デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
昭和期 四五六 竜門雑誌 第五〇九号 昭和六年二月

■資料

四五六 竜門雑誌  第五〇九号 昭和六年二月  明治天皇とグラント将軍の御会見(DKB80082m)
別巻第8 p.217-221 ページ画像PDM 1.0 DEED

四五六 竜門雑誌  第五〇九号 昭和六年二月
    明治天皇とグラント将軍の御会見
      ――明治聖徳絵画館へ奉納の壁画成りしに就て――
  グラント将軍歓迎の追憶
                      青淵先生
 明治十二年の夏、グラント将軍が我が日本へ来訪せられたに就て、私共はその向々の意見を聞いたり助力を受けたりして、聊か歓迎のことを心配したのでありまして、取立てて申す程有効な働きをしたと云ふ訳ではありませんが、恰度大久保画伯の作品が出来たのを機として御話して見ませう。一般に古いことを話す時には、兎角事柄を誇大に言ふ傾がありますが、私は其弊に陥らぬよう、努めて有りの儘に話したいと思つて居ります。
 明治十二年の夏、グラント将軍は欧洲各国を巡遊の上、支那を経て日本へ立寄られたのであつて、米国への帰途であつたと思ひます。将軍の人と成りはよく知らぬが、何でもリンカーンが大統領の時の南北戦争にて功を立てた人で、平和克復の後大統領に選ばれ、二期も続けたと云ふことで、米国人中の第一人者であつたやうであります。私は日本とアメリカとの将来の関係、太平洋に於ける両国の接触、また特に支那に対してお互ひに力を入れて居るから、其間に行違ひの起らぬやうにしたいと予て思つて居たので、グラント将軍の如き米国の有名な人には、国民として親しくして置いた方が日本の将来のためにもよいと考へ、福地源一郎氏、益田孝氏等実業界の有力な人々に相談して大歓迎会の計画をしたのであります。そしてそれは恰度商法会議所の組織された時分で、福地、益田の両氏がその副会頭であり、私が会頭であつたからでありました。其処で斯様な歓迎会の中心となつた商法会議所の成り立ちに関して一応お話して置く必要があると思ひます。御承知の通り明治の初年、横浜は開港場となり外国人が沢山住居して居たから、それ等の人々によつて商業会議所様のものが組織されてありました。それを見て、好いことであると思つて居たが、まだ東京にそれを創設するまでの考へは持つて居なかつたのであります。すると政府では大蔵卿が大隈重信、工部卿が伊藤博文などと云ふ人々で、嘗
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て私が大蔵省に出仕して居た時分は勿論私の方が地位は低く、使はれる身分でありましたけれども、お互に懇意であり、大蔵省を辞めて銀行者になつてからも、平常から行き来をして居た人々であります。すると或る時大隈大蔵卿であつたと思ひますが「会ひたい」と言つて来たので早速行つて見ると、今の商業会議所の如きものの必要なことを懇切に説かれて「君の手で組織して欲しい」と希望せられました。大隈さんはさうとは言はなかつたが、聞く処に拠ると、英国の公使パークスと関税改正に就て引合つて居た時、大隈さんは物事を誇張して言ふ方の人ですから、先方の説を却ける積りで、自分の主張は単なる個人の考へでなく国民の意向であるとの意味で「日本の輿論が承知しない」と言つた処が、パークス氏は「輿論と云ふのは御出入の町人などの言ふことでありませうか、一体日本には輿論がありますか」と、程合は知らぬが、さう云ふ意味の反問をしたさうであります。何分パークス氏は旧幕時代から日本駐在の英国公使として永く居た人であるから、右のやうに言はれると流石の大隈さんもその返答に困り、何か輿論を造る機関を拵へねばならぬやうになつたのださうで、私に対する希望が出た訳であります。そこで私は「外国には商法会議所と云ふものがあり、多数の人を寄せてそれ等の意見を纏めて居りますが、之がよからうと思ひますから、銀行者ばかりでなく、他の商工業者をも加へて、商法会議所と云ふものを組織することに努力して見ませう」と答へると「それは結構なことである、政府も折角助成するから、大にやつて貰ひたい」と云ふことになり、益田孝、福地源一郎両氏と共に廿五人ばかりの人を集め、商法会議所なるものを作り、まだ法律などは全くなかつたので、東京府の許可を受けて成立たせたのでありました。従つてそのため私は福地、益田氏等と打寄つて、いろいろのことを相談する関係になりまして、グラント将軍を歓迎するに就ても、此等の人々と協議して之を実行することになつたのであります。