デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

余録
来簡抄
発信人名録

■資料

発信人名録(DKB80391m)
別巻第8 p.498-502 ページ画像CC BY 4.0

      凡例

 一、「遣外使節一行通信」中の氏名をも含めて五十音順に配列した。
 一、生年、没年に就てその何れかが判明しない揚合は判明している年次のみを掲げた。全く不明の揚合は生没年未詳とした。
 一、著名人に就ては記述を特に簡略にした。
 一、履歴が判明せず、職員録等に記載のある場合はその部分を掲げた。
 一、本資料別巻第四書簡(二)所収「宛名人名録」に収めてある人に就ては更めて記入せず、※印を付して示した。
 一、全く判明しない人は未詳とした。

一木喜徳郎
  掛川藩、岡田良一郎二男、兄は岡田良平。一木家を継ぐ。明治二〇年東京帝大法学部政治科卒。二三年内務書記官となり、休職してドイツに留学、帰朝後東京帝大法科教授となり、内務書記を兼任。明治二五年法制局長官に任じ、以後、内務次官、文部大臣内務大臣、枢密顧問官、宮内大臣を歴任。貴族院議員、法学博士、男爵。明治二年(一八六九)―昭和一九年(一九四四)
井上準之助  ※
今村忠三郎
  未詳。
入江為守
  京都冷泉家に生る。為理の第三子。後、入江為福の後を継ぐ。明治三〇年貴族院議員。東宮侍従長、侍従次長、皇太后宮大夫、御歌所長を歴任した。慶応四年(一八六八)―昭和一一年(一九三六)
大石正已
  高知藩、大石良則二男。明治七年板垣退助の立志社に入り、民権運動に従事し、以来政治活動を続け、二五年朝鮮駐箚弁理公使として赴任、朝鮮の防穀令の解除に当った。後、農商務大臣に就任すること二回、大正四年内務大臣就任直後政界を退く。安政二年(一八五五)―昭和一〇年(一九三五)
大川平三郎  ※
大久保一翁  ※
大倉喜八郎  ※
大森鐘一
  駿河府中藩、大森直正長男、明治一三年太政官権書記官となり、一八年ヨーロッパ各国に派遣せられ、帰朝後、内務大臣秘書官、内務書記官、長崎、兵庫県知事を経て宮内省に入り、皇后宮大夫、枢密顧問官を兼ねた。大正天皇崩御の後、皇太后宮大夫。男爵。安政三年(一八五六)―昭和二年(一九二七)
岡本健三郎
  土佐の人。明治の初、太政官権判事となり、大蔵大丞に進み、明治六年征韓論が起ると職を辞し、後、民権論者として活動した。西南の役に際して林有造らと挙兵を企て禁獄二年の刑を受けた。後、実業界に入り、郵船会社創立に際し重役となる。明治一八年没。
尾崎行雄  ※
尾高惇忠  ※
桂太郎
  萩に生る。明治三年ドイツに留学し、帰国後陸軍に入り、専ら陸軍の官制改革に努め、国防の充実を計る。日清戦争に出征、その功によって子爵を授けられた。伊藤内閣に列して陸軍大臣となり、大隈内閣には勅命を以て留任、爾来、山県、伊藤内閣に陸軍大臣を歴任。明治三四年総理大臣として内閣を組織し、三五年日英同盟を締結した功によって伯爵に進み、後、侯爵に進む。弘化四年(一八四七)―大正二年(一九一三)
金子堅太郎  ※
川合玉堂
  愛知県に生る。十五歳の時、京都の望月玉泉の門に入り玉舟と号した。明治二三年第三回内国勧業博覧会に褒状を受け、この年から玉堂と称した。二九年以後東京に移住した。後、文部省美術展覧会審査員となり、大正四年東京美術学校教授に任ぜられた。昭和一二年文化勲章受賞。明治六年(一八七三)―昭和三二年(一九五七)
川田小一郎  ※
北垣国道   ※
木戸孝允
  長州萩の藩士、桂小五郎と称した。吉田松陰門下、薩藩と連合して倒幕の策を講じ、維新に功労があった。又、版籍奉還、廃藩置県に努力した。明治三年岩倉具視を大使とする欧米巡視に副使として随行した。参議、内閣顧問を歴任した。号、松菊。安政四年(一八五七)―明治一〇年(一八七七)
清浦奎吾
  肥後の人。鹿本郡来民町明照寺に生れた。明治五年
 - 別巻第8 p.499 -ページ画像 
上京、十四等出仕となり、翌年埼玉県大宮在風渡野小学校長に就任した。九年、司法省に入り、一〇年検事。一五年参事院議定官補となる。以後累進して一九年には警保局長、二四年勅選貴族院議員、三九年枢密顧問官、更に司法大臣、農商務大臣を歴任して、大正一三年には清浦内閣を組織した。嘉永三年(一八五〇)―昭和一七年(一九四二)
栗原信近
  山梨県の人。幼名希助、後、伝右衛門と称す。土地の開墾に努力し、養蚕、製紙の振作を計り、又、富士川の新水路を開いて三椏栽培に尽し、金融機関を設ける等、地域の開発に努めた。弘化元年(一八四四)生。
栗本鯤(鋤雲) ※
黒川嘉兵衛
  安政元年米使ペルリ再来の折、浦賀奉行支配組頭として彼の艦に往復して米人にも知られた。吉田松陰が密航しようとして果せなかった時、下田奉行支配組頭として訊問に当ったこともある。後、一橋家用人見習から番頭兼用人に進んで、平岡円四郎と共に盛名があった。慶喜が将軍家を継いだ後は若年寄支配となった。維新後は落魄して深川で米屋を営み、後、京都で没した。生没年未詳。
