デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

余録
諸家談話
四 尾崎行雄氏談話

■資料

四 尾崎行雄氏談話  昭和十一年九月二十四日 【於軽井沢尾崎氏別荘】(DKB80109m)
別巻第8 p.334-341 ページ画像PDM 1.0 DEED

四 尾崎行雄氏談話
            昭和十一年九月二十四日
            於軽井沢尾崎氏別荘
                      土屋喬雄
                      佐治祐吉
                      吉村宮男
                      山本勇
  第一 「日本評論」第十一巻第二号昭和十一年二月号所載尾崎氏談中、渋沢子爵に関する談をお読み願つて、尾崎氏の渋沢子
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爵観を更に敷衍してお話し下さることを乞ふ。
    因みに、尾崎氏談は左の如し。
尾崎 あの人(渋沢子爵)は明治年間に私が接触した人の中では頗る偉い方ですな。若し政界に居つたら、伊藤、大隈、山県等と雁行すべき人でせう。或はあの方が優れて居つたかも知れぬ。余ツ程偉い人です。
 あの人は誰にでも屈しなかつたやうです。元来井上に大分引立てられて、井上の智嚢の如くになつて、暫く大蔵省に居つたんですけれども、決して井上等の自由にはならなかつたやうです。自分の方が優れて居ると思つたからでせう。また優れて居つたに違ひありますまい。
 まア大体はそんなものです。
  私は西郷、大久保、木戸には直接会つたことはありませんが、その他の明治年間の一流人物に大概会つてゐます。その中では渋沢君は非常に勝れて居つた人で、おそらくは西郷、大久保、木戸に較べても劣らないだらうと思ひます。或る意味では渋沢君の方が勝れてゐたかとも思ひます。ひどく備つた人で、その上度胸と智慧があり学問にも注意する。大層世間を観る視角が広かつた。実業で終始されたが、政治、外交、軍事、何でも見識が通つてゐたやうに思ひます。あとの人は、一方面だけしか通じなかつた。政治家は実業を知らず、実業家は政治を知らない。然るに渋沢君は各方面に亘つてゐた。
  第二 尾崎氏の市長時代に、渋沢子爵に接触された印象につき問ふ。
 私は初めの間は、一寸顔を合せた位で、交際と言ふ程のことはありません。親しく交際するやうになつたのは市長になつた後で、市役所でお目にかかり、そこで初めて大層勝れてゐることに気付いた。予て、恐ろしい気力のある人で、徹夜で仕事をしても少しも疲れないなどといふことは聞いてゐたが、市長になつてからお目にかかると、養育院を渋沢君は自分の仕事のやうにしてをられた。渋沢君は瓦斯会社その他市関係の仕事も色々されてゐたが、主たる仕事は養育院で、その働きの驚くべきことは、養育院は市長がやるべきものだが、それを、実に親切によく行届いて世話をなすつていらつしやいました。
 そのうち日露戦争が起ると、軍隊の慰問や凱旋軍の歓迎等の世話をされ、また外交関係についても、外務省のお手伝をされるといふ有様でした。
 市としては、何をするにも、第一に入用なものは金である。然し市の当然の収入を以て之を賄ふことは出来ないので、特別の寄附金を募つた。その募集方が、常に渋沢君の仕事であつた。渋沢君が寄附金の額を割当ると苦情なしに、どうかかうか集る。色々の事で何十万円も集めたでせう。不思議なほどに渋沢君の割当は徴税令書のやうに集りました。或時に病気で欠席せられたことがある。すると中野武営君がその代りをする。中野君は商業会議所の副会頭をしてゐ
