デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

余録
雑誌に掲載せられたる栄一論
一一 実業之日本 第三一巻第一九号 昭和三年一〇月

■資料

一一 実業之日本  第三一巻第一九号 昭和三年一〇月   【渋沢子爵米寿記念座談会】(DKB80102m)
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一一 実業之日本  第三一巻第一九号 昭和三年一〇月
    渋沢子爵米寿記念座談会
             出席者(イロハ順)
           第一銀行副頭取  石井健吾
           堀越商会主    堀越善重郎
           貴族院議員    大橋新太郎
           貴族院議員 男爵 中島久万吉
           第一生命保険社長 矢野恒太
           山下汽船社長   山下亀三郎
           大日本製糖社長
                    藤山雷太
           貴族院議員
           浅野セメント社長 浅野総一郎
           第一銀行頭取   佐々木勇之助
           実業之日本社長  増田義一
           編輯同人 ○略ス
  矢野君が居るから気強い
 例によつて、工業倶楽部の四階の一室を会場に充てる。さすがに初秋の風は爽かに通り、昼間の汗を気持よく乾かして呉れる。日は九月十日、夕闇が徐々に迫つて来る頃、正五時、先づ大橋新太郎氏が先登第一として、続いて堀越善重郎氏、佐々木勇之助氏、石井健吾氏、矢野恒太氏等順次顔が揃つて、座は漸く賑やかになる。
堀越 どうも今日の会では、何といつても佐々木さんには叶ひませんナ。
大橋 全くです。私なども何のお話もなくて弱つてるんだが、しかし今晩は矢野君が出席してくれたんで、馬鹿に気が強くなつたよ。アハハ………。
矢野 いや冗談いつちや困る。私なんかにはそれこそ何のお話もありません。私が渋沢さんに御懇意願ふやうになつたのはつい最近のことで、渋沢さんが我国財界のピカ一になられてからの話だから・・そこへ行くと堀越さんなどは古いものですからね……。
堀越 いや大した事もありませんよ……。
 そのうちに浅野総一郎翁が見え、中島久万吉男、山下亀三郎氏も見えたので、増田社長は立つて今晩の会の趣旨を述べ、渋沢子爵の我国財界其他各方面に対する功績を感謝し、多数の各位が御多忙の中を繰合せられて出席されたことを深く謝し、偉人渋沢子爵について
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各位の感想、知らるる限りの美談、逸話等、腹蔵なく発表されんことを希望した。
増田 どなたもお忙しくてゐられることは勿論だが、その中にも堀越さんと矢野さんとはこれからまだ、も一つの会合に出席されるのを特に少時間お繰合せ下すつたのだから、このお二人に先にお話し願ひませう。――堀越さん一つどうぞ。
堀越 どうも私が先陣を承つては……。
矢野 だが堀越さん。どうせ一度はヒツパリ出されるものなら、止むを得ない、早くやつて了はうぢやありませんか。
堀越 アハハ……ならお先に御免蒙りませうか。
  何も彼も兼備の偉人
堀越 私の子爵に対する印象は、余りに私が子爵の恩恵を多く蒙り、崇敬の念があついために、或は誤つてゐるかも知れないが、第一には世界に今後ともあれだけの偉人は出ることがないと思つて居ります。尤も社会自身が今や随分進歩して来たから、あれだけの偉人の出る必要もないが、英邁の識見と絶倫の精力を持ち、学者であつて事業もやる。私はよくこれと同じ人物があるかどうか調べて見ましたが、私は嘗てこれほどの人に出会つたことがない。それなら何故左様な偉人が出現したかといへば、世間がこれを必要としたからだと思ひます。当時の日本は事業を起し、法律を制定し、一切のことをこれから創めなければならないといふ時世であつたからでせう。誰が子爵の後継者たり得るかは私には解りません。それは専門的に優れた人はありませうが、何もかも兼ね備へた偉大な子爵の如きは到底なからうと思ひます。
 この時藤山雷太氏出席、氏はこの会に出席するため避暑中の箱根からわざわざ駆けつけられたのである。
  ルーズベルトの讃辞に不満
堀越 こんなお話があります。子爵が明治三十五年、初めてアメリカにいらした時、ルーズベルトにお会ひになつた。その時に氏は日本開国以来の進歩の著しいことを賞め、日本の美術の立派なことを褒め、また日清戦争に勝つた日本陸軍の偉大さ、三十三年の北清事変に際し、日本兵の勇敢さを口を極めて讃へた。その時子爵は余りお喜びにならなかつた。そして「あなたは今日本の美術、兵制のことをお褒めになつたが、日本の商工業のことに就ては何のお話もなかつたのは誠に遺憾だ。しかしこの次にお目にかかつたときには、日本の商業についてお話をしよう」といはれた。
 何しろ当時の我が国の貿易は僅々五億位しかなかつたのですから振はなかつたものですよ。その後明治四十五年に渡米され、次に大正四年のパナマ運河開通博覧会のときもいらつしやつたが、その時にはル氏が、「この前には貴下の御不満足を買つたが、この頃は日本の商工業も非常に進歩しました」といはれ、子爵も大変喜ばれました。その時の貿易額は十二億位だつたのですが、その後四年経つて大正八年に子爵がまた渡米されたときには、欧洲戦争の影響もあつて貿易額は四十二億に達してゐたが、その時は既にル氏は亡くなつ
