デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

余録
雑誌に掲載せられたる栄一論
一三 竜門雑誌 第六〇九号 昭和一四年六月

■資料

一三 竜門雑誌  第六〇九号 昭和一四年六月  渋沢翁に就いての所感 (於青淵先生生誕百年記念祭) 幸田露伴(DKB80104m)
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一三 竜門雑誌  第六〇九号 昭和一四年六月
    渋沢翁に就いての所感
      (於青淵先生生誕百年記念祭)
                      幸田露伴
 閣下、紳士諸君、只今より故子爵渋沢青淵翁御生誕百年祭に当つて故子爵の伝記の刊行せられるに際しまして、御事蹟に関する所感を申述べたいと存ずる次第であります。
 人には色々ありまして、生れつき体の大きい方もあり、小さな方もあるといふやうに、心の大小もあるものであります。若し己の一身だけを思うて一生を送るならば、それは詰り小さい人であります。又それよりも大きく自己の親族一族の為を思ひ、又それよりも大きく一町一市の為を思ひ、又それよりも更に大きく、其心、精神の及ぶ所一国の為に世界の為に努力するといふのは、それは大きな人であります。斯ういふやうに人には自然と大小がありまして、其大いなるものを昔から大人として尊敬愛慕するのであります。故子爵の如きは一面から云へば誠に幸福にお生れ合せられたとも云へるし、又一面から云へば難かしい、幸福でない世にお生れになつたとも云へるのでありますが自然と具へられた偉大なる性格は、早くも幼年の時から現はれて居りました。誰しも一番初りは唯父母の愛の下に育てられて来るものであります。併し段々大きく成長致すに連れて、自分の目の及ぶ所耳の及ぶ所、それから延いて其心の及ぶ所の範囲が段々大きくなります。大きくなりますに連れて――それでもまだ小さな自分だけのことを思ふ人もありますが、偉大なる性格を持つて生れた人は、段々と其耳目の及ぶ所智識の及ぶ所が拡大さるるにつけ、自分の精神といふものが、それに応じて引付けられ、そして自ら小さな一身のことのみをしてゐられなくなり、それから進んで国家の為、時代の為に働くといふことになるのが順序であります。故子爵の如きは特別に高等なる所の教育を受けられたといふ訳ではありませぬけれども、其当時の教育を完全
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に受けられ、そして自己が発達なさると同時に、其観る所の世界が大きくなり、大きくなるに従つて其接触する範囲が自然に拡充されたのでありました。
 故子爵もまだお若かつた時には、老年になられてからのやうに思慮が熟し、見識が透徹して、それでどうかなされたといふのではありませんでしたが、早くから大きく動き出されたのでした。当時国内は外国の圧迫を蒙る為に紛乱し、又一方には旧い形式の政治が段々と頽廃して其用を為し難くなつて居るといふやうな時代に際会されたので、年齢も若く又勇気の壮なる所から、自分及び其同志の人々と謀つて、極めて小人数、無力無地位であつたにも拘らず、直ちに実際行動に移りまして、其当時の問題であつた攘夷を計画して、そしてよしんば其事がどういふ結果にならうとも、全く陳渉、呉広のやうな勢ひで起つて、上州の高崎城を取らうなどといふことを考へられるに至りました。世の中に対しての最初のことが即ちさういふ風で、それ即ち国家に対して起つたことであります。自己に対して何等かの利益がそれに依つて生ずるなどといふ吝なことで以て始められたのではなく、それで高崎の城を取らうなどといふ其当時で云へば即ち政権に反抗する、先づ極端に云へば不逞の企てであります。其事は実行にならなかつたのでありまするが、さういふ企てをされたことが因となつて、静かに郷里に於て良き家の子となり、良き妻の夫となつて、安穏にして居ることの出来ぬやうな状態を生じ、そこで、事は我が思ふやうに運ばず徒らに当時の政権の為に強い圧迫を蒙つても仕方がないと云ふ所から、一方には大きな精神の発動の已み難いところから、遂に当時の政治上の種々なる複雑な運動の根源地であります所の京都の方に出られて、そこから予て知つて居られた平岡円四郎といふ人の許に見えたのが機縁になりまして遂に徳川慶喜公に随身せられるに至られました。