デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

余録
諸家談話
三 益田孝氏談話

■資料

三 益田孝氏談話  昭和十一年六月十五日 【小田原掃雲堂に於て】(DKB80108m)
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三 益田孝氏談話
            昭和十一年六月十五日
            小田原掃雲堂に於て
                   佐治祐吉
                           筆記
                   山本勇
 実は今日は閉口しとります。私の物忘れは類のない方でして「あれは何日でしたか知ら」と私が渋沢子爵にお尋ねすると、子爵はちやんとあれはいつ日《か》だつたとよく覚えてござつた。その一番物覚えの確かであられた子爵の事を、一番物忘れする私に話せといふことで閉口しとります。
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 「例の通りですよ」と子爵が其処でニコニコしてござる様な気が致します。しかし、私の処へかうしてお尋ねに見えますことは御尤千万の事で私も有難く思ひますが、何分にも今言つた通り何でも忘れて了ふので自分でも閉口しとります位で……(記者註。と言ひながら先生の在職年表に見入って)沢山ありますね、何でも「渋沢さん」でしたから、この中に並べてあります中に、数々私が関係致した事業がございます。そして私から子爵に申出て事業を起したのも大分ございます。
  初対面
 先づ、子爵にお目にかかるやうになつたわけを言ふと――私は、はじめは大倉氏とやつてゐた。この大倉の方で岡田平蔵といふ実業家と知り合つた。どう云ふわけだつたか忘れましたが、その岡田と一緒に横浜から馬車に乗つて東京に帰る途中で岡田が「前に行つてゐる車に乗つとるのは井上さんだ、あの馬車は大森で休憩するに違ひないからその時一つ紹介しよう」と言ふ。
 どうして大森で休憩されることが解るかといふと、その頃の乗物は馬車ですタイ、それだから横浜から東京まで来る道中で、井上さんは大森の山本といふ茶屋に何時も寄つて休まれるのを、岡田は知つてゐた。お茶屋では渋茶に桜味噌位のものを出す。休んでゐるうちに、馬を休めて汗を拭いてやつたり飼葉をやつたりする。吾々が大森の山本に来て見ると案の定、井上さんも来てござる。此処で岡田から井上さんに紹介された。井上さんは私に「是非俺の家へ遊びに来い」といはれたので「参ります」と約束してその日は別れた。それから暫くしてある晩井上さんを兜町に訪ねた。この家は官邸だつたか、私宅だつたか忘れたが、後に渋沢さんの屋敷になつたところです。
 その夜、一晩で井上さんは私に造幣局に来いと口説かれた。あまり急なお話であるが、私はその前に一年ばかり役人の端くれになつてゐたことがあるので、井上さんに口説かれて造幣局の役人になることをお引受けした。それが大蔵省四等出仕です。その頃、渋沢さんは三等出仕で大蔵省にござつたので、ここで初めてお目にかかつた。
 大蔵省に出仕すると私は間もなく大阪の造幣局の方にやられた。大阪にゐるうちに井上さんと渋沢さんは腹立てて大蔵省をお引きになつて了はれた。これを私は大阪で聞いて、自分は井上さんに口説かれて官吏になつたのだから、お二人が政府を出られるのに私だけがどうして居られるもんかといつて、私も早速引退つた。
  退官後
 引さがつてみると、何もする事がない。で、どうしたわけであつたか、井上さんに深川でお目にかかつて、それから渋沢さんにお近づきになり、今度は御一緒に政府を出て了つたので、
 「もういくら言つて聞かせても訳のわからん政府の役人なんか相手にせんで、お互に実業家になつて働かうぢやないか」といふことになりました。
 そして渋沢さんは第一銀行に入られたわけです。最初はお客分の様でしたが、段々熱心にやられて後には自分が主人になつて了はれた。私は先収会社といふのをこさへて井上さんが社長、私が副でやつた。
