公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
一四 竜門雑誌 第六一六号 昭和一五年一月 青淵先生の後半生 幸田露伴(DKB80105m)
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一四 竜門雑誌 第六一六号 昭和一五年一月
青淵先生の後半生
幸田露伴
本篇は昨年十一月二十八日の本社第九十九回会員総会に於て試みられた講演の速記録を、演者自ら校訂せられたものであります。若し演者の意図を損ねてはとの遠慮より特に中間標題などを設けないことにしました。この点、編者として御断りして置きます。
青淵先生の後半生といふ題でお話を致すやうにといふお需めで、何かと申げたいと存じます。併し外ならぬ竜門社のお方々は、お年の若いと或は又長けていらつしやるとに拘らず、総て青淵先生に因縁して出来て居る会のお方々でありますから、却つて青淵先生のことに就ては私如き者よりも、より多く色々と知つて居られ、解釈して居られるに相違ないので、私が社の人でもない身を以て、ただ幾らか年を取つて居るといふことと、御伝記を筆にしたといふ因縁で青淵先生の後半生をお話することは、実は難儀なくらゐなことであります。而かも青淵先生の後半生と申しますと、私が嘗て草しました青淵先生の御伝記の、その書いてあることの末の方の部分をお話することに当るわけであります。
丁度青淵先生が官を去つて民間に下つて、前後に類例の少い生活を経られて、さうして国家のため社会のために種々なるところの大いなる貢献をなされた、その頃と云ひますると、もう本当に青淵先生が成熟せられて、さうして自家の立派なる才能や、それから豊富なる経験を基にして十二分に社会に働かれるに至つた頃で、その民間に下つてからなされた事といふものは、御承知の通り、空言や空論や、或は政治・法律上のことや、それから又武備のことや、さういふ事とは違つて、皆さんに極く親しきところの所謂実業といふものを、まだ実業といふ言葉さへよく行はれて居らぬ時に、だんだんと其創始時代に成り立たしめられたのであります。でありますからして、その仕事といふ
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ものは、総て皆それぞれの方面のある、即ち実業に就てのことでありまする。第一に金融業、それから或は紡績業でありまするとか、それから又麻を製するとか、或は又絹織物を作る、或は又造船所を取立てて造船のことを成立せしむる、或は又大きなるところの運輸の仕事に就て社を作つて、それをするとか、或は又鉄道の敷設であるとか、又瓦斯の事業であるとか、或は電気の応用事業であるとか、それから製紙のことであるとか、又新しい醸造、麦酒事業の如きことであるとか又小さいものに至つては、煉瓦や硝子の製造なぞといふやうなことにまで及ぶといふ、さういふ各般の経営をされた。それは皆その道に入らぬ者には殆ど知ることが出来ないのでして、それに就ては専門の知識、技術、組織、経営法、種々なる箇条に就て相当の予備知識を有せぬ者は、その事実を語られても一寸分らぬくらゐなことであります。しかるに、この多種多様な色々の新しいことに於てそれぞれの働きを遂げられたといふものは、実に驚くべき青淵先生の精力、又智能さういふものの結果であることは勿論でありますが、これを傍からその事に就ての御話を詳しく具体的にしようとしても、なかなかよう出来ぬことであります。又それを強ひて、ただ今お話申上げたところで、一箇条の事業の上のことを申して居るうちには、もう忽ち時間もなくなり、他のことは次いでお話することが出来ぬといふ状態に立至るでありませうから、そこで、後半生をお話すると申しても、それらの事業をどういふやうに先生が取計らつて、どういふやうに発達させた云々といふことを一々申上げることは殆ど不可能のことであります。それほど仕事は多く又大きかつたのであります。
そればかりではありません。これらの色々な事業が成り立つに至るには、又他の実業上の種々なるところの制度といふやうなものがあつて、さうしてそれが運転し、よく発達して経営されて行つたわけである。その制度の中でも、例へば銀行業にすれば銀行集会所といふものも最初はなかつたやうなわけで、又手形交換所の制度だつて、それから又商工会議所だとか、株式取引所だとか、保険業だとか、さういふものも皆出来上つた後から見れば何でもないのでありますが、なかつた時にさういふものがだんだんと出来ました。これらも多く青淵先生の働きに依つて成り立つて来たので、斯ういふものが新に成り立ち、さうして又他の一面には色々各専門の事業が成り立つて行くといふ、これらのことも制度と事業との相関の上に就てお話しても、これ亦一つの事に就て沢山な事情があつて、そして成立つた訳でありますから一々これをお話することも出来ぬくらゐであります。
さうすると後半生の社会の実際に立つて、さうして実業上に十分の手腕を揮はれた、これは又その事に就ての特別の知識も技能も観察力も有つ人が、各部門に就て一々相当な時間を以てお話をしなければ、ただ抽象的な空な話になつてしまふので、これは何れ他日さういふものも出来るでありませうが、一々これを今日に需めることは殆ど出来ないわけで、況して私なぞがさういふお話をすることはなかなか出来ぬやうなわけであります。
併しそれをお話しなければ後半生のお話といふものは殆どないやう