ここで、今までの血気の逸り、勇気のみあつて余り多く思慮のない、又、世の中の実際に対してどうするといふ修業もなかつたのが、此時からし[此時からして]世間の実際といふものに目の辺り当られて、そして持つて居られた所の才能は、そこに輝き出したのであります。此平岡円四郎といふ人は非常に立派な人で、これまで詳しく知られて居りませんが、当時の記録には慶喜公の臣下でありながら、慶喜公よりも実権を持つて居ると人に言はれた位の人であります。此人に見出され慶喜公の側に於て御信用を得られてから、一橋家の為に徴兵の事に当り、或は一橋家の経済を有利に展開させるといふことに骨を折られた。即ち其結果一意、物に当つて実際の知識をぐんぐんと得られた。それまでは、これ程の大人物であつても実際の事に暗かつたのであります。勿論生家でやつて居られた商業とか農業とか、さういふことに付てはもう既に立派な才能を現はされ、独りとしてはそれまでは進んで来たのでしたが、一橋慶喜公に仕へてから、段々と大きい世界に自己の才能を目覚められたのであります。其中に徳川昭武公――清水昭武公其他の欧羅巴に行かれるに付て、詰り随行者であり、又財務の取締であるといふやうな位置を以て外国へ行かれた。これが運命で、其時に外国へ行かれなかつたならば、どういふことになつたらうか、これは誠に想像が
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出来ぬことでありますが、機縁といふものは不思議なものでありまして、其時初めて国外に出られた為に、いよいよ大きな世界に立つて、種々なる所の観察を遂げ、そして智能をずんずんと進められたのであります。元来一意誠実なる方でありました所から、同じものでも誠に能く観察されました。先進文明国の成立ちはどういふものであるかといふことを隅から隅まで観察され、又其途中東洋の未開の儘で残つて居る国々の様子をも見て歩かれたのであります。それで色々なる所の感じを得られた。例へば玉も種々なる磨きを掛けられれば、段々と其本然の美しい光を発するものであります。又鉄の如く槌に会ふことが多ければ益々鍛はれるが、鉛の如く槌を逃げるものでは鍛はれない。欧羅巴諸国及び東洋各国に於ける様子を見て歩かれても、少しも労苦を厭ひ安逸を貪り、差当つた所だけの浅薄狭小の観察を遂げられたに終るのならば、故子爵と雖も、後の子爵のやうに立派な方にはならなかつたでありませう。欧羅巴へ行つて社会の美しい華やかなる所ばかりを見ても無論感じもあり、商工業の盛んなる様子を見ても無論色々感ぜられた所もありませうが、それのみならず彼の地に居られる間に下水道の間にまで入つて都会の不潔水の処理が何様さるるかといふこの観察をも遂げられたといふことが記録に見えて居りますが、外の国へ行つても其当時の日本人の考へでは、中々下水道へ入つて、どんな様子であるかといふことを見る程、視察を遂げる人はゐなかつたらうと思ひます。然るにさういふやうな有様で、石が水に沈んだやうに周囲に良いものがあつても、それを吸収せずに居る人もありますが、スポンジは水に入れれば必ず水を吸収する、それのやうに故子爵の頭脳といふものは、上等のスポンジのやうに、殆ど有ゆる社会組織、有ゆる政体の運用状態、商業情態、工業情態、それ等をすつかり見て吸収され、そして、帰朝の後には、今度は我が物として其智識を漸々と我国の為に繰りひろげ、伸ばし充たされたのであります。
 併し、そればかりではありませぬ。元来東洋の学問でありまするがこれは実質に於ては決して西洋諸国の文明国にも劣らぬ所の孔孟の道それを最初に会得して居られ、又人道はさうあるべきものだといふ信仰を持つて居られたが為に、今度はさういふ諸外国の進歩した色々の状態を見られたに当つて、以前持つて居られたものと相合して、違つた形を以て現はれるやうになり、そして日本支那等の大きな人が兎角実に遠く、虚を貴ぶ――何も実を貴ばないといふこともありませぬが――商業などはどうしても賤しいもののやうに取り、低いものに見るさういふ通弊を一皮切り破つて、そして本当の社会といふものは、どういふものから、どういふ結果を生じて行くかといふことを能く御自身に体得され、東洋学流の精神の結構なところへ、社会の実際の処理――詰り内容を入れられたやうな工合に、商工業の発達進歩といふものは其国家に取つて非常に大切なものであるといふ考へを練り合せられたものでありました。論語などを見ますと、人間の真の道を教へたのでありまして、別に経済財利の話などはないのであります。論語の何処を見まして斯様すれば経済状態が良くなる福利が生ずる、と云ふやうな実際の手続などは殆ど説いてないのでありまして、財といふ字
