デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

余録
雑誌に掲載せられたる栄一論
四 竜門雑誌 第四三六号 大正一四年一月

■資料

四 竜門雑誌  第四三六号 大正一四年一月  百人一首中の青淵先生 穂積重遠(DKB80095m)
別巻第8 p.262-265 ページ画像PDM 1.0 DEED

四 竜門雑誌  第四三六号 大正一四年一月
    百人一首中の青淵先生
                      穂積重遠
    一
 「青淵先生が百人一首にはいつて居る」斯う申したら、皆さんはソンナ馬鹿な事と笑はれるだらう。成程普通に所謂百人一首は即ち定家卿の選と云はれる小倉百人一首だから、青淵先生とは正に時代違ひである。併し青淵先生は詩人でもあり歌人でもあられるから、もし青淵先生が定家卿以前に居られたとしたら、先生が小倉百人一首中の一人として人丸、赤人と肩を並べられる様なことになつたかも知れない。更にまた明治百人一首或は大正百人一首が選ばれるとしたら、青淵先生は正にその百人一首に名を列する資格がある。大正百人一首と云ふ
 - 別巻第8 p.263 -ページ画像 
のはまだ聞かないが、明治百人一首は数種出来て居る。そこで「青淵先生が百人一首にはいつて居る」といふことになるのである。
    二
 実は私は年来百人一首類を蒐集して居る。蒐めて見ると色々あるもので、小倉百人一首の各種の版木、写本、画本の外、それ以外の和歌道歌、狂歌、俳句、狂句、漢詩、それから都々逸に至るまで、百人一首及び一人百首の類が意外に沢山蒐つた。昨年末の統計は左の通りである。
  小倉の部   二四七種
  和歌の部   二一二種
  道歌の部    二八種
  狂歌の部    七五種
  俳句の部    二七種
  狂句の部    一二種
  漢詩の部    二一種
  都々逸の部    三種
  雑の部     二三種
 合計六百四十八種である。而してその中明治初年の百人一首中に青淵先生のはいつて居るのがあるのである。
    三
 青淵先生の現はれる百人一首で私の蒐集中にあるものは四種であるが、版行の年は明治十二年乃至十五年頃までで、何れも明治初年に有名だつた人々を百人集め、その和歌とか詩とかを並べて略伝を添へた木版肖像画入のものである。
 先づ最も古いのは「明治英名百詠撰」と云ふので、編者は篠田久二郎(仙果)、画家は生田芳春と云ふ人、出版元は文泉堂、明治十二年十一月出版である。その口絵には「禁中にて天盃を賜はる」「各国の公使皇国に来る図」と説明してある江戸絵風の彩色画が二葉ある、そして序文が面白い。
 崐岡の玉一度現はれて其光り永世に輝き、草薙の剣賊を威伏して霊徳朽ず、瓦と成て安全からん従《より》玉となつて破砕よとは名を惜むの言葉なりければ、芳名を後代に残すは最も難き事なる哉、時に安政年間より朝野の有志者王政回復に尽力し偉勲鴻基を奏すに至り、此好機会に際し英名を轟かす者士に農に工に商に将文墨に遊べる徒等百を以て算ふべし、依て其名を万歳に伝へんと生田芳春子をして像を画かしめ、系譜履歴を略記して明治英名百詠撰と題する事しかり。
              笠亭主人  篠田仙果記
 次は「明治百人一首」、編輯者は沼尻絓一郎、出版人力石安之助と云ふので、十三年二月の出版である。口絵は高貴な御方の新年の御祝賀の光景で、肩に「家毎にかゝぐる旗の朝日影みやこもひなもあふく年かな 有栖川熾仁親王」とある。
 明治十四年四月刊行の「明治英名百人首」は、安井乙熊編輯、松斎吟光画図、発兌錦松堂で、口絵には「宮中に於て勲章を賜ふ図」と云ふ彩色画がある。
 - 別巻第8 p.264 -ページ画像 
 右の三つは一冊物であるが「愛国民権演説家百詠選」と云ふのは上下二冊となつて居る。編者は谷壮太郎、画家は歌川豊宣、明治十五年十二月出版である。口絵には、明治会堂演説の図と云ふのがある。
