デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

余録
諸家談話
二 尾高豊作氏談話

■資料

二 尾高豊作氏談話  昭和十一年六月十日 【於尾高氏邸】(DKB80107m)
別巻第8 p.320-324 ページ画像PDM 1.0 DEED

二 尾高豊作氏談話
            昭和十一年六月十日
            於尾高氏邸
                      土屋喬雄
                      佐治祐吉
                      山本勇
  一、資料編纂所として採訪されたき人々
 今晩かうして皆さんが青淵先生の伝記資料編纂事業の一方法として私をお訪ね下さつたことは、私自身としてのみならず渋沢家の一門として嬉しく存じます。
 なほ、青淵先生の下に親しく指導を受け仕事をされた方々の談話をお聞きになることは、重要なことと思ひますから、私もさうした方面に出来る限り御援助申上げ、左の方々をもお訪ねになるやうにお勧め致します。
  大川平三郎氏    田中栄八郎氏
  斎藤精一氏     吉岡慎太郎氏
  渋沢治太郎氏
 血洗島の老人は殆ど亡くなつて訪ぬべき人はゐないでせう。
 それからもう一つ、渋沢平九郎の墓を是非訪れて下さい。平九郎といふ人は藍香の弟で、青淵先生が京都に落ちのびられた後の渋沢家を嗣いでゐたのですが、藍香等と共に上野の彰義隊を援ける為に振武軍を編成して田無に旗上げし、此処で破れて退いて飯能に籠つたけれども亦破れ、単身信州路へ逃れようとして官軍に発見され、見事な最期を遂げた青年です。
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 平九郎の墓は梅園村字黒山の寺にあります。その寺は全洞院といひます。今も村の人々は当時壮烈な討死をした「振武軍の隊長さん」平九郎のことを物語り伝へてゐます。青淵先生も明治四十五年に私の父次郎等と墓参に行かれたことがあり、其時の墓前での記念写真もあります。
 青淵先生が其の晩年、身に染みて述懐されたことは、何時もこの平九郎のこと、そして藍香、並に長七郎のことでした。私は竜門雑誌の委員をしてゐますので、先生の処へ伺ひますと必ず
 「時にね……」と話がそこへ来ました。余り度々平九郎や藍香のことばかりお話になるので、私は自分が先生に焚付けてゐるやうで困つた程で、或時竜門社評議員会の席上で、其事を弁明したことがありました。それ位、老の繰言を申されました。此の意味で平九郎の外伝は青淵先生の伝記資料編纂の上からも重要なものと思ひます。
  二、青淵先生と藍香翁
 青淵先生と藍香との関係は研究すべき点が非常に多いと思ひます、二人の若い頃については勿論ですが、今は其の晩年における一つを申上げます。
 藍香が第一銀行に入つて、地方支店長をして廻つてゐた頃のことです。仙台は無事だつたが、盛岡に来て一つの失敗をしました。既に青淵先生は財界の巨頭であり、第一銀行の頭取として、師兄である藍香の処へ監査に来られ、帳簿を調べられると計算が合はない。藍香が担保なしで貸出してゐたのを見付けられたのです。そこで年下の青淵先生から問詰められて、藍香も苦笑しながら
 「この位のことはお前かまはぬぢやないか」
と言つたのに対して、青淵先生は役目柄とはいへ厳然たる面持で
 「この位のことは、といふのがいけませぬ。その位のことが判らぬやうなら、貴方は銀行を罷めたがよい」
といはれたさうです。
 その問題は直ぐ担保を押へたから其の場は無事に治めましたが、しかし藍香は銀行家としては偉くなかつたといふことを表した場面であり、又両者の性格的相異を物語るもので、或る時は師と仰ぎ、兄と慕つた人にも、其の失敗は失敗としてゆるがせにされなかつたところが面白いと思ひます。
 此の時の有様を私の周囲の人の話によりますと、藍香は憎々しさうに
 「あんたはさういふ時にでも、妙にキチンキチンとするのかい」