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た関係から、常に渋沢君の公共事業によく手伝つて資金の募集もやつてゐた。他に、大倉、安田、それに園田も十五の頭取をしてゐた関係で来会したが、それ等の人が割当てると、中々異議が出て纏らぬ。誰が遣つても色んな苦情が出る。渋沢君が出て割当ると直ぐ集る。驚くべき道徳的勢力であつた。心掛けが他の人と違つてゐたのですね。
 言つていいかどうかわかららぬことだが、大倉喜八郎君が大分金を儲けたので、それを何か公共の為に使ひたいと思ふが、何うしたらいいだらうかと、渋沢君に相談したさうです。渋沢君は何か或事業を推薦されたさうですが、大倉君の気に入らぬ。その金を使ふについては「大倉」の名を残したい腹だつた。ですから、渋沢君の意見を訊きながら、大倉商業学校かに変じた。後に渋沢君は「どうもやつぱり気が狭い」とか何とか批評された事がありました。そうした心掛が異つてゐました。常に大きな処に目を置いてをられた。名を求むるとか、家を思ふとか言ふ念は薄く、凡てを大きく考へられてゐたやうです。
 も一つ瓦斯問題で感服したことがあります。瓦斯会社は、元来渋沢君が政府の依頼を受けて設立したもので、先づ官民連帯の会社でした。私の時代には私立会社で、他にも会社が出来、競争があつてうるさいから、私は予て市有にしたいと思つてゐた。水道も市有である。電車も市有にしたい。瓦斯をも合併せしめて後市有にしたがいいと思つてゐた。私は合併後の新会社の法定利益を年八朱と定め、それ以上の利益があれば料金を引下げ、それより以下なれば之を引上げる、則ちスライヂング・スケールの契約を結ばせる案を立てさせた。当時の関係は多くは一割といふ意見であつた。私が渋沢君にこの案を示すと、渋沢君は「八朱と言はれるのは尤もだ。ただ従来の市に貢献した点を斟酌して貰ひたい気がする」と申された。渋沢君以外の関係者は何れも一割を主張したから、最も久しく尽力された人だから無論反対されるだらうと思つてゐたのに「あなたの言ふことが尤もです」といはれたのには、実は驚きもし又感服も致しました。そこで私はこれを土台として市と瓦斯会社との契約を結ばせた。その後幾多の年月を経て疑獄が起つたのは、市も会社もこの契約を正当に履行しなかつた為です。渋沢君は自分の利益や感情を排して、一番正しいと信ずる道を歩まれた、所謂、信念の人でした。他の事にも、さうだつたらうと思ひます。
  第三 民権思想家としての尾崎氏が、同じく民権思想を抱懐せられたる渋沢子爵の民権思想につき、如何なる感想を有たれるかにつきお話を乞ふ。
 これで感じたことは――明治初年は非常な官尊民卑の世の中で、官吏を重んじ、大臣参議は人間以上のものと考へられてゐた。さういふ時に方り渋沢君は退官せられた。それも大そう早く重い役人になられてゐたのを辞せられた。今では何でもないが、当時は勅任以上は非常に重んぜられてゐた。其人が断然民間に下つて、脇目も振らず終生実業で押通したと云ふことは、驚くべき事だと思ひます。私
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の知つてゐる中でさういふ人が二人あります。他の一人は福沢先生です。福沢先生も明治政府に誘はれたが、断じて入られなかつた。一平民で一生を暮したいと言うて爵位も受けなかつた。今日ではさう云ふ事の出来る人も居ようが、その当時の空気では、頗るむづかしいことです。
 渋沢君は既に政府に入つて、世人の羨望する位地に就いてゐた人ですから、若しその儘政府に居つたなら、やがて大隈、伊藤の仲間に入つた人でせう。どうして政府に止られなかつたか、不思議に思ふ位に私は感服してゐます。
