デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
昭和期 四五一 竜門雑誌 第五〇〇号 昭和五年五月

■資料

四五一 竜門雑誌  第五〇〇号 昭和五年五月  父晩香翁に就て語る 【青淵先生】(DKB80077m)
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四五一 竜門雑誌  第五〇〇号 昭和五年五月
    父晩香翁に就て語る
                      青淵先生
 先考晩香院が逝去せられたのは、私が大蔵省に出仕して居た明治四年の十一月二十二日であつた。回想すれば殆ど六十年を経過して居るのである。私としては突然此の不幸に遭遇したため、真に残念に思ひひどく歎いたので、其の当時の事は今でも判然と記憶して居ります。
 晩香翁は諱を美雅、通称を市郎右衛門、後に市郎と称へ、雅号は晩香であつた。元来私の家に生れた人でなく、同族宗助の三男として生れ、養子となつて私の家を相続したのである。宗助と云ふ人は中々思慮のある人であつたが「同族中の宗家と云ふではないけれど、自分の家にとつては本家に当る「中の家」が微禄になつて居るに就ては、そのままで置くのは心苦しいことである」といふので、其三男の晩香院を説得し、私の母なる恵伊(梅光院)の婿として「中の家」の再興を図られたのであります。婿養子となられたのは何歳の時か私は知らな
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いけれども、廿歳頃でもあつたらうかと思ひます。兎に角父宗助の命に従ひ「中の家」の相続をすることになつたから、かねて希望して居た思案を全く捨ててしまつて百姓で一生を終る覚悟をしたと言うて居りました。これは後に私が家を出る時、種々の事情を物語られた際に聞いたのであります。勿論晩香翁の若かつた頃は、時世も未だ平穏であり、勢ひ思想も穏健で、行動も亦過激ではなかつたのであります。且つ宗助の力で生家も相当な暮し向きをし、地方では有力な方であつたのと、文雅な方面の才能があつたから、十五六歳の頃には俳諧などを楽まれた。書も巧みで、残つて居る物を見ると、百姓としては非常な能筆と申してよい程であります。私等の幼かつた時お手本として与へられたものが残つて居るから、此等を印行し、近親の者に頒ちたいと思ひ種々詮鑿したが、字体なり運筆なり実によく出来て居るのに、今更ながら感じ入つた次第であります。それと申すのが晩香翁は三男で、一番上の兄さんが誠室と号して書を好くした。次の兄さんが俳諧に巧みであつたと云ふ風であり、それから姉さんが二人あり、其次が晩香院で、兄さん達とは相当年が違うて居つたから、常に兄さん達に教へられたためでありませう。又あらゆる書籍を渉猟せられた訳ではないが、多少学問にも心を用ひられたものと見え、経書などには詳しく、四書に就ては人に講釈をして聞かせたこともある程でした。斯様に文雅の道にいそしみ、学問にも励まれたのは、一生を百姓で終る積りでなく、都合によれば御家人の株でも買つて武士になりたいと云ふやうな望みを持つて居られたさうであるが「中の家」へ入ることに決定すると共に断念し、此処に将来御自分の為すべき道を悟られたと申すか、決心を固められたのであります。
 私の生家「中の家」は百姓であつたが、其の間に藍葉を買入れ、之をねかせて藍玉とし、それを紺屋に売る半商半工的の業務を営んで居りました。私の郷里血洗島の近傍は地味が藍の耕作に適して居たから方々に同じ業に携はる者があつた。晩香翁が若い時、自ら此の事業を始められたのか、或は祖父の敬林翁などの時代からやつて居られたのか、私はよく知らないけれども、晩香院はこれを頗る熱心でありました。何分下手をすると損失を招くから、相当智慧を要するし、又智慧を働かせるとかなりの収益がある事業でありました。其処で非常な丹誠をしたものと見え、藍に関する晩香翁の言は、論語の中にある「人不間於其父母昆弟之言」と云ふやうに、村の人々や知人から信ぜられるやうになつて居りました。