 そして、内容は何れも大同小異であるけれども、また自らそれぞれ特徴がある。即ち「明治英名百詠撰」と「明治英名百人首」とには、明治天皇及び昭憲皇太后を最初に戴いて官途にある人が多く「明治百人一首」には、皇族方はなく、三条実美公から初まつて婦人も割合に沢山選まれて居る。また「演説家百詠選」には、板垣退助が最初の頁にあり、而も口絵裏一頁にその岐阜にて刺されたる顛末を記し、自由主義の隆盛を謳歌して居り、内容も朝にある人より野にあるの人を多く集めたもので、自由民権的の色彩の強い特徴がある。
 青淵先生はこの何れにもはいつて居るのであるが、次にそれ等「渋沢栄一」の項に記述せられた全文を転載しよう。
    四
明治英名百詠撰 ――二十三頁裏
 (詩) 幽窓書室外  山雨半空中
     蕉葉翩々響  知応動夜風
 (略伝)君は三州館林の農なり、慶応三年徳川昭武君に随つて仏国に留学し、其後召されて大蔵大丞兼紙幣頭に任ぜられ二等出仕に補し澳国博覧会に事務を兼、明治六年職を辞し第一国立銀行を立、是我国銀行の始なり、又華族鉄道会社を結びし折も総理を托されたり
明治百人一首 ――十八頁裏
 (歌) 梓弓国のさかえを一筋に引手も強きわがこゝろ哉
 (略伝)渋沢は一橋家に仕へ徳川民部卿に随行し仏蘭西にいたり、維新の後帰朝して官途に進み、経済学を専ら為し、富国強兵の基をひらかんが為め商法律を正し、遂に国立銀行の創業を成し、普く皇国第一の社となさしめけり
明治英名百人首 ――三十七頁裏
 (詩) 幽窓書室外  山雨半空中
     蕉葉翩々響  知応動夜風
 (略伝)君は上州血洗島の人なり、天性活溌大度、曾て民部大輔に随つて仏国に赴き大いに得る処あり、明治三年一商店を横浜に開き駿河屋といふ、後徴されて大蔵省大丞に拝せられ進んで同省三等出仕に補せらる、故あり同大輔井上君と共に辞職なし第一銀行の頭取となり、紙幣の取引、米穀の売買等に於て神算を極めたるを以て俄頃にして富数万円に至るといふ
演説家百詠選 ――上ノ二十五頁裏
 (詩) 勤王心事人無識
     却説海運橋上栄
 (略伝)渋沢栄一は上野の国三国嶺の下にて渋沢村と云ふ所一小村の豪商家の産にして、幼より商を為せしも当時未だ開けざることなれば商法も従つて固陋なりしに、氏は早く此感あ
 - 別巻第8 p.265 -ページ画像 
り、賤商の所為を好まざりける折しも、諸藩攘夷の説起りしゆゑ氏も慷慨悲歎に堪へざりしより家を脱して京都に至り、慶喜公の命により民部卿に随伴して欧洲へ遊学せり、彼国財政の要点会得して帰朝の後、大蔵省三等出仕に補せられ天下理財の権を握るに至れり、退職の後、第一銀行の頭取となり蓄財貯金の実際に渉り大いに其功を奏せし人なり、と世人賞歎せざる者なしと云ふ
     (以上の文章は本文のままであつて、間違つて居る文字などもそのままにして置いた、また右文章よりも主要な青淵先生の肖像画は、本誌の口絵 ○略スに載せたものがそれである。)
    五
 之等の百人一首中の人々は何れも明治維新の大業に参与した先覚者で当時の人心に大いなる刺戟を与へまた世人から讃仰せられることが深かつたので、従つて斯うした小伝附き肖像画入りの小冊子が一般から歓迎されたことは、今に於て想像に難からぬ処である。また編輯者の目的も「明治英名百人首」の題言に「人誰か志なからん、其志をいふに詩あり歌ありて能く其志を述るに足る、世の童蒙其詩歌を誦読せば奮然志を立、身を修め一家を為すの心意を発生せしむるものなり」云々とある通り、久しい間の封建世襲の制度が突如として明治維新によつて破られ志有る者は力量手腕のままに立身出世が出来ることになつたのであるから、一布衣から起つた元勲や一世を指導した先覚者が模範人物として「百人一首」にまで選ばれたのも蓋し当然である。
 併しこれ等の書物の記事は、青淵先生の項に就て見ても判るやうに内容はそれ程信憑し得るものではない。詩歌の如きも、曾て私が右の何れかを先生にお目にかけた処、記憶がないと仰せられたこともあつた。或は編輯者が勝手に其人らしい詩歌として代作したのもあるかも知れない。
 つまり之等百人一首は伝記的又は文芸的意味で価値の少いものであらうが、当時の人々が如何に維新の元勲、時代の先覚者を見て居たか而して青淵先生に対してどう云ふ見解を下して居たかを知る一つの好資料であつて竜門社社員諸君には特に御紹介して置きたいのである。