公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四六三 竜門雑誌 第五一五号 昭和六年八月 夏の思ひ出話 【青淵先生】(DKB80089m)
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四六三 竜門雑誌 第五一五号 昭和六年八月
夏の思ひ出話
青淵先生
夏の思ひ出話として特別にお話する程のこともありません。勿論春[、]夏、秋、冬、それぞれの感じはありますが、私にとつては四季のときどきで、どうかうと云ふことはなく、専ら国家のため社会のために働いて来たと思つて居るのでありますから、その過去は、それが雪の深い冷寒肌を刺す時であつても、鉄を熔すやうな猛暑の時であつても区別はなく、従つて暑いから特に苦痛であつたとか、愉快であつたと申すが如き話題を持たないのであります。
少年の頃の私は、父の業によつて藍玉を信州や秩父地方の紺屋へ売りに行きました。恰度それは富山の薬屋が毎年廻つて来ると同様、得意先の紺屋へそれぞれ藍玉を置いて歩き、盆と暮との二期に集金に出掛けるのでありますから、年に四回、四月、七月、十月、十二月には信州や秩父地方を旅行した訳であります。だから暑中であるお盆に旅にあつた経験は二十歳頃迄は度々あつたのでありますけれども、印象として残つて居る点は頗る薄いのであります。
其後暴挙を企てたが、それを中止し、文久三年廿四歳の時、同姓喜作と共に京都へ出てからは、一ツ橋の家来として、京都の夏を幾度か過しましたが、それも実にあわただしく経過したので、今から思へば夏冬なく、多忙に暮したものだと申せませう。最初に一ツ橋に奉公した時は、極く軽輩の御用談所詰でその出役下役でありました。しかしその用向は京都に在る諸藩との折衝に当る外交関係の役柄で、夏、冬なく愉快に暮したのであります。何分当時は政治の大変な動揺期でありましたから、各藩は京都へ御留守居役を置き、朝廷の御意向を知らんとする外、京都御守衛総督であつた一ツ橋公その他との交際を繁くして居ました。さうして外国の軍艦が北海へ来たとか、久里浜へ入つたとか、又それ等外国の軍隊に対抗するには今後西洋式の兵隊訓練をやり、鉄砲を持たねばならぬなどと云はれるやうになつて居ました。私は初め御用談所の下役で奔走して居たが、物事に対する相当の理解もあり、身体も壮健で、如何に夜更かしをしても走り歩いてもさして疲労を見なかつたので、云はば重宝がられて盛んに諸藩の間とか、公卿たる鷹司とか近衛などの間を奔り廻らされて居りましたから、諸藩の留守居の人達と懇意になり、夕餐を共にする様な場合が屡々ありました。
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私等が一ツ橋へ仕官し得たのは、その用人平岡円四郎氏の心配からでありましたが、この人が元治元年の六月に京都にて暗殺されたので当時江戸に行つて居た私と喜作とは一時今後をどうしようかと思つた事がありました。恰度同年の五月、人選御用を承り、一かど役に立つ者を一ツ橋に召抱へるべく関東に下向したのでありましたが、他面には捕はれの身になつて居る尾高長七郎を救ひたいと云ふ考へで運動するためでありました。此の江戸に滞在中に恩人平岡氏暗殺の報があつたのでした。しかし如何に平岡氏が突然死んだと云つても、命ぜられた職務を抛擲して帰京することは出来ないので、いろいろ知己友人を訪ねて同志の士五十人ばかりを集め得ました。但し長七郎の出牢の運動は効を奏しませんでしたから、九月募集した人材と共に京都へ帰りましたが、平岡氏の後は黒川嘉兵衛氏が用人として立ち、平岡氏同様私達を引立ててくれまして、此時早速御徒士に進みました。
それから次第に士分に取り立てられて、慶応元年には歩兵取立御用掛を命ぜられました。これは一ツ橋には殆ど兵備がなかつたので、名は御守衛総督でも何等実力が備つて居ない、それではならぬ、故に歩兵を募集して西洋式の軍隊を作る必要がある、と私が主張した為で、遂に自ら摂津、播磨、備中の各領地へ募兵に赴きました。そして備中では阪谷芳郎男の厳父朗廬先生にお目にかかつたりしましたが、最初は中々思ふやうに募兵が出来なかつたけれども、漸く苦心の結果壮丁四百五十人ばかりを募集しました。それは五六月の頃のことですが、それ等の新しい兵士が京都へ来た時、夏の事で蚊帳の必要があつた、処が彼等に与へた蚊帳はかなりお粗末な、蚊が盛んには入るやうなものであつた為、彼等は募兵に行つた渋沢の言と相異するとて不平を言ひ出したのであります。従つて私は早速その内情を取調べて見た処、その係の者が不正を行つて居ることが明かになつたから、早速その事実を確めて、待遇の改善を行ひました。
慶応三年一月に横浜を発して渡仏の途についたのは、仏蘭西巴里に於て世界大博覧会を開催するに就て、日本から使節として徳川民部公子が之に赴かれた、その書記兼俗事役として随従して行くことになつたからでありました。巴里に着いたのは三月でありましたが、何分変つた土地に住んだこととて、何事も珍らしい、その上民部公子の御伴をしてナポレオン三世と会見したり博覧会を見物してあわただしく夏を過してしまひました。それから博覧会が八月廿五日に終了してから伊太利、瑞西、和蘭、英国等を巡遊訪問し、いよいよ仏蘭西に留学することにして居たのであるが、遂に此事は慶喜公の大政奉還によつて帰国せねばならないことになつて遺憾ながら中止し、民部公子と共々帰朝致しました。
仏国から帰朝してから、種々のいきさつがあつて後、慶喜公の隠棲されて居られた静岡に止ることになり、明治二年一月静岡藩の勘定組頭を命ぜられたが辞退し、其処で商法会所を設立して会社組織に依る物産の売買や金融を行つたが、その八月会計掛を命ぜられ、また商法会所を常平倉と改めたので、その事務に専念して居たのであります。処が、新政府に於て私を有為の人材と認めたとかで速かに出頭せよと
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の命があり、本意ならずもその年の十月新政府に出頭し、租税正に任ぜられたのであります。
扨て翌明治三年の夏は事なく経過致しましたが、四年七月になつてから、廃藩置県の詔勅が下つたため、当時大蔵大丞であつた私は、廃藩置県の事務を殆ど一手に引受けて処理したので、所謂地獄の釜の蓋のあく日と云はれる、盆の十四日十五日にも汗と共に働き通し、その前後に徹夜したことは幾晩かあつたが、幸にして壮健な私は他の者が余程疲労した風に見えた時も平気で仕事に務め、人々から驚かれたことがあります。
此の廃藩置県の直後、八月に軍費支出のことから大久保大蔵卿の意見に逆ひ、財政上の無謀を激論しましたが、その時はつきりと役人は辞して民間に下り、民間に在る人々の人格、地位を進めるに尽し、実業の隆盛に一生を捧げようと決心したのであります。
兎に角、夏と云ふものに私の生涯は特別な変化はなかつた。従つて思ひ出して話す程の事柄もないのでありまして、以上の如きことが先ず重なることでありませう。故にただ要約して申せば、少青年時代の夏は何時もあわただしく過したのでありました。
(八月十二日談話)