実際晩香院の藍の鑑定は非凡で「此の藍はどうして斯うなつた」、「素質が悪いからだ」とか「手入が行届いて居ない」とか「肥料が足らぬ」とか「刈時が悪い」などと、買出しの藍を見ては言ひ当てるので「貴方はどうしてそれを知りますか」と売る方から不思議がられ、よくも斯くまで熟達したものであると云はれる程でした。そして藍葉を各地から買ひ集め、それを乾燥し、水を与へ熱を出して醗酵させ、玉にして紺屋へ直々に売る。するとかなり利益が挙げられるけれども、其の間労力もかかり、手配の如きも一種の技術で、誰にも出来ることではなかつたのであります。余談になるが紺屋が此の藍玉を瓶に下し熱を加へると染料となり、木綿糸でも絹糸
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でも或は布へでもよく染付くのでありました。私も此の藍葉の買入、藍玉の製造並に販売は直接やつたことであるからよく知つて居り、後には父も「お前も俺の代りが出来るやうになつたぞ」と言はれたものであります。実際私も十四五歳の時から、最初は父に伴はれ、または祖父と同道し、程なく一人で藍の買出などに携はり、時に父が云つて居る通りの講釈などをして「変なことを云ふ奴だ」とて笑はれたり、又父から叱られたり、褒められたりしたこともありました。何分農閑の仕事としては利益の多かつたものであるが、気の長い商ひで、藍玉は大抵は掛売であつた。で私の主として売つて歩いた紺屋は信州に六七十軒、秩父に二十軒ばかり、此の秩父の方は私が得意を開いたものである。その他銘仙の産地伊勢崎もよりへも出張して、大きな紺屋と取引を開いて居ました。斯くして初め貧しい方であつた「中の家」も富豪と云ふ程でもないが裕福になり、身代も年々五六百両は増すと云ふ有様でありました。五六百両と云へば僅かのやうであるが、当時の金の価値はずゐ分高かつたから、先づ田舎で此の位の金の残るものは多くなかつた。併し晩香翁は財産を残すことを楽しみとはせず、仕事をするのが楽しみで、それで残つた金は楽しんだ粕であると考へられた。論語の「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」と云ふ風であつた。従つて其の行為も特に栄誉を得ようとか、特に金を得ようとか云ふのでなく、道理正しく耕作を進め、技術の発達を奨励し、紺屋が好く染め上げることに努め、予定の通りに仕事が運ぶやうにと心掛けられました。斯くて藍に関しては其の権威者の如くなり、藍を作る、ねかす、紺屋廻りをする、と云ふことを第一の楽しみとして努力せられたのでありました。
 私の兄弟は沢山あることはあつたが、何れも夭折して、五ツ上の姉と外に妹があるのみでしたから、私は一人の男の子として、父母から大変愛せられたのでした。六歳の頃から三字経を晩香院に教へられ、「物憶えがよい」と喜ばれました。そして八歳になつた時「家にのみ居ると外でおぢけるから」とて、手計の尾高藍香の処へ朝々稽古に通はされるやうになりました。藍香は新五郎と称し、私より十歳年長の従兄で、学問があり文学に特殊の頭脳を持ち、他国の文学者が来ても大いに討論して敢て譲らず、云はば天稟の才を持つた人でした。私は藍香の処へ毎日通つたが、親類のこととて遠慮もなく此処に私が文学に親しむ素地をつくつたのであります。而も藍香先生から「栄さんは憶えがよいから立派な書物読みになりますよ」などと云はれたので、父は大層喜んで居ました。かくして年が経つに従ひ、四書、五経、文選、左伝、史記、十八史略、日本外史、日本政記、国史略、その他古文真宝、八大家文などをも読んでもらひました。勿論此様にいろいろの書物を学び、之れを理解するやうになつたのは後のことであるが、父は「文学に趣味を持つのはよいが、学者になるのではないから、却て深く学んで学者肌になり業務の方に関心を薄くしては困る」とて、十四五歳になると、藍の買入れに伴はれ、二十歳頃から私一人で信州その他の紺屋の得意廻りなどさせられたのであります。斯くの如く何かにつけて教へ導かれたが、或る点では頗る几帳面であり、厳格であ