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てゐた。若しル氏がなほ存命でこの隆盛を見られたならば、さぞ喜ばれたことだらうと子爵も惜しまれてゐました。
増田 それは実際惜しかつたですな。
  アメリカ人渇仰の的
堀越 アメリカに在留の日本人は実に子爵を神様の如く、救世主の如く考へて居ます。そして何だ彼だと、子爵があちらへいらしつしやる度毎にいろいろなお願ひを持出す。実際子爵は彼地の移民問題や土地の問題について非常に力を尽され、子爵のおかげで解決を見た問題が尠少でないので、在米邦人がかう考へるのも無理がないのです。まだ移民問題だけは解決されてゐませんが、一日も早くこれが解決されて、日米人が対等にやつていけるやうにお願ひ申したいといつてゐます。
 またアメリカ人からも、子爵のやうに尊敬されて、自分もあの如き人物になりたいと思はれてゐる人はないですね。日本でも同じですが、アメリカでも是非子爵と交際願ひたいと渇仰してゐる人が非常に多い。実に一種特別な人気があるやうです。アメリカに於て日本人で有名なのは大隈侯爵と渋沢子爵とだが、渋沢子爵は殊に然うです。先き頃死んだジャッヂ・ゲーリー氏などは子爵のアメリカにいらしやることを熱望してゐる。大正六年にかれが来朝して親しく子爵と話をされて以来、お二人の心持は一層結びついたやうです。
  ゲーリーの悲しき思出
堀越 しかし最後に私が最もゲーリーのために悲しく思つたのは、去年私がこちらへ帰るときにかれに会つたら、かれは
 「渋沢子爵に是非もう一度会ひたいが、子爵にアメリカへ来ては戴けまいか、お願ひしてみてくれ」といふ。そこで私は「子爵よりも貴下の方がお若いぢやないか。子爵が来るよりも貴下が行かれたらどうか」といひましたら、
 「いや私はいろいろな事情があつてなかなか不在にすることが出来ないから、子爵の方からおいでが願ひたい」といふ。
 「子爵はもう高齢であるから、御本人が希望されても親戚の方達がとてもお許しになるきづかいがないから、それは到底駄目でせう」と私が答へると、ゲーリーは非常に失望したらしい様子で、も一度会ひたいと二度も三度も繰返して居りました。それは五月の四日の話ですが、間もなくゲーリーは八月十五日に死んで了つたのです。両方のためにお気の気の毒に堪へぬことで、今度も私は子爵のためにその墓前に代拝して参りましたが、その墓は実に立派なもので、(増田社長に)グラント将軍の墓をあなたは御存知でせう。恰度あれと同じですよ。
増田 在留日本人が救世主の如く子爵を慕つてゐる、それは尤もだがアメリカ人は子爵をどう思つてゐますか。
堀越 Grand old manといつてゐます。アメリカでもこの尊称で呼ばてゐる[呼ばれてゐる]のはワシントンとリンカーンの二人しかない位で、これを以て見ても子爵の彼国に於ける信用の絶大なる事が証明されます。
  歓迎会廻りをする男
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増田 アメリカ人の感激した事実といふものは何か無いでせうか。
堀越 すべてが感激すべきことばかりなので、特にこれといふことも見当りませんが、明治四十二年に我国の実業団が向ふに行つたときどこの人だつたか覚えてゐませんが、渋沢子爵の人物を慕つて是非会ひたいといつて、クリーブランドの歓迎宴に出席し、ニューヨークの歓迎会にも出席し、またインディアナポリスの宴会にも出席するといふ風に、三度四度子爵を慕つて随いて廻つて喜んだ人がありましたよ。
増田 自然に人々を惹きつける偉大な人格の力があるんですね。
堀越 ほんとにさうですね。
山下 君の話は非常に面白い。も少し話して下さい。
堀越 いや今度は矢野君にお願ひしよう。
矢野 まアも少し話してくれ給へ。
堀越 アハヽヽ、もうありませんよ。――しかし何ですね、アメリカの経済、財政の方面の人々が皆子爵には感心してゐますね。子爵と懇意にしてゐる人々にはゲーリーを始めストロングやフエバンや有力な人々が非常に多く、フエバン氏の東大に講座開設のために寄附した二十万円も子爵が居られたからのことで、地震の時の巨額の義捐金も、子爵を頭において寄附した人が非常に多かつたやうです。
  渋沢子爵の偉い理由
藤山 堀越君のアメリカのお話の出た序に、私のアメリカに於ける経験をちよつとお話したい。私が大正十四年にアメリカへ行つたとき労働問題についてヷンダリップに面会したら、非常に話が弾んで長いこといろいろな話をしたが、その時私が、日本では誰が一番偉いと思ふかと尋いたら、彼は「それは渋沢子爵だ」と答へた。その理由といふのが面白い。即ち世界大戦後日本が支那に山東を返すと声明したが、世界中の誰もがこの声明を信じない。自分は日本の友人としてこの声明を信じたいのだが、一体の形勢はどうも怪しい。ただ渋沢子爵が「日本人は一旦言つたことは必ず実行する国民だ。決して嘘はつかない。返すと声明した以上は必ず返すことは私が保証する」と言つたので、自分は日本は山東を必ず返すと人々に話してゐた。人々はその言葉を初めは疑をもつて聞いてゐたが、結局日本は山東を支那に返したので、自分は大いに威張ることが出来たといふんです。で日本へ帰つたらどうかこのことを話して子爵によろしく伝へてくれといふ話だつたですよ。
