公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四四一 竜門雑誌 第四九〇号 昭和四年七月 支那に対するには「忠恕」を以てせよ 【青淵先生】(DKB80067m)
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四四一 竜門雑誌 第四九〇号 昭和四年七月
支那に対するには「忠恕」を以てせよ
青淵先生
支那に関する問題は、政治的にでなく日本国民の一員として私は憂慮する一人である。支那に於ては、屡々日貨排斥と云ふが如きことを行ふやうであるが、それは何処まで真面目にやつて居るかを疑はしめるものがあり、或は単に嫌がらせとして行つて居るのかも知れぬと思はれる程である。従つて真に道理に基き親切を以て交れば、仮令国の制度や国体や風俗等に相異があるとしても、人情道義は同じであり、何千年経たとしても一定不変であるから、曾子が「夫子之道忠恕而已矣」と云つたやうに、忠恕に依つて付き合へば、必ずや両国間の交誼は愈々親善を加へるであらう。此の忠恕と云ふことは、朱文公が「内不自欺忠是体、推己及物恕行焉」と解釈説明した通り、忠は真直ぐで一方に偏せぬことであり、恕は思ひやりありて之を行ふと云ふことである。謂はば道理に対する理窟でなく、人情に基く実行的なものである。而して論語は右からも左からも此の忠恕を説いて居るが、之れは人が上に対するにも、下に向ふにも、君臣、朋友の間は勿論、あらゆる人と人との接触に必要なものであつて、「一以貫之」ものである。重ねて云へば、忠の真直ぐに他にこだわることなきと、恕の思ひやりあり、相愛しみ合ふ、この二つが調和して立派な行が成り立つのである。されば我が国にして、支那に対するに「忠恕」であるならば、必ず親善関係は結ばれる訳である。
私は早くから我国の支那に対する関係を事業上から結び付けたいと其の方面に力を尽して来たのであるが、方法が悪いのか、知識が足らぬ為めか、効果が少く、彼の東亜興業会社の如きも名のみは残つて居るけれど微々として振はぬ、之れは白岩竜平氏が世話をして居た会社であつて、明治四十二年桂内閣の時代に創立されたものであつたと思ふ。即ち支那に対して政府も追々に力を添へ、事業の端緒を開くに当り、一つの組織を為せばよいと、官民一致して此処に東亜興業会社を成立せしめた。然るに之が希望を達する処なきのみならず、今や僅かに名を存するのみの有様となつて居るのは遺憾の極みである。
後、大正二年支那の革命が成就してから、孫逸仙が日本に来訪した時、彼の中日実業会社の協議を行ひ、軈て袁世凱との間に同社が成立したのであつた。当時私としては東亜興業会社が余りに発展しないので、別に漢口か上海あたりに東京と聯絡ある事業会社を起したい、そして単に物資の貿易のみでなく、鉱山の如きを合資でやりたい、将来さう云ふことのやれるやうな道を、特に開いて置く必要があると考へた。恰度前申す通り孫逸仙が来朝したが、私は孫氏は有名な人であるからよい機会である。適当な方法があれば、両国事業の協力が出来るであらうと考へた。又孫逸仙にしても、革命には成功したが、武力的勢力のある袁世凱があつて、政治上の働きは充分に行はれず、兎もすると両者相争ふ形勢にあつた。其処で私は隣国支那に対する思案があつただけ、之を機会として、益田孝氏や井上馨氏に相談し、時の政府の人にも了解を得、孫氏を支那の経済上の立物とし、日本からは私が
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顔出しして、両者提携して事業会社を起さうと、先づ私は孫氏を帝国ホテルに訪ねて日支の経済的な聯繋の必要を説き、更に日比谷にあつた三井集会所で三四回も、孫氏、益田孝氏、私、其他二人ばかり打寄つて協議した。それは結局一つの大きな日支共同出資の会社を造り、相互に経済上の発展を図らうと云ふので、彼は一千万円の資本にしようと云つたが、私は五百万円とし、両者二百五十万円出資して、さし向きの仕事をするとして商議し、私も起つから、孫氏も出るやうにと奨めた処、孫氏は私の言葉を徳とした。即ち私の説いた内容は「一国の消長は、色々な人が各自の特長を発揮して活動するにある、同じやうな勢力のある人が二人あると必ず相争ふことになり勝である。其の実例は支那にもあれば日本にもある。政治のことも大切であるが事業上のことも実に大事である。今孫先生は支那を民国とするに就て努力され目的を達せられたが、袁氏との間には兎もすると争ひが生ずる。故に相互に力を合せることがないならば、何れ最後にどちらか一つは仆れることになる、故に孫先生にして中国を愛し、平和を望まれるならば、政治は袁氏に譲り、先生は経済上に活躍されてはどうか。自分のことを業々しく云ふのではないが、私も曾ては政治方面に出ようとしたことがあり、最初には幕府を倒さうとさへした、然しよく時世の有様を見ると、政治上の世話をする人は沢山あるが、財政経済上の世話をする人はない。