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なものでありまするが、偖てもう一つ、さういふことの外に、先生の世に対して尽されたといふものは、これは又何と申しませうか、制度でもなく、実業でもない、即ち対社会の発達したる国民の態度といふものを、だんだんと進歩せしめて行かれたことで、それは即ち各官民の間の接触を良くしてやる、これは今日からは想像出来ぬやうなその間に疎隔があつたのでありまするが、それをだんだんと二者相近づけて、さうして民意を上に於ても知ることが出来るやうに、下に於ても台閣の意見を知ることが出来るやうに、さうして又、それが工合良く接触して、円満に物が進行して行つて、上下隔てなく互に親好して幸福の状態を営み得るに至るやうにといふことの成り立つたこと。又もう一つは、民間でも同じ民間でありながら互ひ互ひに此の職の者と彼の業の者とは相遠ざかつて居ると、自らその間に又上下もあれば品格の差異もあるといふやうな訳でありまして、又、国と国とが一つの川一つの山のために矢張り交際が疎隔であつた、さういふのもこれは皆自然の勢ひでありまして、これは封建時代はすべて上下、東西、甲乙すべての間に疆域を置き、間隔を厳存することが、社会を平穏ならしむる所以だとしてゐたのですが、それをさうでなく、円満に接触し交際して行くことの出来るやうに骨を折られた。これは小さいやうな事目立たぬ事ではありまするが、大変大きい事でありました。それから又他の国の国民、他の国々の有力者に対するわが国民、わが民族の者との接触、これも今日の世界が互に交通して一家の如くなつて居る時代には大変必要なことでありまして、それを好くせねば、その国は即ち野蛮国であるので、一切の世界からは置き去られたやうなものとならねばならぬのであります。そこで、さういふ社会の交際といふもの又対外国との交際といふものを進められたのも、これも青淵先生のお仕事の中で小さい事、或は目立たぬ事のやうに思へるか知れませんが決してさうではありません。彼のグラントがアメリカから来て、日本東京市民がこれを歓迎することを事実に示した。さういふ極く古いところから、ずつと後には各実業者達を多数率ゐて青淵先生がアメリカ合衆国へ渡られて、さうして彼の地に於て彼の地の有力なる人々と交驩をする、交際をする、さういふやうなことをなさつた。その事は小さい事のやうに思へまするが、まことに一切の社会を進歩させる上には大きい働きをして居られるのであります。
それで、さういふことは皆一々の事実に就て、どうしてかうなり、ああなつたといふことをお話したいことは山々でありまするが、その箇条を申しただけでも只今のやうにあるのでありまして、それを一々存在した事実に就て具体的にお話をすれば、なかなかお話をし尽し得ないのであります。
そこで大体に於てさういふことを、どうしてなされたらう、どういふ所からさういふ風にうまく事が行つたらうといふことだけを此処では申したいのであります。それは外でもありませんが、何の事でもその事実といふものは、そのことに就ての技能だの経験だのといふものがあつて、さうして成り立つのでありまするが、その技能や経験やなんぞ、さういふものの総ての根源になるものは、決して技能そのもの
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や、それから経験そのものやではなくて、寧ろそれらを動かすところのものがあつて、さうして後技能は技能だけの役をし、経験は経験だけの役をするのであります。例へば紡績のことを経営された、或は造船のこと、運輸鉄道のこと、瓦斯のことを、何で青淵先生が最初から一々技術者のやうに、さういふことを知つて居られたでせうか。それはその道のそれぞれの任務に在るところの人々があつて、さうして仕事を運ばれたのであつて、青淵先生は必ずしもここに出て、さうして青淵先生がその仕事に就て技術を持ち経験を持つてさういふ事をよく運ばれたといふわけではありません。弓を射る者は能く弓を射ることを知り、槍使ひ棒使ひは槍使ひ棒使ひの働きをして、さうして戦争といふものは勝利を得るのでありますが、その主将たるところの者は何も弓をよく射る、槍や棒を使ふ、薙刀を振るといふことで一軍の勝利を得るわけではありません。然らば一軍の勝利を得て、さうしてその効果を挙げるといふことは、どういふことでありませう。それは即ち青淵先生の人格から滲み出たもの、或はその持つて居られたところの能力から出たもので、それは解釈の仕方はいくらでもありませう、さうして多くの解釈が皆さういふことになると外れないものでありまして、どう解釈してもよいやうなものではあります。
併し青淵先生の多能であり、成功せられたといふことの解釈に於きましては、少しそれが他の人の同じ場合に対しての解釈とは違ふ所があつたかと思ひます。ここに善良なる人があつて、さうしてその人が或る宗教を信じて居たといふことがありますると、その宗教を信じて居たといふことに依つて、その人の善良なることが余計進められる。又その宗教そのものの有つて居るところの霊力のやうなものが、その人の手を通し口を通し身体を通して、さうして世の中に顕現して行くのであります。青淵先生に於ては、宗教を別に信じられて、何宗何宗といふものに頼つて居られたといふことは承り及びませんが、併し民間に下るその前から、勿論それは心を寄せ或は心に慕つて居られたのでありませうが、彼の御自分で言はれた如く、論語を以てこれから実業をもつて立つて行かうと、斯ういふことを御自分で言はれた。それが大変によく一切の事を語つて居るわけであります。各部門が多い、色々なること、即ちこれこれの部門的の実業、それから実業の制度のこと、それから又民間と交際のこと、斯ういふやうな箇条が皆結果がよく行つて居る。それはどうかと云ふと、その主因に論語があつたから、さういふことも皆よく行つたと解釈してもよからうかと思ふのであります。