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りました。恰度十五歳の時私が平常使つて居る掛硯が古くなつて居たから、其の春、南方の方面へ行つたついでに叔父の保右衛門と共に江戸へ出で、父の許しを得て居た新らしい硯箱と本箱とを購つた。其の値段は確か一両二分ばかりであつたと思ふ。後、舟で此の二品が着いた。荷物を受取るとすぐ出して使用しようとした処が、此の硯箱は古いものと比較してかなり立派であつたから、それを見た晩香院は「物には権衡と云ふものがある。身分不相応なことをするやうでは此家を維持することが出来るかどうか心配だ」と大変な御立腹で「横道な不孝な子を持つたものである」と歎息せられ、ひどく叱られたことがありました。これは私自分も好からうと思ひ、叔父さんも「少し高いけれど奮発せよ」と云はれ、又帰つた時値段を報告した節には何も云はれなかつたのに、愈々其品物が着くと厳しく叱られました。此時はあの十八史略の中にある紂王の話などを引き「お前の心掛けがさう云ふ風では先が気づかはしい」などど言はれました。母が「そんなにまで言はなくとも――」と取りなして下さつたけれども「分限に応じたものを用ひよ」と言はれて、其時には許されませんでした。此様に厳格に「己の分を守れ」と訓へられた話は他にもあつたが、特に此事をよく憶えて居ります。
 元来私は百姓じみない方でした。当時問題の外国との間に面倒な政治外交関係が開かれ、国論の喧しい時分であつたから、尾高兄弟などと尊王攘夷の論などを闘はすことが多かつた。私が十四歳の時、米国からペリー提督が浦賀へ来、次で後にハリスも渡来した。又露国からはプチャーチン、英国からな[英国からは]スターリング、更に後にシーモーア等が続々渡来したので、所謂外交問題上の幕府の失政を慨き、武力を以て朝廷を押へようとする非違を論じ、悲憤慷慨したものであります。そして藍香は政権返上論をも説いて居り、且つ会沢恒蔵の「新論」などを読んで水戸派になじみ、尊王と排外主義から、幕府の外交の軟弱と統一のないことを深く慨し、さらに官尊民卑の弊まで論じて居りましたが、晩香翁も議論の上では私共の説に賛成であつたけれど、余り自分のことのやうに論ずると「我分を守ることを忘れてはならぬ」と言はれるに拘らず、私が「どうしても徳川の政治は日本を間違つた方へ進める、同じく間違ひがあつたとしても、北条、足利の時代には国内だけの事件であつたから国体を滅却するやうなことはなかつたが、今は外国関係であるから、下手をすると、国体にまで傷がつかぬとも限らぬ。従つて我々日本男子としては、此の時代に生れて知らぬ顔は出来ない。殊に此の近所からは蒲生君平とか高山彦九郎のやうな人も出た、人たるものの本分を尽す為めには、世に立つて活動する必要がある」と言うて居りましたので、父上はかなり懸念し「左様に論ずるのは悪くはないが、皆人には夫々其分と云ふものがある。百姓は平和を求めるべきであつて、彼の高山の如くして死んでよいであらうか、其点はよく思案してくれ」と私が長ずるに従つていろいろ気づかはれて居ました。然るに私共の国事を憂慮する熱は少しも衰へず、否益々燃え上つて、遂には父に内密で、尾高藍香、同東寧、同姓喜作及び私、此の四人が主となつて同志の人々を集め、討幕の兵を挙げ、先づ高崎
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城を乗取り、次で横浜を襲ひ、外国人を追払はう、と云ふやうな暴挙を計画し、それには宮様の令旨を得たいなどと考へました。其処で藍香を中心とした相談が出来、遠からず実行にかからうと云ふことになつたに就ては、私の命は無いものになるかも知れないから、一応暇乞ひをして置くがよいと考へましたので、文久三年九月十三日の夜、月見の宴を開き、尾高藍香と喜作とに来てもらつて国事を論じ、やがて家を出て国の為めに働かうとする意味を述べ「如何に百姓であるからとて、国の為めに働いてはならぬと云ふ理由はない、男子の責任は非常に重い、国民として黙つて居るのこそ不忠の甚だしいものである」と云ふ意味を述べた処、父は依然として「己の分を守る必要がある、論語にも不在其位、不謀其政。