 惟ふに福沢先生、渋沢君の二人は、早くから西洋に行つて、あちらでは実業家の位地の高いこと、政治家の位地がそれ程ではないといふ実相を識つて帰られた、その為であらうかとも考へます。ほんたうに国が富強になるのには、政府ばかりでは駄目な事を知り、政治と実業との関係を正しく観破して、それを実行されたものでせう。然しその頃民間で仕事をする事は非常にむづかしかつたらうと思ひます。今と違つて藩閥の勢力が非常に強く、民間の仕事でも薩長の者でなければさせないといふ風であつた。大阪では五代友厚とか藤田伝三郎とか、東京でも直接間接に薩長の息がかかつた人でなければ仕事が出来なかつた。この弊風がずつと蟠つてゐて、幕府から来た人などではむづかしくて出来ぬ世態でした。それにも拘らず渋沢君はあれだけの仕事を遣り通した。これは見識と力量と兼ね備はらねば出来ません。渋沢君はこの両者を兼備してゐたから、あの大成功を遂げたのでせう。
 私が初めて渋沢君を、これは風変りな人と思つたのは、明治十七年の頃私は先輩の説を聞いて地租改正を熱心に主張してをりましたが地租改正は明治五年に初めて出来て、その後十年毎に改正する約束であつたのが、まだ実行されずに有つた。
 そこで私はこの約束を実行させて、地価の不公平を正し、又地租を軽減しようと努力した。今では地租は小問題ですが、その頃は地租が租税の大部分を占めてゐたから、右の意見は当時の大問題となりました。その時渋沢君が地租改正の必要を大隈さんに説かれたといふことを聞いてびつくりしました。政府に反対すれば忽ち謀叛人の如く見做される時勢に於て、謀叛人の首領の大隈さんにそんな事を言ふのは実業家としては珍らしい事です。その時始めて私は、渋沢君はただの実業家ではないことを知りました。
  第四 青淵先生日記 大正一〇、九、一八
    尾崎行雄氏ヲ兜町ノ事務所ニ招待シテ其ノ主張スル軍備制限問題ニ関シ意見ヲ交換ス
    右の件につき当時の御記憶を問ふ。
 それはワシントン会議の前、私が最も熱心に軍備制限を唱へてゐた頃です。その当時は海軍が非常な多額の金を使はねばならぬ道行になつてゐて、財政の根本が動揺するだらうといふ懸念があつた。元来、我国の海軍は陸軍に較べれば、極く微々たるものであつたが、漸次に増大し、特に露西亜が東洋へ出て来るやうになつてから、之
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に対抗する為に海軍を拡張せねばならなくなり、遂に大正の始には八八艦隊を造ることに決定した。ところが、これを推行すると日本の財政が困難に陥る計算になつてゐた。ヨーロッパ戦争が勃発したので、日本の経済社会は、特別に余裕を得たものですから、八八艦隊建設の予算も議会を通りはしたが、それと同時に、物価が騰貴したので、予算の割増しとなつて、このままでは、持切れさうもない形勢になつた。そこで私は世界の海軍国と協力して互に海軍を制限したら宜からうと思つて提唱したのです。渋沢君も御同意であつたらうと思ひます。
  第五 明治三十六年東京電車及び東京市街鉄道両者合併の際には渋沢子爵は斡旋せられたが、当時尾崎氏は東京市長たりし故その顛末を問ふ。
 さきに瓦斯会社を合併したやうに、私はこの類の公共事業は成るべく合併して、終に市有にする積りだつた。その手続として、市街鉄道――主たるものは、馬車鉄道の後身と、堀端線などを合併する計画であつた。堀端線は雨宮敬次郎等で甲州系の人々が造つたものです。この合併は余り六ケ敷くなかつたが、それを買収する時には大そう骨が折れました。
  第六 昭和六年七月附尾崎氏に交附せられたるアレキサンダル氏他十一氏に対する先生の紹介状写を示して米国旅行の事を問ふ。
 最後に、アメリカへ行つた時、渋沢君の交際の広く旦つ[且つ]人望の高いのには驚きました。昭和六年の事です。私が外国に行つてゐる間に渋沢君は逝去されました。
