公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
六 郷誠之助氏談話 昭和十一年十月九日 【於郷男爵邸】(DKB80111m)
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六 郷誠之助氏談話
昭和十一年十月九日
於郷男爵邸
太田慶一
山本鉞治
市川弘勝
山本勇
青淵先生観と財界に於ける先生との関係
一、青淵先生観
渋沢さんは非常に大きな人で円熟した人でした。とりたてて何処が偉いといふことはないが、まア「凡人の偉人」とでも言へるでせう。あれでもお若い頃は侃々諤々の人であつたのが、だんだん円満になられたのです。
最初私が逢つたのは、渋沢さんがもう五十以上の時でした。当時既に円熟してをられ、そして何処までも誠心誠意の人でした。
私の青淵先生観といふものは日比谷で行はれた追悼会の席で、私が演説したあれに尽きてゐる。あれは御世辞で言つたのではないのだから、あれ以上他に言ふことはありません。
先生は、善をなす一つの権化であつた、と私は思つてゐる。ここが偉いとか、あそこが秀でてゐるとか、又は敏腕なところがみえるといふわけではなく、全体的に偉かつた。
二、私の父との関係
これは父から聞いたのだが、――父は元やはり美濃の百姓で、幕府の役人になつてゐたのを、御一新によつて明治政府に呼出されたのです。その頃の明治政府は天下国家を論ずる三十歳前後の若い者ばかりで、実際の事務を執れる者がゐなくて困つてゐた。その為私の父も引張り出されたものです。そして確か大隈から私の父に、実際上の事務に明るい者を推薦してくれと言はれて、渋沢さんと前島密を世話したと言つてゐた。
当時は藩閥が盛んで閥外の者には中々勅任になれなかつた。私の父も余程後になって三等出任になった位でしたが、渋沢さんは私の父を追越して三等出仕になられ、大そう早く出世をされた。
私がまだ子供の頃の事だが、初夏の季節になると渋沢さんがよく玉川の鮎をざるに持つて来られたのを記憶してゐます。だが渋沢さんが大蔵省をお止めになつてからも何かと交際はあつたもののやうです。
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私がお目にかかつたのは、私が道楽をしたあげくのことで、明治二十六七年の頃でした。私はその時分ちつぽけな会社の整理をやらされてゐたが、私の父が渋沢さんに――その頃渋沢さんはもう実業界の大家になつてをられました――大蔵省以後絶えず交際があつたので、実業家になるのだつたら渋沢さんに逢つて来いといはれて、兜町の事務所に行つたことがある。その時は渋沢さんは大分お忙しさうで、私は二時間ばかり待たされた。そこで私の将来のことを頼んだわけだが、渋沢さんは、別段気にも留めてくれなかつたやうでした。しかしその後、私もあちこち仕事をするやうになつたので、お目にかかる機会が多くなりました。
最初は王子製紙をやることになつたが、これは渋沢さんのお世話でしたから、その為に私は取締役になつた。当時渋沢さんも王子製紙に関係されてをつたが、何しろ三井が資本の株の過半か、十分の八、もつとそれ以上もつてゐた。それが破綻して、藤山、大川などがやつたけれどもうまくいかず、鈴木梅四郎もうまくいかず、その後を私が相談を承けて引受けた。爾来、渋沢さんにお目にかかることが多くなつた。
三、帝国商業銀行との関係について
これは馬越恭平と浅田正文が喧嘩した問題で、何しろブーム時代の借金を銀行がうんと背負ひ込んで困つてゐたのを私が引受けたが、これは成功しなかつた。銀行といふものは一度大きな借金をしたりして信用を失ふと、中々回復出来ないものです。
私がこの銀行を引受けたのは子爵と中野武営の二人から依頼されたものでした。その時分から私は整理屋の様にみられてゐた。
渋沢さんもよく色々の世話をされた。はたで見てゐる者が気の毒な位に親切で、一寸みるとまア意気地がない位だつた。頼まれれば何処へでも直ぐ飛んで行かれる。向ふで来て下さいといへば向ふへ行かれこつちで呼べばこつちへ来られるといふ風だつた。しかし、そこが偉い、極言すると子供の使走りみたいだが、普通の者にはなかなか出来ないことだ。それを渋沢さんは根よく労を厭はずにやられた。実に親切でした。平凡に見えるが、そこが偉いところでせう。
その後は何といふことなしに御交際をお願ひした。私から申せば失礼だが、渋沢さんの晩年ほど私は認められたと思つてゐる。
四、日本郵船紛争
これは一口に言ふと近藤社長と専務の林民雄との争ひだつた。近藤は豊川良平の妹を妻にしてゐたから、岩崎の遠縁になるし、また例の共同運輸会社と三菱の競争があつた頃の横浜の支配人をしてゐたから謂はば岩崎恩顧の人だ。林は岩崎久弥の竹馬の友である。それにも不拘、どういふ訳か二人の仲が悪かつた。岩崎久弥は紳士で穏かな人だから渦中に飛込むやうな人ではない。だからこの問題は社長と専務の間柄でありながら一種の暗闘であつた。
ところで私が困つたのは、私が郵船の社長を狙つてゐると観られたことでした。私は未だ嘗て自分から運動して地位を獲得したことは一度もないが、その時さういふ疑ひを受けた。
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それは兎も角、郵船の問題は段々悪化して、一方では「一体、林は専務でありながら社長と喧嘩をするなぞケシカラン」といひ、また他方では近藤社長の欠点をあげるといふ具合で、争ひが戦闘化した。