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なども繋辞伝に至つて初めて見えて来る位で、もとより儒教は個人に対しては人道、国家に対しては王道を説くのみで、中々財利経済の事などは表面には説いてないのであります。が、社会の実際に就て学問すれば又観察すれば、それから又行動しようとすれば、どうしても経済の裏打といふものがなくては何事も遂げることが出来ないのは明かなことであります。支那の古い書物には、唯僅に、孔子から褒められたり又賤しまれたりして居る斉の管仲などの書に、少し財利のことが書かれてあるばかりであります。然るに渋沢子は儒学で腹をこしらへ正大仁義の教を身に体して、そしてそれを実際の社会に具現すべき道を取ることを怠らず、常に空虚的で無く、具象的に人世の幸慶を増進せんことを念とし、西方文明先進国で得られた所の智識を東洋の道義の精神を拡充するものとして取入れられて日本に帰つて来られた。
 丁度、其時に国家の状態が変遷しまして明治政府が新に出来て、今まで色々なる所の人が骨を折つて政体は一変して、本来の国体に副ふ所の良い状態になりましたが、其時に当つて、今お話した管仲のやうな実際智識の豊富な人が多くゐた訳ではないので、さて、政権を取つて見ても、実際に当ると――武士道的、或は尊皇のこと、国体といふやうなことに付ては、確実に十分な智識があつたけれども、毎日の日常のことに当ると、立派な武人でも一向知らない。日常のことを知らないのは何も賤しいのではないが、実際生活の真に徹したことを知らないといふのは、どうも精神の方面に卓越した人にはあり勝ちなことであります。所で明治政府の出来た最初は皆尊王愛国の立派な精神の人々から成立つたのでありますが、中々立派な軍人としての智能のある人も沢山あつたのでありますし、朝廷儀式等に付ては非常に詳しく知つて居る人も沢山有りましたらうが、先づ差当つての本当の世界と云ふものに対し、民に臨み国を治め、財を理め、政を布く実際の智識が割合に乏しかつた。それは其筈で、今までさういふ経験が無かつた人達が、局に当つたのでした故です。ここで明治の初りの時といふものは、随分恐るべき形勢であつたのであります。斯ういふことを無遠慮に申すのも如何でありまするが、後醍醐天皇の時に鎌倉幕府を滅し一時は国体に副ふ所の立派な状態になりましたが、さて其後又暫く経つと余り良くない状態になつて来て、足利氏の難かしい長い時代が続くことになりました。斯ういふのは皆何であるかといふと、表面は一時立派になりましても、経済の裏打がしつかりしなかつた故であります。即ち、農商工、人民といふものの実際生活に即する経済のことが旨く処理されないと、斯ういふ悪いことになるのであると思ひます。丁度明治の初年といふものは能く行つたから宜しいけれども、中々危険なものでありまして、何とも分らなかつたのであります。さういふ時に若し徳川氏の残臣などの中に、器量のある者が有つて、別に政権を得んと欲するやうな企てをする者がありましたならば、これは誠に宜しくなかつたのでありましたが、慶喜公は御承知の通り醇忠の方でありまして、決して自己の家を思ふといふやうな小さい方ではない、これもやはり大人であります。それが為に何等の反対的の事実は何処にもなかつた。けれども経済のことなどには種々難かしいこともあり
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人民は一時は新しき政府を謳歌致し兼ねたのでありました。かかる時故子爵は召出されて伊達宗城侯、大隈侯、それ等を助けて、頻りと国家の経済上危機に瀕した場合を善く処理された訳であります。