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 その時から先収会社は満一年位で解散になつた。これは井上さんが又政府へ引張り出されて、韓国政府へ使節となつて黒田清隆を副使、井上さんが正使として渡韓されることになつた為めです。そこで私は三井物産の仕事を始めた。名前は変つたけれども仕事は先収会社と同じものを引きついだ。三井といふ肩書はあつても前の先収会社の再来で、何かと言へば渋沢さんの処へ相談に出掛けて行き、第一銀行の世話にばかりなつたものです。子爵には何からかにまで朝夕公私共に親切に面倒を見て戴きました。
 東洋硝子にしても、石炭を運ぶ船のことにしましても、三井には世話にならず、第一銀行に資金を借りてやりました。
  私の土産は渋沢さんに
 その後、明治十九年に至つて松方侯の兌換制度が確立して、初めて貨幣が統一されて札を貨幣に換へて呉れることになり、今迄市場価格の変動が激しかつた札も安心して実業に用ひることが出来るやうになつた。その明治十九年までは十年戦争のため政府が準備金なしに三千万円のサツを出したといふので今日なら其金額は何でもない事が、当時はその影響《あふり》でもつて、大した動乱騒ぎでして、一円の銀が札なら一円七拾銭出さにやならぬ。たうとう一円八拾銭にまで騰りました。
 この時分、井上侯が外遊から帰られて、こんな有様では日本は駄目だ、うんと締上げにやならん、と言はれて伊藤公に建策された。伊藤さんもそれに賛成されて松方侯に頼まれた。松方侯が之を引受けて十四年から大いに努力された。其甲斐があつて十九年に兌換制度といふものが確立される準備が出来て、廿年からは着実に進行しはじめた。
 この制度が確立したのを見て、私は二十年に欧洲へ色んな事を視察に出掛けた。帰つて来てからも又ずつと永い間色んな事で渋沢さんを悩ましたけれども、留学して持ち帰つた私の土産は、皆渋沢さんの処へ持つて来た。私は三井にゐたのだが、私の土産は三井よりも渋沢さんの方へ多く提案した。
 その中で一番初めに始めたのが今年五十年の祝賀をやる人造肥料会社でその次がモスリン会社でした。その外だんだんとやつて数々あるが、私の持ち帰つた土産は三井には相談する人がない、三野村利左衛門といふお爺さんがゐるにはゐたがとても話は分らぬ。それで勢、渋沢さんに相談する「かう言ふのは如何でございませう、私は之は確に良いと思ひます」と申上げると「君の言ふことは尤もだ、いいものを見付けて来た、こりや良い、是非やらうぢやないか、直ぐ会社を起さう」といふことになる。私がこれは良い、確かだ、と思つて申上げたことは何一つ排斥されたことがありませんでした。みんな採用して下さつた。私は実にうれしくも思ひ又有難く思うてゐます。
   (記者註。益田翁は如何にもそれがうれしかったといふ風に朗かなニコニコ顔で、こちらも思はず引ずり込まれて一緒に笑ひ出す。)
  特に感服したこと二つ
 御一緒にやつた仕事は数々あるが、そのうち私が特に感心したのが二つある、それをお話しませう。
 それは人造肥料会社と製帽会社の時です。人々を説得して株主にし
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てやる――と其処までは誰もやるが――資本が全滅したといふ時にチヤンと腹を決めて、さあ改めてやり直さうといふ、渋沢さんのこの何処までも遣りつけるといふ魂に感服しました。自分達が発起した仕事は最後まで貫かれた。私が申上げた事は皆御採用になつて、人造肥料は火事にあつて御迷惑をかけたが、後には良くなつて、創立三十年の時には、何か人造肥料会社にお書きになつたものや、又その時の写真もある。今日では製帽会社がグツグツしてゐるだけで、他はみな宜しうごわすタイ。
 何かあると渋沢さんの処へ出て行つてお話をしましたが、私が魂を入れて申上げた事は一ツも退けられた事はありませんでした。私は三井には相談せんで渋沢さんに持込んで行つて、宜からう、やらうぢやないかと言はれれば、三井は金を出さんでも、私は借金して少しの株でも買つて株主になつて仕事をやつた。三井にやらしたところで三井は元々Commision agentが目的で商売するんで、初めから危険を冒してまで仕事をするのぢやなかつた。三井は売れば買ふ、買へば売つて、其の間の利をとるのが昔からの主義でした。そんなやり方ではこれからの仕事は出来んと私は思つて、良いものは渋沢さんの処に持つて行つた。