といへば、青淵先生は
 「かういうことはキチンキチンとしなければならぬものです」
と言はれたさうです。
 藍香は其時のことを身にしみて、後で青淵先生を評して
 「子爵は大才子だ。あれは小さい時から才子だと思つてゐたが、大才子になつたよ」
と述懐したさうですが、其の時代に藍香が青淵先生を「才子」だと観た点は、他の人の観方と異つてゐるやうです。青淵先生にしても最初
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から聖人だつたのではなく、才子肌の人(少くとも才物)であつたといふことは注意さるべきでせう。
 青淵先生を藍香が評したのを聞いた人は、私の父の他に永田甚之助君などがゐます。
 私の父は、藍香の弟子である青淵先生に対して或る時には口惜しく思つて
 「藍香からも聞かされたし自分も亦さう思つたことだが、青淵先生は今こそ神様みたいな人であるけれども、元々才の強い人だ。青淵先生を精神的に円満な情の人とのみ観てはならぬ」
と、そんな風に観てゐました。
  三、青淵先生の幼少年時代
 私は青淵先生の子供の頃について深く興味をひかれ、或る時先生に一体小さい時は、その辺の子供とどうしたかとお訊ねしたことがあります。すると
 「その辺の子供と遊ばなかつたよ。向ふで敬して遠ざけたんだね」
といふお答へでした。
 「しかし、あなたも獅子舞など盛んにおやりになつたさうぢやありませんか」
といひますと
 「それは行事だからやつたのだ」
と言はれたのでしたが、しかし、私が青淵先生の周囲の人達から聞いたところによると、同じ年頃の子供同志では、余りに才はじけてゐられたので、子供仲間から遠ざけられて、一緒に近所の子と遊ぶといつたことはなかつたやうです。
 その代り、十歳の時から藍香の処へ来はじめて、二十四の頃までゐて、比較的に早く国事を論じ、遂には家出をしなければならぬやうになつた成行から見ても、暢気な所謂名主の坊ちやん生活に甘んじてはゐられなかつたのでせう。
 その楽しみは藍玉や種を信州あたりへ買ひに行く時「人が酒を飲む時には自分達は詩を作るのだ」と言つて途々詩を作ることであつて、藍香と一緒に信州路を歩いた時の二人の詩を纏めた「巡信紀詩」は、青淵先生の晩年までその枕元を離れたことがありませんでした。
 これは先生の青春時代の情操を豊かにした上に大きな役割をなしたものと言へるでせう。当時の栄二郎少年を偉人となすべき、さうした家庭的、又周囲の条件は非常によく備つてゐて、所謂世智辛さといつた境遇ではなかつたやうに思ひます。
  四、青淵先生三度死を決す
 青淵先生は三度死を決せられたことがあると先生から伺ひました。その一は高崎城乗取り計画の「暴挙」が破れて京都に落ち、図らずも江戸に出遊時代の旧知平岡円四郎の手引きによつて、慶喜公に仕へようか仕へまいかといふ時代です。
 栄二郎と成一郎の二人が平岡に呼ばれて其の家に行くと、常と変つた態度で平岡が
 「お前達は人を殺めたことはないか」
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といふ。二人は御冗談はお止し下さいと言ふと、平岡は、長七郎が捕縛されたことを伝へ、二人の身の上に追手のかかつてゐることを知らせ、その危急を脱するには慶喜公に仕へるより他に道はないことを切り出された時でした。後年、青淵先生は其時を回顧して
 「あの時は、自分達が生き延びる為めに命を懸けた友を放つて反対側の幕府方につくことは死んでも出来ないし、さらばと言つて二人にはどうするあてもなし、ほんとにどうしたらよいものかと身の振り方に困つたよ」とお話になつたことがあります。
 その二は、慶喜公から洋行を命じられになつた時です。今さら命を援けられた君命とは言ひながら、自分等が家を出、妻子を捨ててまで戦ふ筈であつた嫌な外国へ行かねばならぬ成行きになつて、この時も死んでしまつたらと、船に乗つてからも身の置きどころなく思はれたさうです。