で、歓迎会を開催すれば金が必要である処から、寄附金を三万何千円か集め特にこれと云ふ計画も立たなかつたが、明治天皇の御臨幸を仰ぎ併せて将軍を歓迎する大規模の会を東京府民が主催して上野で開き、日本の古武術を御覧に入れることにしました。またそれだけでは満足でないからと云ふので、工部大学で夜会を催し、更に福地氏の発意であつたと思ふが「芝居を御覧に入れよう、それには新らしく建築した新富座で、脚本をグラント将軍に因んで新らしく書下して演ずるのがよいであらう」と云ふので、専ら福地氏がその方の心配をしました。又私が曾て徳川民部公子に随つて仏国へ赴き且つ西洋の各地を訪問した時、特に記憶に残つて居るのは、ドヴァ海峡を渡つたとき、ドヴァの市民の総代が日本の貴人を迎へると云ふので逸早く町の入口で歓迎文を読んだことであります。何んでも西洋の此の風習は、町の入口でそのは入つて来る人に敬意を表し、町を自由に視察するための鍵を与へると云ふやうな意味で尊い人に礼儀を尽すものださうでありますが、地方団体として有名な人を接待するのによい仕方である結構な風習であると感じて居ましたから、当時グラント将軍を歓迎するに就て之を行ひたいと云ふので、益田、福地等の人々に諮つたところ同意を得ま
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したので、先づ新橋駅へ着いた時、此の方法を採つて歓迎文を読んだのであります。
 斯くの如くして大歓迎の意志を表したのでありましたが、八月廿五日、上野での国民大歓迎会では陛下の御臨幸もあり、将軍も頗る満足せられたらしく、各種の催物を終りまで見物されました。此時日本の古武術として催したのは、撃剣、槍術、流鏑馬、犬追物、母衣引などで、その道の人々が奮て出たのであります。右のやうな事情で形式は整つて居ないが、東京府民の大歓迎会と云ふので一般の人気も引立ちました。併し私達が東京府民の代表であると言つたに就て、報知新聞関係の人々から福地氏が東京日日を経営して居つたためか「渋沢、福地等は府民の代表と称するのは怪しからぬ」などと論じて問題となりました。又一方歓迎の方法も慣れない人達のみであつたから、不行届の事も沢山ありましたが、大体に於て都合よく運び、グラント将軍は日本国民の誠意のある所を汲取つて呉れた様子でありました。尚ほ西洋では家庭へも招待するものだと云ふので、私が主として心配した関係から、当時碌に庭も出来て居ない有様であつたが、飛鳥山の家へ御案内したのを憶えて居ります。
 私等の歓迎した場合にはグラント将軍は政治上の意見や外交上の思入等に関する事柄はあまり話さず、ただ我々の歓迎を快く受けられたのであつたが、明治天皇陛下に拝謁の折にはいろいろのことを申上げられたと、もれ承つて居ります。私は銀行者であつたから 明治天皇陛下との御会見のことは直接は知らないのでありますが、仄聞しました処によれば「国家の発展を急ぐ時にはどうしても外国から公債を募らうとするものであるが、徒らに巨額の外債を募集することは国家として採るべき方法でないから、日本でもその点は十分考慮されたがよいでせう」といふ意味のことを申上げたさうでありまして、陛下もその忠言を御嘉納になつたと申すことであります。グラント将軍の此の言は実際苦労した人の言葉として価値があるものと思ひました。
 処で此の時上野へ 陛下御臨幸のことが定つて居たのに、折悪くコレラが流行しましたので反対する人があり、その日が近づいてから中止になりかけたことがありました。それは主催者たる私達の面目が潰れるばかりでなく、朝廷と国民との間に距りがあると、外国の人々に思はせるのは頗る遺憾であるとして、その残念である旨を協議会の折私が強く主張した処、当時の東京府知事であつた楠本正隆氏は、之れを聞いて大いに同感しました。即ち楠本氏は予て私と懇意な間柄でありましたから、百事相談して居りましたが、私が「陛下の御臨幸が御沙汰止みになることは実に遺憾である。聞けば岩倉さんが流行病などがあるのを御懸念になると云ふが、それは尤ものことである、とは云へ昔流の考へから此事が実行せられぬやうになるとは情けない。私達は国を思ふから、国民として米国との親善に尽したいと期し、斯うしたことに身命を惜まず、かうしてやつて居る。それを徒らに旧習に囚はれ反対されるとは残念至極である」と云ふ意味を声涙共に下る有様で演説をしたのに楠本氏が感動して「実に東京府民が斯くまで心配して居るのに知事として努力せずには居られぬ。渋沢君の心事には同情
