公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
一二 実業之日本 第三一巻第二〇号 昭和三年一〇月 私がうけた渋沢子爵の恩義 浅野セメント社長 浅野総一郎(DKB80103m)
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一二 実業之日本 第三一巻第二〇号 昭和三年一〇月
私がうけた渋沢子爵の恩義
浅野セメント社長 浅野総一郎
◇子爵に対する私の第一印象
渋沢翁が温厚篤実な君子人であられることは、今更言ふまでもないが、子爵は又実業界の人だけあつて努力愛の人で、且つ胆斗の如き宏量の持主である、其理由を語る代りに子爵と私との関係を事実に基いて左に記して見よう。
渋沢子爵と私との交際は「十年一昔」といふ言葉を借りて言へば、五昔の五十余年前、即ち私が未だ若々しい時分で、大塚屋と呼ばれた一賈の石炭売りに過ぎなかつた時代からである。思へば古い御馴染である。私は明治四年に、単身江戸に来て、本郷森川町の大塚といふ下宿屋に草鞋を脱ぎ、御茶の水や眼鏡橋(今の万世橋)の路傍に冷水売つて糊口を凌いだ位であるから、江戸に知人のありよう筈もなく、横浜に竹の皮や薪炭を商つて段々地歩を進めた位であつたから、当時既に財界の利け者となつてゐられた渋沢さんに仲々近寄れよう訳はなかつた。又私自身の考へが、徹頭徹尾独立自尊と今に変らぬ奮闘努力の
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全精神に於て殆ど権門を顧みず、只々「稼ぐにおひつく貧乏なし」の信条に生きてゐたから、当時渋沢さんを怎う斯うの観測は少しもしてゐなかつた。
私を渋沢さんに紹介したのは王子抄紙部(王子製紙会社の前身)の支配人格であつた故人の谷敬三氏であつた。谷敬三氏からは王子抄紙部へ石炭を売込むについて御引立を頂いてゐた。その谷敬三氏を最初私に紹介して呉れた人は、横浜の朝比奈といふ御医者さんである。
私は学問がないから、身を以て其足らぬ点を補ふといふ方針で、石炭屋になつても、決して人足任せにせず、船が着くと自ら人足に交つて荷上げを手伝つた。王子抄紙部の河岸で、私が人足姿で労働するのを、時々当時の王子抄紙部総理であつた渋沢さんが御覧になつてゐたと見えて、或時、谷支配人が「大塚屋サン、殿様が(渋沢さんのことを殿様て言つてゐたやうに記憶する)一度宅へ遊びに来いと言つてゐられるから御伺して見なさい」と伝言されたことがある。然し 私は「仲々遊ぶどころですか」と腹で答へて其儘となつてゐた。
其後月日は記憶せないが、私が始めて夜の十一時頃御宅へ渋沢さんを訪問したことがある。玄関に訪れると、書生さんが十人近くも遊んでゐたと記憶する。私は「遊びに来いと言はれたから参りました」と通して貰ふと、渋沢さんは「他人の家を訪問するのに夜の十一時は余りヒドイよ」と小言をお仰つた。渋沢さんの側に奥様と十二三の嬢さん(後の穂積陳重夫人)とがゐられて、芝居のお話をなさつてゐられたが、夜が遅いものだから嬢さんが「父さま寝ませう」とせがんでゐられたことを憶えてゐる。夜遅く訪問したことを渋沢さんが小言をお仰るのも無理ではなかつた。けれども私は「毎晩十時近く迄働いて其日の商を帳面に付け、それから風呂に行つて人を訪ねるのですから、どうしても十一時過ぎになります」とお答へすると、渋沢さんは私の働き振りを非常に賞めて下さつた。其の時のお話の中に「江戸で人となるには、どうしても腕で飯を食ふ覚悟が必要だ」との御一言があつた。私は無論其覚悟で江戸に来たのであるから渋沢さんの此一言は誠に我意を得たので腕で飯を食ふ私の覚悟は益々固められたといふ次第である。これが渋沢子爵に対する私の第一印象である。子爵が如何に独立不覊努力愛の人であるかが想像出来ようと思ふ。親の財産を当てにしたり人を頼りにする様な根性では到底此世では成功は難かしい。
