公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四六五 竜門雑誌 第五七〇号 昭和一一年三月 或る日の青淵先生と穂積歌子刀自(DKB80091m)
別巻第8 p.244-246 ページ画像PDM 1.0 DEED
四六五 竜門雑誌 第五七〇号 昭和一一年三月
或る日の青淵先生と穂積歌子刀自
人物 青淵先生
青淵先生令夫人
(傍に在つて御針仕事の手を運びつつ耳を傾けられて居る)
穂積歌子刀自
筆記者某
時 昭和六年七月六日
戸外は小雨ふりしきる
処 飛鳥山邸御居間
○湯島邸
先生「此家(湯島邸)は元何か小さい御家人のものであつた。」
刀自「門が甚いんでしたよ。」
先生「長屋門か何かでなかつたか。」
刀自「いいえ、長屋門ではございません。それは神田の方で、こちらは如何にも小さいんでしたが――亀、黒崎、亀、何と申しましたか黒崎亀――といふのが居りまして、妾は駕籠でしたから……。あの辺は一体に立派な家敷が続いてをりましたので、それを駕籠から亀に(注。歌子刀自が初めて湯島邸へ行かれた時の話)「御門(湯島新邸の)はどんなか――斯んなか(立派な門を見て)こんなか、と聞きますと、もつと立派ですよ、もつと立派ですよといつて――それで参つたら仮の門の古くなつたものでしてね……」
先生「よほど古かつたね。租税司の極く俗事を扱ふ人に話をしたら、それなら斯ういふ家がありますから求めなさいと言つて呉れて、何でも三百幾らかで買つたと思ふ。」
刀自「それから後で建増しを遊ばしました。後で喜作さんが此家に住まれました。――其時代には……黒崎……亀之助……」
先生「亀太郎。」
刀自「黒崎亀太郎が御別当で、正吉《まさきち》といふ仲間……鶴吉は別当が御者になつたので、これは御馬車になつてから――ああいふ御出勤は、今日想像も及ばぬもので御座います。」
先生「私は馬が下手なもので……だから幌馬車の粗末なものを(注。一般より比較的早く)買つたのだ。」
刀自「湯島邸は一寸仮の垣根があり、それを出ると広い庭がございましたが、これは大人《たいじん》(注。青淵先生)の御所有ではございませんでした。何しろ御門のきたない御家でした。」
(備考)
明治二年先生ノ駿州静岡ニ在ルヤ紺屋町商法会所ノ奥ニ住ス。此ノ歳十月東京ニ移リ、湯島天神町ニ住ス。四年十一月神田裏
- 別巻第8 p.245 -ページ画像
神保町ノ邸ニ移ル。明治六年官ヲ辞シ実業ニ従事スルヤ日本橋区兜町ノ邸ニ居ル。其後明治九年八月深川福住町ニ移ル。是ヲ本邸トス。明治十二年七月別邸ヲ北豊島郡王子ニ造リ居ル……
(青淵先生六十年史)
○御出勤と御用箱
刀自「馬で御出勤の時には鞄を――若党が革の御用箱を真田紐で結へて……。其当時、駕籠かもしくは馬で行くので、未だ人力車がなかつたから……。」
筆記者「御用箱はどんなものでございましたか。」
刀自「上等な黒い漆で塗つたもので……」
筆記者「大きさや高さは?」
先生「美濃紙の(注。折らず)入るものだつたよ。」
刀自「高さは大して高くない、この位(注。四五寸)時によつては入りきらぬ事もありました。御役所でこれを御側へ置いて御用を遊した。」
先生「それがなければならぬもののやうであつた。」(注。当時の役人風習)
刀自「山高帽をお召しになりましたかしら。」
先生「何でも船のやうな形をした帽子を特に注文して作らせて、それを冠つてゐた。」(注。山高帽ではないといふ意味)
○乗馬飼養令のこと
筆記者「乗馬で御出勤になりましたのは?」
先生「乗馬飼養令といふものがあつて、それによつたものであらう。」
