公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四六一 時事新報 第一七二七〇号 昭和六年七月九日 六十年来依然として 財政お構ひなしの陸軍(DKB80087m)
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四六一 時事新報 第一七二七〇号 昭和六年七月九日
六十年来依然として
財政お構ひなしの陸軍
渋沢老子爵の思ひ出ばなし
○上略
○
私が大蔵省に勤めたのは明治二年から六年までの間で、明治四年夏の廃藩置県当時は、大久保大蔵卿(利通)井上大輔(馨)の下に大蔵大丞であつたが、大蔵省の実際の中心は井上大輔で、私は専ら井上大輔と力を合せて国庫の度支に苦心した。廃藩置県になつて形式的には全国の財政も政府に統一されたので、密に政府の歳入を計算して見ると約四千万円位になることが自分達には分つてゐたが、政府各省の経費
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要求はなかなかこんな歳入などは問題にしてゐなかつた。しかし歳出予算を定めなければならないといふ必要だけは、其頃政府の大官も漸く認め出して来た。
丁度明治四年の九月頃の或日、井上大輔が何かの用で欠勤された日の事であつた。大久保大蔵卿が太政官の会議から省に帰つて、大丞だつた私を始め、渡辺清、岡本健三郎、林友幸等、数人の人々を呼んで
「廃藩はやつたが、本当の郡県の仕組にするためには陸軍を余程しつかりせねばならない。之について陸軍の経費は今年八百万円欲しいといふから、井上に相談の上とも考へたが、夫れ位は出来るだらうと思つて、大蔵卿として自分の専断で「よろしい」と答へた。今日は井上はゐないが、諸君に予めこの予算で経費を支出する覚悟でやつて貰ひ度いことを言つて置く」
とのことであつた。
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私は驚いて「仰せの如く会計に予算をきめるのは結構だが、之だけの収入があるから之だけ出せると云ふのが予算で、出す方だけきめてその財源を考へないのでは、一国の予算とはいひ兼ねる。陸軍に八百万円と云ふ予算は、予算でなくて単に大蔵卿の見込に過ぎない」と反駁した。ところが大久保さんは大に怒つて、「それぢや軍備など何うなつてもいいといふのか。君の論はそんな風に聞えるが」と非常な不機嫌であつた。私は元来、好んでなつた役人でなし、幕臣出身と云ふ僻みもあつて、負けずに色々議論をした揚句、退庁後、井上大輔の邸を訪問して辞意を洩らした。其時は井上さんの慰撫で結局留任したが一年置いて明治六年に両人連袂辞職したのも、予算制度に対する財政当局の立場を固守した為であつた。
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軍人でもない大久保さんが、なぜこんなに軍備を重んじたかといふに、其頃廃藩置県は形式だけで旧藩主が知事になつてゐる有様だから本当の郡県制に改めるにはもう一騒動なくて済むまい、その際に備へるのは軍備あるのみといふ訳で、軍備拡張が当時の政治家の頭を支配してゐたからである。現に私が一時枢密権大史であつた頃、宮城の西の丸のお議事の間(旧幕府の能舞台跡)に書記方として陪席して議事を聞いて見ると、大西郷などは、「廃藩置県を本当にやるには、もう一度戦争をやらねば、人気が穏やかになるまい」などと公言してゐた位であつた。大久保さんも同じやうな頭でゐたらしいが、陸軍で必要ならいくらでも国庫から出させる、財源などをいつて出し渋るのは、軍備を無視する不埒な奴だと云ふやうな軍部の態度が、夫れから六十年経つた今でも陸軍に残つてゐることを、此頃の軍制改革に就てしみじみと感ずるので、時事新報の社説の中に「多年の積弊」と云はれた其を思ひ出してお話する次第である。