 この時の青淵先生の心事は世に誤り伝へられてゐるやうに、先生が喜んで行かれたなどと言ふことは決してある筈はありません。しかしこの渡仏によつて先生が攘夷党から開国党に変る一大転換をして、青淵先生の一生を通じて観ると、後半の礎が築かれたのは勿論です。
 その三は、先生が仏蘭西から帰国されて、宝台院に伺候すると、見る影もない前将軍のお姿に「これでは余りにも情ない」と思はず愚痴を述べられたが、宝台院は全くの世捨て人であつた。それを見て今後の身の振り方を考へられた時です。
 以上三つは、何れも思想と経歴の相剋で、
 「自分は三度身柄が変つて、その度に死に度いと思つたよ」
と先生自身の口から私は伺ひました。
  五、青淵先生の民権思想
 民部公子の伴をして渡欧されたことは先生にとつて煉獄の苦しみでありましたらうけれども、これは我国における文明開化の先駆となり合本主義即ち資本主義のリーダーとなられる転機をなしたわけで、具体的には第一国立銀行の創立となり、自由貿易主義となり又は民間自治或は官尊民卑の打破となつて、先生の少年時代から芽してゐた民権思想が時勢の波に乗りあの偉大なる先生の一生を築き上げたのです。
 先生の一生をずつと通観しますと、その一生を貫くものは民権思想の大きな流れであつたと観て誤りないと思ひます。
 明治四十一年の九月に血洗島で村民の為めに講演をなさつた「一村の興隆と自治的精神」は――農村に来て遠慮のないところを申されたのでせうが――非常に重要な御意見だと思ひます。特にその中に十一頁(竜門雑誌第五四二号)に
 「憚りながら渋沢は、政治を以て国が立つものでは無いと思ひました。是れからは寧ろ経済上の商工業に心掛けてやらうと、明治六年に官途を辞して仕舞つた」
と断言されたことは、この時代としては実に偉大なる卓見であると思ひます。
 右の演説から観ましても、先生は自由民権論の実行者であつて、近代的ラショナリストと言ふことも出来ます。
 - 別巻第8 p.324 -ページ画像 
 先生は所謂日本精神主義者ではなく、コスモポリタンであつたと思ひます。
 先生の民権思想に藍香との関係をつないでみると、藍香もさうでした。余り皇室のことを持ち出さない。政治機構に対する民権思想が強かつた。それ等の点で両人はお互に自由主義を助長しあつたと観られます。
 この二人が若い時分から余り尊王を言はず、倒幕に重きを置いたのは、封建的な伝統から比較的解放された武蔵野の中に育つて、自由に論議を戦はすことの出来た土地的影響が大きかつたのでせう。不思議な位に二人共尊皇論を担ぎ出しませんでした。藍香が「彰義隊」を指導したのもその一面を物語るものと思はれます。
 日清戦争が済んで先生が
 「日本が負けりやよかつた」
など言つたりされたのも、皇室や国家を主とせず、民権に重きを置かれたことを示す面白いエピソードと思ひます。
 また、朝鮮に行かれた時に先生があちらの人に丁寧におじぎをされたので、木村雄次君は「自分等が平常威張り散らしてゐるのに青淵先生がさうペコペコされては困ります」と苦情を申出たと言ふ話もあります。
 それから、廃藩置県に際して、西郷隆盛が大蔵省の一官吏に過ぎなかつた先生を訪れて、二宮尊徳の残した相馬藩の仕法の存続を依頼した時、キツパリ断わられたことも、先生の国家意識が西洋式の法治国としての国家思想を持つてゐられたことをよく現してゐます。
 従つて「渋沢閥」と人が言ふのを聞かれると非常に怒られて「私には閥などない」と大に反対されました。
 先生の晩年になつてから
 「私は周囲の人々に対して政治に関係するなと言つたが、竜門社の会員もソロソロ政治に関与しなけりやならん」
と言はれたことがあります。
 この言葉は先生の政治に対する態度が豹変したのではなく、予て、政治が心配してゐた通り悪くなつたから、実業家も政治家を指導する覚悟が必要だと言ふ意味であつたと思ひます。
   ○明治四一年九月ノ血洗島ニ於ケル講演筆記ハ本資料第二九巻第五七七頁ニ収ム。