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に堪へぬから、自分が一身に引受けて成功するに努力しよう」と断言してくれました。その尽力によつて、事なく此の企ては実行されたこと前申述べた通りであります。此時の事情を後で聞くと、楠本氏は、伊藤、井上等の人々へ喧しく云つて、岩倉さんの方の説得を引受けしめたとのことでありましたが、兎に角日本人がグラント将軍を迎へるに就て大そう力を入れたと云ふことは、米国に好感を与へ、日米両国の国交に相当よい結果を与へたと思ひます。また日米両国の国民的外交の端緒となつたとさへ思ふ位であります。
 私が特にグラント将軍来訪の折明治天皇陛下に拝謁した処の絵画を明治天皇陛下の御盛徳を後世に遺さうとする絵画館へ奉納した縁故は、東京府民を代表して同将軍を歓迎したことがあるからでありますが、更に日本の地位を安固ならしめ、世界の平和を図るためには、問題の起り易い太平洋に眼を注がねばならぬ。そして米国とは支那の関係もあることとて、殊の外親しくして置かねばならぬ、と云ふ根本的の考慮も含んで居るのであります。一体米国人に限らず外国人には相当の礼儀を以て親しむのが、国民の努めであると思つて居ります。思ひ返しますと、嘉永年間ペリーが我国に初めて来つた当時、私は年少であつたが、国の内外に喧しい「外夷打つべし」と云ふ強硬論に依つて、西洋人は悉く我に仇を為すものであると思つて居りました。彼の英国と支那との間に起つた阿片戦争の有様を「清英近世談」と云ふ書物などで見て「成る程西洋人は無茶なものだ、乱暴なものだ、それを敵とするに善し悪しを考へる余地などはない」とさへ思つて居たので、米国も亦外国の一つとして同様に考へて居りました。併し其後海外へ赴くことになり、慶応三年正月、民部公子に従つて横浜を出帆したのであるが、その時には余程外国の事情も判り、新らしい科学は西洋に学ばねばならぬと考へて居ました。而も船中で田辺太一とか、杉浦愛蔵とか云ふやうな人達から、西洋人を殊更に敵視すべきでないことを聞かされ、中にもハリスの公平な行動を知つて、仁義道徳が西洋人にないと信じて居たのは過りであつた、見聞が狭かつたからであると覚つたのであります。実際ハリスがその秘書官ヒュースケンが殺された時に、英仏の公使の強硬な言を却け、公使館であつた善福寺から一歩も去らず、日本の為めに死を賭して図つてくれたことを知つて真に敬服した次第で、その人に就てその国を思ふ、と云ふ言葉の通り、西洋人が夷狄である野蛮であるとして居たのは間違ひであつたとの悟りが開けた訳でありまして、その観念からグラント将軍歓迎のことにも、特に一層の力を入れたのであります。
 其後日米の関係は円満に進んで居たが、彼の移民問題では面白からぬ感情を生じました。多くの識者はさうではなかつたけれども、日本の移民を嫌ふ向では大変日本人の排斥に力を注いだから、此方でも好い感じを持たなかつたので、私もそれにはかなり心配して、道理正しく相互に譲り合つて行かねばならぬと考へ色々尽力したのでありました。そしてただ政治上の親善のみでなく、民間同志の接触が必要であるとして、自ら大いに努力して居ります。斯く申すと我が効能を喋々しく述べるやうであるが、実に米国は日本にとつて大切な国であり、
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且つ先進国として見倣はなければならぬ点も沢山あるのであります。左様にして自然と両国の感情を柔かに進めるべく、私も幾度か渡米しその大統領であるルーズヴェルト氏、タフト氏、ウヰルソン氏、ハーヂング氏等にも親しく面接し又日本を訪ねる有名な人達をも歓迎して親しく意見の交換を行ひ、国交に疎隔のないやうにして居ります。或は斯く云ふことは我田へ水を引くやうであるが、私は常にさうした観念で居るのであります。従つて米国には知人が沢山ありますが、何分何れも老境の人々とて順次逝去して行くので、若い米国人にそのことを話して、斯く友人が亡くなるのは遺憾である旨を申しますと、「では若い我々を友人にして下さつたらよいではないか」と答へますが、私本人が若くなれない以上、これも致し方のないことでありませう。
 余談が長かつたやうでありますが、グラント将軍は元来余り感情を表面に現はさぬ方の人で、此の大歓迎にも特別に喜悦に堪へぬと云ふやうな態度はせられませんでした。寧ろ夫人の方が如何にも喜ばしさうに、いろいろ感謝して居られたのを記憶して居ります。
                      (二月六日談話)