 この時写真撮影の用意が出来たので、一同卓を囲んだまま、三千燭光の電灯の下に記念撮影を済ます。増田社長は矢野氏に「も少し前へ出ないと写真に入らない」といへば、矢野氏はこれを受けて「いや僕が余り前へ出ると、これが反射が強すぎて写真師が困るだらうと思つて……」と例の偉大な頭をツルリと撫でる。一同失笑。
  外国人に対して信用絶大
藤山 それからニューヨークの歓迎会の席上で私がこのことを演説して、日本人は決して嘘つきではないといふと、ソシアルプレスの社長のストーン老人(八十八歳)が立つて、私は日本人が信義を重ん
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ずる国民であることをずつと以前からよく知つてゐた、といふ。ところがその源を訊せば渋沢さんの演説によるもので、通信社長だけによく知つてゐたのです。渋沢さんが外国人に大変信用が厚いといふ堀越君のアメリカの話にちよつと附加へて……。
堀越 大正八年だつたか、日米衝突近しとか、日米間の空気が悪化したとかいはれるのをジャッヂ・ゲーリーが新聞で見て、下層階級のものは何といはうとも知識階級は常に日本に好感を持つてゐる、知識階級は必ず健全な輿論を構成する。私の工場の二十万の職工は私一人によつて導かれてゐる。そんなわけであるから、米国にジャッヂ・ゲーリー在り、日本に渋沢子爵ある間は、日米間には決して間違ひは起らない、と言はれたことがあります。
増田 大問題が起るたびに渋沢さんといふわけですなア。
  論語人から見た渋沢子爵
矢野 堀越さんはアメリカの話をされたから私は論語からやりませう――渋沢さんが御維新後のわが国の経済を、今日までリードして来られた功績は誰でも知つてゐる事だが、只今の話のやうに、聞けば聞くほど益々その感を深くする。が、私の及ばぬ眼で見て正直にいふと、渋沢さんは決して何でも出来る人とは思はない。渋沢さんは智の人でもなく、また勇の人でもないと思ふ。渋沢さんがどんな仕事でも出来るのは、智仁勇のうちの仁の人である。即ち人格の人であるからだと思ふ。僕等の出来ないことでも、渋沢さんは人格の力で、何を企てても出来る。
 私が渋沢子爵に接近したのは最近のことであるが、前からのことを綜合して見ると、渋沢さんはどうも下らないものに取捲かれて、自分でも十分にこれを知つて居られても、つい情にほだされてしまはれる。そのため詰らぬ事に力を入れなさるナと思ふやうなことが非常に多い。ところが元が間違つてゐても、渋沢さんはその人格の力で曲りなりにもものにしてしまはれるけれども、下らぬ事を振切る勇気が、渋沢さんには無かつたやうだ。その点では森村さん(先代市左衛門氏)は人の好き嫌ひも甚だしかつたし、嫌ひなものは嫌ひときつぱり言ひ切る力があつたし、事業に進む力は安田さん(先代善次郎氏)や大倉さん(喜八郎氏)の方が強いやうに思ふ。が人格の点では渋沢さんであつて、米国人の渋沢さんを信ずるのも、智でもなく、勇でもなく、人格の力によつてであると思ふ。
増田 なるほど一つの見方ですな。
  一年に一冊づつ破る
矢野 渋沢さんは論語を読まれる。私も読む。そこで私達論語読み連中が集つて孔子協会を作らうといふことになり、その発起人になって戴きたいとお願ひに上つたとき、子爵の言はれるには
 「私は論語読みの論語知らずで、ただ自分自身の定規のために論語を読んでゐるのだから、人に論語を教へるとか、論語研究を勧めるとかいふことは私にはする資格がない」と遠慮される。
 「私はあなたが日本に於ても有数の論語研究家である事は世間の誰もが知つてゐる事で、この仕事はあなたを措いてはないのだから」
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と申しても、子爵はどうしても受けられないので、止むを得ず私が自分でやることにしたが、つまり子爵は、人に悪く言はれるのが嫌ひだといふ遠慮深いところがあるんですナ。
 それから私はポケット論語といふのより一層小型の、ダイヤモンド論語といふのを拵へて、これを子爵に差上げたが、子爵はそれを非常に愛されて、他の本を持たぬ時でも、ダイヤモンド論語だけは、常にこれを懐中に入れて持ち歩かれ、ひまさへあればこれを出しては読まれたので、これが一年に一冊づつ破れ、また一年に一冊づつ差上げることにしてゐた。
増田 随分熱心に読まれたものと見えますな。
矢野 いや多くの場合は「なかれ」といふ字は勿だつたか莫だつたかとか、何々なりやの「や」は哉だつたか耶だつたかとか字を調べられるためだつたやうでしたがね。(一同哄笑)後年穂積さん(故陳重男)が渋沢さんのために論語文庫を集めたとき、その中でその破れた幾冊かのダイヤモンド論語が一番大切なものであつたのに、折角集めたそれをあの震災で焼いてしまつた。
藤山 それは実に惜しいことをしましたね。
矢野 其の後はお年のせゐもあらうが、余り猛烈には読まれぬと見えて、一年一冊は破れないが、今度米寿のお祝ひのために孔子会では特に子爵のために読み易いやうに仮名交りの論語を出版して子爵に差上げることにしました。
  神様の如き仁者
