デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
昭和期 四五二 竜門雑誌 第五〇三号 昭和五年八月

■資料

四五二 竜門雑誌  第五〇三号 昭和五年八月  社会人として時勢を洞察せよ 【青淵先生】(DKB80078m)
別巻第8 p.206-209 ページ画像PDM 1.0 DEED

四五二 竜門雑誌  第五〇三号 昭和五年八月
    社会人として時勢を洞察せよ
                      青淵先生
 人は生きてゐる限り、其の社会に対しての責任がある。如何なる仕事に従事してゐようとも、其の仕事の貴賤などはかれこれ吟味するに及ばない。而してただ誰でも自分の仕事をやればそれで事足れりとする人があつたならば、それは間違つて居ると申さねばならぬのであつて、我々には自分の事ばかりでなく、人類として為さねばならぬ務めがある、換言すれば、社会人としての義務と云ふものは、己一個の事を為したからとて、それで務めは果されてはゐないのである。即ち此処に思を致す人が多ければ、其国家社会は間違ひも少く進歩も速いのである。今日英米両国が、自分の国は強い、自分の国は富んでゐると威張つてゐるけれども、要するに英米には以上の如く、国家社会を念頭に置いてゐる人が多いからである。それについて度々話したことであるが、私等が青年時代に暴挙を企てた事は、今から顧みると全く無謀であつたに違ひない。悪く云へば気狂ひじみて居つた。けれども当
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時、幕府のやり方が余りに自己本位で、国を愛すると云ふ意念などは更にない。それどころか国を思ふ事もしないやうに思はれた。そして遂には朝廷の命に叛いてまで、自己の主義を行ふと云ふ次第であつたのである。幕府の為政者がそんな考へで国を潰すやうな事をするならば、これを済ふのは我々の務めでなくてはならぬ。――勿論これは私が言ひ出した考へではなく、尾高藍香から教へられたのである――そして私は此時から国家と自己とは切つても切れぬ関係がある事を痛感するに及んだのである。それまでは私も別にそんな考へはなく、農民として父の稼業を助け、百姓仲間では多少とも人の世話でも出来る人間になりたい位の考へであつた。ところが私が十七歳の時、岡部の代官屋敷で大変罵倒された事がある。私は如何にも人を馬鹿にし切つた代官の罵詈が身に浸みて、くやしさの余り身体が震へた程であつた。こんな事があり、且つは藍香の教へに啓発されて熟々感じたのであるが「論語の謂ゆる孝悌忠信の道とは、必ずしも是非善悪の見境もなく御無理御尤と云ふ態度をとる事ではない。為政者が国を潰すやうなことをするなら、宜しくこれを打開しなければならぬ、力を以てしても時の弊政を打ち破らなければならぬ」と、かやうな考へが段々進んだ結果、暴挙を企てるやうになつたのである。然るに尾高東寧の反対によつて、遂にこれを中止して事を起さずに終つたのであるが、今から考へると、偶然と云はうか、真に東寧の反対に命を助けて貰つたやうな訳である。けれども其時は如何にも東寧が我々の企てを阻止するやうに思へてならず、私は東寧と大激論をしたのであつた。実際あの時は泣き且つ論ずると云つた有様で、全く心神を砕いて自ら涙の下るのさへ覚えなかつた。東寧が云ふには「去年(文久二年の正月)は君等が反対して、僕は安藤対馬守暗殺の陰謀から退いた。成程、あの時の陰謀は君等が言ふやうに目的が小さかつた。よし一安藤を斃したからとて大勢を動かすことは至難であつたらう。これは君等の意見によつてよく諒解が出来た。併乍ら一面から考へると、其目的が一安藤に在つたから、受ける処罰も徒党の一味に止まつた。けれども、君等の此の企てはさうではない。若しうまく行つたら一国の城主にでもならうと云ふ野望を抱く流賊の徒であると見られるにきまつてゐる。その結果はどうなるか、其禍は必ず君等一身には止まるまい。それもいい、天下国家のために身命を堵する気概があつたら、名はどうでもいい、敢て君等として悔を残す事はないだらう。併し遺憾乍ら時勢が既に変つて来た。君等は知るまいが、京都では公武合体が成立して、倒幕派は退けられ、攘夷倒幕説の有力な七卿は長州へ落ちたと云ふ有様である。倒幕論は地を払つてゐる。此際君等が攘夷倒幕の説を唱へて事を起すのは、寒中震へ乍ら氷を食ふのと選ぶところはない。それに君等は正に鬼神をも動かす積りで檄文を書いたりなどしてゐるが、それこそ蜻蛉も動きはしないだらう」と仲々強硬であつた。遂に私等は説得されて「それでは我々は筋書を変へよう」と言つて暴挙を中止したのである。愈々これを中止したとなると郷里に安閑としてゐることは危険である。一刻も早く身を転じて家を出ることにしなくてはならぬ。そこで伊勢参宮旁々京都見物と云ふことで、喜作と私の両人は故郷を