◇セメント業と渋沢子
次に渋沢さんに就て思出されるのはセメント事業である。官営事業であつた深川のセメント工場(現在の浅野セメント会社深川工場)は政府が明治四年以来、二十一万五千円の資本を投じて経営して来たけれども、セメントの需要の少ない当時のこととて、収支遂に償はず、明治十二年に至つて、休止することになつた。私は明治八九年の頃より、コークスを納入して出入してゐた関係から、セメントの将来に就て心潜かに大きな期待を抱いてゐたので、どうかして此セメント工場を払下げて一身籠めて働いて見たいといふ希望を抱いた。それにしても当時としては稀れに見る大工場のことであるから、仲々自分一人の力では及びさうもない、尤も当時私は第一銀行に六万円か七万円の預
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金を持つてゐたやうに覚えてゐる。私は横浜の知人朝田又七氏を仲間に引入れようといふ下心から、或日、朝田氏を深川迄伴れて来たことがあつた。処が朝田氏は工場の外観を見ただけで「君はこんな大きなものを払下げてどうしようといふのか、殊に素人が払下げるなんて無謀極まる」と業々しく驚いて逃げてしまつた。仕方がないから、私はこんな時こそ渋沢さんの力を借りようと決心した。これが渋沢さんと私との関係を密にする最初の動機であつた。私は渋沢さんに此希望を申出たら、渋沢さんも最初は大反対で「政府がやつてさへ見込の立たないものを、君が手を出すなんて乱暴極まる。そんな需要の遠いものをやるよりも紡績をやれ」と言はれて仲々御承諾下さらぬ。さればとて紡績のやうな糸繰りの商売は私の柄でなし、私も困つたが、尚も執拗に御頼みすると、渋沢さんは「それ程迄に君が熱心に希望するなら政府も喜ぶことだから、君の熱心を買つて一ツ尽力して見よう」と御承諾下さつた。そこで、渋沢さんはガタ馬車(渋沢さんのガタ馬車といつて有名なものであつた。確か岩崎さんと渋沢さんとの二人より外に馬車を走らす人はなかつたと思ふ)を早速走らせて、工部卿の山尾氏、工作局長の大鳥圭介氏、大参事の中江弘氏等を御訪問になつて、種々御骨折を頂いたので、中江弘氏の御配慮から「浅野に損をさせても気の毒だから、二三年見込みの付く迄貸下げよう」といふことになり、明治十四年に始めて私が手をかけることになつた、此時渋沢さんは、私の熱心を買はれて、若し損をしたら自分は三分の一だけ責任を負ふから、安心して働けと励まして下されたのである。渋沢さんの此一言が当時私に如何程の力となつたか判らない。然し経営は無論楽ではなかつた。私は朝の六時から職工と共に終日働き通し、夜も夜中の二時に起きて、必ず工場内を一応見廻るといふ有様で、其時分の苦しみは、到底口や筆では語れない。遂に私はセメントで咽喉を痛めて血を吐いた。渋沢さんの出入の高木兼寛博士に診断して頂くと、肺病ではないが、大変にセメントで咽喉を痛めてゐるから、二三ケ月の静養を強ひられた。それでも私はセメント工場から引越もせず、撓まず屈せず働いてゐたら、或日、高木博士が青木周蔵氏を伴つて猟の帰りに立寄られ「君は金と命とどちらが欲しいのか」と言はれたから、私は「両方とも欲しい」と御答へした。すると高木氏は、青木氏を顧みて「浅野にかかつてはかなはない」といつて帰られたことを憶えてゐる。実際私の当時の働き振りは全く命懸けであつた。私は漸く払下以来十六七年間人知れぬ苦心を重ねて、漸く五十万円の資産を作つた。そこで払下当時を顧みて渋沢さんの御恩義に対し、即ち渋沢さんが損をした時は三分の一の責任を負うてやると励まされたその恩義に酬ゆるために、私は五十万円の三分の一十六万五千円を差上げますと申上げたら、渋沢さんは「私は貰つたも同じだから」と云はれて御自身は御取りにならず、其十六万五千円を大川氏や尾高氏に分配せられて、御自分は別に安田、徳川両氏と共に十万円宛現金を出資されて、初めて八十万円の浅野セメント合資会社を組織したのであります。これが明治三十一年二月であつた。
