デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
昭和期 四五八 竜門雑誌 第五一〇号 昭和六年三月

■資料

四五八 竜門雑誌  第五一〇号 昭和六年三月  偶然の転換と目的の達成 【青淵先生】(DKB80084m)
別巻第8 p.225-229 ページ画像PDM 1.0 DEED

四五八 竜門雑誌  第五一〇号 昭和六年三月
    偶然の転換と目的の達成
                      青淵先生
 私が徳川民部公子の御伴をして仏蘭西に赴いたのは慶応三年のことであるから、その地の有様は見るもの聞くもの皆珍らしかつた。その中にも、別して強い感触を持つたのは、西洋では官民の差別がなく、商工業者も役人も平等であることと、事業を起すのに合本組織によつて居ることであつた。従つて私は、仏蘭西から帰国すると同時に聊かでも斯様に日本の状態を改変せしめたいものである、又さうすることは日本をして発展せしめる基礎であるとも考へたのである。勿論私には此の方面の智識や学問はなかつたけれども、偶然それに努力するやうになつたのでなく自分として之を目的として腰を落ちつけてかかつた訳である。斯く申すと前途のない老人が殊更誇張して云ふと思はれるかも知れないが、私はただ有るがままのお話をするに外ならぬ。
 処が仏蘭西へ赴く前の私の身柄は従来度々話したやうに種々に変化
 - 別巻第8 p.226 -ページ画像 
したが、それは何れも偶然に地位が転換したのであつて、自分でどうしようと目的を定め、それを遂行し得たことはなかつた。御承知の通り、私は少年時代から尊王攘夷の思想を持ち、徳川幕府の政治のやり方は間違つてゐる、その外交は軟弱そのもので、下手をすると日本の国を滅亡せしめるやうなことにならぬとも限らぬから、此様な政府は仆して速かに王政復古を計るべきであるとした。と云ふのも私の漢学の師匠たる尾高藍香先生が、片田舎に居りながら孔孟の教へを説き、人の本分、道の本源を論ずると同時に、時事を強く議論し、尊王攘夷を主張したから、勢ひそれに感化されたのであつた。そして藍香先生はその生地手計に一つの講堂でも建てたい希望を持つて居られた様子であるが、それは田舎の百姓には出来兼ねることであつた。
 扨て当時はおしなべて日本の各地に尊王攘夷の議論が旺んで、さう云ふ志士が少数でなかつたのは歴史上にも詳かである。そして天下の志士として立つ以上は、自然気性も磊落となり、中には親を親とも思はず、兄弟とも別種の人のやうになる者もあり、所謂志士としての友人と胸襟を開いて酒を酌んで論談する、処が酒を飲んで開いた胸襟もいざと云ふ場合になると、相反目すると云ふが如き人達が多かつたのである。然し藍香先生はそれ等の人々とは全然類を異にして、身を持するに謹厳、決して卑しい行為をしない、それで居て人情を解すると云ふ人であつた。斯くて前号でも述べたやうに、藍香先生を中心として私達の仲間で討幕の暴挙を決行する相談が出来たのである。それより先倒幕の義兵を挙げようとする計画は各所で行はれたが、現第一銀行頭取石井健吾氏の祖父に当る桃井可堂といふ人も、その中の一人であつた。可堂先生は私の郷里血洗島の近くで、今は同じ八基村となつて居る阿賀野の儒者で、同様尊王攘夷論者として討幕の旗を挙げようとし、その手初めに沼田城を陥れる計を樹てて居た。そして新田氏の或る一人を盟主として之を決行すると云ふので、藍香先生の処へたしか可堂先生の子の宜三といふ人であつたと思ふ「挙兵を共同して実行しようではないか」と相談を持ちかけられたことがある。然し此様な大事を、芝居をする位に考へて相談に来るやうでは危険であるからとして、程よく返事をして断つたこともあるが、可堂先生等の企ては間もなく露見したので、先生一人が罪を負ひ、牢には入つて餓死されたといふことを聞いた。
 併しながら私達の暴挙計画も、尾高東寧の反対で中止することになつたのであるから、今から思へば偶然に命が助かつたと申すべきで、若し此時東寧が賛成したならば、幕軍と戦つて死んでしまつて居たかも知れない。
