公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四五〇 竜門雑誌 第四九九号 昭和五年四月 経済界の不況と竜門社員の覚悟 【青淵先生】(DKB80076m)
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四五〇 竜門雑誌 第四九九号 昭和五年四月
経済界の不況と竜門社員の覚悟
青淵先生
最近の我が経済界は依然として不況を継続しつつあるが、昨今に到つては殊に其の深刻味が著しい模様で、いろいろの問題が続発するやうである。従つて現在の経済界に対し如何に処すべきであらうか、又之を如何に導くべきであらうかと云ふことに就て、迷ふ向もあることと察せられる。然し之等に付て私に今話をせよと求められても、現在実際問題に接触せず、事実をよく知らぬ私としては、具体的に適切なお話は出来ないのである。然らば、斯くの如き面白からぬ経済界の成行を見ても、何等憂慮せぬかと云へば、左様ではなく、大いに心配して居る。実際に触れないだけに却て強く憂慮すると申さなければならない。ただ自分としても遺憾に堪へないのは、実際の事態を的確に知らぬ為め、どうすればよいか定め得ないことである。徒らに議論をなし、何事に対しても無責任な意見を発表する人であつても、現下の経済界に処すべき方策に就て述べることはなかなか難しいと思ふが、私は徒らに論じ無責任に放言することを好まないのであるから、一層困難を感ずる。日本の経済界は斯くの如くして斯くなつたのである、故に斯くしなければならないと、原因や沿革や現状を観察して適当なる方法を発見する能力を持たないのである。経済界、政治界、又広く一般社会の状勢には頗る疎く、事実に則して言ふべきものを持たないとしても、凡そ世の道理から考へて見るならば、人をして首肯せしめることを云ひ得ないものでもあるまい。
偖て何事に依らず所謂「成るの日に成るに非ず」で、表面に現はれるまでには、従前からの永い間の素因が相重つた結果として現はれるものである。同じ意味に於て、今日我が経済界が斯くの如き事態を示すに就ても、過去に幾多の原因があることを想像せねばならぬ。先づ政治界其のものの注意が足らなかつた点もあるであらう。政治に携る人達の為す処が、常に先行のことのみに目を付けて後始末をすることを忘れて居たと云うても過言ではないであらう。西洋の骨相学では、前脳の発達して居る人は何事によらず計画的で活動力がある、後脳の発達して居る人は之に反し物の整理を為す能力があると云うて居るのであるが、日本における近頃の人々の中には、此の前脳の発達して居る方の人が多かつたのであらう。又事実、人として世に処する以上、いろいろの計画を樹てて前へ前へと進まうとするのが当然で、弊害と云ふよりは普通の成行であると云ふべきで、過去の日本の有様は、この普通の事態を其儘に辿つて来たと云ふより外はないと思はれる。
大体論として大雑駁に政友会の内閣は積極的であり、民政党の政府の政策は消極的であると云ふが、私にはどの程度までの積極策が行はれ、又消極策を如何にして採つて居るか、一々例を挙げて具体的に批評をすることは出来ない。ただ近頃の有様を見ると、田中前首相のやり方は放漫であつたが、浜口現首相のやり方は堅実であると云へるかと思ふ。併し細かく論ずるならば、放漫政策が左様に放漫でなかつたり、所謂緊縮内閣の注意が緊縮にならぬやうなこともあつたやうであ
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る。私は甚だ残念ながら今此処に何処がどうであると云ふ風に、実際に当つて之を述べることが出来ないので、漠然と愚痴をこぼすだけである。