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後にして出掛けた。此時藍香も行を共にしたい考へはあつたけれども何分子供はあるし、妹や弟も沢山ゐる上に、家事上の都合でどうしても家を出ることが出来なかつた。藍香が言ふには「君方の説には私も同意する、けれども私はどうしても家を離れることが出来ない。此際家に残つては或ひは危険が身に及ぶかも知れない。併しこれも天命と諦めよう」との事であつたが、藍香と云ふ人は実によく出来た人で、私が今日あるのは藍香の御蔭である。第一藍香はよく本を読み、広い知識を持つて居つた。其頃既に貨幣の道理を究め其価値を論じたりして居たが、当時左様な点に考へを及ぼしてゐた人は頗る稀だつたらうと思ふ。それに宗教論も一通りやる、文学方面も解すると云つた具合である。それでゐてしつかりした道義の観念を持つて居つた。多く才子とか天才とか云つた人は、得て節操がなく、或ひは素行がをさまらない者が多いものであるが、藍香は決してそんな事はなかつた。それでは野暮かと云ふとさうでない、よく冗談を言つたりして快活な性質であつた。殊に藍香の親戚知己に対する情の濃やかな点は全く感心するの外なかつた。不如意勝ちの家政を処理しよく父母に事へ、総領として沢山の弟や妹の面倒を見る其態度が如何にも親切であり、其の心は更に家の外に対しても同様であつた。私が八歳の時論語を教へてもらつたのが藍香に親しく接した始めであるが、それからは絶えず種々身を以て指導され、暴挙計画の際などは殆ど一身同体となつて行動したのである。そして其の長年の間、私は未だ嘗て藍香から叱られたと云ふことを知らないのである。前にも申した通り、私等が暴挙を企てたについても藍香が其主唱者であつた。藍香は元明史略などの本を読んでは、諄々として国家興廃の次第を我々に示し「南宋は何故元のために亡ぼされたか」、「今日の幕政の有様は正に国策の大本を忘れて徒らに偸安を事としてゐる」などと、大いに私等の蒙を啓いて呉れた。若し其の時東寧の反対がなかつたならどんな事を仕出かしたか知れない。だから私は今も思ふのであるが、私等が暴挙を中止した所以は決して計画其事が悪かつたのではない、唯時機が悪かつたからである。若し私等の企てが悪かつたならば、薩長が主となつて仕遂げた明治御一新の偉業も悪いと言はなければならぬ。私が若し薩長に生れて居つたならば、矢張薩長の志士の如き行動をしたであらうと思ふ。時機を見ると云ふ事は、真に大切な事である。回天の偉業を為して殊勲者と仰がれるのも、或は又事に敗れて流賊の疑ひを千歳に残すのも、時機即ち時勢を見るの明があるなしと云ふに存する事が多いのである。此点から私は、徳川幕府三百年の間、天下の政治を行つた事が必ずしも悪いとは云はぬ。これも時勢の然らしむる処であつた。元来日本は天子御親政の国で、君民の間の名分が明かで、君はいつまでも君、臣はいつまでも臣として、其間君位の簒奪などは全くなかつたのである。が唯中途にして公家が勢力を得て政権を握り、それから武家が起り力を以て政治を行ふやうになつた。爾来七百年の長きを経て明治の御代となり、此処に漸く王政は復古したのである。勿論斯様な事は君国の政治上完全だとは申されぬ、けれども時の勢ひとして致方が無かつたらうと思ふ。だから私は倒幕論を主張したとは申せ、幕府そのものが
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悪いと云ふよりも、寧ろ当時の政治上に多くの弊害があつたから、それを除かうと云ふにあつた。即ち徳川の幕政三百年にして、万事が沈滞してしまつた。たまり水が腐るのと同然に、其の役に在る者は全く傀儡と選ぶ処はないやうな有様であつた。これではいけない、国家内外多端の秋、今の儘では日本は潰れるだらう。早くどうかしなくてはならぬと云ふのが、当時の私等の心情であつた。又、人は力量才覚によつて其地位を得なければならぬ、それには徒らに官尊民卑の弊風を墨守してゐてはいけない。此方面の途を開かなければならないと云ふのが私多年の宿望であり、現在も此考へは変りないのである。唯断つて置かなければならない一事は、徒らに事を好む者であつたと誤解されては大に困るのである。論語の学而篇にも「其ノ人ト為リヤ孝弟ニシテ、上ヲ犯スコトヲ好ム者ハ鮮シ。上ヲ犯スコトヲ好マズシテ、乱ヲ作スコトヲ好ム者ハ、未ダコレ有ラザルナリ。君子ハ本ヲ務ム。本立チテ道生ズ。孝弟ハソレ仁ノ本タルカ」とある。全くその通りである。人間としては孝弟でなければならぬ、孝弟とは一個人に就て言つた事であるが、これを社会的に言へば即ち忠恕である。だから孝弟と言ひ忠恕と言ふも、其根本に於ては同じである。然らば忠恕とはどう云ふ意味かと云へば、忠とは真直ぐな事である、邪な処がない事である。恕とは思ひやりの深い事である。これが、論語二十篇の基礎と云はうか中心と云はうか、処々にあらはれてゐるのである。こんな次第で、徒らに事を好むと云ふやうな事は大いに戒めねばならぬ。同時に又何事にも御無理御尤と盲従する事も宜しくない。而して唯事を行ふには時勢を洞察するの明がなくてはならぬと思ふのである。
                      (八月五日談話)