの示す処を一般に広く普及せしめたが、その中私の記憶にある尤もな言葉は
一、銀行の業務は叮寧に而も遅滞なきことを注意すべし
一、銀行業者は政治の事情に通じ己れ政治に立入るべからず
一、銀行業者は貸付たる資金の使途を知る明識あるべし
一、貸付を謝絶し相手方を憤らしめざる親切と雅量とを有すべし
などと云ふので、平凡な言ではあるが、何れも味うべきものである。又銀行検査の試験として第一国立銀行もシヤンド氏から検査を受けたが、預金の性質、貸金の使途、取引の状態など、微に入り細に亘つて熱心に取調べた。即ち日本の銀行事務が堅実に発達し、英国流に行はれるやうになつたのは、一つにシヤンド氏の力であると申さねばならぬ。
四
次に明治九年のことであつた。支那の奥地たる陜西、甘粛方面に饑饉があり、高官にして有力者たる左宗棠から日本に借款を申込んで来たので、政府が貸金するのは面白くないとて、第一銀行が名前を出すやうになつた。私としては海外関係を進めるのは今後の信用上にもよいことと考へ、尚ほ三井物産から物資を購入すると云ふので、これを引受けることにして、私、三井の益田(孝)男、大蔵省の岩崎(小十郎)氏、及び福原と云ふ世話人とで上海へ渡り、銀貨二百五十万弗の貸借契約をした。然しそれは支那側に故障があつて中止となつたが、此の時私は第一銀行の支店を上海に置いて海外発展を為さうと考へたのであつた。処がシヤンド氏がこれに対し親切にその不可なる所以を意見書として出した。その趣意は「凡そ経済上の進歩は金融の疏通に依らねばならぬが、銀行は内地のものと海外のものとある。第一国立銀行は内地の商業銀行であるのに、上海に支店を置く時海外の為替をも取扱はねばならぬ。而も支那は銀本位であり、銀価の変動が激しいから之を経営しようとすることは失敗のもとである。切におやめになることをおすすめする」と云ふ意味であつた。従つて私は之れを中止し、後為替銀行たる横浜正金銀行が松方公の尽力で出来るに就て力を入れたのであつた。
斯様に私達はシヤンド氏には公私共に指導を受けたので、日本の銀行業にとつては大いなる恩人であると申してよいと思つて居る。
五
要するに明治初年、日本の外交が開けて以来、外国から多大の教へを受けた為め、いろいろな方面の進展を為したのであるが、英国及び英国人からは特に百事に関して指導されたので、パークス氏と云ひ、シヤンド氏と云ひ、実際上のみならず、精神的にも多くの貢献を遺して居るのであつて、我々の深く感謝して居る処である。
尚ほシヤンド氏は私より二つ三つ年下の年齢であるが、今も生存せられ、時々手紙の往復を為して居るので、英国の友人として更に懇親にありたいと望んで居る次第である。(中外商業新報英文号所載)