公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
五 清浦奎吾氏談話 昭和十一年九月二十日 【於清浦伯爵邸】(DKB80110m)
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五 清浦奎吾氏談話
昭和十一年九月二十日
於清浦伯爵邸
佐治祐吉
吉村宮男
太田慶一
山本勇
渋沢翁追懐談
私の渋沢翁観
私の渋沢翁について申上る言葉は、ここに用意して置きました此の詩一篇に尽きてをるのであります。これは渋沢翁が亡くなられた直後に作つたもので、翁の生涯を現はしてゐるといつてよいと思ひます。
追悼青淵渋沢子爵
勤王或佐幕。開港又攘夷。世論如鼎沸。志士屡履危。挺身出閭里。
其志書剣知。早審天下勢。風雲有所期。航海遊欧米。活眼視事宜。
帰来形勢変。明治中興時。仕官掌財務。出納能中規。一朝挂冠去。
先定商工基。斡旋執公道。解紛如理糸。仁義与忠恕。造次身不離。
慈恵似甘雨。善聚為善施。門下穠桃李。室中秀蘭芝。天爵与人爵。
百年兼得之。彼蒼亦降福。満而長不虧。翁常語人曰。論語是我師。
言行相一致。果知不人欺。老病終捐館。天子賜哀辞。翁也死不死。
高風清白遺。此日我行弔。殯殿拝霊帷。憶昔識翁始。一見雲霧披。
即ち翁は、この詩の通り埼玉県の大里郡血洗島から出身せられて、青年時代には藍玉の行商をされてをつた。青淵と云ふ雅号も藍玉の銘柄に因みて拈出せられたるものであるやに聴きしこともある。徳川幕府の末期は、勤王或は佐幕、開港又攘夷、公武合体といふ有様で海内は鼎の沸くが如き時代だから、田舎にぐづぐづしてゐられずに村を出られ、一時一橋家に仕へられ、其の後水戸家の民部大輔のお附きになつて海外旅行に出掛けられた。活眼家のことであるから、将来の形勢をよく観て帰られた。渋沢翁の帰国された頃は、国内の形勢は一変して世は王政復古、幕府は倒れて王政維新となつてをつた。間もなく風雲に際会し明治政府に召されて大蔵省に出仕し財務の仕事をされてをつたのであるが、活眼家のことであるから一朝挂冠して実業界に入られた。実業界では非常な働きで斯界の泰山北斗となられ、実業のことは翁に万事を依頼するやうになつた。翁は偏せず党せず、中庸をとつて解紛如理糸であつた。また翁は漢学の素養が元になつてゐて、仁義
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と忠恕で造次顛沛に於ても身を離れなかつた。それから今日謂ふ所の社会事業、その頃は慈恵といひましたが、貧民に恵んだり又はその世話をされました。翁は所謂守銭奴ではない、よく施されました。若し彼の人にして守銭奴であつたなら、その富は三井・三菱と肩を並べるほどになつたらうが、さうでなかつた所が尊い。また、竜門社と称して将来有望な学生を大勢養つて世話をされた。又家庭からは、室中秀蘭芝で、穂積、阪谷氏等が出るといふ有様であつて、しかも実業家としては三井・三菱も男爵であるが、翁は子爵に叙せられ、正に天爵と人爵を共に兼ね得た人でありました。
翁常語人曰、論語是我師。これは翁の口から度々聞かされた言葉です。
「仁をなせば富まず、富をなせば仁ならずといふが、決してさうではなく、富みつつ仁をなすことも出来るものである。自分は、論語に書かれてあることは何でも守るが、算盤と論語も併合すべきものである。人は算盤と論語は相伴はぬといふが、さうではない」
果して言行一致、翁はその通りやつて行かれました。
私は翁と机を並べて仕事をするとか、寄り合つて相談をするとかいふことは、職務柄が違つたから余りありませんでした。また、客に招かれて御馳走になつたことはありますが、他の場所へ一緒に行くことなどはなかつたから、翁に対する逸話は聞きません。
私の最も親しく翁と話し合つたことは社会事業に関したことで、今の中央社会事業協会――昔は慈善協会といひました――それには私から翁にお願ひして会長になつて戴き、世話をして貰ひました。そんなわけで翁がなくなられて後は、現に私が会長となつてゐる次第です。
その他の政治、実業の方面に就ては胸襟を開いてお話する機会はありませんでした。飛鳥山の邸に招かれたことも度々ありますが、大勢と一緒のことが多く、一人で招かれることがなかつたので、深い話があるわけではありません。
大命拝受と翁
