公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四五九 竜門雑誌 第五一一号 昭和六年四月 女子教育に就て 【青淵先生】(DKB80085m)
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四五九 竜門雑誌 第五一一号 昭和六年四月
女子教育に就て
青淵先生
私は此度一時的ながら日本女子大学校の校長に就任した関係から、女子教育に対する感想を求められたに就ては、何等の考へがないとは申せず、また、過去に於ても女子教育には多少とも関係して参つて居りますから、仮令今日の女子教育に対する徹底した意見は持たないとしても、何とか申さねばなりませぬので、聊か私の経験したことを御話して見たいと思ひます。
その最初は明治政府の基礎の漸く固つた明治十七、八年頃のことで日本の将来の方針をどう云ふ風に定めるか、従つて日本を世界的な標準に引上げるため、日本人を如何に導くべきかを切実に考慮せねばならなかつた時のことであります。当時政治界の中心人物であつた伊藤(博文)公が、教育がその根本であると力説し、女子に対する教育を盛んにせねばならぬと主張した。私達も学問的ではなく、ただ漠然と成程と考へ、伊藤公の考案による女子に対する教育施設の関係者となつたのであります。
先是、私は少青年時代即ち旧幕時代に、政治家として起ち、国を治め人を導く地位に上り、大いに働かうと云ふやうな生意気な考へを持つたことがあります。これは私の漢学の師匠であつた尾高藍香の感化によるものであつて、立派な人物が政府に居なければ国家は進まぬ、今の有様は何事であるか、吾々も手を束ねて傍観すべきでないと考へたのであります。謂はば青年の客気で、空想とも云ふべきでありますが、其時は心から左様に思ひました。実際当時は官尊民卑の弊が甚だしく、殆ど御無理御尤であつたのに、その尊ばれる官に在る人々に大体に於て碌なものがなく、徒らに旧慣に拘泥して進歩的の考へがなく事毎に我儘を通すことのみに汲々として、人たるの本分を忘れて居る有様であつた。その上、外国、殊に欧米との関係が漸く重大性を帯びて来た有様で、国際的に見て甚しい危機で、為すべきことが多かつたに拘らず、彼等幕府の当路者は何等見るべき識見がなく、思慮がなかつたので、殆ど為す所を知らぬ有様でありましたから、斯様な定見のない外交をやつて居るやうでは困ると真に憂慮しました。内治外交と
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も斯ることを平気で行つて居る幕府の政治は維持する理由がない、よろしく速かに倒壊せしむべきだとしたのでありました。即ちさうした感触は時勢を見る眼のある人々には必ず起ることであつたのに、私達の指導者藍香がその考へであつたから、別にその煽てに乗つた訳ではなく、また私等に特別好い思案があつたと云ふのではないけれども、幕府の有様が斯くの如くであつては、よしや其日其日を弥縫し得ても結局は破綻するに違ひない、左様知りながらそのままにして置けるものではない、勢ひ単にこれを傍観するのは男子として堪へる所でないから、此際我々有為の青年は奮起せねばならないと思ひました。殊に温厚篤実な藍香先生さへ起つと云ふに於ては、向ふ行きの強い自分達として黙つて居ることは出来ないで、じつとして百姓をすることが出来ず、遂に政治家として身を立てようとし、度々御話したやうに家を飛び出す結果となつたのであります。斯様な訳で私は最初から正式の教育を受けたのでなく、又此頃の様に教育も進んで居なかつたので、此方面のことには余り関心を持たず、ましてや婦人の教育に就ては殆ど考へ及ばなかつたのであります。実は、後になれば誰でもいろいろの事柄に関して理窟をつけ、ああであつた斯うであつたと申すのが通例であるが、私はそれを好まないので、あからさまに言ふが、当時は教育に対して充分な思慮を持たなかつたのであります。
明治政府の先達たる木戸(孝允)公とか、大久保(利通)公とかの如き人々は、相当教育に対して心配したでありませうが、其辺の事情はよく知りません。伊藤(博文)公は懇意の間柄であつたため、よく聞きましたので稍々知つて居りますが、新らしい教育には、政治家として内外の諸事情からかなり配慮したのであります。