 それから愈々暴挙を中止して京都へ出た。此の時には同姓喜作と一緒であつたが、江戸に居た時から目をかけられた一ツ橋の平岡円四郎と云ふ人の家来と云ふ先触で東海道を上り、京都へ着いてからも時々此の平岡氏の処へは出入りをして居たのである。すると或る日「特に話たいことがある故、来て欲しい」と平岡氏から使が来たから、早速行つて見ると云ふと「今日は少し立入つたことが尋ねたいから真情を偽らず語つて欲しい」と、ひどく改つて断り「これまでに人を殺した
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ことはないか、或は人の物を盗つたことはないか、それが何も自分のためと云ふのでなくとも……」との尋ねであつたから、私は、如何にも失敬な聞き方であると思ひ「貴方は私共を多少とも目をかけて近づけて下さるのであらうが、物取りとか人殺しの御疑惑があるのならばお近づけ下さらぬがよい、御疑ひを受けると思へばお答へする言葉がありません」と申すと「いやその立腹は尤も千万であるが、それがため前以て立入つて聞くと断つて置いたのである……」と前提して、渋沢栄二郎と喜作との両人は関八州取締から嫌疑を受けて居ること、そのため一ツ橋平岡の家来と言つて京へ上つた関係から、二人の身許に対し、果して平岡の家来か如何かに付て照会が来て居ることを語り、何か良くないことをやつたのではないかと聞かれたのである。然し私共にはそのやうなことは些少もないので「神明に誓つて、人殺し、物取をしたことはありません」と答へた。すると「では斯ることを思つたことはあるか、又そんな様なことを文書に認めたことがありはせぬか」との尋ねであるから「思つたことは沢山あります。また手紙などに幕府を悪しざまに書いたことも少くありません」と申すと「それで判つた。君等の親友で最近縛についた者が居るであらう」と云ふ。恰度その時尾高東寧が飛んだ間違から人を斬つたため捕縛されたと云ふ知らせを受けて居たので、私共も、東寧が幕府の政治を攻撃して書いた私等の手紙を持つて居たための嫌疑であると知つたやうな訳であつたが、平岡氏は尚も「両人は志ある者で前途為すある者であると思ふが、このままで居れば捕はれて揚屋入りとなり、つまらなく身を亡ぼすことになるかも判らぬ。そこで身分は低くとも一ツ橋へ仕へて身を全うし、その上で国のために働いたらよくはないか」と頻りにすすめるので、遂に意を決して一ツ橋慶喜公に最初はお目見得以下の軽輩で仕へることになつた。仕官するに就てはいろいろ面白い話もあるが、それは省いて、兎に角一ツ橋へ偶然仕官することになつたため、第二の危機も免れて命を全うしたのである。
 斯くして軽輩であつたが一ツ橋藩に仕へ、後には相当に認められ、軍事の組立や財政の改革などをした。然し慶喜公が将軍職を継がれるに就ては、それの評議に与る程の重臣でなかつたから、公はその時どう云ふ御考へであつたか知るに由ない有様であつた。そして自然の成行から、幕臣となつたのであつて、当時は陸軍奉行溝口伊勢守の支配下で、陸軍奉行支配調役と云ふ役であつたが、心中頗る面白くない日を過して居た。すると慶応二年の冬、原市之進と云ふ人から「相談したいことがあるから来てくれ」とのことで行つて見ると「実は慶喜公の御親弟民部公子が仏国の万国博覧会へ使節としてお出かけになるに就て、幕府の方と水戸の方とのお伴の人々も定まつたが、俗事会計の担当者として渋沢にも随員として行つて欲しいと云ふことになつたがどうであらう」とのこと故「喜んで参ります」と、待つて居ましたと言はぬばかりに引受けたので「本当か、戯談だなどと後で云はれては困る。君は攘夷論者であるから果して引受けるかどうかと、公も御心配になつて居られるが」と言ふので「言はれる通り攘夷論者では御座いますが、何でもかでも西洋のものは排斥すると云ふのではありませ