世間多くの人は動もすれば、論語はただ聖賢の言が集つて居るといふやうに思ふ人もありますし、論語を読んでも、程子の云はれた如く論語を読まざりし時も斯の如き人、論語を読んで後も斯の如き人であるといふ場合があるのですが、それぢや論語も何もあつたものぢやありません。さういふのではなく、全く論語を噛みくだいて自分のものとし、又或は自分を論語の中に融かし入れてさうして仕事をされた、そのために畢竟するところ物事がうまく行つて功を立てられたのだらうと思ふのであります。さう言ふと、それぢや論語のどの章のどの句
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がどう当るといふやうなお問ひが出るかも知れませんが、論語は決して実業を教へ実業の経営法を教へてあるのでもありませんし、又実業上の色々な制度を、斯ういふやうにすれば良いものになると教へてあるのでもありません。御承知の通り彼の書はただ淡々白々、明かに孔子及びその一門の真なりと信ずるところの或る事実を、或はその時の言語を、取りとめもなく記してあるところの、一種の学校の記録のやうなものであります。冷淡に評すればさうでございます。併し、論語は孔子の門から出たものでありまするが、論語の外のものにも、支那の古いものには実業に関するやうなことの説いてあるものは非常に少いのでありまして、ただ論語よりは寧ろ古い管子などには、天下の鉱山の数がいくつあるとか、何処の租税はどういふやうにすればよいとか、物価論や経済論も時折はありますが、論語に至つては更にさういふこともないのであります。然るに青淵先生はその縁遠きところの論語を以て、さうして立たれたわけでありまするが、そこが一寸合点の行きにくい所であります。
けれども青淵先生の総ての事に対する態度と云ひますか、或は精神と云ひますか、態度と精神では大変違ふのですが、これは内と外の話でありまして、つまりは一つであります。それが所謂論語的の調子合ひで一切に対応して行かれた。それがために物事が順調に進んで行つてよかつたのであらうと、斯う解釈してよろしいかと存ずるのであります。
論語二十篇は何を説いてあるかと云ふと、要するに論語二十篇、言葉はいろいろさまざまに分れて居りまするが、つまりのところは孔子の道のことでありますから、明白に「仁」といふことを主としてあるのであります。人間道のこれがもう真実であるといふところから仁を言はれた。くだいて言ひますれば、仁といふのは草木のたねの中にあるものが仁であるので、またこの吾々人間社会の中で言ひますれば、即ち人間の正当なるところの発達の自然の道といふものが仁なのでありまして、杏子のたねを杏仁と云ひますが、その仁といふのも同じことで「なさけ」といふやうに云ひまするのは、それはその仁の中の又いくつかに科目を分けたその一つに当るので、実に仁といふのは、それよりはずつと大きい意味のものであります。それを仁といふ、その仁の道を色々に教へて居られるのが孔子である。さうして又論語の中にいくつとなく見える仁といふ字を注意して御覧になれば、皆それが人間道の粋なもの、善良なもの、自然に出でて発達をもつ良いものだといふ意味になることが明かに悟れるのであります。さういふやうに申して居つては際限がありませんが、それをくだいて言ひますれば、皆それが恭しくとか、或は温かなとか、或は悪しくなく良いといふこととか、或は又天物を暴殄せずして、耶蘇教で云ひますれば神の栄光をあらはすといふやうにして行くであるとか、倹であるとか、或は譲るといふ徳であるとか、この温、良、恭、倹、譲といふ、これを皆一つにすれば矢張り仁といふことであります。さて孔子は自分は常に仁ならんことを欲し、弟子にも仁ならんことを求めてゐられたのです。その孔子が色々の場合に立たれるといふと、四方八方から人々が孔子
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に手をさし出して、孔子に何事にも携はつて貰ひたがる。国事でも何でも打明け話をして孔子に相談を仕かけ、さうして自然に孔子に社会各般の事が耳に入り、御存知になるやうになる。結果の好くなるやうにと孔子に人が皆添うて来る。これは一体どういふわけだらう。孔子が御求めになつて、さういふやうになるわけだらうか、ふしぎなことだと当時の人が思ひました。しかしそれは何も孔子が御求めになるのではない。温良恭倹譲の五つの徳があつて、さうしてそれが自然とさういふことになるのであると、孔子の弟子が言つたことがあります。
丁度それと同じやうに、青淵先生が持つて居られるところの人徳がいくらかづつ若い時からだんだんと成就して来て、さうしてその中に持つて居られるところのものが発する。他から見れば、即ち温良恭倹譲であります。そこでその人を慕ひその徳を慕つて、その周りへ色々なものが出て来たのです。例へば紡績にしたところで、製鉄にしたところで、何もそれは別にその事について予備知識が多く有つて、そして青淵先生がそつちへ出掛けて行つて、さうして一々采配を揮つて成り立たせるといふのではなくても、外から捨てては置けぬといふわけで、青淵先生の力を求めに来る。さうすると、それに対して然るべき結果が青淵先生の手から与へられるといふやうなことになつたわけであります。