抑も我国に於ける女子に対する正式の教育の起りは、伊藤公が外国人との交際上から思付いたのでありました。明治政府の人達は、政権をとる迄は尊王攘夷で騒いだけれども、いよいよ政府を組織すると、到底外国を排し、外国との交りを絶つことは出来ぬと悟り、然らば如何にして外国と親み、如何にして交誼を進めて行くかを考へねばならぬことになりました。そしてそれにはどうしても日本人に西洋人を知らしめ、西洋の慣習を理解せしめる必要があると云ふことになり、自然出来るだけ国民をそれに適応するやうに教育せねばならぬと考へるに到つたのであります。然るに従来の教育は、君に忠に、父母に孝に兄弟に友に、朋友相信じ、夫婦相和す、と云ふが如き根元の精神方面は大切で勿論尊重するが、此等は古来のままのもので、其外に新らしい具体的な思案は一向なかつたのであります。然し、明治十七、八年の交、新に内閣の制度が出来た頃と思ひますが、伊藤公が外国との交際と云ふ点から考へ、上流の婦人が今少し外国を理解し、外国人を知る必要があると云ふので、頻りに心配し、今までの如き日本流の礼儀作法のみでは役に立たぬ、欧米の例に倣ひ社交に慣れねば外人と交れぬから、其方面の教育をせねばならぬ。ただ官途に在る人々の夫人や令嬢のみならず、民間の婦人も其積りで努力せねばならないと主張しました。或る時私に対し「渋沢君お互に若い時は攘夷論で騒いで来たものだが、其様なことではいかぬと云ふことを悟り、種々心配して来
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た。そして今日の事情を見ると、外国と親交を保たねばならぬと云ふことを沁々感ずる、蓋し御同感であらうと思ふ。そこで相対の交際をするには、従来の如き日本流一点張ではどうもならぬから、礼儀作法の一部分はどうしても西洋風にするやうにせねばならぬ。恰度政治上の仕組を変更したと同様、百般の事柄を改良し、日進月歩大勢に適応せしめる意味からも大に面目を更めねばならぬ。先づ婦人のことに付て見れば、外人と顔を合せて交際をなし得ることにせねばならない、それには消極的にばかりつとめ家庭に閉ぢ籠る風を捨て、男女も打ち混り、極めて開放的に西洋式に交はるやうに考案する要がある。之は根本的の変化で中々困難なことだから、皆が大に努力せねばならぬ、故に単に役人の家内や娘がやるのみでは効果が薄いから、民間の人達も同じく其方面に目醒め、西洋流の社交に慣れる様につとめるのでなければならぬ。それまでにするのは容易でないから、心ある人々で余程奮発せねばならない。就ては先づ懇意な向で稽古を始め漸を追うて一般に及ぼす外はないと思つて居る。何分言葉や風俗も相違する故、一朝一夕のことではないが、お互やお互の家庭の人々は其原動力になる位の意気組で、大にやることにしようではないか。君は外国の事情に通じ、ダンスの一つはやつた方であるから、是非片棒かついで貰ひたいものだ」と言ふので、先づ家庭の婦人として、外国人の訪問を受けた時の名刺の受け方、玄関での応対、訪問日とか訪問時間の習慣、人に依る待遇の仕方、例へば主人の留守に来訪者があつた場合、応接室へ通して茶を出すとか出さぬとか、その身分に依る礼儀など、所謂社交に就ての種々の催などに関し、特に強ひての評議ではなかつたと思ふが、相談がありました。中にも夜会など催された時に、舞踏のお付合も出来る程度に進めて置かなければならぬからとて、歌(穂積夫人)や琴(阪谷夫人)にもやらせてくれとのことであつたのであります。実際此の事は「伊藤が馬鹿なことを考へる」と一概に云ふことは出来なかつたので、自ら上流の人々はそれに共鳴すると云ふ風でありました。然し嫁して家庭をつくつた人達よりも、娘の時からその稽古をして相当の身柄の家なら一通り西洋式の応対も出来るやうにし、夜会へ出たなら、踊らないまでも、その心得があると云ふ位のことは必要である、それには此等を目的として、女子の教育をする学校をつくる必要があると云ふことになり、そこで一つの学校が出来るやうになりました。これが即ち東京女学館であります。何分それまでは女子の教育と云へば、貝原益軒の「女大学」一点張で頗る家庭的であり、消極的であつたのを、非常な進歩的な考案を加へて、所謂虎の門の女学館が出来たのでありまして、単に教育と云ふのみでなく、特別の主張を以て設立せられたものであります。今日では渋谷へ移つて虎の門時代とは面目を改めましたが、相当にやつて居り、今では私がその館長と云ふことになつて居ります。
女子教育に関する抱負などを彼是申しましても、要するに後からつけた理窟となり、必要のないことであらうと思ひますから、それは言はぬことに致しますが、その間には自然の進みと教育とが一致せず、矛盾撞著が生じたり、齟齬を来したりしたことなどもありました。兎
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に角初めはカークスと云ふ婦人が指導者となり、日常の作法や英語を教授して居ましたが、次第に外国人の教師も増加し、段々と都合よく成立つた訳であります。斯様な関係から、最初は伊藤公が世話を焼いて居ましたが、あの人は家鴨のやうに卵を生みつぱなしにする風がありますので、後は、私達で引受けねばならぬ始末になつたのであります。然し必要なものは自然に培養せられるもので、その後相当の成績を挙げて居ります。