矢野 私が感激したことに、先年渡米の際に子爵が私をゲーリーに紹介して下さつたが、その紹介状に「私の友人、孔子研究者の一人だからよろしく」と書かれたことです。この紹介状を見てゲーリーは「俺も孔子研究者だ」といつて「己れの欲せざるところ、これを人に施すこと勿れ」を盛んに使つてゐた。
  ともかく渋沢さんは何としても仁の人だと思ふ。人を踏みつけても押し通るといふことが全くない。また周囲から幾度も幾度も泣きつかれればこれを拒絶しきれない弱さがある。僕等が見てゐても、あんなことは為されなくともよかりさうなと思ふことが随分あるが渋沢さんの心情を考へれば全く神様の心持です。だからつまらぬものでも捨て切れずに拾はれるのです。
 私は考へる。渋沢さんほどの智者はザラにある――といつては少し失礼かも知れないが今後とも出ることもあらう。渋沢さんほどの勇者も他にある。けれども渋沢さんほどの仁者は他にはない。また今後とて容易に生れないだらうと。――多数のものが渋沢さんに集るのは、渋沢さんの徳を慕ふものもあるが、御利益を慕ふものも決して少くないと僕は思ふ。しかし結局これは仁の力だらうと思ふ。
増田 御尤もだ。実に親切だからね。だから断れないんですね。
  偉大なる国民外交の功労者
堀越 アメリカの話ばかり出て恐縮ですが、米国の凡ゆる人が渋沢子爵を愛してゐます。日米親善といふ言葉があるけれども、それは渋沢子爵と米国人との親善だといつてもいい位です。
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増田 実に国民外交の偉大なる功労者といふべきですね。
藤山 全くその通りです。
  ここで矢野、堀越両氏は止むを得ず中座されることになつたので一同室外に出て改めて記念撮影をなし、両氏は帰られ、他の一同は食堂に入つた。食卓で話の中心は最近増田社長が主として奔走した民政党のお家騒動のことで話に花が咲いてなかなか尽きない。床次氏の脱党問題に及ぶや、大江五十峯君山下氏を捉へて、床次に金を出したのはあなただといふ話もあるが本当ですかと例の奇襲を試みる。藤山氏は真に受け、そりや本当かい? と眼を丸くする。山下氏狼狽ててこれをうち消し「僕にそんな金があれば、こんなことしちや居ないよ」にワハハヽヽヽヽとなる。大橋氏は「政党だ政策だといつたつて結局は金なんだ。金が無くなりやすぐゴダゴタを起すんだから、馬鹿馬鹿しくてお話にならん」と憤慨する。
  食堂から再び前の室に帰つたとき、各位に署名をしていただく。そしてまた話をつづける。
増田 浅野さん。今度はあんたのお話をききたいものです。
  若いものは口が悪い
浅野 俺も今夜は渋沢さんが御出席かと思つて楽しみにして来たが、渋沢さんは御出席にならないし、大川さんも出て来ないんで、老人仲間がゐなくて張合がない。
増田 いや大川さんは全く残念だ。この前計画したときは、御自分の貴族院議員勅選の祝賀会を断つてまでもこの会に出席するやうに都合して下さつたほどだのに、生憎今度は樺太北海道方面を旅行されてゐて、明日の朝でなければ帰らないといふので、どうにもならなかつた。
浅野 渋沢さんや大川さんの前なら何を喋つても証明していただけるからいいが、かう若いものばかりの前で俺が喋ると、何だ浅野のおやぢ、また法螺を吹きやがると思はれるから、俺は恥かしい。(山下氏を指して)口の悪い男がゐるからな。
山下 いや法螺を吹くなんて思ひませんよ。
  浅野翁渋沢子に叱らる
浅野 それなら話さう、俺は随分古くから渋沢さんに御厄介になつたが、その最初は明治四年で、王子製紙へ石炭売りに行つたもんでさあ。その当時は谷敬三が支配人だつたが、頭取さん(渋沢子)が俺を御覧なすつて「あのシャベルを担いだ奴はなかなか働きさうな奴だから呼べ」と谷に云ひつけなすつた。そこで頭取さんにお目に懸つて、越中の藪医者の息子だが、田舎の藪医者ぢや面白くないから東京へ出て一旗上げようと思つて出て来て、横浜で竹の皮と薪炭を売つたが、石炭を商売してみようと思つてこれを始めたといつたら面白い奴だ遊びに来いとおつしやつた。そこで夜、仕事をすつかり終つて十時過ぎにお宅へ行つたら、穂積の奥さんになられたお嬢さんが出て来て、芝居の話をされた。俺は芝居の話は面白くないから帰らうといつたら、人の家をこんなにおそく訪問するのは失礼だと叱られた。それなら朝早く来ますと言つて、今度は朝七時頃行つた
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ら、こんなに朝つぱらから押しかける奴があるかとまた叱られた。その頃古河さん(故市兵衛翁)も早くから来て待つて居られたものですよ。だがかうしてお叱りを聞き聞き段々懇意になつたのだ。
   浅野藤山両氏の思出話
  渋沢子爵を巡つて浅野翁の昔話は綿々として尽きず石炭の売込からセメントの払下げ、それに保証人として子爵を煩はした話から、泰治郎氏がセメントの中で生れたために咳ばかり出るので、ついに住宅を工場と別にした話、瓦斯会社を創めて結局大橋新太郎氏に追出された話、海運に手を出さうとして子爵に叱られた話、結局御厄介になつて東洋汽船を拵へて大儲けした話など、それからそれへと話は移り、或は滑稽頷を解く失敗談、或はホロリとさせる人情話に一座を引入れる。