私が大正十三年に大命を拝した時に翁は「いま貴方が出られる時ではないから、およしになつた方がよからう」といつて矢野恒太氏と一緒に私の宅に来られて、忠言をして下さつたことがあります。それには何か別の意味があつたのかも知れませんが、私には総選挙を公平にやらうといふ理想もありましたし、また政治上のやむにやまれぬ勢があつたので、自分の利害を顧みず、翁の忠告を受けないで大命を拝しました。
生糸問題
生糸のことでは、その頃私が帝国蚕糸会と蚕糸同業組合との二つの会長をしてをりましたので、是については度々お話したことがあります。生糸の取引は特にアメリカが多いが、その頃の日本の生糸は今日の如く改良されてゐず、看貫秤で、水分が多いとか、節が多いとかアメリカから色々注文を言つて来まして、チニー氏等五六人やつて来たこともありました。
この生糸改良については渋沢翁が大部説を述べられましたが、その
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方面のことは今井五介翁、アメリカ関係では原富太郎氏が最も評しいことを知つてをりませう。
一九二四年排日法(大正十三年)
アメリカの排日法問題では、翁は熱心に世話をされてをりました。これについては金子堅太郎氏がよく知つてをられる筈です。
法典調査会(明治二十六年―明治三十二年)
これは何しろ日本では条約改正をしなければ独立国の面目にかかはるといふ大問題でありました。明治四年に岩倉公が木戸、大久保等の諸氏を同伴して欧米に行かれたのも形勢視察の名義ではあつたが、実は条約改正の瀬踏みでもあつた。この問題については民間でも盛に論じたし、また政府でも熱心にやりましたが、みな失敗に終つてゐました。
これをなし遂げるには、第一に日本の法律制度がいけないので、これから改正しなければならぬ。それには欧米風の法律でなければいかぬ。先づ刑法治罪法を改正しよう、我国の維新後に出来た新律綱領は唐、明、清律にならつて拵へたものであるから、それを改正してかからなければならぬといふわけでした。
そこで、政府では仏人ボアソナードを招聘し、司法省でも法律は立派に出来ても法律を運用する人が出来なければ裁判の公正は得られぬから、法律を運用する人を養成しなければいけぬ。その為にアッペール、ヂブスケ、ジュスラムなどの仏蘭西人を雇つて来た。刑法、治罪法、それから、民法、商法と永い間かかつて調べ上りまして、第二回かの議会にかけました。ところがボアソナードの民法は日本の良俗美風に反する所があるといふ喧しい改正の議論が起りました。
この頃私は洋行しまして、帰つて来たのが明治二十五年の五月でした。丁度臨時議会が開かれて、それが延期された時で、それは各学派の議論が各違つて色々の反対が起つたからでした。議会に提出された法律案は仏蘭西法を主としたもので、それに対して英国学派や独逸学派が反対をした。更に又、谷干城等の国粋派も反対を唱へるといふ具合に、色々な争で、どう治りがつくか見当もつかぬ有様でした。
結局、当時の首相伊藤博文公が法典調査会を組織し自ら会長となつて、各学派の学識経験ある者と民間の実業家をも集めて、穂積陳重、富井政章、梅謙次郎の三人を撰んで起草委員とし、この三人で起草したものを部会で議し、部会で議したものを総会で決めるといふ順序でやりました。
最初は容易にまとまるものでなからうと憂へてをりましたが、梅、穂積、富井の起草委員が公平にやり、また伊藤公が中正円満な態度をとつてうまく纏められた。そしてこれが議会も無事に通つたのです。
このうち商法は随分永くかかりました。商法を議論する時は実業家の鏘々たる人々が集りました。勿論渋沢翁も之に加はれて、実際問題から盛んに論じられました。
楽翁公
渋沢翁は白河楽翁公を尊敬されてゐました。これについては屡々お話を聞き、楽翁公の遺訓などを伺ひました。
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楽翁公に私淑される心持から養育院の世話其他社会事業に熱心になられた様にも思はれます。
曖依村荘
飛鳥山の邸には「曖々遠人村依々墟里煙」といふ陶淵明の詩句の額が掛つてゐましたね。いつかお訪ねした時に翁は下方の王子製紙やその他の工場の煙突が沢山立つてゐるのを指して「曖々遠村煙ではなくなつて、曖々煙突煙になりましたよ」といつて笑つてをられました。いいい[衍字]処ですね、あそこは。