  大阪紡績
 其の頃、一番大きかつた仕事は大阪紡績会社を起したことでごわした。紡績を始めるには、渋沢さんの家へ出入してゐた山辺丈夫といふ人、それがイギリスに行つてゐるのを知つてゐたので、紡績の事なら山辺に調べさせたら宜しからうと渋沢さんに申上げた。私は三井には居ても先に申上げたやうに三井には相談しませんでした。私は留学中にプラットに信用せられて、プラットのエゼンシを取つて来ました。それで織機を売る事は、我々に委託の事となりました。プラットは立派な会社です。それでだんだん何んですタイ、山辺といふロンドンにゐる書生に調べさせるが宜からうといふ事になつて、彼を入社させて教へ込ませた。
 その頃には政府でも松方侯が勧業総裁でやらせてゐたが、千五百錘位の小さい紡錘会社を三、四軒起させた。然るに吾々はそんな小さな規模ではとても引合はぬ、どうしても一万錘以上にせねばならんだらうが、最小が幾らならよいか問合せようぢやないかといふんで、ロンドンにゐる山辺に引合せると「一万以上の紡織機があればよい」と言つて来た。それぢや一万五百錘とやらう、といふことにして大阪でやつた。それが大成功ですタイ。
 一、二千錘でやつた会社は皆駄目だつたので、吾々の大阪紡績はお手本になつて我も我も皆プラットの機械を買つて大変な事になつた。最近では一千万錘位になつたでせうなア。
 私はプラットのエゼントを持つてゐたので、その機械を盛んに供給した。これが物産の創業以来初めての安心な、いい仕事でした。これで物産の基礎が定まりました。
 物産はそれまで人の褌で商売してゐましたが、これから後は良い仕事は渋沢さんに申上げて会社を起し、物産も株主にしてやりました。
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それで物産は楽々と大きくなりました。
 ただ台湾製糖だけが、どう云ふわけか忘れましたが、渋沢さんに相談せずに三井物産で株を募集して自分で創立しました。その他は皆さうであつた。
 当年は人造肥料会社創立五十年になり、発起人は大抵あの世に行つて了はれて私一人が残つてゐるが、会社は立派になつた。
 夫々のものについては別に申上げるとして、大体は以上の様な有様で、私は渋沢さんをお慕ひして沢山の仕事を一緒にしました。その間には仕事に経験も得まするし、又、屑を出して子爵の思を悩ましたといふ事もなし、私が申上げれば何でも御採用になつて引受けて下すつた、そして骨身を惜まず努力をなさつた。幸、私も何一つボロを出さずに済みましたのも、これは全く渋沢さんのお蔭で、一生の大恩人であると感銘しとります。
  政治談
 そんな具合に深い関係でありながら渋沢さんと私は違つたところがありました。
 渋沢さんは政治談が大嫌ひ、政府を退かれてからは「自分は政治を一旦捨てたのだから」と仰しやられて、政治のセの字も一切やられない。私共が政治談を初めると
 「政治の話はヤメヤメ」でした。私が
 「政治は嫌ひだと仰しやつても、経済の事をやつてをれば、自然政治に関係が出来てくるではありませんか」と申しても、政治談には一切耳をかされませんでした。
 しかし、それでゐて国家の為めとあらば、政治上の問題であらうが何だらうが出て行つて、どんどん処理されたところが渋沢さんの偉いところだつたと敬服しとります。
  趣味
 それから趣味の方でも大分違つてゐました。
 巴里博覧会○出品組合あれは前田正名といふ人が世話をしたが、大隈さんがさういはれるからといふんで子爵も力を入れられたが――ところが美術が又渋沢さんは大の嫌ひ。加賀地方へ旅行されて、その視察談を聞かせるから寄つて来いと言ふので、常盤屋へ伺つた。渋沢さんは「ケシカラン奴等だ、道具ばかり並べ立て、茶を出す、あいつらは馬鹿だ」と、どなりながら、渋沢さんは二階で小言の演説をしてをられる。その演説最中に、女将が一寸下に来てくれといふので降りて見ると、隣に山積が来てゐる。これはもの笑ひだが、白状しますと、山積といふ徳川家康以来代々徳川家に御出入をしてゐるといふ道具屋で、私は之に釜の世話をしてくれと頼んでゐたのです。