又丁度これを裏面から談つたやうなことに、孔子の弟子の子張といふ人が、孔子にどうしたら仁といふものが得られるかと尋ねました。それに対して孔子がお答になつた言葉に、恭、寛、信、敏、恵といふ五つを挙げて居られまする。恭は即ち恭しくするといふこと。恭しくするといふことは、何でもないやうなものでありまするが、矢張りこれは一つの美徳の表はれで、寛はゆるやかにすること、恭しくすれば侮られず、侮られずしてしてその事がだんだんと良く行くわけでありまして、又、寛かにひろやかにすれば則ち衆を得る、多人数の心を得るわけで、狭く堅苦しくしては衆を得ることは出来ない。信といふのはまことでありまして、信があれば則ち人が任ずる、人が誰もそれに頼つて来るわけになる、さうして疑はないわけになる。敏といふのはのろくない、敏速のことであります。敏なれば則ち功有り、仕事が捗つて行くのであります、恵といふのは、これは仁を小さく言ふのには仁恵と続く。恵なれば則ち以て人を使ふに足る、めぐみ即ちそのなさけ、やさしさがなければ人を使へないものである。それで恵があれば人を使ふに足りる。斯ういふ訳で、孔子が子張といふ人の問に応じて居られまするこの五つの徳も、前の温良恭倹譲も畢竟右から見た、左から見たの差であります。
で、青淵先生の人に対する、皆斯ういふやうな徳が滲み出る、それが人をひき寄せる、又仕事を成り立たせる。殊に玆に今恭といふ字を挙げましたが、どちらにも恭といふのがあります。温良恭倹譲にしたところで、恭寛信敏恵にしたところで、恭といふのがある。この恭といふのは、いつでも仕事が出来ない、まづくなつて行く場合は、この恭しさといふものが足らぬからで、これが足らぬ場合にはどうも何事もうまく行かぬものであります。又他の所にも、孔子が子産といふ鄭
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の人を褒めて言はれたのに、君子の道が四つ有る、「己を行ふや恭しく」と云つて、矢張りこの恭といふ字を挙げて居られます。「上に事ふるや敬」、これはつつしむといふ敬、「民を養ふや恵」、めぐみ、これも恩恵の恵、やはらかなやさしいもの、「民を使ふや義」、義といふちやんとしつかりしたところで使ふ、無茶苦茶に使はない、斯ういふ所で義といふ字を挙げてあります。
まだその外に恭といふことは大変に出て来るのですが、青淵先生の平常を考へるに、その当時はなかなか人材は雲の如くあつて、あちらにもこちらにも偉い人はあつたでありませう。あつたでありませうがその中で恭しくして物事を順当に進歩させ、進捗させて行かれた方は少かつたやうに観察されます。豪傑流やなんかといふのは、この恭といふのとは大分違ふのであります。で、青淵先生はさういふ世の中に於てこの恭の工夫に於て十二分の所得があつて、其徳を多く持つて居られたと考へられます。又、孔子の徳、他の者が孔子の様子を言つたのにも、孔子様といふ人は「温にして厲」、温は温良の温で、矢張りあたたかな、心の冷たくない、あたたかな所を温といふ、温にして厲厲はしつかりしたところのあるもので、だらしなくないのが厲であります。「威にして猛からず」これは分つて居りまするが、「恭にして安し」恭しくしてさうして落着いて居られると申して居りまする。ここにも矢張り恭といふことを云つて居ります。この仁といふやうな大徳を論じますると抽象的になりまするので、恭といふことになると俗によく分りまするが、青淵先生が色々持つて居られた美徳の中で、恭しくするといふことが始終おありなつたことは[おありになつたことは]、その色々の言行などに照らして直ちに分るのでありまするが、それが確かに一つの徳であつたに相違ない、さういふものがあつて、恭しくして人にも物にも事業にも臨む、紡績に臨んでも恭しくして行く、製鉄のことに就ても恭しいといふ態度を持つて行く。さういふやうに始終恭寛信敏恵だとか或は又温良恭倹譲といふやうな、皆これ孔子の教からして得られたところのものを持つて他のものに向ふ、一つの電気で以て色々な機械にも臨める、一つのガソリンがあれば色々の機械も動くといふやうなもので、他の不思議な魔法やなんぞといふやうなものとはわけが違つて、この仕掛がなければこれが出来ぬといふのぢやない、一つのさういふ立派な美なるものがあると、それは何処へ持つて行つても応用が出来て、さうして仕事の成り立ちに役立つのであります。
恭といふばかりぢやありません、この恭寛信敏恵といふ時、或は温良恭倹譲といふ時、他の徳も皆それぞれの力があるのでありますが、もう一つ恭の例を申しますと、魚を漁る時に一生懸命魚を釣らうと思つて居る人は、自ら恭しくなるものであります。そこで墨子といふ人これは孔子の学問とは違ふ学派でありますが、「漁者の恭」、すなどりをする者の恭といふことを云つて居ります。すなどりをする者はこれはどうも乱雑にして居たのぢやいけない、身体の構へから心の持ち方まで、真に恭しくするといふ所からして結果を良くすることが出来るのでありますから、漁者の恭などと云つて居ります。魚を取らんとする者のありさまを観ると、恭といふことは能く分ります。まあこれは