渋沢さんは斯くの如く慾のないお方で、人を世話しても心に慾心が
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ないから、決して代償を受けられない、渋沢さんの高潔な心事は此一事で立派に証拠立つと思ふ。又払下当時非常に危険視されたセメント業を最初から反対せられたにも拘らず、いざとなれば非常に親切に奔走もし、又三分の一の責任を背負うて保証人になるなどといふ点は流石に実業家で、その度胸の良いことは、並大抵の人間では出来ない芸当である。
◇失敗した三つの事業
明治十年から十五六年にかけて、政府の事業で払下げになつたものは可成りに多い。其中で私が手掛けて成功したものは、セメント事業唯一ツであるが、失敗したものは三ツもある。第一に瓦斯局、第二に釜石鉱山、第三に三池炭礦、これ等は何れも渋沢さんを煩はしたのであるから、顧みれば尚更面白い事件である。
東京瓦斯局は東京市最初の市営事業である。
石の上にも三年といふことがある、子供でさへも三年経てば独りで歩む。三年は劣か五年六年の歳月を経過しても瓦斯局ばかりは独り歩きが出来なかつた。渋沢さんが局長で西村勝三氏が副長格、その下に筒井与八氏が支配人格で業務を統轄した。過去数年の間に費した資金が市民の膏血二十一万円、世間ではボツボツ非難の声を放し初めた。瓦斯局は私にとつて石炭の御得意先であつた、出入してゐながら事業の急所急所を探究して見ると、瓦斯は意外に儲かる仕事である。儲からなければならない理窟である。それが毎年欠損に欠損を続けて、世間の非難を受けてゐる。局長の渋沢さんには判るまいが、商人といふ立場から覗いた私の眼にはチヤンと利益の逃げ行く道がハツキリと判る。或時、私が渋沢さんに「瓦斯局へ石炭を売りに行く毎にコンミツションを請求されますので困ります」と密告したことがある。経営の杜撰と人心の腐敗、瓦斯局の独り歩きは仲々出来さうにない。思ひ切つて私が当時の市会議員沼間守一、丸山伝右衛門、須藤時一郎の諸氏に「瓦斯局があの態では市民の負担が大変だから、私に払下げて貰ひたい」と交渉すると、持て余して居た当時のこととてバタバタ話が纏まつて、市の出費二十一万円を、十ケ年賦で、皆済の満期迄、瓦斯局は市へ抵当にするといふ簡単な条件で、議員と私との間に内々の約定が成立した。そこで私は局長の渋沢さんを御訪ねして「瓦斯局委員五名が同意しましたから、どうか私に払下げて下さい。仲々今日の有様では整理は出来ますまい。私がやれば必ず儲かります、あなたも仲間になつて下さい」と同意を求めると、渋沢さんは沸然色をなして憤られた。「瓦斯の儲かることは知つてゐる。利益があればこそ多忙の中から俺は押して世話してゐる。市に二十万円以上も損をさせてといて[させておいて]これからといふ段になつて払下げるなんて委員の連中も怪しからぬ、市民へ立派に申訳の立つやうにしてからでなければ不可ない。俺は市のものなどを払下げて儲けようとは思はない」と剣もホロロの御挨拶で、大変に御機嫌が悪い。私としては、経営を改めて、市民にも瓦斯料金を安くし、一挙両得の策を献策したつもりであつたから、尚も執拗に追ひ縋つて、「市に損をさせようといふのではない。年賦で立派に償還しよう、利息も払はうといふのですから何とかして下さい」と