 さういふ訳で明治政府に対して経済上種々貢献され、遂に其後明治六年に至り下野されるに及んで――これも自ら下野されたのであります。そして第一銀行を興し、それから遂に段々と人民の実際生活の側の為に尽されたのであります。其最も著しい好き例は実業教育を最初に興され、実業界の素質といふものを向上することに骨を折られ、それからまた又官業を興して民間の工業をリードするといふやうなこともされ、遂に製紙や紡績といふものも段々と先進諸国に追付くやうに進歩した。それから日本の海運界をも進歩せしめた。其当時ピー・オー会社といふものが日本、香港、印度、東洋方面残らず自分の航路にして居つた。それを棉花の輸入地の印度航路を取り、各地を皆ピー・オー会社から取り、それと戦つて日本の航路を初めて印度まで延ばして行くやうにせられたのも故子爵であります。其時の如きはピー・オー会社と我が日本郵船との競争の結果、ピー・オー会社に至つては其財力を頼んで甚しい運賃割引、十分一位までの引下を致し、我れを屈せしめんと図つたのでありますが、其時我が商人はピー・オー会社の低い運賃を利用すれば差当り利益があるに拘らず、子爵の教化と努力に依つて我が商業者が皆利益よりは徳義を重しとして、ピー・オー会社に取引荷物を少しも託さなかつた為に、ピー・オー会社も遂に自ら退くの已むを得ざるに至り、日本の海外航路はそれで初めて成立つたやうになつたのであります。それの如きは所謂論語と算盤とを併行し否、算盤の中に論語を入られ、論語を以て算盤を持たれたのでありました。さういふやうな実例は故子爵の伝記には少からぬことで、子爵は当時の実業界に在つて唯単に自らの道を行はれたのみでなく、他人をも段々と化導し、我が実業界をして健全な発達をなさしむるに至つたのであります。
 尚ほ申上げたいことは幾らでも際限なくありますけれども、総括して申しますと、故子爵は元来が大きな人に生れつかれたばかりで無く、常に自から修めて自己を大きくし、年積つて遂に愈其大を成されたといふことです。大体に於て最初は勇気に燃えられたが、其時は勇が余り有つてまだ智が足らなかつた。併し一且[一旦]事破れて、真の世の中といふものに体当りをしてからは――そして西に行つて慶喜公の下に仕へるに至つては、もともと大智の人であつたので、急速に智能が発達し、勇気に加ふるに智を以てし、後に諸外国を観、それから我国に帰られるに及んでは、今度は愈々円熟して、中年より後は事を為すに総て違算のなからんことを期し、事に当られては其間に何等の不都合はなく、それから又新しく興した諸種の事業も皆順調に行つて発達した。それで其最も美しいことは、仕事を興し、為されるに当つては必ず道を以てせられた、論語を以て仕事をせられたといふ御自身のお言葉通りであつて、そして関係し触接せられることの多くは困難なることが幾らでもあつたにも拘らず、それを切抜けられ、其困難を忍んで尽力し、当時の商工業を進歩せしめられて、当時の社会に於て渋沢家
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は丁度一つの大きな中央停車場のやうな状態にまでなられたのであります。其後七十歳に至るまでの間、道に依つて終始され、自然と仁徳を以て世に臨むやうになられた。七十歳の後に至つて直接に実業方面には当られなかつたが、社会は猶故子爵を手離さなかつた。これは故子爵の成徳といふものが子爵と社会とを引付たのであります。遂に九十歳余りで他界されるに及んで尚ほ其遺徳余薫は後に及び、これから後々も猶翁の志を承けて、翁の如くならんと欲する人が非常に多いことは明白の事実であります。既に故子爵は天に翔る方となられても、其遺せし仁徳は長く人々の肺腑に浸みて居らるることを疑ひません。此処に見える方々の中にも、故子爵と同じやうに真に国家の為に力を尽されてゐらるる所のお方が沢山ありますが、此処に見えない方々でも故子爵の風を聞いて立ち、国家の為、社会の為に力を尽さるるに至らん方の有るべきことを疑ひません。日月永久、今後幾歳を経過するも、翁の偉大なる精神に感激を新たにし、翁を愛慕するの精神に益々燃えられんことを希望して止まない次第であります。