 これは私が四度目に欧米に遊んだ時に、アメリカ方面の紹介を御頼したのです。アメリカ人との交際は、渋沢君よりは私の方が古くもあり、深くもなければならぬ訳ですが、私の方は逢ひつぱなしで大層粗略にして文通をしなかつたから、疎遠になつて、第四回には御紹介をお願ひしたのです。二十通も書いて下さつたかと思ひます。向ふに行つて逢つてみると、皆各方面の有力者であることに驚きました。或る一流の新聞の主筆など渋沢君の書いた色紙を持つてをつて直ぐに見せる、大変懇意にしてゐることを得意にしてゐました。あれまで深く各方面に亘つて交際があらうとは思ひませんでした。
  第七 昭和六年八月二十二日附アサートン氏の右紹介状に対する返翰を示してアサートン氏の事を問ふ。
 同氏は私の質問に対して、ハワイに於ける第二世の日本種米人と白種アメリカ人との関係は、宜しいといふ話をしてをりました。私はそれは誠によろこばしいことであるが、然し将来を考へておかんといけない。第二世の日本種アメリカ人は、やがて丁年に達して選挙権を得る、その時に、白種米人よりも多数な日本種米人が人種的に団結して選挙権を使用するやうな事があると由々しき問題が起る。そんな事の起らないやうに今から注意して置かなければならんと私が言つたので、アサートンも少し心配して、その方面に就ては未だ考へてゐなかつた。現在のことだけを考へてゐたといつて、しきり
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に礼を言つてをりました。
 なほ私は、今よいと云ふばかりではいけぬ、成る可く日本人を優遇し利害を共同にして、アメリカ人と結びつけて置かないといけぬ、その働きが彼我の区別なくこれを使用するやうに貴君方が率先して注意されたらよからう。苟も彼我の間に差別を立てるやうな事があると、必ず人種的に団結するやうになる。左なくとも、日本からは色々な人間が来て、人種的団結を促し大和魂を失つてはいけぬなどと教へてをる。私はそれを善い事とは思はない。一旦アメリカ人となつた以上は、飽くまでもアメリカ人でなければならぬと私は主張してをる。私は此方に於て日本人の遣方を改めさせようと思ふと同時に、彼方に於ては利害を共一にして人種的に団結させないやうにしなければならないと云ふことを申述べました。
 これに対してアサートンは大そう御礼を言つてゐました。
  第八 青淵先生日記 明治四四、四、一二
    東京市庁ニ至リ市長ニ面会、労働紹介所ノコトヲ談ズ
    右の件につき御記憶を問ふ。
 この時は未だ出来なかつたらうと思ふ。この頃から市が動き出しました。これには安達憲忠君が熱心にやつてゐた。
 明治四十年年[衍字]頃、渋沢君が始終度々資金を募つてゐました。
  第九 渋沢子爵が実業家には稀に見る雄弁家であり、極めて多くの演説をされたることを話し、尾崎氏が渋沢子爵の演説を聴かれたる際の印象を問ふ。
 渋沢君の演説は聞いたことはあるが、極く座談的の主意を述べる集会で聞いただけで、長く纏つたものは聞いたことがありません。
 資金を集める時の演説は、よほど条理の立つた、いい話振りであつたことを憶えてをります。親切な、至らざる所なく、隅から隅まで手の届くやうな話しぶりでした。
 しかし私の聞いた話は短いものでしたが、凡てのことに理智と情熱があつた点で、演説も立派だつたらうと思ひます。
  第十 渋沢子爵の人物の特徴につきお話を乞ふ。
 一、頭が鋭い
  その頭をもつて蒐集した智識を沢山蓄積してゐた。
 一、勇気があつた。度胸の据つた人である。
 一、親切に物を考へると同時に、勇断可決、果断決行、よく謀りよく断ずる、即ち善謀善断。
 一、執着力が強い。
 一、事業の遂行力が非常にあつた。よくもあんな沢山の仕事が出来たと思ふ。
