公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四五七 竜門雑誌 第五〇九号 昭和六年二月 青年の行くべき途 【青淵先生】(DKB80083m)
別巻第8 p.221-225 ページ画像PDM 1.0 DEED
四五七 竜門雑誌 第五〇九号 昭和六年二月
青年の行くべき途
青淵先生
この頃学生が学校に対し、いろいろの要求をして騒ぐことが多くなつたやうであり、又高等の学校を卒業した人の就職難が実に甚だしいので、学校教育そのものに対する疑問が起り、問題となつて居るやうであり、また青年としても斯くてはその行途に迷ひ、処世の方法をどうすればよいのか判断がつかぬこともある様子である。私としては、年はとつたが、如何にすればよいかと云ふことを常に憂慮しては居るけれども、具体的な指導方策を只今述べることが出来ないのを遺憾とする。そして学校騒動が屡々起るからとて、学校教育は無駄であるとは一概に申せない。また昔の教育は主として家庭で行つて居たが、それも亦勿論完全でないのであつて、要は学校と家庭との両方面相俟つて目的を達せしめなければならぬであらう。
一昨年であつたと思ふが、時の文部大臣から、教化資料パンフレットに用ひるからとて、教育に関する感想を求められたことがある。私はその時「人は先づ義務を尽すべきであつて、権利の主張は其後に為すべきである。権利と義務とは綯へる縄の如きもので、権利の後に義務を生じ、義務を尽せば自から権利が来るのである。徒らに権利を主張することは争ひの原因となるを以て、先づ義務を尽して置いて後に生じた権利を獲るやうにすれば少しも争はなくてすむのである。故に教化の本義として私は義務の遂行を高唱するのである」と云ふ意味を述べたのであつたが、実際今日の物議の真因を見ると何れも此の義務を忘れて権利のみを主張する処に根ざして居ることを知るのである。
近時の教育は徳を養ふと云ふよりも、知らぬことを知らせると云ふ智識を拡める方が多い。人は智識が進んで来るに従つて、知らなかつたことを知るだけ権利を主張するやうになる。但しそれを道理正しく
- 別巻第8 p.222 -ページ画像
義務に伴ふものを主張するならば、受ける方でも喜んで義務を尽すことになるのであるが、道理のない、云はば義務を忘れてただ権利のみを主張すれば、不快の念を起して、義務を遂行しようとする前に受けた方からも権利を主張して、お互に権利で以て相争ふやうな結果になる。今日の社会の実情は、恰度此の権利主張者のみ多いがために、各方面に面白くない争ひを生じて居る。故に私は何処までも、人は義務を尽して後に権利を求めよ、と云ふのである。
青年として現在の様な社会に処するには、田舎から都会へ出て学校教育を受け、学問のある人となるべきか、又は農村に在つて一郷一村のために尽すべきであるか、何れを選ぶのがよいかと聞かれても、一口に答へることは出来ない。或る場合には社会的に考へねばならず、また或は政治上などから国家の将来はどうなるか、どうあらしめるべきかを考へ、少し立入つて申さねばならぬので、私としては今直ちにその意見を述べるに苦しむのである。併し極く常識的に、能ある人は都会に出るもよからう、また地方にあつて地方のために働くのも結構であると言ひたい。故に斯様な事柄は、善いとも云へるし悪いとも申せるので、時勢と周囲の事情によつて自から個人的に異るのである。
私自身は故郷を出た身柄であるが、青年時代の生活の概略を言うて見ると、先づ私の父渋沢市郎右衛門は、家業に丹精して相当資産も出来、村でも中以上の生活をするやうになり、五倫五常を重んじて、非難のない生活をして居た。そして国民としての務めをするには学問が多少とも必要であるとして、自ら私を教育された。勿論一村一郷に役に立つ者にしようとされたのであるが、さらばと云つて江戸などへ出して学問をさせると、家のことを忘れるやうになるであらうと云ふ配慮から、初めは自分で「小学」から教へられたが、それには日常生活のこと、父母、長上、友人などに接することなどが書かれてあり、次で「論語」の素読も教へられたけれども、其後或る機会に親戚に当る尾高藍香先生が非凡の文学的才能がある処から、自身が教へることを止め、私の教育を藍香先生に頼まれたから、私は渋沢喜作と共に藍香先生に就て学んだのである。そして単に文字を読むことばかりでなく大いに精神的の教育を受けた。
