デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

余録
雑誌に掲載せられたる栄一論
五 実業之日本 第三〇巻第一三号 昭和二年七月

■資料

五 実業之日本  第三〇巻第一三号 昭和二年七月  実業界の聖者渋沢栄一 波多野承五郎(DKB80096m)
別巻第8 p.265-270 ページ画像PDM 1.0 DEED

五 実業之日本  第三〇巻第一三号 昭和二年七月
    実業界の聖者渋沢栄一
                    波多野承五郎
  朝野の信望を負ふ渋沢子
 三十年前の財界の親玉は、何んと言つても渋沢栄一だ。三十年前と言ふと、日清戦争で喚び起した好景気に依つて、実業界が蘇み返つて来た時である。東京にも大阪にも各種の事業が勃興して、財界には幾多の人物も輩出するやうになつたが、之等の人々の中で、年配と言ひ経歴と言ひ、朝野の信望と言ひ、牛耳を執る可き人は渋沢栄一の他にはなかつた。併し此処に断つて置きたいのは、財界に於ける渋沢の位置の事だ。それは此人が幾多の事業に関係して居ても、何時も自己本
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位、即ち自分が金を儲けたいと言ふ趣意から関係して居たのではないと言ふ事である。由来、実業界には幾多の人物が居たが、自分が金を儲けたいと言ふ野心、又は自分の仕へてゐる富豪の為めに、金を儲けたいと言ふ意志に囚はれずに、只々実業界の為めに斡旋努力しようと言ふ事を以て終始して居たのは、独り渋沢栄一があるのみであつた。尤も渋沢栄一も第一銀行の頭取を表看板として居るから、此銀行の利益を図らないと言ふ訳でないが、そんな事は佐々木勇之助などに任せて置いて、人の世話ばかりしようとしたのである。財界で人の世話をすると言ふ時には、口先で指導するのみでは不可ぬ場合がある。従つて第一銀行から金を融通してやらねばならぬやうになる事がある。勿論よい事業だから世話をすると同時に、融通を与へるのであるが、さうさう持ち込まれてはやりきれぬと言つて銀行の方で滾して居たやうな事を聞く事もある。それだから渋沢は、財界の親玉であると言ふものの実は産婆役で、乳母で、世話人であつたのだが、偶々財界に何か衝突が起ると、仲裁役を引受ける。
 渋沢も今日では、相当の金持であるに違ひないが、それは金持にならうと思つて金持になつたのではない。事業の世話をする間に持つて居た株が、我国の発展と共に騰貴したから、図らずも金持になつた丈けであるのだ。若しも渋沢が金持にならうと思へば、幾等でも儲ける道はあつたに違ひない。併しそんな事をすれば今日の渋沢のやうに尊敬されて居なかつたかも知れぬ。要するに私心を棄てて事業界の世話をしたのだから、渋沢栄一と言ふ、一種独特の位置を占め得るに至つたのである。
  公平無私の人
 渋沢栄一は、何んぞと言ふと論語の講釈をやる。些か耳障りにならぬでもないが、併し此の人の永き生涯を通じて達観すると、論語主義の躬行実践者であつたので、私心を挟まない、金儲けを自分でしようとしない、よい事だと思へば何んでも人の世話をする、論語主義の躬行実践者でなくして何んであらうか。
 併し渋沢は自分に私心を抱かぬから、他人も亦私心を抱かぬものであると言ふ事を信じたいと言ふ癖があつた。自分が正直だから他人も正直であると思ひたかつたのである。それだから、渋沢は昔から大勢の人に欺された事が多いに違ひない。私は昔、或事件で大川平三郎と衝突した事があつた。其時に渋沢は大川の親類であると同時に、事業上の保護者であつたから、反省を促がす可く数回渋沢と会見したが、斯う言ふ時の渋沢の意見は、何処何処までも正直で、毛頭私心を挟んで居なかつたから、渋沢を反省させようと思つて出掛けて行つた私が却て反省させられる事すらあつた。私の方から大川を猛烈に攻撃しても、渋沢は怒る事のないのは勿論、和気靄々として説く所がまるで春の暖かい風が吹いて来るやうである。比喩として些か仰山だが、何んだか神様か仏様と話すやうな気分になつて来るのであつたので、よくもよくも、ああまで正直に、且つ公平に事物を視察する事が出来たものだと思はずには居られなかつた。さう思ひ始めると、此の人に議論を吹き掛ける私の方が、悪魔にでも取り憑かれて居るのではないかと