刀自「乗馬飼養令ではありませんよ。乗馬飼養令が出たのは確か明治十八九年頃のことですから――穂積(注。故男爵)の時代に出たものですから、私は確に覚えてをります。馬匹改良(注。乗馬飼養令は馬匹改良を目的としたもの)の為ではありません。あれは確か明治二十年前に出たので……月給百円か百五十円以上の人は馬を飼へといふので、当時のお金ですから今とは較べものにはなりませんがそれにしても、百円位の月給で馬を飼つては困りますでせう……。明治天皇が之を御許可になる時に、役人に斯んな規則が出ては迷惑ではないかと御下問になつたさうです。役人は「沢山の俸給を頂く者ですから此位のことは大丈夫でございます」と申上げたので、さうかと仰せになつて御裁可になつた。処が皆がなかなか迷惑でしたから……堪らぬからといふので三ケ月で廃止になりました。
明治天皇は「それだから糾したぢやないか、一寸出して一寸で止すのはいけない」と仰しやられたといふ話があります。
人力の発明がたしか明治二、三年で、藍香先生が「あれは至極便利なもんだ、いま乗つて来た」などというて……」
○ガタ馬車の話
先生「古物でした。」(注。先生の馬車の事)
刀自「元の馬を玉乃さんに譲られました。ところがその馬が御門(注湯島邸の)の前を通ると玉乃さんを乗せたなりで、くぐり門を入つたのでヒドクぶちつけて……馬鹿な馬だと……。」
- 別巻第8 p.246 -ページ画像
先生「馬の方が知つてゐたんだらう。」
刀自「玉乃さんも其頃は貧しい暮をされてゐたので、多分その馬がひもじいつて飛込んだんだらうと云つて……」
お二人お笑い。
○神田邸
刀自「この家は鈴木善助、伊丹屋と云つて駿河以来御懇親なんです。鈴木は後に第一銀行に勤めました。
この鈴木の世話で八百両でお買ひになつた。六百坪ばかりで、御粗末ながら整頓した家ですが――
鈴木はのち暇になつて度々私のところへ来て古い話をよくしたので、八百両でお買求めになつたといふことは確です。のち海運橋にお引移りの時に、未だその頃はお豊かでなかつたもんですから、売つて呉れつて鈴木に御頼になつたところが僅かの間で千両で売れ、其代金を持つて出たので、八百両のものが千両に売れた、僅かの間に二百両上つたのだから、その二百両はお前に上げると仰しやられた。鈴木は御辞退したが、つい頂いたと、かういふお話を度々致しました。何でも鈴木はそのお金で第一銀行の株か何か買つた。それが鈴木の資産の基礎になつたといふことを――他に話の相手がなくなつてゐたので、よく私に話しました。
篤二さんは其処で生れました。
○産穢《さんゑ》の謹み
刀自「その後いつまで続いたか知りませぬが、篤二さんが生れたに就てさんゑと申して家に産があると物忌みで御役所を引かねばならんので、大人もその御届をお出しになりましたけれども「其儀に及ばず」との書付が来て御出勤になりました。
大昔は犬猫でも産があると忌引をするんですつて……但し、鶏は此限りに非ずとございます。これはさうでございませう。毎日鶏が卵を生んだからと云つて休んでゐては仕方がございますまい。」
注「乗馬飼養令」については東京経済雑誌第二十四巻第五百八十六号(明治二十四年八月二十二日発行)によれば左の通りである。
朕玆ニ乗馬飼養令廃止ノ件ノ裁可ス
御名御璽
明治二十四年七月二十七日
内閣総理大臣 伯爵 松方正義
陸軍大臣 子爵 高島鞆之助
なほ勅令第百六十一号を見ると、右の勅令は明治十七年に発布された訳である。
明治十七年太政官達第六十六号乗馬飼養令ヲ廃ス
○下略
新聞・雑誌に掲載せられたる談話 終