嘉永六年米国のペリーが浦賀へ来航したのに関連して、世論は幕府の外交の軟弱を攻めたが、藍香先生も此の外交問題を憂慮して常に議論して居たのである。先生は予て水戸説に共鳴し、驕に長ずるは間違つて居るとて、烈公が自ら身を以て尚武の気風を養ひ、国体を重んじ尊王を唱道し、攘夷の実行を主張した事に、悪く云へば殆んど心酔してしまつて居たから、西洋は徒らに智恵と損得で動くので、少しも仁義道徳がないと称し、「夷狄は之れをうつ」と云ふ気持であつた。当時の学者と云へば皆漢学者で、支那の学問をして居たから殊の外さうした思想が強かつたのであるが、多く、藍香先生を訪ねて来る人達も同説であつた。私達は尚ほ十五六歳の少年に過ぎなかつたが、さうした説に同感し、自然、幕府は意気地がない、然るに幕府が政権を握つて居るのは誤りである。斯様な幕府は仆してしまつて、王政にすべきであると云ふまでに行走つたのである。境遇が精神に及ぼす影響は大
- 別巻第8 p.223 -ページ画像
きい。私は尾高先生に就て学ぶうちに知らず知らず先生の説に傾倒して居た。しかし次第に年を経て来ると、私もただ藍香先生の蔭にばかり居らず、血洗島では「渋沢」と若い人達の間に云はれるやうになつた。その内にも幕府の有様が甚だしく尊王攘夷論者の意に反するので藍香を中心とした我々の仲間で倒幕の挙に出でよう、それが手初めに高崎城を乗つ取らうと、所謂暴挙を目論んだ。当時藍香の弟東寧は留守であつたから、此の計画を進めたのは、藍香、喜作、私などが中心となつて居たのである。勿論その立案者は藍香先生であつた。或は斯様な挙を起せば、下手をすると刑に触れるであらうが、一生を百姓で終るよりは、尊王攘夷を実行して現在の弊政を改変させることが出来れば本望であると決心した。何分漢学万能の時代のこととて、宋朝あたりの説を学んだ青年は、支那の歴史に鑑み、将軍政治を廃し、再び王朝に復するのが当然であると考へた。実際支那では宋の時代までは所謂中国の民であつたが、元になるとそれは夷であつたから、明の太祖が革命を起した。しかし其後の清朝はまた満洲から出て、支那一国を統一して居たのである。そしてまた当代は国民の自治に依る国柄となつた。兎に角支那の歴史に基いて藍香先生は王政の正しさを説いたので、それは他からの受売ではなかつたやうである。我等は先生の此の説に服し、その命に従ふことにして、前述べたやうな挙兵の決心をしたのである。斯様な挙を目論む人は、概して剛直我慢尊大であつてさうでなくとも己ればかりが偉いと云ふ風な者であつたに拘らず、藍香先生のみは少しも左様な自惚れなどはなく、何処までも孝弟忠信で他人の説にもよく耳を傾け、徒らに屈服せず、反対説には諄々と論駁を進めて行くと云ふ人であつた。
従つて私達は、故郷の青年の日常生活とは幾分相異した生活をして居たから、余り土地の青年と親しく交ることはなかつた。勢ひ彼等の方でも、私達の考へは高いと思つて居たやうである。既に私達としても地方で名を為すのみでは満足でないと思つて居たので、地方の青年とは自ら志に差があつたとでも申すべきであらう。しかし廿歳頃から事があれば指図がましく村の青年に接した。また彼等も幾らか敬意を有つて呉れて居たので、すはと云ふ時極親しい者をかり集めることが出来る程であつた。彼の高崎城乗つ取り計画の際には、六、七十人の青年が旗下に走せ集る筈であつた。一般に村の青年は尊王攘夷などは口にしない、ただ外交の軟弱さは云つて居つたやうである。さうした環境の内にあつて、私達は表面此等の青年と同じ良民であるが、その意気は頗る盛んで、頻りに主義のない幕府の外交を難じ、苟も一国の君主が外夷を打ち払へと命ぜられるのに、それに反した行動をとつたり、開くなと云はるる港を開いたり、そのくせ自ら実力がないのに拘らず一日の安をぬすむと云ふ政治は須く之を仆し、速かに政権を天皇に帰し奉らねばならぬとした。
扨て中心の藍香先生は誠に物優しいが意志の強い人で、かねて義烈奉公を主張し、人としては斯くあるべきであると教へて居た。其結果とも見られるが、藍香先生の弟の長七郎、号を東寧と云うた私の仲間の一人にこんなことがあつた。安政五、六年の頃、当時幕府の老中安
- 別巻第8 p.224 -ページ画像
藤対馬守が外交のことに当り頗る軟弱であつたから、大橋訥庵等が之を斬る計画をして居た。大橋は宇都宮の佐野屋と云ふ呉服屋から財力の助けを受けて居たらしく、宇都宮の人で河野顕三と云ふ人が、三島三郎と称してその仲間に居たりした。尾高長七郎は撃剣が強かつたので其の関係から河野と知り合ひ、共に安藤を斬る相談に与つて居た。そして愈々それが決定すると、長七郎は私達の仲間の了解を得る為め田舎へ帰つて来た。私達は東寧を徒らに死なしたくなかつたのと、安藤一人を斬つても第二、第三の安藤が出て来るであらうし、従て幕府の対外方針は変りはしない、その例は井伊掃部頭の場合でも判るのである。故に安藤を斬つたために東寧の命を縮めるのでは差引損であるとして、その仲間の計画に反対した。但し安藤のアメリカに対するさまは噂に聞いて慨然たらずには居られない、其相手はハリスであつてそれに女を世話したと悪声のみ高かつた時であるから、そんな者は斬つたがよいとも思つたが、それがため大切な同志を失ふことには賛成し兼ねたのである。然しあとで考へると、事実に於てハリスの日本に対する態度は、他の外国人などに比較しては実に立派なものであつたのであるが、その当時にはそれが理解される筈もなかつた。