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言ふ気がした。
 併し斯う言ふと、渋沢はお人好しの殿様であるかのやうに聞えぬでもないが、事理を見るの心眼が極めて明晰であつたから、人には欺されたかも知れぬが、事業には欺されないのである。悪い人や猾い男が渋沢を欺しに来る、自分が正直だから一応こんな人に欺されないでもないが、事柄の筋が間違つて居れば、其の方から観破する。それだから結局、人には欺され乍らも、事業には欺されなくなるのだ。即ち仏心を以て人に接し理眼を以て物を見る、玆に渋沢の特色があるのだ。
 私心を離れて生涯事業の世話をして居ると言ふ渋沢栄一は、どうして出来たのであるか。若い時分に憂国の志士として血洗島村から出て来たのであるから、さう言ふ径路を取つたのは当り前の事である、とは言ふものの実は時代精神が斯う言ふ人を拵へたのである。維新以来有為の士は悉く政府に集つた。文化的百般の事業は政府の指導に依つて、進展したのである.国立銀行を政府が造らせた。紡績事業も政府が奨励した。製糸、養蚕、製茶、製紙、何れも政府のお声掛りで進んで行つた。鉄道は政府が自営し、航海業は政府が保護して居た。斯う言ふ際に渋沢は、野に下つて第一国立銀行の頭取となつたのであるが自分は金儲けの為めに官を退いたのだとは思つて居なかつたらしい。官に居ても、野に居ても事業の世話をする事が始めから自分の職業であると思つて居たやうである。而して当時の事業界は、斯う言ふ斡旋家が必要であつたのだ。政府当局者と意志の疎通して居る人がなければならなかつた。政府部内に勢力があつて、民間にも信用があると言ふ人が、彼此の間に立つて斡旋せねば事業は成立しない。渋沢は実に此要求に応ずべく生れて来たのである。
  卅年前からもう財界での大立物
 当時実業界に於て、政府と提携すべき人がないではなかつた。薩閥で五代友厚、長閥では藤田伝三郎、三井の三野村利左衛門、益田孝、三菱の岩崎弥太郎などがそれである。併し之等の人は何れも、自己本位で事業をした人でなければ主人持の身分であつたから、渋沢のやうに無検束の位置に立つて立働くには不適当であつた。明治十年の西南戦争以後、一時、事業勃興の兆候があつたが、財政緊縮の結果、物価の大下落を来し、倒産者は後から後から起つて来た。五代は事業の成らない間に斃れた。藤田は贋札事件で苦んだ。三井と雖も、抵当品流込みが積み重なつて来るので、気息奄々たる状況であつた。紡績は儲からぬ、製糸も製茶も顔色がない。八方から救済を願ひ出るものが後を接して出て来る。大倉なども此時分は、可なり借金が多くはなかつたらうか。古河銅山翁なども第一銀行の後援がなかつたら或は潰れたかも知れぬ。其の時分安田は未だ両替屋銀行に過ぎなかつた。斯う言ふ時に全然無疵で居て、而して官民の間に勢力ある地位を占めて居たのは、渋沢であつた。然も、自分で金儲けすると云ふ考へを持たずに誠心誠意、身を粉にして奔走するのであるから、四方八方から重宝がられたのは無理もない。彼れ是れする間に日清戦争が起る、戦後の好景気が事業熱を勃興させた。其反動として更に不景気風に襲はれる、此時分には日本銀行が出来て居たので、政府ばかりでなく、此処との
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交渉も必要であつた。精力絶倫な渋沢が朝から晩まで不断の努力に精進したのも此の時であつた。
  老いて益々精力絶倫なる所以
 元来、渋沢が、実業界の為めに力を尽したのは私心を擲つたからではあるが、体力が此に伴はなければ実効を挙げることは出来ない。恐らく渋沢程、精力絶倫な人はない。本年とつて八十七歳になつても尚且つ相当に活動を続けて居る事が出来ると言ふのは、畢竟、よい健康の持主であつたには違ひないが、此健康を維持すべき修養も少からずあつたに違ひない。先頃、時事新報社の新築祝に行つた時に、図らずも渋沢に面会した。私は其時「斯う言ふ会にまでよく勉強してお出で下されるのは、畢竟之も御健康であられるからであらう」と言ふ挨拶をした。すると渋沢は、