 下で山積と話してゐると渋沢さんは私がゐないのに気付かれて「あいつめ、何か遊んどるのだらう、呼んで来い」と招びに寄さこれる。とこちらは知らん顔をして出て行つて「御尤もです」と合槌を打つてまた一寸下へ行つては釜の話。隣では山積、二階では加賀といふ訳でした。
 ところが後でたうとうこの釜の一件は曝れました。それは東京市が
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水道公債を発行した時に水に関係のある写真を集めるといふ事で私の釜のことを何処からか聞き出して来た。
 この釜といふのは小田原の大久保家にあつたもので、江戸の水道に深い因縁がある。豊臣秀吉が小田原の役が終つた時、家康にむかつて「お前が江戸を治めるならば関八州はお前に有たせる」といつた。そこで家康は江戸を治めるには先づ水が必要だと、大久保に水道をこさへさせ、水道が出来た時に大久保は家康を水源地へ案内した、家康は喜んで、この水が飲めればと言ふんで水源地へ行き、その釜を持つてつて湯を立てて飲んだ。その時の褒美がケチン坊の家康ですから中々金などはやらず、持参した釜一つだつた。その釜が代々大久保家の家宝として伝はり、将軍が代る毎に大久保家では主人が持参して御覧に供したといふ、いわれ因縁をもつ釜であつた。
 この釜の写真を水道公債に使ふといふ時に渋沢さんに知られて「どうして黙つてゐたのか」とおつしやるので、実はあなたが常盤屋の二階で茶道具の讒謗をしてをられた、あの時買つたのです」と白状しました。しかし後には渋沢さんも茶をお始めになつて、王子の邸には徳川慶喜さんと伊藤公を招んで二人をお引合せなさつた。あの茶席も私の弟などが御世話をして遊ばした。
 その時の書き物は私が屏風にして持つてゐます。二人の趣味も初めは違つたが、後には合つて来た。しかし、義太夫だけはこちらが大嫌ひで……。
 兎に角、始終遊びに行つたり、又こちらへも来て貰ふ、といふ風に誠に御懇命を受けました。
  ハリスの碑
 それから又、ハリスのことでも、最初は、渋沢さんと私は大分違うてゐました。
 後に渋沢さんがハリスの碑を下田に建てられた時には一緒に参つて
 「ハリスによつて初めて日本の国が開かれたことは、これは国の交際上大切である」といふ話を伺ひましたが、渋沢さんの青年時代には攘夷論の実行者で、外人焼打などの暴挙を企てられてゐたといふ。
 其頃私は芝の善福寺にあつたアメリカ公使館に抜身で詰めていた。
 後日、私は渋沢さんに
 「あなたはよく私共のところへ斬込んで来られませんでしたね」と言つて笑つたことがある。
 渋沢さんが鎖国家から開国家に変られたのは歴史的に深い意義があることと、下田へ行つてハリスの碑の前で私は思ひました。
 渋沢さんは政治の話はなさらなかつたけれども、いやしくも国家の為めとあらば、何んでも引受けて熱心にやられたことが忘れられません。
 ほんとにお世辞でなく、心に浮んだところを申上げたばかりです。
  商業会議所の設立当初に就て
 イエ、ナニ、その頃は未だ府会もなし、それだから民間で物を言ふ機関がなかつた。横浜や神戸の外人を見ると、チヤンボラ・コンメルスといふものがあつて、外人達は其処で商業上の相談をしてゐた。私
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等はそれを見て物真似ねしたわけです。
 で、これからは吾々も会を作つて「会の決議で物を言はう」と云ふことになつた。今迄そんなものがなかつたんで、自然、会に人が力を入れる。誰でも「演説はヤランヤラン」と言ひながら、実はシヤベリ度い。とりわけ渋沢さんはシヤベルことは人一倍巧みで、其上お好きだつた。
 私共が外人に接して横浜のコンメルスで彼等が何でも会の決議でやつてゐるのを見て、吾々も会の決議で世の中に押出して行かうぢやないかといふことになつた。他に何もなかつたから、得たり賢しとみんなやつた。名士も大分揃うて、それ相応のことを言うた。
 これを見て世の中の人達が「政府は何日迄も薩長土肥で政治をやり大隈さんなども彼等を利用して長く勢力を得て自分一人でやつとるのはケシカラン、畢竟、三井や渋沢、益田などは会を作つて大隈に反抗する積りだらう」といつた評判もあつた。しかし、それも二十年後には其の誤解は解けた。

 それより船の争ひが大きかつた。