とあるではないか」と云はれる。「しかし国事多難の秋、或は国の存立にも関する時、国民としては身を捨てて立つことが必要で、これが男子の本分であります。彼の楠公は、すはと云ふ時身を挺して出でた。それが真の忠義である。私達も今さう云ふ忠義がしたい」と特に力説した。すると父は「それでは自分達の望みを達する為めには親や妻子はどうなつてもよいと言ふのか」と言はれた。私は此時二十四歳、藍香の妹を妻とし歌子も生れて居たのであります。「いやさう云はれると一言もありませぬが、天下の形勢を見てはじツとして居られません。但し左様なことをする能力がないと言はれるならばそれまででありますが――」などと説き、遂に夜を徹しました。白々明けになつて晩香翁は「親の命令として理窟通りにせよと言へば或は出奔するか知れぬ。万一出奔されては困るから、拠ないことだ、仕方がないから諦めよう。俺も十年位若返つて働かう。大丈夫やれるだらうから、此家のことは心配せんでもよい。然し誠に時世は変化したものである」と終に許されました。そこで重ねて「では私を勘当して下さい」と申しますと「そんなことまでするには及ばぬ。お前が道理に逆はぬやうにすれば、如何に不合理な幕府でも家に難題はかけないであらう、それに此家はお前のものである、若し早く死ぬるやうなことになれば致方もないが、さうでない以上何処までも此家はお前のものだ、そんなことは出来ぬ」と言はれ、更に「私は今まで孝行は子がするものだと思つて居たが、今始めて孝行は親がさせるものであると云ふことが分つた。俺はお前に不孝をさせたくないから同意する、実際出奔して不孝の子とするより、広く考へてお前の能力を尽させ、孝行となるやうにさせるべきだと思うて許す訳だ」と云はれた。この一言は真に至言であると、今でも感じて居るのであります。晩香院は私の多少とも生意気な点があるのを懸念せられて居た処へ、晩香院とは相違した考へを有つて居ることが分り、変つた行動があるので一層御心配を掛けたやうでありました。斯く許しは得ましたが、同志の東寧の反対で暴挙は遂に中止しました。けれども此関係から家を出ることになり、京都へ行き種々の事情があつて一ツ橋の家来となり、次で慶喜公の将軍職を継がれたに就て幕臣となるやうなことになり、怏々として暮して居ると、公の親弟民部公子に従つて仏蘭西へ行くやうにとの命を受け、喜んで海外に旅行し、王政維新の後、公子に随つて帰朝しました。其間晩香院とは沁々対面の機会もなかつた
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が、明治元年、私が仏蘭西から帰朝した折に態々東京へ来られ、暫く振りで御会ひしました。晩香院は非常に喜ばれて種々話がありましたが、一通り話がすむと「御維新になつた以上、新政府に出仕して相当な地位に就くのであらう」と言はれるから「いや私としては新政府へは出仕はしない積りです。それより変つたことをして世に立つ考へであります。但し一身上の危険なことは致しません」とて、維新になつてから以前とは違つた観念を持つに及んだことや、仏蘭西の有様などを御話したが、実に諦めのよい方とて、別に意見を挟む風もなく聞いて居られました。それから慶喜公の謹慎して居られた静岡へ参り、合本組織の商法会所や常平倉を経営し、聊か所信を実施に行つて居た。然るに突然明治政府から出仕を命ぜられ、私は之を受ける意志がなかつたに拘らず、静岡藩の意嚮其他周囲の事情から已なく承諾し、明治二年十一月から大蔵省へ勤めるやうになつたのであります。