  浅野翁の思出話につれて、藤山氏も昔話を思ひ出し、明治二十六年、芝浦製作所所長を兼ねたまま王子製紙の専務に抜擢された話、東京市街鉄道と馬車鉄道の合併のいきさつ、続いて大日本製糖を、所謂日糖事件で酒匂博士が自殺した後に引受けさせられた話、また渋沢子が初代の東京商業会議所会頭で、次に中野武営氏が会頭となり藤山氏が副会頭を勤め、続いて藤山氏が会頭となつたが、渋沢子は常に蔭にあつて助言して居られたので、事実上は子爵が会頭だといつても差支へないほどであり、また日米親善の常務委員を子爵と共に勤めて居るといふ風に、公私ともにすべて子爵のお世話になり通して来たといふ話をされる。
  矢野君の説に賛成出来ぬ
藤山 私が王子製紙へ行つたときも、大日本製糖を引受けさせられたときも、私は到底その任ではないからと随分御辞退申したのですがいつも「私が責任を持つからやれ」といはれた。どんなことでもチヤンと筋の通つた場合には、情において忍びないことでも断然とこれを行はれた。その勇気は確かにあつた。その点私は矢野君とは見方が違ひます。非常に綿密な、頭のいい方で、事の表裏がチヤンと解つて居られるが、欺くに道を以てすれば君子もこれを受けることもあるので、これは止むを得ない。しかし条が徹つてゐれば必ず子爵は助けて下さる。矢野君のいはれる人格の力も勿論偉大であるがそれと同時に勇気もある方だと私は信ずる。
  この時既に八時半を過ぎたので、浅野翁は中座して帰られる。
  老朽老朽といふな
大橋 日本の実業界は勿論ですが、社会事業でも渋沢子爵の息のかからぬものはないといつていいと私は思ひます。実に子爵は我国の凡ゆる方面の恩人です。私も非常に恩顧をうけてゐますが、それが余りに多いのでお話が出来ない程です。私が多少とも実業界に顔を出すやうになつたのも渋沢さんのおかげで、子爵の御推薦をうけたことは何べんあるか知れません。私は元々博文館だけをやつてゐたのですが、牟田口元学君の馬車鉄道に関係したのが会社へ手を染めた最初だつたと思ひます。その当時から子爵の顔は知つてゐましたがその後瓦斯会社の改革を子爵に建言した折、改革は結構だから取締
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役になつてやるがよからうといはれ、明治三十六年頃瓦斯会社へ入つた。当時専務は須藤時一郎君だつたが、改革については大いに私と議論を戦はした。須藤君は怒つて辞めるといふので、子爵は私に専務になれといはれる。私はそれは困るといふので止むを得ず日下義雄君を第一銀行から引つばつて来ようといふことになつたが、須藤君は当時東京市会議長であり、須藤君の息子は会社の会計課長をしてゐるなどの関係もあつて日下君は引受けず、結局私が専務になつた。そこで人事のことを一切委せて下さいといふと、子爵はよからうといはれた。そこで私は徹底的に人員の大整理を断行し、幹部は殆ど全部解職し、そしてまた改めて採用した形になつた所などもあつて、子爵も随分驚かれたものでした。当時はまだ商議会頭をやつて居られたが「君は老朽老朽と悪口をいふが、老巧とか老練とかいふ言葉もあるんだから、あまり老朽老朽とはぬ方がいいぞ」といはれたこともあつた。
  それから暫く当時の思ひ出があつた後、
  頑として大蔵大臣を拒絶
大橋 私も子爵については矢野君の説に反対の意見を持つてゐる。それを証明する最も有力な事件といふのは斯うです。明治三十四年第一次桂内閣――ここに居られる中島君が桂首相の秘書官をして居られた。(中島氏も微笑を以てうなづく。――が出来上る直前、実は大命は井上侯に下つたのだ。すると都筑馨六男が私の所へ来て、「うちの親爺もいよいよ大命が降下したから、君もどうか援助してくれ。就ては大蔵大臣は渋沢子爵に頼むことにしてゐるから、君達もそのつもりで邪魔をしないやうにしてくれ」といふ。勿論私は邪魔する理由もないからよろしいと引受けたのですが、当時は渋沢さんも古稀にでもなれば一切実業界からは引退するつもりであつたくらゐだから、大蔵大臣ぐらゐ勤めてもいいと世間は考へてゐましたし、また井上侯とは大蔵少輔時代から互に助け合つて来た仲だから、井上侯もきつと自分のために大蔵大臣を引受けてくれるだらうと考へて居られたものでせう。ところが渋沢さんは辞退なさつた。終ひには山県さんさへも王子へ勧めに出かけられたが、渋沢さんはあくまで頑強に辞退される。なぜ引受けられないのかときいたら、私の事業は第一銀行だ。これを放つておいて大蔵大臣にはなれませんといはれた。
  国が大切か銀行が大切か
大橋 そこで今度は手をかへて第一銀行の西園寺亀次郎さんを呼びつけて、渋沢さんに大臣を引受けるやうに勧めてくれと頼んだが、西園寺さんが煮え切らぬ返事で埒が明かぬので、山県さんは怒つて「君は第一銀行が大切か日本国家が大切か」ときくと西園寺さんが「日本国家も大切だが第一銀行も大切だ」と答たので、山県さんに随分叱られたさうだ。ねえ佐々木さん、どうですか。
佐々木 ウフヽヽ、そんなこともありましたかねえ。
大橋 ともかく渋沢さんはどうしても引受けられなかつたので、そればかりが原因でもなかつたでせうが、井上内閣は結局成立せず桂内
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閣となつたわけで、これを以て見ても、渋沢さんが泣き込まれれば断れぬ弱い人だといふ矢野君の説は少し外れてゐると思ひます。