政治上の主義政策に就ては暫く措き、現在の経済界に関してのみ言へば、此の不景気は行き過ぎの結果として起つて居るものであり、且つ世界的の不況も多大の影響を及ぼして居るものであると見られるから、経済界に在る人々は、自ら多大の注意をして善後の策を講ずべきであると思ふ。一般的に我が国の商工業者は、更に統一がなく、協調せず我勝ちに進む弊がある。利益がある事業とか、面白い仕事があると云へば其処へ無闇に集つて来る。為めに忽ちにして其の事業の乱立となり、生産品は極度に過剰となる。自然相互の激甚な競争を惹起し其結果遂に共倒れの愚を演ずる始末である。私自身の経験から考へて日本の状態を推断すると、世が進み事業が進歩するに従つて斯くの如き弊害が愈々激しくなり、勢ひ人情は軽薄となり行くと思はれるのである。斯くの如きは真に遺憾の至りであるが、事実左様に思はれるから已むを得ない。現に目下日本の実情を見ても、世人に甚だしい軽躁の嫌ひがあると云ふことは否み難いところであるから、幾分でも之を矯め、敦厚にして荘重なる大国民たるに近づかんことを望み、所謂三大強国の一たる立派な国民性たらしめたい、少しでも向上せしめたいものであると考へずには居られないのである。
軽躁と荘重と云ふ文字を掲げたから、此等に付て具体的の例を挙げて見ると、米国の如きは一見軽躁のやうに感ぜられるが、必ずしも軽躁でない場合がある。英国の方は如何にも荘重であつて、経済界が不景気であると云うて狼狽し狂奔すると云ふやうなこともなければ、景気が直つたとて有頂天になつて喜び廻ると云ふことがない。日本の方はさきに指摘したやうに軽躁と評さざるを得ないので、経済界に付て見ても甚だしく此の傾向が現れて居るのである。今日此の不景気に当面して為す処を知らず、唯無闇に狂奔するに過ぎない者が頗る多い様子である。忌憚なく私の意見を言へば、抑もの根本が間違つて居る。私は常に考へて居るが、我が事業上或は事務上の沢山な無駄を省かないで置いて、徒らに物事を進め軽率に事態に接したから此経済的難局に当面せざるを得ない様になつた。故に之等を考へ根本的に弊を除き、所謂立直しを計らないならば、此の不況を打開して行くことは到底出来るものでないと思ふ。時に或は軽躁と云ふか気軽にやる為めに発展の原動力となることもないとは云へないが、多くは軽信躁行となつて事を誤るに至るのである。
ただ此等の点に付て自ら慰め得らるることは、世の進歩の激しい時代の態を見ると、決して一定度の進歩をなし日々其の進みが嵩増して行くものではなく、急激に進む時もあれば、俄に停止することがあり又少しく進むと云ふやうな有様で、時には退歩することさへもあるのであつて、斯くして全体として漸次発展して行くのが通例である。即ち政治でも経済でも同様、時の勢に進むのであつて、或る場合には一時総てのものが相共に進歩せぬことがある処から、相互の間で激烈な衝突を引起すやうなこともないとは云へない。現在日本の政治、経済
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並に一般社会状態を静観するならば、右の如き自然の推移の好くない時期、即ち停止の場合に遭遇して居ると云ふべきで、如何に朝に立つ人々の間に賢者が多くとも、如何ともし難いであらう、此の不況を防ぐことは不可能であつたであらう、ただ政府当局の政策が多少とも適切ならば、其の程度を緩和するとか、此の時期を短縮するとかは出来ないこともあるまいが、斯様な人為策を以てして全然不景気を免れ得るとは考へられないのである。然るに現在多くの人々が、慎重であれば此の間の道理は容易に悟り得られるに拘らず、其の行過ぎを引締めて困難に打克つべき覚悟を忘れ、徒らに政府に頼り、人に依頼し、軽躁を是れ事として、人奔るにつれて我も亦無意味に奔り廻ると云ふ嫌ひがあるのは残念である。特に反省すべき事柄であらう。尚ほよく吟味して、個々の場合を観れば言はなければならぬことも沢山あると思ふが、今日は抽象的に、軽躁が事を破る原因を為すのであるから、何処までも之を自ら顧み、荘重なる国民性を涵養するやうにありたいものであると望んで已まないと言ふに止める。
