デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
昭和期 四六〇 竜門雑誌 第五一二号 昭和六年五月

■資料

四六〇 竜門雑誌  第五一二号 昭和六年五月  巻頭言 青淵先生 ○中略 松平楽翁公(DKB80086m)
別巻第8 p.233-235 ページ画像PDM 1.0 DEED

四六〇 竜門雑誌  第五一二号 昭和六年五月
  巻頭言
                      青淵先生
○中略
    松平楽翁公
 養育院の話に関連して、私は松平楽翁公のことが申したいのであります。然し私は、歴史家でもなければ又特別に楽翁公に就て知識があ
 - 別巻第8 p.234 -ページ画像 
ると云ふ訳ではなく、ふとした事が縁になつて公を知つたのでありました。私は東京市養育院を五十年以上継続して世話して居りますが、此の養育院の起りは、明治の初年、何処かの国の高貴な方が御出になるに就て、乞食が市中を徘徊するのはよろしくないからこれを始末せねばならぬと、旧幕時代から乞食の世話をして居た者に申付けて一ケ所へ集めさせた。しかしそれを養ふには相当の費用が必要である処から、いろいろ評議した結果、東京に共有金として積立ててある七分金と称する金がある、それは官のものでもなければ、私のものでもないので、その内から費用を支出したのでありましたが、私は明治七年、東京府知事大久保一翁と云ふ人から、此の七分金の管理取締を嘱されて居りました。それは私が大蔵省を辞して銀行者になつたのと、大久保氏とは静岡藩時代からの知合であつた関係からでありました。扨て此の七分金の起りは、天明年間に松平越中守が老中となり、田沼意次の暴政を改革したが、尚それに満足せず、町内の者が貧之であるからこれを救ふため、毎年の町費を出来るだけ節約せしめ、その内二分を町内の費用を支出した者に割戻し、その一分を町の為め働いた人の労に酬いたり、賞に用ひたりした。そして残りの七分を積立て、相当纏ると、米を買つて備荒貯蓄としたり、土地を買つて置いたのであります。斯くてその割合の乏しい時には幕府から相当の差加へ金をして、一種の共有財産としたのであります。明治になつてからその額が幾らあつたか判然とした記憶がありませんが、かなりの巨額になつて居たのでありまして、私が養育院に関係するやうになつたのは、即ち此の金で、集めた乞食を養ふ仕事を創めたからであります。
 其処で私は此の資金に就て考察して見たのであるが、これこそ松平越中守の心配で積立てられ、それが明治時代にまで残つて、親のない子供や、職に就けぬ病人や、老人のやうな人達を救済する資金となつたと云ふことは、誠に奇特なことと申さずには居られないので、さう云ふものを遺した楽翁公とは如何なる人であるかと調べました。すると此の人は、有名な徳川八代将軍吉宗公の孫に当る、田安家から出た人で、学問もあり、人格も高く、政治上の改革を為し、また趣味も非常に広いお方であると云ふことが判明しました。或る時養育院の幹事が私の処へ、公の心願書なるものが本所の吉祥院から出て来たと言つて持つて参りましたが、それには、自分が政治を執るに就ては、己の身体は勿論のこと妻子の命をも懸る云々、と云ふ意味が書かれてあつたので、私は多少迷信じみた人でもあらうかと疑ひました。然し桑名の人で江間政発と云ふ、楽翁公の事蹟を詳しく研究して居る人からいろいろのことを聞いたり、その後引続いて調べて居ると、余程変つた偉い方であることが次第次第に判つて来たのであります。殊に松平家に伝はる秘函の中から、偶然に詳細な公の手記が出て来た。それは子孫の者も此の封を破つてはならぬと戒められて居たものであるから長く手を着けなかつた処が、その封印が自然に切れたのと、世は既に明治になつて、旧幕時代とは全く変つて居るので、最早差支はあるまいと開いて見たと云ふのであります。すると四冊の書物が出て参つたさうでありますが、その内の一つは「撥雲秘録」と記名し、彼の歴史上
 - 別巻第8 p.235 -ページ画像 
に種々の説がある尊号問題に関する公の秘録でありまして、光格天皇がその父上に太政天皇の尊称を奉らうとなさつたに就て、公が幕威を張つて朝廷を圧迫したと云ふ風に一般に解釈されて居りますが、事実はかなり相違して居て、決して朝廷をないがしろにしたのではない、寧ろ公は非常に尊王心の厚い人であつたのであります。故に京都から中山、正親町などと云ふ人々が江戸へ下つて、此の問題を交渉したこととか、老中が寄つて協議した有様などが書かれて居りました。又「宇下人言」と云ふものは、定信と云ふ名前を分解した題名で、公が御自分の履歴を親しく書かれて居ります。それによると、六歳で読書を学び、十二歳で自教鑑を作つたとか、死ぬ覚悟で田沼を刺さうと考へたことがある、などと云ふやうな秘事まで書いてありました。之等の事柄を江間氏から聞いて、私は初めて公の人格の高い、学問の広い、そして尊王心の厚い、立派な人であることを知つたのでありました。事実、公は水戸の文公などから推されて老中になつた人でありまして、その点から見ても凡俗の人でないことは判ります。然し程なく十一代将軍家斉公が水野出羽守を用ひるに及んで退きましたが、老中になられた時の年は三十歳で、将軍は十五歳でありました。兎に角歴史上にも著名なあれだけの政治及財政の改革を実行されたのでありますから、私等の敬服するのは当然であらうと考へます。家斉将軍とは意見が一致しなかつたのでありますけれども、決して人と争ふことなく、我意を張らず、程よく人に接し、書物の編纂などをして老後の趣味の方面に用ひられた稀に見る方であり、且つ七分金の積立とか石川島の細民救済など、社会事業に力を尽されて居ります。従つて私はその人格見識に心酔せざるを得なかつたのでありまして、その遺徳を数へるならば、なかなか僅かな時間にお話は尽されないのであります。
 近く私の名で、楽翁公伝を世に出す筈でありますが、さうした公の伝記を編纂するに至つたのも、右の如き事情からであります。また、五月十三日は公の祥月命日に当るので、十二歳の時お作りになつたと云ふ自教鑑を印刷に附し、養育院関係の人々に頒ちましたが、真実楽翁公の如き円満にして才気あり篤実なお方は少いと思ひまして、私は深く常に公の徳を仰いで居る者であります。(五月十四日談話)