増田 今の話はなかなか面白い。
  伯爵になられても当然
大橋 また何でも引受けられるといふが、渋沢さんのやり方には危げがない。また一旦引受けたらこれを容易に捨てない。そしてついに成功して了ふ。若し浅野さんが企てたいろいろな仕事も、渋沢さんがやられなかつたら成功しなかつたかも知れぬ。私がも一つ渋沢さんについて申上げたいことは、渋沢さんの朝鮮に於ける功労です。朝鮮の合邦については伊藤さんなどの御功績の大なることは勿論でありますが、その蔭に渋沢さんの力に負ふところが実に大であると確信致します。渋沢さんと朝鮮との関係は中々深く、既に明治十年から第一銀行の支店を朝鮮に置き、朝鮮開発にその頃から眼をつけられてゐたといふことは実に敬服すべきことだと思ひます。その後合邦前には朝鮮の資本家と常に相会して交渉されてゐた。これが合邦にどれほど大きな力であつたかは申すまでもありません。渋沢さんといへば直ちに日米親善を思ふに不思議はないが、その外に日鮮合邦にも国民外交として大功労があつたのです。
  ともかく金融にしても保険にしても鉄道にしても紡績にしてもビールにしても、その他あらゆるものが渋沢さんの助成によつてなつたのである。我国経済界の大恩人、大功労者なのだ。官吏ならば少しぐらゐ外交に功労があつても、すぐ伯爵になるくらゐなんだから今度の御大典には渋沢さんの様な大功労者は、当然伯爵に昇爵されていいと思ひますね。
増田 さうですとも、本当に――。
  女房役の功労多大
大橋 それからまた、佐々木さんを前において失礼だが、渋沢さんがあれだけの色々の仕事をされたのは、渋沢さんの第一の仕事である第一銀行が、佐々木さんの如き人があつて後顧の憂ひなかつたからであると私は思ひます。
佐々木 どうも恐縮ですな。
藤山 いや全くその通りです。
中島 本当です本当です。
増田 そこで中島さんのお話を伺ひませう。
中島 佐々木さんのお話を先づききませう。
増田 いや佐々木さんは最後のとつておきに伺ふことにして、中島さんどうぞ。
  一言に尽す殺し文句
中島 どうも私はあまり御本山にお参りしたこともなし、また事業関係は全くなく、ただ無線電信会社の創設のとき、渋沢子爵が創立委員長で私が副委員長だつたぐらゐなものだから、さうした方面で余り話はないが、先年――大正九年、子爵になられた時にわれわれが祝賀会をやつた。その時の祝辞の文案を私に作れとの話で、私はいろいろむづかしい辞句を使つて文案を作つて見たが、どうも通り一
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ペンのものになつてしまつてよくない。そこで私は子爵の人格を一言の中に収めるやうな殺し文句はないものかと考へた。そこで大いに頭を悩ました結果「英雄の資を以て哲人の事を行ふ」といふ句を案出し、増田さん(子爵の秘書役増田明六氏)に「斯うした文句を考へたが、子爵に前以て御内見願はうか」と相談したら「子爵は英雄を好まれないから、これはお眼にかけぬ方がよからう」といはれた。私はこの文句に不安を感じてゐたが、他の名句も考へられないのでそのまま祝賀会の席上で読んでしまつた。
  「私は英雄が大嫌ひです」
中島 するとその後に子爵は立たれて、
 「私は英雄といふものがいかに世に害毒を流すこと甚しいかを常に思つて、英雄を非常に嫌つてゐるが、真の英雄といふものはそんなものでないことは私も知つてゐる。しかし私は決して英雄でも何んでもなく、況んや哲人などといはれる所は全くない。が私は英雄になりたいとは考へてゐる。つまり唯今頂いた祝辞は事実には相違してゐるが、私の理想について道破されてゐる。その点に於て私は感謝に堪へない」といはれた。そして乾杯の時にもこれをいはれ、宴を終つてからまたわれわれ幹事達に向つて
 「私は実はひそかに英雄の資を以て哲人のことを行ひたいと考へてゐた。哲人が俗人と交はらざれば利用厚生にはならぬ。哲人として志を行はうと思へば英雄の心を持たねばならぬし、また英雄だけでも仕事は出来ない。この両者が合致してこそよいので、それが私の理想だ」といはれた。子爵はこれを理想とされてゐたのみならず、やはり英雄の資を持つて居られ、哲人のことを行はれた人であると思ふ。私の殺し文句が全然当つてゐないこともなかつたわけで、子爵は単に仁の人であるばかりでなく、智もある、勇もある人だといふことが出来ると思ふ。
  いはゆる寿像問答
増田 有名な寿像問答を是非聞かせて下さい。
中島 寿像問答といふのは、今度のお祝ひで子爵の寿像を樹てたいといふので、大橋君などにそそのかされて私がお使役を勤めたわけだが、子爵はこれを御承諾にならない。いろいろお話したら「自分一存ではお答が出来ない。親類とも相談するから一週間待て」と言はれた。一週間後に正雄君が来られて「父はどうしてもいやがつてゐる。嫌がることを無理に強ひることもあるまい。」とのことであつた。そこで私は再び出かけていつて子爵にお目にかかり、少々議論してしまつたです。
  伊藤山県は運を拾つた人
中島 子爵は、自分は明治六年官を退いて以来全く政治に献替せぬから寿像に値しないとおつしやる。そこで私が言つた。十九世紀になつてからの例で、真に身を以て困難にあたつたものは何人あるか、世界に於ては二人ある。その一人は独逸のビスマルク、他はイタリーのカブールだ。明治の御維新にあたつて嶄然として抜けてゐたのは五人ある。一は私の郷里の土佐の坂本竜馬、二は君側にあつて岩