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他の人の言葉でありますから、さういふやうに恭といふのを見て居りまするが、恭といふことは大切な事であります。その他の温といふのも、良といふのも、倹といふのも、譲といふのも、皆さういふのは文徳の中で、武徳ではない。能く孔子の教に従へば自然にそれが具備して来るといふ訳であります。何も玆に於て論語を講釈するのではありませんが、徳目を分けて言へば斯ういふやうなもので、若し青淵先生がいくさ人であつたら、智仁厳勇信などと言つて其の庶幾すべき徳目には勇といふのが入つて居たり、厳といふのが入つて居たりする。厳はいかつい、いかめしい、かどかどのきつかり立つことであります。智仁厳勇信といふやうなことは、孫子などにも言つてある通りであります。
青淵先生は文徳を以て立つた方で、軍人の方ではありませんが、文にせよ武にせよ、それはどなたでも、人を率ゐる、或は人と与にするといふ場合になると、何でもが人を基にして成立つて居るのであります。機械的の働きが働くのはその次の話なのでありまして、根本は皆人に依つて行くのでありまして、道が人を弘めるか人が道を弘めるかといふ言葉がありまするが、皆人に依つて総ての事は成つて行くのでありまするから、さういふやうな所謂仁徳を成就する、仁の徳に依つて事を執り人に接して行かれた。さうして、そこからして、色々に部門は違つても、どれもこれもがなかなか容易によく行くといふものは少いものでありまするが、其の各部に功を立てられたのであります。随分それは時勢のために、三日くらゐ早過ぎたり、或は三日くらゐ遅れたりするといふことで、始終蹉跌なしにばかり物は運びませんでしたが、併しさういふ徳をもつて、ぢりぢりと運んで、総ての事が自然に成就して行かれたのだと考へられます。又、樊遅が仁といふものを問うたのに矢張り孔子が答へて、居処恭、事を執つて敬しみ、人と与にして忠ある、夷狄に之くと雖も棄たるべからず、といふことを言はれた。これは三語で言はれたが、矢張りその中に恭といふのを言つて居られる。又子夏の言葉に、君子敬にして失ふ無く、人と与にする恭にして礼有り、四海の内皆兄弟なり、とも有りまする。恭といふのはまことに傲る所のない、傲慢な所のない、クソ豪傑といふやうな様子のない所にあるのであります。青淵先生の態度は常に此の恭の徳を保つてゐられた。そこから自然に各般の事業に応酬して、能く其功を遂げられたのだと考へられます。
子路が政を問うた時に、孔子は「之に先んじ之を労す」と言はれました。蘇東坡――これは経学者ぢやありませんが、世間の事情によく通じて居る人です。その東坡がそれを解釈しまして、之に先んじ之に労すといふのは、およそ民の行ひといふのは、躬を以て之に先んずれば即ち令せずして行ひ得る、一々斯うしなくちやいかぬ、ああしなくちやいかぬと命令しなくても、自分が躬を以て先んじて行けば人がそのあとに蹤いて来るものだ。それだからして、およそ民の事は躬を以て任じて、自分が先づ草臥れる所に立てば、下の者は骨が折れても、骨が折れるのをうらまない。それで自然に物事が能く運ぶと申して居ります。斯ういふやうな所も青淵先生の色々な仕事を執る上に見えて
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居りました。すべて仕事といふものは、命令してあつちへ行け、こつちへ行けと云ふよりも、自分が先に立つて行く、又草臥れるほどの辛いことも、自分が先づ草臥れるほどの辛いところを乗切つて、草臥れる所を押して行く、さうすると下に使はれる者も自然とよく行き、辛いところも乗切つて行つて、途中で愚痴をこぼしたり怨んだりはせぬ事を倶にするのが皆まことになつて行く訳でありまして、むづかしいところも乗切つて行けるものであります。青淵先生の事業だとて、どれもこれも順調にのみ捗んだのではありませぬ。随分困難に臨んだことがありますが、然様いふ場合にいつも之に先んじ之に労して行かれたので、末に其事が成立つて行かれたのだと考へられます。
子夏といふ弟子が政を問うたのに、孔子の答へられた言葉に「速かなることを欲する勿れ。小利を見ること勿れ。速かなることを欲すれば則ち達せず。小利を見れば則ち大事成らず。」とあります。斯う言つて孔子は教へて居られます。こんなことは何も孔子が教へなくたつて、誰も知つて居ることでありまするが、扨実際について見ると、斯ういふことは非常な大きな力のある、さうして如何にも鋭い、たしかな教であります。若し斯ういふことを思はなくて、速かなることを欲したり、小利を見たりするやうなことをすれば、大事は成りませぬものであります。仕事といふものはどうも、自分一人で手ばやく小利口にやつてのけようといふのでは、出来ぬものです。それは盗賊なんぞの道にはそれでもよいかも知れませんが、大勢で堂々と大きな仕事をして行かうといふのに、さういふことでは決して出来ぬものでありますから、政を子夏が問うた時に孔子がさう言つてお教へになつた。これが矢張り青淵先生の仕事をなすつた所を見ると、いつも、あせつては居られませぬ、なかなか速かなることを欲しないで居られる。機敏といふことも勿論大切なことですが、機敏と速やかなるを欲するとは違ひます。それは誰だつて実業家なんぞは効果を挙げるのに速かなることを欲するには相違ないが、功を挙げるに余りに速やかなるを欲するに囚はれてしまふといけない。小利を見るなと云つても、小利を見ないで、――小利を積まなければ大利には至らぬのでありますから、小利を見るのも当り前の話でありまするが、うつかり小利を見るのに眼がくらむと大事を誤つてしまふものであります。斯ういふ所は矢張り論語算盤、所謂論語を以て実業をするといふ事が確かに当る所であります。
