デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

余録
諸家談話
七 梶並忍氏談話

■資料

七 梶並忍氏談話  昭和十一年十月十六日 【於深谷町、田村氏宅】(DKB80112m)
別巻第8 p.347-350 ページ画像PDM 1.0 DEED

七 梶並忍氏談話
            昭和十一年十月十六日
 - 別巻第8 p.348 -ページ画像 
            於深谷町、田村氏宅
             来会者  梶並氏子息
                  山口平八氏
                  尾沢義明氏
                  田村市太郎氏
                   土屋、太田、山本(鉞)
                   市川、山本勇
  安部藩の由来
 私の藩は小藩ですから家老は江戸に詰めてゐました、こちらにはをりません。こちらのことは代官が一切を処理してゐたと思はれます。事があれば家老が出るといふ具合でした。
 この藩の生国は三州で、徳川家真向の臣でありますから、三州の方に同族もあり、また領地もあります。安部家の領地の中では灘の摂津一万石が一番大きく纏つたもので、此処は八千五百石の知行です。安部家は徳川について廻つた真向の臣ですから、徳川が天下を平定した時、江戸に近いがよいといふので此地に陣屋を置いたのださうです。
 初代の安部大蔵之助ははじめ大名ではなく、徳川と豊臣との合戦に功をたて、二万石位の小大名になつたといふことですが、この記録は残つてをります。最初の碌高は一万二千石位で、その後三度に上つたさうです。さういふ次第で旗本上りの大名といふわけです。
 参覲交代はこちらと江戸との間を往き来してをりました。代々家を継がれたのも皆こちらからであります。江戸には家老が居り、こちらには代官が居りました。
  幕末における安部藩の組織
 年が改りますと、帯刀御免以上のものは御殿に伺候する習はしでありましたから、渋沢子爵さんも、お若い時分にはお出になられた筈です。名主格の帯刀御免のものでなければお目見えは許されません。それ以下のものは全然没交渉でした。足軽もお目見えは出来ません。士分でも軽いものは出来ません。
 俗にいふ足軽は半季交代で、一年の半分を役所に勤め、後の半分は百姓をしてをりましたが、それ等は却つて軽い士分のものよりも裕福でした。
 士分のものは小禄で貧窮してをりました。朝倉といふ家老でさへ百石といふ小藩のことでありますから、下の士分のものはひどく困つたやうです。
 禄は年給でありまして、今の官吏の俸給と少しも変つたところはありません。やはりお金です。石高をお金に代へて頂戴してゐたのであります。お金は延棒でした。
 百姓からの年貢も米納ではなく、金納でありました。今でいふ徴税令書の割付帖は石高で書いてあつたやうに思ひますが、これは皆済目録と共に滝沢家に残つてをりますから、調べますれば判明致します。
 此処の八千五百石といふ石高は少いのですけれども、面積は甚だ広いものですから、小藩のことですから士分のものがさう沢山ゐませんでしたので、名主で補つたのでありませう。
 - 別巻第8 p.349 -ページ画像 
 御用金と申しますのは年貢と同じことでありまして「御年貢」と申してをりました。年貢が間に合ひません時に御用金を仰せつけて、後で年貢から差引いたのであります。
 遠方の処は金納のやうでした。米もとります。両方のやうでした。
 しかし財政困難のこと故、臨時に年貢以上の御用金を仰せ付けられたことも度々あるやうです。それは確にありましたらう。
 渋沢子爵さんの発憤される動機となつた一件の御用金といふのは、一時の融通的に仰せつけられたものだつたでせう。
 例へば禄高が百石と致しますと、百石分のお金を貰つて別に何人扶持といつて月給の他に食糧を貰ひました。そして御殿の廻りに家がありまして、それをあてがはれてをりました。碌を頂戴致しますのは石高で申しますが、実際はお金でした。御蔵所で共同販売をしまして、石高に応じてお金を頒けるのであります。
 士分の数は九十軒位で、他に足軽が三四十軒ありました。足軽には八基村からも詰めてをりました。
 士分の最低碌高は十二石でした。
  若森氏の訴訟事件
 当藩の藩録が全く失くなつたのは若森氏が渋沢子爵さんとの訴訟問題の時に東京へ持ち出して、爾後東京で四散してしまつたからで、あれさへあれば当藩のことは全部判つたのですが。
 渋沢子爵さんを若森さんが訴へたといふ事の起りは、子爵さんが「青淵百話」の中に「時の代官若森が……」と陣屋でのことを書かれたことからで、史実は年代を繰つてみると、その時の代官は若森ではなくて望月多助であるといふので、若森さんは「自分の祖父を辱しめられた、このままでは先祖に対して相済まぬ」と怒つて、渋沢子爵さんを名誉毀損で訴へたのです。
 この訴訟事件は「今後は若森の名を出さぬ」といふことで決着したのですが、第一審の証拠がための時に若森さんが藩録を全部持ち出して、失くしてしまつたのです。
 若森さんといふ人は気風《キツプ》の変つた人で、後に台北の税務署長にまでなつた人ですが、若森さんがこの訴訟を起した時は一般では「今では日本の渋沢になつた人を相手にあんなことを持ち出したのは、金をゆする為だらう」と申してをりました。裁判所をはじめさう思つてゐました。
 渋沢事務所からは増田明六さんが見え、こちらでは塚田代議士が仲に入りましたが、若森さんはいつかな示談では済ませませんで「俺は金に目をくれたんぢやねエ」といつて承知しません。たうとう旧藩主安部さんの仲裁でやつと解決しました。
 若森さんの言分は「五大新聞に謝罪文を出せ」といふことでしたがそんな無理は通りませんで、白紙で済みました。しかし、再版の場合には「若森の名を出さぬ」といふ紳士協定で落着ました。
 この事件のあつたのは明治三十六七年の頃です。
 「この事があつたからですよ、渋沢さんが八基村の世話をあんなにされ始めたのは。その点では、この訴訟問題は役に立ちましたね。
 - 別巻第8 p.350 -ページ画像 
これはほんとのところですよ。編纂所の方だから良いところも悪いところも聞いて貰つた方がよいでせうから、こんな悪口を言ひますがね」
と言ふ声あり。