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倉、それに西郷、木戸、大久保の三傑で、他のものは悉く大勢に順応して時の流れに棹したにすぎない。自ら流れを導いたものこそ偉大なのであつて、流れに棹して進むのは凡人の仕事である。而して今日実業界にあなたが居られなかつたなら、明治大正昭和の今日はなかつたらう。今日に向つて進みつつあつたかも知れぬが、まだ到底今日まで来ることは出来なかつたらう。かういふ人こそ真に寿像に値するものだ。失礼ながら伊藤だつて山県だつてみな大勢に流されて進み、他の人にも拾へるものを拾つたに過ぎぬ。黄金を踏みダイヤモンドを拾つたとて、それはかれらの創意ぢやないのだ。轗軻不遇に終つた文豪、芸術家がその時の文化を作らなかつたら今日の文化はなかつた筈である。ラフワエロの時代の宰相は誰か、ゲーテの時代に独逸の国政を司つた人は誰か、それらの名を知つてゐるものはない。政治を掌るといふことだけが重要なもので決してない証拠である。
  御辞退は罪悪です
中島 それはそれとしておいて、若し渋沢子爵があなたでないとして第三者としてあなたが渋沢さんを見られたら、あなたは渋沢は寿像に値しないとお考へになりますか。――かう私が申上げると、子爵は、
  これが一つの大きな場所に、伊藤や西郷や大隈やその他大勢の国家の功労者の像を並べるといふやうなことであれば、自分も入れて戴いてもいいが、どうも私のやうな下町育ちのものはさういふことは面白くありすまい[面白くありますまい]、といはれる。
  いやそのお考へがよくない。下町は下町でいいので、あくまで下町でいかうぢやありませんか。今国家社会に対する大功労者の像を後世に残して、これを後の世の人々の教訓とすることは、現代が後代に対する義務ではないでせうか。後の日本を立派に造形するために最もよいことを、あなたが辞退なさるといふのは、あなたの罪だと存じます。日本の将来のことはどうなつても構はぬといふお考へはよくありません。まだあなたが生きて居られるから斯うしてお伺ひに出るが、若し後世の人があなたのお心持など全く考へもせずに勝手に下らぬものを拵へて、これが渋沢子爵の像だといつたらどうなさいますか。それよりもほんたうにあなたの御心持をよく知つてゐる私達が誠心こめて作つたものが正しく後の世に残ることの方がよくないでせうかと申上げたら、たうとう子爵も「お前に委せる」とおつしやつた。
増田 いやどうも流石の子爵も中島さんには適ひませんな。
  株式会社組織の大恩人
大橋 実業界に働いてゐる人達は、誰でも先づ自己の産を作るに汲々たるものがある。三井でも三菱でも、大倉さんにしても安田さんにしても、みな三井家三菱家大倉家安田家の事業といふものがある。つまり国家社会のためではあるが、先づ自己の財産を作らうといふのが目的だが、渋沢さんにはそれがない。渋沢家の事業といふものがない。自分に資産があれば、これを合本組織――今の株式組織と
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して仕事される。わが国の株式会社組織は最初から渋沢さんが力を尽して来られたもので、株式会社今日の発達は実に子爵のおかげであるといへる。
増田 山下さんに今度はお願ひしよう。
山下 いやもう皆さんのお話ですべて尽きてゐますから、大勢の大先輩の前で私のやうな後輩は何もお話はありませんよ。殊に佐々木さん石井さんと、こはい方お二人の前ではどうにも口がきけません。
佐々木 アハハ……、それはどうも恐縮ですな。
  感激に堪へぬ子爵の揉手
山下 しかし私は子爵の揉み手といふことを申上げたいと思ひます。それは子爵が何か演説されるときか、宴会の席上で挨拶されるとかいふ時には、どんな時にも必ず常にかうして揉手をして居られる。(山下氏は起つて子爵の揉手の型を示される)私は子爵がいかに謙遜な方であるかといふことに、いつも感激してゐるのです。
藤山 成るほど子爵はいつも揉手をして居られる。
山下 私は矢野君のいはれた心持は解つてゐるが、勇気の点では、矢張り反対です。私は渋沢子爵は大勇の人だと思ひます。こんな事を申すと頭取(佐々木氏)に生意気と思はれるか知れませんが、明治六年に子爵が役人を辞められ、これからはどうしても実業界でなくてはいかんと民間に下られたこと、これが大勇だと思ひます。八十九歳の今日まで、私の見るところでは、このくらゐ勇気のある方はない。勇気があり過ぎて御家庭では困つて居られるのではないでせうか。矢野君の心持は解つてゐるが、あの言葉は俗人は誤つて解釈するでせう。とに角人格は申すまでもないが、あのお齢であれほどの勇気を持つてる人は他にはない。その大人格を備へ大勇気を持つてゐられる子爵が、いつも揉手をして居られる。大正四年に私は子爵にお供して伊予の松山へ行きましたが、一日に中学、師範学校、女学校、小学校二つ、歓迎会と七ケ所で講演や挨拶をされた。私共でも迚も堪つたものではないのに、子爵はその時七十四であられたが、実に元気で、常に揉手をしながら話された。全聴衆は全く電気に打たれたやうに聴き入つてゐた。そして私は謙遜が如何に大きな感化力を持つてゐるかといふことを知つたのです。これは学ばんとして能はざることで、私が長い間子爵にお世話になつてゐて一番感激してゐることはこの謙遜な揉手の態度です。