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いふと「何とも出来ない、俺が預つてゐる間は絶対に反対だ」といふ御意見で、折角の瓦斯局払下げ問題も打壊されて終つた。然し其時私は渋沢さんといふ人は実に尊敬すべき人だと思つた。私も以来、親身に瓦斯局のために働いたので、後には瓦斯局委員に任命された。明治二十七年、瓦斯局は遂に払下となつて株式会社組織となつたが、此時私は常任監査役に推された。後、取締役となつて前後二十数年間御勤めした。
◇釜石鉱山の払下
次は明治十四年十二月のことであつた。釜石の鉱山が煉鉄所と共に払下げになるといふことを耳にした。尚残物を切売りするから買ひに行かぬかと阿部浩氏に進められて、釜石に向つた。釜石に来て見ると二十五間に五十間の建物が二戸前建つてゐる。煉鉄所である。鉄板が一面に張つてある。構内の空地に六千噸の鉱石が山積されて雨晒しとなつてゐる。設備の堂々たるに似ず、全てが雑然として、廃鉱の面影がある。此山を維持するものがあるならば、此六千噸の鉱石を無代で附与するといふ条件が附けられてあつた。煉鉄所の払下価格は一万二千五百円といふことだ。
煉鉄所から鉱坑への五哩の山道は、鉄道が布設されてあつた。その軌道の上を揺られながら探見すると、処々に鉄錆らしい赤い鉄焼きが岩の切れ目切れ目に流れてゐる。「此山に鉄がないとは受取れない」といふと、阿部氏は「何、無いといつてゐるよ」平然たるものであつた。二人が鉄坑から煉鉄所へ帰つて来ると、横山孫一といふ人と、藤田伝三郎の代理で杉山某といふ人とが買ひに来てゐた。三人で此山を処分しようではないか。煉鉄所の不用品の払下げも三人で引受けようと相談してゐたのに、杉山某は独断で横山と私とを出し抜いて、五哩の軌条を只の八百円で、役人を何う説き伏せたか窃かに払下げて終つた。杉山ばかりが買手ではない、横山もゐる俺もゐる、然るに専断で杉山にのみ交渉するとは幾らお上でも公明の態度とは言へますまいと私は釜石を引上げた。帰つて来た時が丁度大晦日であつたと思ふ。
明くれば明治十五年正月の元旦、初日の影を踏んで私は渋沢さんの御宅を訪うた。そして釜石の鉱山払下を懇願して力添へを乞うた。釜石には鉱石がある、資本金十万円もあれば沢山だ。藤田に頼んで五哩の鉄道を買戻す。独逸人の技師が二百四十万円の大金を注ぎ込んだことは確かに理由のあることだ。鉱脈が無いといふ日本技師の鑑定は信が置けぬ。自分は鉱石がマダマダあると確信してゐる、と私は熱するばかりに渋沢さんを説いた。そして渋沢さんにも仲間入を勧告した処が渋沢さんは「それでは古河を呼んで意見を聞いて見よう」と言はれて早速古河氏を呼びにやつて下さつた。古河市兵衛氏は飛んで来た。が古河氏は「黒いものは嫌ひだ、赤いものでなければ駄目だ」と、足尾銅山で儲けてゐるものだから赤々といつて承知しない。
然し渋沢さんは兎も角も政府の意嚮を確めてやると言はれて、井上馨氏を訪れて下さつた。井上氏は鉱山局長の伊東巳代治氏を呼ばれて意見を質されたさうだが、其時伊東氏は「政府でやつて見て見込がなければこそ止したのだから止したが宜からう、釜石には鉱石がない」
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と一言の下に一蹴して終つたので、渋沢さんもそれではと言つて折角の話を中止されて終つた。然るに二三日後に田中長兵衛が、百円高く一万二千六百円とかで払下げたと聞いたので、流石に私も開いた口が塞がらなかつた。渋沢さんとしては、伊東氏の言葉を信ぜられて私に損をさせてはならぬといふ厚い御親切からであつたことは能く諒解出来たが、渋沢さんが、伊東氏の如き素人の口車をも真正面から信用された結果に外ならぬ、ここが、渋沢さんの渋沢さんたる値打のある処で、己れを信ずることに厚いだけ、それだけ又何人の言に対しても疑を挿し挟まぬといふ聖者の態度で、而も田中長兵衛氏が払下げて二千万円からの大儲けをした事実を知つても渋沢さんは平然たるもので、惜しむ処は露更らない。そこに渋沢さんの君子然たる面影がある。慾の深い私の如きは五十年後の今日猶忘れ得ぬ。