 これは何で起つたかと言ふと――税が金納になつた。即ち今迄は米納でよかつたのが金納になつた。それが明治六年のこと。百姓は米を金に換へねばならんが、その金に換へる市場がなかつた。西は大阪、東は東京に廻漕せにやならん。「足のない米」ゆゑ金に換はる事が出来ぬ。
 買つても都へ持つて来ようと云へば船は三菱より他無いのであるから、そこでヨンドコロなく風帆船会社を拵へた。遠武を社長に頼んで遣り始めた。たうとう後に政府の方で品川弥二郎といふ農商務卿――いや次官だつたか、それが政府から金を持つて来たもんですから、いよいよ三菱との争ひになりました。
 全体さうなると双方に策士といふものがあるもので、渋沢さんと益田が目ざされた。これは渋沢さんのために悪いと申訳なく思うとります。後であちらの反対者の人達と一緒に会つて話合うてみると「渋沢が第一銀行で威張つてゐるから一ついぢめてやらうぢやないか」といつて、取引所の株の売買の証拠金を第一銀行へ預けて置くからして威張るんだ。あれを引上げるには取引所の株を一株余分に持てばよい」といふのでその時の策士は多分朝吹英二で朝吹が建議した。たうとう株を買つて一株上になつた。直ぐ兜町の取引所で臨時総会を請求して天幕を張つて臨時総会を開きましたよ。一株多数だつたと云ふんで、三菱から人を入れた。――腹の穢い大天狗で――第一銀行から預金を引出した。その時にはどうだらうかと心配して私は早速三野村利左衛門の処にかけつけて「ここで第一を倒すやうなことがあつてはならぬから、これはどうしても第一を何処までも助けねばならぬ」と話をして、三井銀行からも援けられるだけ援けさせました。この時は苦しめられたけれどもエヽ具合にいつて無事だつた。
 そこで船会社ですが、船は政府の指令により軍艦類似のものとし、大砲を載せて万一の場合は運搬船になるまでに造らせた。これは西郷
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農商務卿の仕事です。
 だんだん争ひが大きくなつて来たので、伊藤公が心配されて、岩崎の郵船三菱会社と風帆船会社を統一して後の日本郵船会社になつてこの争ひは治つた。
 その間、岩崎の方では、渋沢さへ敲き潰せばどうにでもなると色々の事をした。後には渋沢と握手すれば天下の事一として行はれざるはなしと考へ、先づ渋沢さんに面会を申込んで来た。場所は中村楼で、渋沢さんだけ単独で来て貰ひたい、自分の方でも単独で行くから、といふことであつた。其日になると岩崎は先に一人で来て待つてゐた、こちらの渋沢さんも一人で出向かれた。
 中村楼では早速酒宴が始る。御承知の通り岩崎は大酒をあふる。渋沢さんには迷惑千万な話です。そして岩崎は酒を飲むと拳を始める。それが土佐拳です。渋沢さんは手洗場にでも行くふりをして下に降りて――失敬してしまはれた。――それでオヂヤンといふ訳です。
 岩崎も豪傑だつたが渋沢さんも豪傑だつた。それでも両方の争ひがうまく治つて合併し、三菱の方ではこれで一財産が出来たから岩崎弥太郎も安心して死んだでせう。
  高峰博士と人造肥料会社
 今年は人造肥料会社が創立五十年になるから其の祝賀会をやると言つて来てゐます。それに就て高峰譲吉のことを思ひ出しました。高峰は米国で科学を勉強して来た男で、私が懇意になつて、確かな人物で論説も正しいと思つたから渋沢さんに会つて貰つた。渋沢さんも面白い男だと気に入られて、高峰が日本で肥料会社を起さねばならんと言ふのに賛成され、すぐ肥料会社を創立することに決つた。
 高峰はアメリカの博覧会へ農商務省から行つた人で、「日本の農業上に不足してゐるものは燐である、今迄の様に窒素肥料ばかりでは駄目だ。日本の農業を起すには燐が必要である。その燐はアメリカにあるから、それを取寄せればよい。硫化鉄を硝酸で蒸して燐を採る、それを是非やり度い」いふ。
 折も折、日本では農商務卿は山口で肥桶かついでゐた百姓あがりの井上さんだつたから、農業には理解がある。井上さんが言ふには「日本の百姓は自分の作る田畑が遠くて其処まで歩いて行かにやならん、こんな事ではイカンから大改革をやつて日本も大農主義でやるやうにせんならん」と言はれる。