斯ういつたやうに、総て、青淵先生の色々な部門の実業に当つて、さうして結局が良いやうになつたといふものは、――それは良くないのもあつたでせうが、つまりは良いやうになつたといふのは、皆、仁即ち論語の教の中心のところに背かぬところから出発した本当の信念で、事を執り世に対せられたからで、人間世間の事といふものは、すべて仁、即ち生々の気によつて成立つて居るのであります。天然自然に、それから発達して、さうして立派なるところの結果を生出するといふのが仁《にん》の働き。人間世界の大本は即ち仁でありまして、それが即ち一切の良い方の作用、運行、顕現、成就の働きの根源であります。仁を体するのが即ち孔子の道で、能く仁であり得たのが聖人でありま
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す。私は何も青淵先生を仁者だなどと諛言を呈するのではありませぬが、先生は蓋しその一面には、若い時から色々なる経験もあり、失敗もあり、所謂浮世の風に揉まれ揉まれて居らるる間に、堅く拠るところを得て、さうしてだんだんと見届けた所があつて、論語の教によつて日常を過さんとせられたであらうと考察するのであります。宗教といふものは、もうその宗教を理窟なしに信ずる所に至つて、さうして初めてその宗教の利益、功徳を蒙るのでありまするが、青淵先生の孔子に対する場合は、それとは少し違つて、阿弥陀宗を信じて一切を捨ててしまつて、阿弥陀様に頼りたのむといふのとは違ふ。一切を擲つてしまつた、人間世間のことはどうでも捨ててしまつた、阿弥陀如来や、イエス・クリストに依つてその道を進み行かうといふ、さういふのとは少し違ふ。勿論、この孔子の道といへども矢張り宗教のやうなるところのものがなくては、それだけの至大至徳の所へは至らぬ。即ち孔子にも祷りといふこともあり、祭りに際しては斉といふこともあつたので、周の思想を大成したのが孔子でありまするが、周の初まりの文王武王なんぞの頃は矢張り上帝、天帝の思想を持つて居たことは分明でありまして、この周の道即ちそれを伝へた孔子の道徳も、決して奥底まで唯常識一点張りで以て物を観たといふだけだといふのぢやありません。なかなか以てそんなことで非常な大信仰が成り立つわけはないのであります。偖てさういふ宗教臭い又は哲学臭いやうなことを言ふのは、一向玆には用のない点でありまするが、青淵先生が孔子の道を奉じて居られたといふことも、最初はただ常識的のみであつたにしても、後にはやや宗教的にまで進んで居られて、それで他の宗教に帰依すること無しに過されたでは無からうかと存じます。まして儒教を一身の飾りにするなんぞといふやうなことではなかつたこと勿論であると思ふのであります。
その当時青淵先生の若い時分に青淵先生の身体に沁みたものは即ち儒学で、儒学の中でも水戸風であつて、空言、空論、哲学論みたいのことをしないで、直ちにこれを実際の社会へ当嵌めて解釈して行く、水戸風の学問が沁みてあられたに疑ひないのであります。地理上、交際上、閲歴上に然様観察されます。さうして青淵先生も若い時は随分に功を急いだり、或は少しく軌道を脱するやうな考を持たれたり、行動されたりしたといふこともありまするが、さういふ所からだんだんと練り練れて、さうして一面論語を始終思ひ、孔子の教に依られて、さうして修得されたところの大きいものが身に充ち、その確実重厚な内証が自然と人に知られ、その美しい色合ひ、その卑しくない匂ひが外へ溢れ出て行く、それが一切の仕事の核心になつて行つて、さうしてあれだけの大きい事をなさつたことだと考へられる。若し単に才智技能なんといふことで以てのみ進んで行かれたのならば、どうしてそんなに多方面の才智技能を有して一々能く応酬し、成功して行く事が出来るわけのものではありません。蓋しこれは全く槍使ひ棒使ひならば槍は槍だけ棒は棒だけでありまするが、槍は使へず棒は使へずとも総てのさういふものを使ひ得る、即ち一国一城の主としての大徳を具へて、以て仕事をだんだんとされたものと考へられるのであります。
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それで後年の労資協調会の仕事などといふものもさうでありまするが、元来青淵先生は若い時から、所謂合本協力といふことを頻りと言はれた。後に至つて資本主義などといふ言葉が出たので、さも資本主義の人のやうに思はれるに至りましたが、さうではない。青淵先生のは資本主義ではなく合本主義で、大勢の力、衆といふ大勢のものを対象にして、大勢を一緒にして幸福にして行かうといふので、勿論資本の力を認めぬことはないが、決して資本一点張りの主張者では無い、大ぜいの人、即ち衆に対して其利を得させようといふ主張であつたのです。ましてや自分達幾人かの資本者が幸福を得よう利得をしよう、さういふけちなものではなかつたのです。又自分がリーダーになつて威張つて行かう、さういふ豪傑主義でもなかつたのです。決して資本主義や個人主義的の強調者ではないのでありまして、合本なので、本を合せる、力を共にする、大勢の資本・努力を合せるのですから、その後に起つた理論的の思想を以て立たれたのぢやない。集合体の力によつて集合体の利を享け、これを其各個に分けて来るのが本当だと云ふのでした。ですから初まりの所を言ひますれば、寧ろ青淵先生などの考へたのは資本主義ぢやなくて、社会主義のやうなものと同じところがあると言へる位です。