 「私が今日あるは若い時分から活動を続けて居たからである。活動を続けることが健康を維持する所以である。併し此頃は少し記憶力が衰へたやうだが、活動することは昔と少しも変らない」
と言つた。其処で私は
 「あなたの記憶力のよいのには、我々は昔から驚いて居ます。少しぐらゐ衰へて下さらないと我々共は困ります。併し活動を以て健康を維持すると言ふ事は、あなたが御自得なすつたのでありますか」
と訊いたら
 「無論、若い時分の習慣から之を自得したのだが、先年或学者の説を聞いた事がある。それは人間は三十歳迄学問し、それから六十歳迄驀に仕事をする。六十歳から九十歳までは或条件の下に同じ活動を続けるがよい。其条件と言ふのは、第一、身体に無理をしない事である。第二に何事も気にかけない事である。こんなやうな条件を守つてさへ居れば、六十から九十位迄も、三十から六十迄と同じやうな活動が続けられると言ふ事であつたから、爾来、其条件を守つて今日まで来た。
  最うあと三年で九十になるが、此学者の説も図らずも躬行実践して来て、どうやら此処まで漕ぎつけて来た。今後三年ぐらゐは、これで行けるだらうと思つて居る」
と言はれた。其処で私は
 「あなたから、そんなに言はれると私も非常に心強いが、此処に居る小山社長なんぞが私どもを老人扱にして困ります」
と言ふと、渋沢は
 「それが不可ないのだ、そんな事を気にかけて居てはならぬとたつた今それが条件であると言ふ事を、話したではありませんか」
と言つて、一本参らされてしまつた。
 それから一緒に連れ立つて各室を見て廻つたが、植字場に行つても印刷場に行つても、相当科学的な質問をした。漫画室から展覧室に行くと、福沢先生の書が掛けてある。渋沢はそれを一々読んで批評をする。さう言ふ風に何事に接しても倦まずに見て廻るのであるから、私は今更ら此人の精力の絶倫なるに驚かざるを得なかつた。
  渋沢子爵の応対振り
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 渋沢が政府の大官と話して居るのを傍で聞いて居ると、非常に丁寧な言葉使をする。今の大臣は勿論、二三十年前の大臣だからと言つて大抵渋沢の方が先輩であるから、さうまでするには及ぶまいと思つて見た事もあつた。併し渋沢の丁寧な言葉使は、阿諛の為めではない、卑屈で言ふのではない、若い時に幕臣として君側に仕へて居たから、自然、言葉が洗練されて居るのだ。即ち、当時の幕臣言葉なる文化語に熟達して居るのであるから、田舎者の我々にはそれが丁寧すぎるやうに聞えるのである。其証拠には、部下の者と話をしても、矢張り同じやうに言葉が丁寧であるではないか。
 更に又、渋沢は言葉使が丁寧であるばかりではない、偶々、見ず知らずの書生などが訪ねて来ても、閑さへあれば会つてやる、そして丁寧親切に言ふ所を尽さねば止まない。渋沢の家に話に行つて、一応それが済んで帰りかける、廊下で又其話を続ける、玄関に出て来て、又引き止められて話されると言ふ事は、訪問客の常に経験して居る事である。少し執拗すぎるやうだが、要するに何処何処までも、意を尽さねば措かぬと言ふ心があるから、斯うなるのだ。而して精力が満ちて居るから、紳士を扱ふにも書生を扱ふにも同一の筆法で、言葉使や取扱を丁寧にするばかりでなく、何処何処までも面倒を見てやらうとするのである。
  どこまでも親切、人を捨てず
 渋沢の演説は又有名なものである。例の論語を引用して諄々として説き起すが、所々に滑稽を交へて聴衆を笑はせるあたりは、実に手に入つたものだ。声は皺涸れて居るが底力がある。江戸弁であるが、錆があるから自ら権威も備つて居る。此調子で、祝詞、答辞、挨拶と言つたやうなものを今日までに何遍やつたか知れぬが、一つも同じ事を言はないで、それが相応に演題に因んだ趣向を凝らして来る。或時、あんな巧い演説を何時考案されるのであるかと訊いて見たら、馬車の中で考へて来るのだと言はれた。其時分はまだ自動車がない頃だ。朝早くから夜遅くまでも勉強されて居るのだから、馬車の中では居眠りでもして居るのかと思つたが、矢張り演説の腹案を考へて居るのであつたやうだ。