 さうかと思ふと、一方では小農主義がよいと言ふ者もある。やれ肥料が悪いと世間では色々に言ふ。私は高峰の論説が面白いので、兎も角、肥料を良くせにやならんと思うて渋沢さんに紹介しました。渋沢さんも高峰は着実な男でエエと言はれる。そこで深川に人造肥料会社を明治二十年に始めることになつた。先づ機械を買入れねばならん。それには高峰がアメリカに行つてゐたからアメリカがよからうと言ふことになつた。
 私も明治二十年の同じ年に欧洲へ行くので、一緒に高峰を連れて行つて機械買入れの監督をしてくれと渋沢さんからお話だつたから、高峰は一足先にアメリカへ行き、私は欧洲の用向を済してアメリカへ行
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つた。
 ところが高峰は機械の注文にアメリカへ来たのは計らずではなかつた。アメリカには夫婦約束をしてゐるアメリカ婦人が待つてゐて、私が行つてみると新婚気取りでをる。「ケシカラン奴だ。人をだまして貴様はわざわざアメリカまで機械を買ひに来たのか」とどなりつけた。
 実はよく話を聞いてみると、決して悪い女ではなく、後でわかつたが、高峰を内助した立派な女でした。それに高峰が夫婦約束をしてゐた事情があつたのです。それは――日本からアメリカに酒の素を持つて来て安く売る計画をしてゐた。それをアメリカの酒造りが聞き込んで「そんなことをされてはアルコールの市価が安くなつて了ふから、高峰を殺さう」と言つてゐるのを、高峰の下宿してゐた家の老夫婦が高峰に知らせて呉れた。高峰の女はその助けた婆さんの娘でした。
 そんなこともあつて、後、正式に機械を購入して帰つて来ました。肥料会社を始めてみると最初のうちは中々うまい具合に行かない。おまけに火事にあつたりで困難したが、高峰も熱心に仕事をやり、彼の妻君も本所のひどい家に馴れない生活をがまんしてゐました。それにまだ会社の方の月給も決つてゐない位であつたのに、高峰夫婦は強い精神力をもつて困難に打克つてゐました。私が深川に行つてみると、夏など蚊に喰はれてひどいめにあつて、妻君もそれに耐へて、一緒に手助けをしてゐました。
 折も折、人造燐酸肥料については――硫化鉄といふものは日本中至る所にあつて、その礦石は鉄が約五割と硫黄約五割と少しの銅を含んでゐる。鉄は役に立たんが、あとの硫黄からは硫酸がとれる。殊に日本内地では到る処に硫化銅を産する。伊予の銅山などになると銅分が七分も含んでゐるから、楽に銅をとる事が出事る。かうした訳で硫酸も手易く手に入る。それで化燐礦を最初アメリカから取り寄せ――後にはオーストラリヤから買つてゐたが――今は鳥島から来るが――その必要がなくなつた。
 硫化鉄は五割の燐礦《(硫黄カ)》を含んでゐて、幸に亜硫酸ガスが出ないで硫酸になる。これは燐を熔すによい――と言ふことが分つた。これによつて肥料会社はよく行つてをります。創立三十年祝賀の際は渋沢さんもお出になられて御演説をなさつた。その時の写真もあります。
 そんな具合で高峰も紹介の仕甲斐があり、渋沢さんの御満足を得て死にました。
  浅野との関係
   (益田翁は青淵先生在職年表に目を走らせながら、ふと気付いた風で又話をつづけられる。)
 渋沢さんは浅野にも、やり手と見込んで随分助けられたが、余り深入りされんで、カンジンな所で押へて、ずるずるにならんやうになさつたところに私は感心しとりました。ハハ……。
  例外
   (尚も在職年表を見入りつつ)
 京都陶器会社、これは知りませんね。私も大抵の会社には渋沢さんと御一緒でしたが、こんな会社にも関係があつたのですかねエ――。
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 硝子会社、東京薬品、これも知りません。
 煉瓦会社は二ケ所ありましたね、私も株を持つとります。渋沢さんにもありませうね。
  耕牧舎の話
 渋沢さんに高峰を紹介したことで、もう一つ面白い話を思ひ出しました。
 予てから日本でも肉食を奨励し、それからミルクも飲ませて、日本人の体格を良くせにやならん、それには牧畜を盛んにせにやならんから、と言ふことを前に話してをりました。
 その頃、矢野次郎が病気で宮の下に養生してゐたから、私は病気見舞に行つた。もう大分良いと言ふので運動がてら一緒に近くの山に登つて、ベルツが最上の湯治場と言つた所があれだな、と見下した。山と言つても低い小山で、その山を向ふの方に降りて行くと、計らずも一つの貧村に出た。