前に合本といふ言葉があつて、後に資本といふ言葉が出たので、これはどうも解釈が誤られ易くなつて居ますが晩年に於ては、いつとなく合本主義も単なる資本主義になりました。で、青淵先生も段々と世の中が機械づくめ、資本づくめになつて来て自分が思つたことと少し違つたやうな世の中になつて来たなといふことを思はれて居たとか伝聞します。労資協調会の目的は段々と違つて来た世態に対して、間違ひのないやう、矢張り大勢の幸福といふことを主にして、制度にかかる部分は制度にかかる部分、道徳にかかる部分は道徳にかかる部分、其折合を宜くして、どうにかして善いやうにして行かう、斯ういふやうに思はれたに違ひないのであります。これらも矢張り仁といふことから言へば、労資協調会などといふものが起らない前から始終さうであつたので、仁道を体して居られたので自己の得た富貴を弥が上にも得ようといふやうな、さういふ月並の料簡は早目に棄て、さういふことは卒業してしまつて、社会のためをのみ思ふやうになつて居られたのであります。それでこの仁にしても、義にしても、恭にしても、倹にしても、何にしても、長続きがしないと駄目でありまするが、青淵先生のは官途を出でて民間に下つてからといふものは、長くそれだけの心を強く持つて居られて、さうして始終長続きして居られたので、フツと出たり引込んだりするといふのではないのでありまして、その充実した心、即ち恒があるのでありました。
論語にも恒といふことを尊んであります。「人にして恒無くんば巫医を作す可からず」といふことが南人の言葉にあり、孔子がその言葉を善しとして居られる。「其の徳を恒にせざれば或は之が羞を承く」といふ易の恒の卦の句がありまするが、論語のそこの所に引いてあります。この徳を恒にするといふのは、例へば今日と明日は違ふ日であるけれども今日より明日とつづく。南風の後には西風が吹くけれども南風から西風がつづく。即ち変るにしても時候が順に来るのは恒で、
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同じと恒とは少し違ふ。飛んでもないことが来れば恒ではない。恒といふのは常々といふことで、潮の干満は日々に異るけれども、毎日毎日其の干るべき時には干る、満つべき時には満つる、それが恒であります。このほかにも亦恒といふことが、論語の中に尊んで言つて居られる場所があります。「善人は吾れ得て之を見ず、恒ある者を見るを得ば斯れ可なり。」斯ういふのがある。恒ある者といふのは何だと言ふと、むらでなく、何時もさうであるものである。割合に恒といふものは得易いやうで得難いものです。その人の身に、地についたといふのが恒であるので、恭しさが地についてその人の身について離れないやうになつて居るとすれば、即ち恭しさが恒であるのです。それならもうそれは一つの立派な恒徳、恒の徳であります。夫婦の道がこの恒で、この恒といふのは、易では元来夫婦のことを言つた卦の言葉でありますが、夫婦といふものは、面白くない時もあるかも知れないけれども、面白くないからと云つて直に分れるといふのでは夫婦の道でない。恒であるからして夫婦なので、愛情が地になつてしまつて居るのが正しい夫婦の道であります。それが恒であります。青淵先生が段々と世の中の必要な人として世に尊ばれて行かれたのも実に恒徳があつたからで、渋沢はかういふ人だと世間から思はれてゐる、何時も其通りの渋沢氏であつたのでした。それが恒の徳があつたのであります。
一寸事例を一つ申しますれば、彼の井上侯が内閣を組織する任務を負うて総理にならうといふ時、又他でもさうしようといふ時に、井上侯は予ての知人であり、才能を認めて居る所の青淵翁を自分の大蔵大臣に是非成つて呉れと言はれた。ところが官を捨てた時からして、もうさういふことはと思つて居られる青淵翁だからして、儂はならないと言はれた。是非なれ、お前がならなければ儂は総理が勤まらないから、お前是非なつて呉れ、大蔵大臣をやれと言つても、それでも、いやどうも、折角だけれども、それは困ると言つて青淵翁はその台閣に入ることを断られた。その為井上さんは総理になり損つてしまつて、それでは儂も止さうといふ話になつて、終に井上さんは総理にならず終られた。これなんぞも全く徳を恒にしたもので、民間に入つて、人民の間に立つて国家の為に尽さうといふので、段々と力を得て来たのだけれども、さういふ時に普通の人情で云ふと、井上さんの話に乗つて、それでは大蔵大臣を勤めよう、斯うなりさうな所でありますが、ならなかつた所は矢張り、どこまでも民間で仕事をしようといふその徳を恒にしたので、若しさういふ時に大臣になつたりなんかすれば、或は之が羞を承くることありといふ文句の通りに、どういふ目に遭はれたか知れないのであります。
もう一つその外に、伊藤公が、世の中の様子が段々変つて行くからどうしても自分が政党を率ゐて、さうして天下に号令しなければ、ものがうまく行かぬといふので、政党を作られた時に、青淵翁に矢張り我が政党に加入して呉れろと言はれた。懇意ではあるし、勿論肝胆相照した間でありまするから、さう言つたら青淵翁は直ぐ承知して呉れるだらうと、伊藤公の方ではお思ひになつたに違ひない。ところがさうは行かない。政党に入ることは出来ない。外に居てあなたのなさる