◇三池炭礦は三井に
第三は三池炭礦である。某夜、浜町の常盤で、何かの用談を兼ねた会食があつた。集へる人は渋沢栄一、古河市兵衛、川田小一郎の諸氏外数名、私も其末席を汚した。席上、三池炭山の話が出た。川田小一郎氏は言つた。「二百万円の値打はある」古河市兵衛氏は言つた「自分は黒いものは嫌ひだ、山は赤に限る」と。宴果てて散会後、座中の渋沢さんと古河さんとが居残つてゐたから、私も交つて三池炭山払下の希望を述べた。
翌朝再び銀行に渋沢さんを訪ねて、「川田も二百万円の値打と見込んでゐる。小林菊雄も炭脈の豊富なことを保証してゐる。小野組でも買収運動を始めてゐるが、三池は是非とも私が払下げたい」と再び説いた処が、三池が炭礦であるだけに渋沢さんも私の商売柄を理解して下さつて、それでは兎も角検分するに如くはなからうと、御諒解頂いたから、私は直ちに博多へ出発した。博多では京屋といふ旅籠屋に泊つて旅の疲れを宿の一風呂に忘れて晩餐の食膳に向つてゐると、東京から「三池は三井が払下げた」といふ急電が来た。私は驚いて持つてゐた茶碗を落して女中を驚かせた。私は非常に失望した。帰京して聞くところによれば、三井が小野組と劇しい競争をして三百六十万といふ高価で払下げたことを知つた。三百六十万と聞いては流石に私も「その値段では……」と諦めたが、実はその三百六十万円の裏には非常な綾があつて、即金は僅か八十万円で、残額二百八十万円は三十五ケ年賦であるといふことが後日に判つて、私は残念で溜らなかつた。
◇慾のない渋沢子
以上の如く誠に有望な仕事に対しても、渋沢さんは余りに慾がなさ過ぎるものだから、皆失敗に帰してゐる。けれども、それ等の有利な権利物に対し渋沢さんが慾を出されないのには、何時も私は感心させられてゐた。渋沢さんは反対に、私の眼の早いのに感心せられて、よく口癖のやうに囁かれたことを記憶してゐる。
或時私が渋沢さんに「釜石だけでも二千万円ばかり儲け損ひましたよ」と笑話を出したら、渋沢さんは只ニコニコ笑つてゐられた。そこが又考へれば渋沢さんの渋沢さんたる値打のあるところで、有難くもあり残念でもあると思ふ。
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私は渋沢さんから種々御配慮を頂いて来たから先輩としての渋沢さんに敬意を払ふことは勿論の話だが、殊に、私が始めて御目にかかつたときに「腕で飯を食ふ覚悟があるか」と言はれたことが、私の一生にどれだけの力となつてゐるか判らない、此御一言が私をより以上に活動的ならしめたことは、金では買へない賜として、私が渋沢さんを恩人と崇める所以である。近年の渋沢さんは石橋主義で、何でも彼でも堅く地道に世を渡つてゐられるから、私が埋立の計画を樹てても、セメントの拡張を計画してもいつも、石橋主義を翳されて容易に賛成して下さらぬので、私はいつも故人になられた安田善次郎翁を煩はしては御仲裁を乞ふといふ有様であつた。然し渋沢さんが石橋を叩かれるのも皆、私達後進者の事業のためを思はれてのことであつて、誠に良いところである。けれども又、其石橋主義の反面に、明治初年の危なかしい時代に於てセメント工場払下の保証に立つといふことは到底凡人の出来ない芸当で、余程度胸と覚悟を要することである。ここ等が渋沢さんの実業家らしい処だと思ふ。