目白の日本女子大学校の方はそれよりずつと後、明治廿九年から卅年頃に成瀬仁蔵君の奔走で成立つたものであります。成瀬君は大阪で女学校を経営して居たが、欧米を視察して来てから、日本の将来には女子の高等教育が必要であると主張し、大和の土倉とか、大阪の広岡へ縁付いた三井のお嬢さんとかの賛成を得、また東京へ出て大隈侯や西園寺公の縁故で有力者を勧誘し、その創立に付て熱心に運動しました。恰度その時分、前に言うた東京女学館は外山正一君が主として面倒を見て呉れて居ましたが、思ふやうに入学者がなく余程困つて居りました。文部省などでは「やり方が悪いからである、自業自得だから仕方がない」と批評したが、悪口は兎に角、入学者が少いので維持の方法も立たず、どうしたらよいかと憂慮して居ました。すると成瀬君が女子大学校設立の運動から森村翁を説いて賛成を得ると同時に、私にも世話人の一人になれと勧め、森村翁も私が力を入れるなら仲間にならうと言ふから、是非賛成して呉れと説かれました。其時私は都合によつては成瀬君と外山君とを会見させ、女学館を中心に女子の高等教育機関を創設することになれば、成瀬君の主張も徹り、女学館も都合よくなるから、一つの方法であらうと思ひ、両者を会見せしめた処が、二人の意見が根本から違つて居る為め直ぐ議論を始め、同じく女子教育の興隆を希望しながら、実際に付ては左と右と云ふ様に別れて更に一致する処がなかつたのであります。
其処で私の此の思案は到底実現不可能と諦め、女学館とは別個に創立することになり、森村を初め大阪の住友、藤田などが出資し、私も参加し、成瀬君が主となつて組織して経営し、現在まで押し進めて参りました。そして女子に高等教育を施すと云ふのでやつて居り、その経過は当初の理想通りには行かない模様であるけれども、世の進みと共にその必要が認められ、重要視せられて、先づ漸次内容充実に向つて進みつつあるのでありまして、今日の日本とすればあれ位の女子の学校があつてよいと思はれます。私は森村翁と共にその最初から世話人の方の一人でありましたが、成瀬校長が逝き、麻生君が其後を襲ひ相当の年月を努力して参り今回退任したに就て、適当な校長を就任するまで、それも極めて短い期間と云ふ条件で理事を代表して名前ばかりの臨時の校長、謂はば名誉校長となつたのであります。前にも申した様に自分が正式の教育を受けたのでもなく、教育に付て見識がある訳でもなく、真に柄にないのでありますが、種々の事情で私が強ひて辞退することが出来ない為め受けた迄で、特に女子に高等教育を授ける女子大学の校長たることは余りに相応しくないと思つて居ります。殊に老齢の為め学校に出勤して親しく事務を見る事は到底出来ず、会
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合にしても殆ど出ることが出来ませんので一層恐縮して居るのです。
而して婦人に対する教育は、現在の程度が適当であるか、高過ぎるか、又は低いかと聞かれても、私は正直な処判らぬとお答へするより外に言葉がない。また何処が悪い、此処を斯う直す方がよいと云ふやうな考案も立たぬのでありまして、大体に今の学生には質実の気風が少いからそれを養成するやうにしたい位のことしか申せませぬ。実際左様な点に関しては、学問、経験ある人の意見を聞かねばならぬと思つて居るので、私としては或る場合には物知り顔に女子教育に対する説などを述べるかも判らぬが、内々の竜門社への話としては、正直に申して自分からは何とも判定出来ないのであります。
外国では男女同様の教育をなして居るが、日本では前々から別である。果して外国の如く男女を同様に教育して差支ないものか日本の行り方が適当であるか、性格はどうか、智能はどうか、生理上の関係はどうか、一人前になつてからの仕事に従事する時はどうであらうか、此等の点を考へると、日本は依然特殊的に従来の習慣のままで進まねばならぬか、それ等の判断はいよいよ難しいのであります。私は男女の能力の問題と教育との関係に付て、先年渡米した折、フィラデルフィヤ、ニューヨーク、ボストン等の学校で種々の人々に意見を聞きましたが、米国では「男女差別する必要はない、教育を別々にする必要はない」と云ふことでありました。然らば日本でも差別しないで共学にすればよいかと云ふことを考へますと、杞憂かも知れませんが風紀問題に付て懸念があるので、俄に賛成出来ないかと思ひます。また近時職業に従事する婦人が増して来たので、婦人の職業教育なども問題でありませうが、其処になると私は何等智識もなく、一層何とも申し兼ねるので、明瞭な説を為すことは出来ないのであります。
要するに私は東京女学館の館長でありまた今回日本女子大学校の校長に就任したが、それは共に単なる名義だけの名誉校長、実際的の教育家でもなければ学問的に教育に自信がある訳でもないから、仕事は夫々の責任者、女子大学では井上秀子氏、其他の教育者や三井高修、森村市左衛門、江口定条等の理事の諸君、女学館では西河竜治氏を始め教育に関する専門家、経験者並に伊藤博邦公、桜井錠二氏、長崎省吾氏、其他の理事諸君に担当して貰ふ外はないと思ひます。ただ女子教育は昔通りのものでもよろしくないが、さりとて西洋風のままでも困ると云ふことだけは申し得ると思ひます。併し兎に角学説からまたは経験に基く説を、その道の権威者に聴問したいと思つて居ります。
(四月十五日談話)