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ことを一つ一つに就て援けはするけれども、党へ入る訳には行かぬと言はれた。青淵翁を引つ張つて政党に入れれば、青淵翁一派、又繋がりの幾らかある人は皆一緒になつて、さうしてその政党の力を加へること甚だ大きいことは明白でありますから、伊藤公は頻りに入党をすすめられたけれども、頻りに断つて終に断り抜かれた。その為に暫時は双方の間に感情の乖離が生じたといふくらゐの話もありまする。これもその徳を恒にしたので、その徳を恒にせずしてその時入ると先方は宜かつたに違ひない。双方の為にも利益はあつたらうが、さうではなく、自分は政党なんぞに入らず今まで通りで、昨日の如くに明日も送つて行く、明後日も一昨日の如く送つて行かうといふ徳を恒にするところの恒徳に依つて返辞された。それが為にその時はまあ双方とも面白くなかつたかも知れないが、矢張り多くの人はその徳を恒にする者を必ず信ずる道理でありますからして、青淵翁は愈々青淵翁として世に用ゐられた。翁の関係事業の多き、この仕事も、彼の仕事も、どうにか斯うにか、瑳跌はあり、或は失敗もあつたけれども、併し要するに順々と好い結果を得るやうになられたのは、実に其徳を恒にするより生じたのであります。
もう一つ慈善の事業、例へば養育院や病院などのこと、これらも必ずしも青淵先生自ら悟つた所からといふばかりではなく、お母様の大きな力があつて、お母様の仁が矢張り青淵先生に伝はつて、李のたねから李が出来るやうに、青淵先生に伝はつたものと思はれまするが、これも矢張りその徳を恒にして、終ひまで何時までも何時までもそれを執行つて行かれた。それが為にその仕事も終に段々と緒縁をなして長く遠く伝はつて行くやうなわけになつたのだと存じます。斯ういふやうに申しますると、青淵先生は如何にも穏かな方面のみの方でありますが、若い時の半生を振り顧みると、なかなか以てやはらかなばかりではありません。一面には恐ろしいきつい所もあつたけれども、段段円熟して、さうして温良恭倹譲といふやうな徳を具し、――それでは孔子と殆ど同じやうですが、孔子と同じやうかも知らないぐらゐに晩年には純熟せられた。勿論孔子孔子と言ひますが、多くの人は少し間違へて孔子を解釈して居るかとも思はれまするので、決して後世の儒者なんぞの思つて居るやうな青しよびれた方ではありません。孔子は大勢の人々を教育されたのでありますが、孔子が教育されたその教科書ともいふべきものは、今残つて居るものは殆どないのでありまして、詩経、書経なんぞは教科書の一だつたか知れませんけれども、他の教科書のものは殆ど残つて居りません。論語は勿論教科書ではありませんでした。論語は今日に譬へて見れば、大きな立派な学校の高級の人とその学校長とが時々話をされたり、或は或る事実があつたりした時、それを雑然と誌した所のものであつて、論語を孔子が教へたといふのではありません。併し論語にある所のものは孔子の教育の全部の真髄の籠つて居る所のものを、その儘断片的に挙げたのみのものであります。孔子の学風といふものは又他日別にお話します。これは別の話でありますからして玆で説くことは出来ませんが、要するに故子爵の晩年といふものは殆ど円熟して、さうして孔子のお弟子の中でも
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体を備へて小なりと云はれて居るところの人とは異りますが、世の中の実際に役に立つことに於ては、最も勝れたところの子貢と並ぶくらゐ、イヤそれよりも功を立て、徳を立つること大なる方となられたのであります。(完)
青淵先生の書と子昂
露伴翁談
渋沢子爵の書は、子昂を習はれたのでありますが、子昂といふ人は普通の人からは余り評判の善くない人だものだから、どうも何だか、厭なところがあるなどと云ふのでありますが、これも亦そんなことは誠に些細なことであります。子昂といふ人も矢張り子爵のやうな所のある人で、自分が前朝の王家がありながら元に仕へたといふので、不都合な奴だといふやうに悉くの人が悪く言ふのであります。水戸の藤田東湖といふ人は若い時は子昂を確かに習つたのでありまして、稍々年寄つてから子昂といふ奴はいかぬ奴だと思つて、子昂の手本を下に置いて手習をしたといふやうな話がありまするが、蓋しさういふことは単なる御話だらうと思ふ。子昂といふ人はやはらかな人で、これも誠に立派な人間でありまして、子昂を迎へなければ、その時、元が天下を取つてもなかなか天下が治まらないから、子昂を引出して、天子の身を以て子昂の字《あざな》を以て呼んだくらゐ尊敬して使つたので、子昂がその座に坐らなければ天下が宜しくないから、子昂にそこに来て、その座に坐つてもらつたわけで、さうしてこの人は品行も非常に良い人だし、書の立派なることは勿論のことでありまして、さういふ人で、まあ云はば敵に仕へたやうな気味もありまするけれども、そんなことに拘泥するよりも、もう少し大きな所に始終行つて居るくらゐの人でありまして、勿論支那の儒家でありまするから、孔孟の道を奉じて居る人でありまするが、老子の道をも悦んで居つた。自ら老子経を残らず書いたりして居り、仏教にも詳しく、写経を沢山して居る。さうして自分自ら三教の弟子と言つた。三つの教、即ち道教、仏教、それから一番最初の儒教であります。三教の弟子と自分自ら書いて、三教弟子趙孟覜なぞと書いて居るものもあるくらゐで、誠に心の広やかな、さうして善良な、陰険やなんぞといふところのない所の人でありましたので、子爵がこれを習はれた、さうして晩年に至つても棄てられなかつたといふことも、蓋し一つの因縁と云つてもいいことだと思ひます。
雑誌に掲載せられたる栄一論 終