その始末をする為に中野武営と和田豊治に片岡直輝と私の四人が出て取締役になつた。ここで一寸四人の説明をすると、片岡と和田は林の方で、中野と私は近藤方であつた。
この時、私等と一緒に渋沢さんは相談役になられたが、郵船の内訌問題も半年で治つたので、私共四人は取締役を辞することになつた。私だけは渋沢さんから残つてくれるやうにと話があつたが、私は近藤の並大名《ならびだいみょう》になるのは嫌だからお断りした。
ところが、中野武営が独り決めで、近藤に「郷が取締役に残れば後で社長を郷に譲るか」とかけあつて、近藤から「それは困る」と断わられた。――そんな茶々があつたので、一寸気まづくなつてゐた。しかしこれは後で近藤が私の家に来て話合ひをしたので了解が出来て、渋沢さんの後を承けて相談役になつた。その後ついこの間まで世話をしてゐた――そんな訳です。
五、東洋製鉄会社設立
欧州大戦が始つた為に鉄が高くなつたのと、元々我国は鉄が足りないので、製鉄業を盛んにせねばならぬといふことになつて、東洋製鉄会社を起すことになつた。それには渋沢さんに蔭になり日向になりお世話になりました。直接どうといふことはないが、大勢の処で演説をして貰つたことがある。
この会社は私と和田がやつたものでしたが、初めは中野武営を社長にし、後で私が社長になつた。
六、東洋汽船と郵船の合併
その頃、子爵はもう実業界から引退されてゐたのだが、何かと皆が相談に行つてゐた。この時は表面に立たれることはなく、仕事は私と井上準之助とでやつた。
井上は浅野側で、私は郵船側であつたが、浅野との交渉は渋沢さんにお願ひして、説得して貰つた。実をいふと、あの時はむしろ大部郵船の方に有利に終つた。後で浅野は泣いてゐた程でした。
要するに、この問題は私と井上との間で折衝し解決案を作り、それを渋沢さんに報告し裁断して貰つたといふことになる。
そんな具合でこれは纏めたが、渋沢さんはめつたに人のいふことに抗議を言はぬ人でした。人が、これはかうなつてゐるからかうなりますといへば、さうかと聞いてくれた。
それから非常に記憶のよい人でした。数字なども、私等は無駄な記憶だと思ふ程、よく億えてゐられた。
また、根のいい人で、或る会議で渋沢さんが説明されてゐる処へ時間に遅れて来た人があると、渋沢さんはその人に又最初から説明してやられる。それが落着いたもので、実に丁寧にやり直される――遅れた人が何人もあると、最初から聞いてゐる私共はうんざりしてしまふ程何度も同じ事を聞かされる――全く根のいい人でした。
それに渋沢さんは腰がひくかつた。局長位の人にも局長局長と言ひ
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私に向つてさへ閣下閣下といつて下さる位だつた。
渋沢さんから貰つた手紙は大部あつたが、私の習慣で、皆破つてしまひました。
七、 徳育についての思ひ出
渋沢さんについては私にもう一つ思ひ出がある。それは子爵がなくなられる二三年前に、ガス問題がやかましくなつた頃です。その時分私は箱根の別荘にゐたが、渋沢さんも箱根の三河屋に来て養生してをられて、私の処へ使ひを寄こされた。私の別荘は山の中腹にあるので途中大部難儀な所がある。渋沢さんはそこまで上るのは足が悪くて辛いから、済まないが三河屋の方へ来てくれまいか、といふことで、私の方から出掛けて行つたことがある。
奥様も一緒にみえてをつた。
その時の話題は、「ガス問題がやかましくなつてゐるが、何とか治めてくれんか。私も東京市には因縁があるから、何とかせねばならぬと思ふが、自分独りでは一寸困る。あなたと一緒ならやれるだらうと思ふ」といふお話で、私に相棒になつてくれといふことであつた。
しかし、これは渋沢さんが調停に出られるのを私はお止めした。といふのは「私も渋沢さんから相棒になれといはれれば喜んで片棒を担ぎませうが、この解決には市会議員に金を使はねばなりませぬ。議論ばかりでは解決出来ませぬ。といつてあなたが金を使つて解決なさるといふ事も出来ますまいから、お止しになられた方が宜しいでせう」と私はお止めした。だから後日、瓦斯会社から渋沢さんのところへ調停を大部熱心に頼みに行つたやうだがたうとう引受けられなかつた。
話は前に戻るが、私の三河屋に伺つた日は珍しく他に来客もなかつたので、三四時間ゆつくりお話した。
瓦斯問題の話から私は「今日の日本の文明は智育のみ盛んで、道徳が薄くなつてゐる。ですから徳育を盛んにせねばならぬと思ひます」と申したところ、渋沢さんも私の趣意に賛成されて「私も穂積――多分陳重さんだつたのでせう――と日本の教育は知識を詰込むばかりであるが、これは何とかせねばならないと話をしたことがある」といふことでした。
私はなほ「日本は外来の思想に押されて、本来の日本気質を失つてしまつてゐる。外国には夫々の国風を持つてゐるが、今の日本には国風がない。これではいけぬから、よい国風を作らねばならぬ」といふ意味のことを話し、又私の独逸時代に経験したことや米国の例を引いたりして、日本では大いに徳育を盛んにせねばならぬと申上げた。
渋沢さんも私の意見に大いに共鳴されて「これからお互いにこの方面に努力しませう」といつて下さつた。
この時の話はその後実行出来ない内に渋沢さんは亡くなられてしまたが[しまつたが]、徳育についての問題は、渋沢さんの私に対する遺言であつたやうに感じてゐる。