大橋訥庵は順蔵と云ひ、勤王家で学者であつたが、排外思想の強い人で「闢邪小言」と云ふ書物など著して西洋の利に敏い邪悪を論じて居た。結局藍香初め私達は、東寧の安藤襲撃に反対し、一安藤を斬つても幕府は仆れないから、それよりも一層きはだつたことをやらうとした。併し東寧としては卑怯のため中止したと云ふのでは具合が悪いからと云ふので、藍香が自ら訥庵と会見して、我々団体の意見として「一安藤を斬るのは幕府を仆すことにならぬから御再考になつてはどうか」と反対説を述べ、「従て東寧の参加には我々として不同意である」旨を懇談して、遂にその仲間には入らなかつた。そして暫らく東寧も田舎に居たけれど、阪下門で大橋等の計画が失敗して、その騒ぎの後であるから、嫌疑を受けてはならぬ、何処か遠方へ行つたがよいと考へて居た時、手計の尾高の家へ隠密が来る気配があり、私の処へもそれらしい者が来たりした。其処で或る日、東寧が国領の福田へ撃剣を教へに行つて居て、其処から江戸へ出るのを送つて行つた治助と云ふ者が、私の処へ来て「長七郎さんは江戸へ出られたが、今晩は熊谷泊りでせう」と云つた。偶然のことであるが、私は東寧が江戸へ出ることを憂慮し、家へは内密でその後を追ひ、夜を徹して熊谷の小松屋へ赴き、早立ちをしようとして居る東寧に会ひ、隠密のこと、世間の噂のことなどを語り、捕縛されてはならぬから、一時信州の木内芳軒と云ふ詩をよくする人の処へ行き、それから京都へ赴いたらよからう、と云つて江戸へ出ることを止めたこともあつた。
それから後、東寧が京都へ行つて居る留守中に、私達の倒幕計画はずんずん進んで、文久三年冬至の日を期して高崎城を攻め之を陥れそれから横浜へ打つて出て西洋人を追ひ払ふ、と云ふことにした。従つて東寧に帰国を促し、万事手筈をして居た処が、京都から帰つた東寧が、極力その無謀である旨を説き、死を以て反対した。私はまた東寧に反対して是非高崎城の襲撃を決行しようと云ふ、大激論をしたが、
- 別巻第8 p.225 -ページ画像
結局藍香が東寧の説く処を尤もとして中止説を称へ、私と喜作は本意ならずも、之に従つたのである。此の間の事柄は詳しく述べたことが屡々あるから、此処には詳細は説かないが、斯くしてさきに東寧が安藤を斬らうとしたのを止めた私達が、暴挙では東寧に止められた。人の運命と云ふものは図り知ることが出来ないものである。扨て暴挙を中止したとすれば、下手をして捕縛されてはならぬので、家を出た方がよいと藍香からも言はれ、私もさう決心した。但し藍香は家庭の都合上故郷を離れず、私と喜作とのみ、伊勢参宮を名として廿四歳の時京都へ出たのであつた。当今の青年で都会へ出る者は何れも出世しようとしてであるが、私の故郷を出たのは、或る意味からは已むを得なかつたのである。そしてその時分の私の観念も云はば時勢が然らしめたのであるから、一概に善し悪しを断言することは出来ない。藍香先生の如きは、その後田舎に在つたが、実に模範的な賞讃すべき人であつたのである。
世の移り変りや、社会の状態や、政治の善悪を知れば、そのよくない方面を憤慨するのは人情で、過激な考への起る傾向もある。今日の場合どう云ふ風に若い人々に説いてよいか、私が故郷の家に育てられた時代と同じやうに考へてよいかどうか、また東京の青年と地方の青年との差別もあらう。故に如何にすべきかを一言にして尽すことは出来ない。それぞれの境遇や人と成りによつて、個々の場合を考へねば何とも言ひ難いのである。要は国民の中でも、その原動力となる青年が元気で、気概に富んで居る事は結構であるが、権利のみを主張せずよく義務を尽すよう、親子、近隣、一郷、一村、否世界一団となつて相和することを心掛くべきであつて、また若しその反対に権利を主張して已まないならば、相互に争乱は絶えないであらう。即ち何れの方面と云はず、忠信孝弟を重んじ、義務を尽すことに心掛くべきであつて、青年の行くべき道は、たとへ個々各異るとは云へ、此の大本は何人にも異るところはないのである。(二月十三日談話)