真に産業上の組織を我ものと思つて欧米式にする人は見当らなかつたので、私は後ればせながら、政治には力もなかつたからそれには全然意を絶ち、経済上の発展にのみ尽さうと、明治六年銀行業者となつた。或は、私が政治界に出たならば一つの党派を立てまいものでもない、然しさうしたことはなく、経済の発達に努力して、官尊民卑の弊を幾分ともに取除いた。実に幕府の時代と今日とを比較するならば大変な相異である、斯う申せば自己を語るやうであるが、余り過言とも思はぬ程である。貴方は今鉄道総長でもあるから、袁氏との政治上の争ひを中止し、経済上の主脳者となつてはどうか、さすれば日本の我々も出来るだけはお援けする。何分支那には鉱山があり、農業も発達して居り、工業上の原料にも富んで居る。日本の方は事業を経営する人はあるが、原料が少い。其処で日支が提携すれば恰度手長足長ざらへの喩への通り、相補つて都合よく魚を沢山捕へることが出来る」と述べたので、それでは協力してやらうと云ふことになり、中日実業会社の計画が成り、私達は政府に頼らず、民間で資金を集めることにした。孫氏は右の私の議論を尤もとしたが、此の時の通訳は戴天仇であつた。
然るに孫氏は此の説を長崎へ行つてから変更した。其の時私の処への断りの手紙は「数回の会見と御協議に対して別に異議を申すのではないが、袁世凱の仕方が共に天を戴き得ないやうになつたから、政治上の事柄を袁にのみ委すことは出来ない」と云ふやうな趣旨のものであつたが、それは孫氏の股肱宋教仁が袁氏の為めに暗殺せられたからで、其の時となつては孫氏として黙つて経済上の働きに身を委ねる訳には行かなかつたのであらう。其の内どう云ふ訳か袁世凱が此の事を聞き、特に孫宝琦と李盛鐸と云ふ二人を使として寄こし、再協議をし
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た末、支那の政府が半額を出資し今日の中日実業株式会社の組織を見るに到つたのである。従つて私と親しく相談した孫氏は何等関係しないことになつた。然し此の中日実業会社も東亜興業会社と余り変らず業績が振はない。云はば車は両輪で完全であるのに片方の車が壊れた形で、現在では政府からの借入金や資本金の残額で経営して居る程度である。
此の私が孫氏に奨めた事柄は、論理としては合つて居たが、事実は合はなかつた。私は今でも支那に渋沢の如き者があり、両者の民間に在る者が相提携してやれば必ず成功すると思ふが、之までの実業界の現状を見れば、手違ひのみ多かつたのと、人も事情も好適ではなかつたので甚だ残念である。故に「夫子之道忠恕而已矣」で事に当り、日本のみの都合を考へず、支那との共存共栄を常に考慮してかかる必要があらう。私が今少し若かつたならば、充分に力を尽して見たいと思ふが、最早駄目である。要するに支那との事業関係は、二つの会社とも成功しなかつたので残念でならない。幾度も申す通り、支那は資源に富んで居り、日本には経営の出来る人があり、両者の利害を一致せしめるならば、充分やれることと思ふけれど、現状では時に支那では排日を云ひ、日本人中には支那人を圧しつけると云ふやうな者もあるやうで、うまく行かない。聞く処に拠ると、日本の支那にある紡績などは立派に経営されて居ると云ふが、結局支那の有力な実業家と日本の有力な実業家とが、手を握り合つて立つことを希望する。
また大正三年私が支那を訪問したのは、特に要件があつた訳ではなく、北京まで行き、曲卓の聖廟に参拝するのが目的であつた。然し途中南京にて病気に罹り、大連へ出て帰朝したのであつた。当時支那の大官に面会しても、私は「孔子の教へを政治上にも経済上にも社会上にも及ぼしたいと思つて、論語を奉じて居るが、貴国は孔子の子孫であるのに考へが違つて居るやうだ」などと話した。殊に子貢が「如有博施於民、而能済衆如何、可謂仁乎」と問うたに対して、孔子は「何事於仁必也聖乎、尭舜其猶病諸、夫仁者、己欲立而立人己、欲達而達人、能近取譬、可謂仁之方也已」と答へられた。此の子貢の問こそ経済に基く政治のことであつて、それは尭舜さへも尚ほ悩みとしたことであり、仁とは近くに取ることだとされたのは、孔子が如何に人の経済生活の緊要さに充分の理解を持つて居られたかが判る。曾て山鹿素行が右の論語中の言葉に感心して、大いに之れを説いた時、幕府から巧利に走るものとして厳責せられ、遂に赤穂へお預けになつた有名な話があるが、同様に子貢が金銭の事を思ふから、斯様な問をしたと攻撃する学者も少なからぬのである。私は素行に代つて、其の言葉の重要なる点を特に力説したい。
即ち支那に対するには忠恕を以てし、広く民に施して衆を済ふ為め両国事業上の提携を円満に発達せしめたい。それには両国民間の有力な実業家が、己の利益のみを考へず、己れ立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達すと云ふ、共存共栄の主旨に基いて常に事に当ることを切望して已まない。(七月十五日談話)