  養育院の遣方を観ると、養育院の仕事は渋沢君の仕事全体の何十分の一かのものであらうが実に至れり尽せりと申して好かつた。あれだけ頭と度胸と腕を備へた人は少ないと思ふ。
 一、親切心に富んでゐる。
  これが他の人と較べると余程特色があつたらうと思ふ。私の知つてゐる人で、渋沢君ほど親切心を持つてゐる人は少ない。その親
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切心の端が養育院にも表はれたものであらうと思ひます。
  第十一 政界の大人物にて渋沢子爵に性格、風格の類似せる人につき問ふ。
 渋沢君に比較すべき人は、政治界には一流の人は少ないかと思ふ。個人的に親切な点では井上馨さんが大分さうであつたやうですが、渋沢君のやうに多方面に亘らず、片走りをした公正円満さが欠けてをつた。渋沢君は養育院など公衆の事にまで及んだ。その点で異つてゐる。
 率直に言へば、あれ程の大人物は政治界には無かつたらうかと思ひます。
  第十二 松方公と渋沢子爵と風格上類似点なきや、と問ふ。
 何かあるかも知れんが、私の観た松方といふ人は低く小さい人で、人物としては余程劣つた人である。ただ薩摩人といふだけで、あそこまで行つたのです。
  第十三 渋沢子爵が誘はれるまま大蔵大臣になられたと仮定し、その適否につき問ふ。
 よほどよかつたらう。無類の大蔵大臣が出来たらうと思ひます。ただ薩長が横暴を極めてをつた時勢であるから、おなりになつても、大して善い仕事は出来なかつたらうと思ひます。思ふに、おなりにならなかつた原因は、そこに在つたのではないか。
 渋沢君が再び政府に出なかつたのは、薩長の跋扈を実際に観てをつたからでせう。とにかく薩長以外の者には足の踏場がなかつた。角立つた話をされたことはなかつたやうですが、そのバックに困つたらしい話振りはありました。何れにしても政権は薩長以外の人物には近寄せないのですから、民間で政府にものを言へたのは渋沢君の他には一人もなかつたでせう。日本全体がさういふ状態でした。自分らは刀の先で政権を獲たのだから、刀の先でなければ渡さぬと考へてゐたのです。軍用金の出る処を押へてしまつて。
 そこで我々は立憲政治を布いて、投票で天下のやりとりを致さうと考へ、向ふは之に反対したのです。しかし投票で天下を遣り取りする事が、道理上最も正しく旦つ国家の為にも最も安全な方法であると考へ、政治は立憲でなければならぬと主張したのです。
 その頃は陸海軍と警視は幾んと全く薩長に専有せられ、薩長人でなければ、どんなに頭があつても、容易に上級には昇れなかつた。宮様の外で薩長以外の人が元帥になつたのは、奥大将一人だけです。ところが、立憲政治の世の中になつても、尚、暴力を以て天下を争はんとしたのが、明治二十五年の選挙干渉であります。
 明治年間には、どんなに偉い人物でも薩長でなければ総理大臣にはなれなかつた。陸奥や渡辺兄弟などは裸で力を比べたら、余り負けない人物でしたが――。大正以後は優勝劣敗の作用によつて、薩長以外からも総理大臣や元帥が出たけれども、あの時勢では渋沢君が大蔵大臣になつても駄目だつたらうと思ひます。大正以後は腕次第になりましたが、明治時代は、薩長と他の日本全体とは征服者と被征服者の関係でありました。
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  第十四 最後に青淵先生職任年表を一部差上げ、渋沢子爵の関係事業計七百一団体、内、実業会社等二四六、公共事業等四五五に達する旨をお話ししたるに、暫く眼を注がれ、次の如く語らる。
 とにかく渋沢といふ人は、沢山の仕事をした人ですね。日本であれだけの仕事をした人は他にないでせう。渋沢君の半分の仕事をした人もないでせう。伊藤さんなども多い方だが角度が狭いです。