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ん。医術とか軍事とかは西洋に学ばねばならぬと考へて居ります。こんな訳で御座いますから、彼地へ参つて実地に見ることが出来るのは有りがたいと考へますので、喜んで御引受け致します」と云ふ意味を答へた。尚、原氏は「実は博覧会の方は八月には終るが、その後三年とか五年とか、民部公子が仏蘭西で御留学になる筈であるが、他の随従の人々は長くは居られぬから、学問する積りで公子に御附して残つてもらいたいのだ、それでもよいか」と云ふ。「それは一層結構なことで私としても願ふ処です」と云ふことになり、いよいよ翌慶応三年春仏蘭西へ赴いたのであるが、その仏蘭西滞在中に、日本では慶喜公の政権返上となり、維新の大変革があつた。そして程なくその為めと民部公子が水戸御相続のため已むなく明治元年十一月帰国され、私もお伴をして帰つたのであるが、若し私が偶然の機会から仏蘭西へ行かず、日本に留つて居たならば、役目は如何でも幕臣の一人であるから或はその時命を失つて居たかも知れぬ。喜作は彰義隊を組織したり、振武軍を起したりした程で、又藍香先生も戦乱渦中に入つたと云ふ有様であつたから、私が日本に居れば必ずその仲間になり、恐らく今のやうに生き永らへられはしなかつたであらうと思ふ。
 以上の如く私は偶然のことから、明治になるまで三度も身柄を転換するやうな運命に置かれたが、幸にも、或は不幸と申すべきか、今まで生命を完うすることが出来たのである。蓋し幸と云つた方が妥当であらう。
 仏蘭西での留学は、遺憾ながら水泡となつて帰朝したが、約二ケ年仏蘭西に滞在した間、またその間英吉利、伊太利、白耳義、和蘭、瑞西等を巡遊した時に最も感じたのは、事業が合本組織で非常に発展して居ることと、官民の接触する有様が頗る親密であることとであつて一面からは合本組織で商工業が発達すれば、自然商工業者の地位が上つて官民の間が接近して来るであらうと思つた。特に、民部公子のお側に居て事務上の世話をするためナポレオン三世から附けられたコロネル・ヴィレットと云ふ人と、幕府から頼んだ総領事のフロリヘラルドと云ふ人との接触のさまなどを見ると、全く役人と民間の人と云ふ相異は少しもなく、何等の懸隔がなく全然対等で、日本の有様とは雲泥の相異であつた。私はかねて日本の官尊民卑の弊を甚だしく慨嘆して居たから「斯うなくてはならぬ」と切実に思つた。それから愈々帰朝してから、慶喜公の蟄居して居られた静岡へ参り、種々いきさつのあつた末、一種の合本組織である商法会所を起し、暫くやつて居る内明治二年新政府へ出仕を命ぜられ、進まぬながら役人になつてからは立会略則とか会社弁と云ふやうな書物を大蔵省から出版したり、其の他の方法で商工業の向上に資した。更に明治六年官を辞して、第一国立銀行を会社組織によつて創立し、爾来約五十年間之を主宰し、七十七歳を機として之を辞し、又実業界の関係を絶ち、全く社会事業に身を委ねるまでは、一意、此の会社組織による商工業の経営、延いては日本実業界の発展興隆、並に実業家の地位の向上、換言すれば官尊民卑の弊風打破と云ふ目的の為に努めて来たのである。然るに時勢の進展と共に漸次改善せられ、今日では実業界の実情を見ても、官民接触
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の事情を見ても、殆ど私の希望した点は達成せられたと申すべき程になつた。
 先年私の米寿を祝ふと云ふので、日本の主なる有力者が寄つて祝賀会を催して呉れた時にも「甚だ失礼な申分で御座いますが、今日御集りの皆様が此の私の八十八を祝つて下さると云ふに付て――嘗ては実業界で働いた身で御座いますが、今日は名もない老ぼれた爺で御座いますが、其私をお招き下さつて祝意を表するに付て――総理大臣が親しく臨席せられ、かかる御祝詞を御陳べ下さると云ふことを見ても、いかに官民が密着したかは明瞭で御座います」と述べたのであるが、今日となつては、私の当時の思入れが間違ひでなかつたと考へ、聊か満足と感じてよいかと思ふのである。(三月十六日談話)