 渋沢は朋友や昵近者を何時までも捨てない、斯う言ふと何んだか依估贔屓でもするやうに聞えるが、決してさうではない。人々それぞれの才能に応じて発展すべく指導するのを怠らないまでである。
 人に依ると、一過失を見出すと直ぐに之を蹴り倒して省みないやうなのがある。
 渋沢は過失があれば、それを改めさせて善導する事を怠らない。それだから渋沢の門下には比較的成功者が多い。先代古河市兵衛が銅山王となつたのも、渋沢の指導に依るのだ。浅野総一郎などは、兎角世間から悪評されるが、渋沢は之を何処までも弁護して今尚、此人の善導に尽して居るやうである。啻に人に対してのみではない、事業に対しても其の通りである。一旦、よいと思つて事業を起し、株主を募つた後にも、それがうまく行かない、傍を向いて省みないと言ふ人がある。甚しきは発起者として先頭に立つた人が、一朝、事業の不可なる
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を見れば、真先きに株を売り抜けて平気な顔をして居る人もあるが、渋沢の責任観念は、迚もそんな事をするのを許さない。人が損をすれば自分が損をするのは勿論、斯う言ふ場合は、満身の力を注いで恢復を図る。一年かかつても二年かかつても見放さないで、扶持看護するから、悪いものでも遂には全快して健康体になる。斯う言ふ事は責任観念から努めてするのであると思はれぬでもないが、さう言ふ事を自覚せずして本能の自然的衝動に依つて斯うするのだ。それだから、部下の者までも之に感化せられて献身的に働くやうになる。而して事業が結局立ち直る。現に渋沢の関係した事業で、全く形なしになつてしまつたものは聞かないではないか。
  渋沢は金持ではない
 渋沢は理想家ではない、実際家である。然も時世の進運を認めて其先頭に立つて行く事を怠らない人だ。論語は平凡な修身書である、論語を愛読して居る渋沢は、平凡な実際家であると私が言つたので、渋沢門下の人から酷く怒られた事があつた。併しそれを怒る人が無理である。理想家は兎角、奇矯で世に容れられない、円満純正なる思想の持主であつたからこそ渋沢は明治の初年から今日まで尊敬されて居るのだ。此人の立派な精神は、奇矯でない丈けそれ丈け多くの人々を感化したのである。斯う言ふ意味から言へば、渋沢が実業界の聖者であるとまで言はれ得るのは、畢竟、理想を夢見る人でないからである。
 渋沢は金持でないとは言はれないが、今尚決して大金持ではない。渋沢自身の言ふ所に拠ると、今の地位を辛くも保つて行くだけの身代を持つて居るに過ぎぬと言ふ事だ。渋沢同時代の人で、財界に関係のあつた官吏でも一億円以上の金持ちになつて居る人すらあると言ふ噂があるのに、渋沢が辛くも其地位を保ち得る丈けの金よりないと言ふ事は、如何に廉潔の人であつたか、私慾を捨てて居た人であつたかが分るではないか。渋沢が第一銀行の頭取として持つて居た株が騰貴して、其上に増株を貰ひ、子が子を生んで利益した事は慥にあるに違ひない。
 其他、自分が世話をした会社の株がよくなつたので儲けもしたらうが、それとても、儲けようと思つて持つて居たのではない、頼まれて持つて居たに過ぎない。斯う言ふ頼まれて持つたものの中には、損をしたのも、潰れてしまつたのもあるに違ひない。
 それだから渋沢の自称する資産額は何等間違がないと思ふ可きだ。併し財界に居る以上は、金持になるのが目的である。金持になつた人は成功者で、金持にならぬ人は失敗者だと言ふ人もある。其意味から云ふと、渋沢は慥かに失敗者だ。而して渋沢が斯う言ふ意味からの失敗者であるだけ、それ丈け偉大なる人物である事を見るのだ。どうか今後とても、斯う言ふ実業界の失敗者は出て貰ひ度いものである。
                   (昭和二、六、一五稿)