斯くの如く言ふならば、今日新らしい仕事などに当る場合、ただ熟考して苟も事をせず、何事をも躊躇せねばならぬのであるかと云ふ人があるかも知れないが、決して然らず、それでは事物は更に進歩することはなく結局退歩するのみであらう。私は必ずしも進んではいけない、ひたすら止つて居た方がよいなどと言ふのではない。躊躇逡巡は最も排する所である。慎思熟慮も程度があるとさへ思うて居る。苟も可なりと信ずるならば進むべきである。物事に進歩のある時には少々の躓きはあるものである。或は転ぶことさへも已むを得ないと思つて居る。孟子にも「走る時には躓くことを免れない」と云ふ意味の言葉がある程である。故に経済上の事業に限らず、政治上、社会上に於ても、社会の利益となる事柄であれば、多少の躓きは覚悟の上で、躓けば更に足を踏みしめて進む、と云ふ位の意気を以て事に当らねばならぬであらう。
世の成行に就て批評的にはいろいろのことが云へるけれども、然らば如何に実行したらよいとは誰しも確言は出来ないであらうから、私のよく之を為し得ないのも、敢て私の智慧のない故ばかりではなく、事物が難しい為めである。だから私としては抽象的にしか論じ得ないけれども、実際事業に当る人々は無闇に縮んだりまた矢鱈に進んだりすると云ふやうなことなく、前後の事情を察して適当に進退すべきであると思ふ。然し一面から考へると、世の中は常に進みつつある又進むべきものである。例へば日本の発展せる有様などはお互ひに喜んでよいのであつて、彼のロンドン軍縮会議の如きに於ても、英、米、日と数へられ、対等の地位に立つて三国協定の会議が進められて居るが如きことなど、過去に於ては殆ど見るを得なかつた点である。此等から考へても、悲観するには及ばぬ。経済界の難局には相当の覚悟は必要であつても、閉口垂れることはないのであつて、冷静に苦痛の時期に善処し、之を経過するならば、禍を転じて幸たらしめることも可能であらう。
以上は実状に迂遠な私の話で、適切でないかと思ふのであるが、時
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節柄一般に向つて言ふより竜門社の人々へ、渋沢は斯う考へる、と概括的に申すのである。私も以前の如く事業に親しく接触して居るならばあの仕事は助長し進めた方がよい、此の仕事は縮少した方が適当だなどと言へないことでもあるまいが、今では悲しいかな事実に疎くなつて居るから、具体的に指摘して明瞭に言へないのである。処が竜門社の諸君は何れも実務に従事し、事業に携つて居り、尚且常に道理に応じて事を進めて行くと云ふ気位を持つ人達であるから、自分等の関係して居る事業の激しい変化に処する道を、各自に或は進み過ぎて居るから引締めた方がよいとか、或は不景気であつても更に進めるべきであるとか、其の進展縮少に関する事柄を経済道徳合一主義の下に実行されるであらうと信ずる。即ち大体論は私がし、実際に当つては諸君が考察実行すべきであると考へるのである。
要するに現在の不景気は深刻であるが、世の進みの間には斯うした時代もある。既に英国でも米国でも同様の苦しみは舐めて居る。此の難局を打開してこそ将来大いなる進展がある。故に決して萎縮する必要はなく、英、米と伍して進む以上、彼等と比較して足らぬ点もあると共に優る処もあることを知り、足らぬ点は速かに補ふべきであるとして、くれぐれも自重心を失はないことを希望する。私が慶応三年仏蘭西へ行つた時代のことを回想すると、日本の進歩は実に驚くばかりである。今や英、米に対し、国際的にも重大な地位を占めるに及んで日本の意嚮は諸国の大いに問題とする処となつて居るのであるが、明治維新当時では日本の思惑などは全然歯牙にかけられなかつた。此処にそれこれを想ひ合せ、また之までの推移を考へ、次で現下の不景気に思ひ到れば、我が竜門社の諸君の如き、経済界の第一線に立つ人達は、其の責任の大であるを悟り、大いに覚悟の臍を固め、道理に適うた正しい転換に努力しなければならぬ義務を持つ者であると云ふことを了解されるであらう。私は呉々も諸君の意気と力量とを信じ、婆言の徒事ならざるべきを予期して居るのである。(四月十二日談話)