 晩香翁が発病せられたのは私が大蔵省の役人であつた頃で、明治四年十一月中旬であつた。十三日に東京の私の宅へ急使が来たと云ふことであつたが、私は当時大阪へ出張中であつたので、全然知らなかつた。十五日に帰京し、始めて此事を知つて驚きましたけれども、公用の為めすぐ郷里へ赴くことが出来ず、翌十六日の夜十一時を過ぎて家に帰り着きました。すると父上は、既に人事不省に陥つて居られたがいろいろ医薬に手を尽した処、十八日か十九日頃稍々好くなられて、私の帰省を非常に喜ばれたので、私は早速「少し落着かれたやうですから御相談しますが、私が帰つて相続することも出来ませぬから、妹に才三郎(後に市郎)を婿とし此家を相続せしめてはどうでせうか」と申しました。之れは母上が「此事を病人ではあるがお前から相談してくれ」と言はれて居たからであります。すると「よからうと思ふ、別に遺言せよと言ふのでもあるまい、お前が居るから安心して居る、その話はよいではないか」とて「天下のことを料理するお前であるから、此の家位のことは始末出来るだらう」と笑つて言はれ、私を信頼して家の始末を委せられ、程なく危篤に陥り、冒頭に記したやうに遂に其月の二十二日に六十三歳で逝去せられました。私は此の不幸に遭遇して、其の意志の強い、而も道理の判る、分を守る、百姓としては模範的の良民であり、家庭にあつては恩も威も備つた主人で、最も大切な人であつたのにと思つて、涙の下るのを止めることが出来ませんでした。
 父晩香院のお話をするに就て、系統立てて私が物心ついてから後の事柄を、幾つの時にはかくかく、何歳になつてはどう、と叱られたことや褒められたことなど一々細かく憶えては居ないから、先づ此位の程度にて止めることに致します。
 扨て私の境遇は斯様にいろいろに変化したのであつたが、父上が物事に理解があり、私を信頼して居て下さつたから、御懸念になることは或は少くなかつたやうであるけれども、家を出る時以外には特別に御心配をお掛けすることもなかつたのであります。ただ仏蘭西に居た時、幕府が倒れ、其の方面からの送金がなくなつた折に、出来るなら父上から送金してもらつて民部公子に予定の留学をおさせ申し、私も
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其間に相当な学問がしたいものと思ひ「五千両位の拝借が願へませうか」と云ふやうな意味の手紙を出したことがある。処が、其後直ぐに帰国したから、之れは必要のないことになつたのであるが、若し民部公子が長く在留せられたならば、少くとも五千両位は必要があつたのでした。さうして愈々帰朝した時、晩香院は右の手紙のことがあつたので心配せられたと見え、東京へ訪ねて来られたとき金を用意して来て下さつた。であるから私は、金の入用を予想した事情をお話し、且つ又「私としては民部公子から相当な御手当を受けて居りますから金は寧ろ貯蓄して余力を持つて居ります。今としては最早御厄介になる必要はありません」と申しましたので「中々思慮がある仕方だ」とて感心して下さいました。またさきに私が家を出て京都へ赴いた時、百両であつたか金子を旅費として戴いたので、それを返すと云つて出すのも失礼と思ひ「家内や娘がお世話になりましたから」と静岡へ行く前、郷里へ行つたときに百両の金を差出した。然るに晩香院は「よしよし確かに市郎落手した。しかしお前の家内や娘がいろいろと好く働いてくれたから、その手当に之れをやります」と言はれ、其の金の受授を気休めにしたことなどもあり、些細な金の事も斯くの如く笑ひ話にしても決りをつけるやうな人でありました。さう云ふ風であつたから、家政上些かの金をも粗末にはせられなかつたけれども、さあと云ふ場合には少しも惜まず、気に留めず支出せられました。別段沢山な書物を読んだ人と云ふのではないが、沈着で人に接するにも頗る要を得た方でありました。ただお母様に対しては、時に「だまれ」などと叱られることもありましたが、これは母上が多少愚痴を言ふ人であつたためで、私共もよくお母様を叱られることをお諫め申したことがあります。要するに父晩香院と云ふお方は、右述べた通り稀に見る人格の人であつたと、私は子でありながら感じ入るので、以上の如き有りのままの記憶をお話した次第であります。(五月十五日談話)