 何と云ふ村かと聞いてみると仙石村と云ふ。腹が減つたので茶屋に寄つたが食物は何もない。畠に大きな茄子がある、売つて呉れんか、よろしうます。――茄子を切つて焼いて食うて話をしてゐると、一人の男が前の原から出て来た。その男に聞いてみると、この原は向ふの湖まで続いてゐて二里もある大原だと言ふのです。では一つ俺も引張つてくれんかと頼んで、一緒に行くと、あたりは一面草が生えてゐてその草は自分の背より高い。これはうまいものを見付けたと思つて、私は土だの草だの参考品を集め風呂敷へ包んで帰つて、又、渋沢さんだ。ハハ……。
 渋沢さんに仙石村の土と草を見せて話すと「これはいいものを見付けて来たね、早速調べさせよう」と喜ばれて、高峰が科学者だから直ぐ調べさせた。すると大丈夫、牛が飼へると言ふ。仙石村の草原は七百町歩ばかりあることも分つた。そこで地方の人に相談をして見ると中々むづかしい。村長ではらちが明かぬので、神奈川県知事に話した方が早道だと、その時の県知事野村靖に頼んだ。野村は彼処は別に仕様のない処だからと、村長達を呼寄せて説得してくれました。
 村長が言ふには「事業を起してもあの原は西風が強くて、今迄あそこでやつた者は失敗してしまつたから、仕方なく放りツ離しにしてゐたのです」と言ふ。で、あそこの学校に三百五十円許りを寄附しただけで五六百町歩をそつくり所有権を移して呉れました。そこで始めたのが耕牧舎です。喜作さんも御関係、三井も関係しました。馬と牛で五百頭。度々馬に乗つて行きました。
 私は今日も用があつて仙石原に行つて来た所です。此村は立派な村になりましたが、学校に行つてみますと、女子供は人造絹糸の着物など着て大分昔と異つてしまひましたが、私には二十年来の親しい場所です。
 須永伝蔵など、あそこでは神様にして祭つてゐます。
 しかし、耕牧舎の牧場経営はどうも失敗でした。と云ふのが、あそこは富士の火山灰で、中々燐礦石の肥料では駄目でした。それで二万四五千円損だと云ふ事でした。所が面白い。色々事業をやつて損が入
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たつたものは初めてでしたらうが、しかし耕牧舎は損をしたが、後で結局儲けました。――余り牛が多くて牛乳が出るものですから宮の下へ行つて牛乳を売らう、次には小田原、横浜、東京と、東京では新宿へ地面を買つて、乳の出る牛を飼ひました。東京には四ケ所か五ケ所やつたところがあります。そんな事をして、地所を買つたのが三四円で買つたものが、後になつて三井の地所部へ売る時は十円にも高く売れました。
 それから仙石原の湖水縁は宮内省から御所望になつたので差上げ、代りを北海道で戴きました。これも三井で買ひましたらう。仙石原の地所会社は植林と別荘地になつて、只今も売れて居ります。佐々田彰夫がやつてゐます。前に献上した湖水ぶちの地所も宮内省では運動場にする積りだつたが、余り遠いので、そのままになりました。それで今支配人の佐々田が払下げて下さるやうにしきりと運動してゐますからこれも又戴けさうです。ハハ……。佐々田がやつてゐるうちは大丈夫です。
 仙石原には、耕牧舎を閉社する時、私が渋沢さんを案内しまして初めて御覧に入れたことがあります。渋沢さんは駕籠に乗つておいででしたが、その時の写真が私の処にある筈です。
 あの地所は渋沢家ではお持ちになりませんかね。記念に渋沢さんへ差上げるといいですね。一つ佐々田に話して置きませう。何と言ひますか判りませんが。
 日露戦争が始まらうとする時でしたか、農務局長だかの酒匂とかいふ役人が肥料会社にやつて来て
 「あんた方、戦争になつて外国から礦石が来なくなつたらどうしてくれますか」と言ふから
 「それは大丈夫です、ご安心下さい」といつたことがありました。酒匂とか言ふ人だつたかと思ひます。
   ○追記
    白石喜太郎氏談。
    本文三三三頁にある土地の値段は、買入れる時も、売却する時もそんなに高くはなかったさうです。
    尚、耕牧舎は、元は渋沢子爵と益田男爵が羊毛を目的として始められたが緬羊は失敗に終り、牛乳会社としてその他植林事業をやったと聞いてゐます。
    耕牧舎は、八十島親徳氏が事務を見てゐられました。