  深切、丁寧、円満、勇気
増田 佐々木さん、あなたは随分長い間渋沢子爵の女房役として一緒に仕事をして来られたので、さぞいい話を持合せて居られるだらうが、あなたは子爵をどう見て居られるか、それを伺ひたいですな。
佐々木 そりや五十五年間もお世話になつてゐますが、見る眼は皆さんと少しも変りません。その中で取りわけて申せば、子爵は非常に親切な方で、何人にもお会ひになり、何人にも深切を尽されるからそれで色々なものを持込んで来るんですな。しかしそのやうに色々持込まれて来るのを、ものが間違つてさへ居なければ、どうにかしてやらうといふ親切から、色々お世話をなさるです。先ほども大橋
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さんのお話だつたが、極く円満ではあるが、自分の一旦決心されたことについてはあくまで邁進する方のやうに思ひます。古い話ですが明治十三年頃紙幣が大変に下落したことがある。これは西南戦争以来紙幣を濫発して多くしたからで、各銀行も政府もその発行してゐる紙幣を切つて下落を防がうと、大隈さんが両国の中村屋に銀行家を集めて相談した。その時大隈さんの政策に反対する者もあつて大隈さんが大変怒られたさうですが、渋沢さんは何としてもこれを遂行しようと決心され、自ら率先して第一銀行の多額の紙幣を切捨てられたために、紙幣を旧に復することが出来ました。
  渋沢さんは実に円満に色々な事を取計らはれるが、何処に於ても勇気があり、また山下さんのお話のやうに実に丁寧な方です。私は少年の時から使はれたのですか、丁寧に待遇されたもので、滅多に私共を呼びつけるなどのことはなかつたため、特別の用でもなければお宅へお邪魔もしませんやうな始末です。
  君は掠鳥の一羽か
増田 石井さんは佐々木さんとは違つて学校を出てから入られたのだから、佐々木さんとは異つた見方があるでせう。渋沢さんの人の使ひ方などについて……。
石井 いやその方面のことは一切佐々木さんがやつて居られたから、子爵のやり方がどうといふことは私達は存じません。それよりも私は書生時代、竜門社に居た頃のお話をしませう。
増田 それは一層結構です。
石井 竜門社といふのは渋沢さんが自分の金で書生を養はれた塾で、登竜門といふ言葉から採つたものです。その頃は尾高次郎氏が大将をしてゐましたが、子爵は全く干渉はされず、私達の好きなやうにさせておかれ、そしてこちらから教へを乞へばいつでも喜んで諄々として説かれるといふ風で、決して叱りつけるといふやうなことがなかつたです。私はその頃一つ橋の高等商業に通つて居ましたが、やはり竜門社にN生とY生といふ二人が一つ橋に通つてゐて、私は三人のうちの一番下級生であつた。その当時Y校長の排斥問題が起り、N生のクラスの人が退校されたりした。その時子爵がN生を呼ばれて、君もY校長排斥の仲間に入つてゐるやうだが、その事柄が理路整然としてゐるなら私も止めはせぬが、君達のすることは恰度樹の枝に群れとまつてゐる掠鳥が、一羽飛び立つと他のものが全部これについて飛び立つ、あれと全く同じことだ。お前もその掠鳥の一羽かといはれたので、N生は参つてしまつたことがあります。何か事があると、叱りはなさるが、諄々と説ききかせるといふやり方でした。
  またよく書生部屋へ来ては皆と一所になつて愉快に遊ばれたもので、深川に寄席があつて、面白い芸人などが来ると、それを呼んで来て家族の人々も私共もみな一所に聴くといふやうなことを大変楽しみにされました。
  天海僧正のことば
大橋 しかし人のために余りに深切であつたために、家の人々は随分
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困られただらうと私は思ふ。
中島 私はよく人に、一言にして何といへるかときかれる、その時私はかう答へる。昔天海僧正が家康に「俺はどうして天下をとれたらう」ときかれたとき「公の如きは天分豊かな人といふべきでせう」と答へたが、それと同様に私も子爵に対して「天分豊かな人」といふのが一番当つてゐると思ふ。
大橋 増田さん。中島君がいつか日本倶楽部で日本海海戦の話をすると、島村軍令部長が非常に感心した。素人の戦争談を軍人が感心するといふのだから、どうも中島君の話上手には感心しますよ。
増田 何しろ渋沢さんをやり込めたんだからね。
中島 いや、やり込めたんぢやない。どうもさういはれると僕は非常に困る。ただ私が考へてゐることを遺憾なく述べたといふだけのことだ。
増田 渋沢さんをチャームしたとでも云ふんですな。
中島 決してやり込めたんぢやない。私はいい機会だと思つたからなんで………。
大橋 今天海だね。
一同 アハハ……。
藤山 いや渋沢さんは意志の強い人ですよ。
石井 それは本当です。決して泣き込まれて厄介を負はされるやうな人ではありません。ただ歎くに道を以てすれば、これは止むを得ないことですからね。
 この時既に十時十分前。偉人渋沢子爵に関する話は滾々として尽きる所を知らぬが、余はまたの機会に譲つてこれにて散会することととした。非常に愉快な会であつただけに、時間のために散会の止むなかつたことが一層惜しまれてならなかつた。