児島惟謙
  伊予宇和島の人。幼名種次郎、後、五郎兵衛と称した。維新に際し脱藩して勤王家として活動した。明治四年司法省に入り、後、名古屋裁判所長、長崎、大阪控訴裁判所所長を歴任し、大阪控訴院院長となり、二四年大審院長に補せられ、この時、大津事件が起り、犯人津田三蔵を無期徒刑とした事は知られている。貴族院議員。天保八年(一八三七)―明治四一年(一九〇八)
児玉源太郎
  徳山藩士、半九郎の長男。明治四年陸軍に出仕、一八年参謀本部第一局長、二〇年陸軍大学校長、二五年陸軍次官、二八年男爵、更に子爵に進み、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣をも歴任し、三七年陸軍大将に補せられ、満洲軍参謀長、三九年参謀総長となり、また南満洲鉄道株式会社創立委員であった。嘉永五年(一八五二)―明治三九年(一九〇六)
近衛篤麿
  五摂家近衛家。明治初年明治天皇東幸と共に東京に移る。学習院長、貴族院議長、枢密顧問官。霞山と号した。文久三年(一八六三)―明治三七年(一九〇四)
小室信夫
  徳島藩士、幕末尊王の志を抱いて同志と共に京都等持院にあった足利氏累代の木像を斬って梟した。その斬奸状を書く。維新後は新政府に出仕、岩鼻県権知事等に任じ、後に貴族院議員となる。又、共同運輸会社の創立にも参画した。天保一〇年(一八三九)―明治三一年(一八九八)
近藤廉平  ※
税所敦子
  京都錦織に生る。父は林左馬大掾篤国。宮家付の武士であった。六・七歳の頃から和歌を作る。一八歳の折父を亡い、二〇歳の時、薩摩藩士税所篤之の後妻として嫁ぐ。嘉永元年実母を失い翌二年徳子を生み、五年篤之を亡い寡婦となり髪を切る。然も篤之の郷里には姑と前妻の娘二人がいたので、徳子を伴って鹿児島に赴く。安政四年、藩士島津斉彬の六男哲丸のお守役となり、更に文久三年島津久光の養女貞姫が近衛忠房(篤麿の父)に嫁ぐ際、老女として共に京都に出た。以後京都にあったが、忠房死後、貞姫は薙髪して光蘭院と称し、明治六年東京に移る敦子はなお光蘭院に仕えて共に上京した。明治八年五一歳の折、宮内省雇を命ぜられ、ついで権掌侍に任じ、女官名を「楓の内侍」と言った。和歌をよくしたので明治天皇、皇后のお歌の拝写につとめた。文政八年(一八二五)―明治三三年(一九〇〇)
斎藤実   ※
芝崎確次郎 ※
杉浦艮尚
  甲府勤番同心、七郎右衛門と称した。杉浦譲の父。号、藧水。明治五年(一八七二)一一月没。年七一。
杉浦譲   ※
杉山一成
  明治七年刊「掌中官員録」大蔵省の部に「検査寮、五等出仕、権助、シヅヲカ、正七位」。
添田寿一  ※
高田早苗  ※
田中光顕  ※
田辺太一
  幕府の儒者、田辺石庵の二男、儒学を修め、甲府徽典館の教授となり、次いで外国方に任ぜられ、文久三年、横浜鎖港使節池田筑後守の欧洲派遣に外国奉行支配組頭として随行した。鎖港行われず、帰国後、使節は御役御免、蟄居を命ぜられ、太一も免職閉門となった。後、慶応三年徳川昭武の渡欧に随行した。この時、栄一も共にパリに赴く。維新後は外務省に出仕、明治四年特命全権大使岩倉具視等に随行して欧米を巡回し、帰国後、外務省大書記官に進み、清国公使館在勤、臨時代理公使を命ぜられた。後、元老院議官。蓮舟と号した。天保二年(一八三一)―大正四年(一九一五)
谷敬三
  長州藩士坪井真道の三男。幼名信敬、後、谷家を継
 - 別巻第8 p.500 -ページ画像 
ぎ明治元年古金銀買入分析を政府より命ぜらる。次いで大蔵省鉱山司に出仕。造幣寮の設立に際し転任して造幣丞に進んだが、王子製紙の創立に与りその支配人となった。二九年東京人造肥料専務取締役に任じ兼て東洋硝子、東京印刷等の取締役を務めた。天保一三年(一八四二)―明治三六年(一九〇三)
玉乃世履
  岩国藩士、幼名辰次郎、五竜と号した。藩儒玉乃九華に学び、後、京都に遊学し、梁川星巌、山田方谷等に師事した。父、桂修助が藩を脱して家断え、師九華の後を継いで玉乃氏を称した。維新後、若松県民政取締を命ぜられ、後、民部権大丞、東京府権大参事を経て大審院長代理、次いで大審院長に進み、明治一六年高等法院裁判長に就任。一九年八月自殺した。文政八年(一八二五)―明治一九年(一八八六)
辻純市
  東京神田の人。米商会所肝煎、府会議員等に就任。
徳川家達  ※
徳川達孝
  明治元年兄家達が将軍家を継いだので、三卿の一、田安家を嗣ぐ。貴族院議員。伯爵。大正天皇の侍従長であった。慶応元年(一八六五)―昭和一六年(一九四一)
得能良介
  鹿児島藩士直助の子。幕末、大久保、西郷等と国事に奔走し、明治三年民部大丞兼大蔵大丞に任ぜられ七年紙幣頭となり大蔵大丞を兼ね、更に印刷局長に就任。文政六年(一八二三)―明治一六年(一八八三)
富田鉄之助
  仙台藩士、実保の四男、勝海舟の門に出入し、幕末その斡旋によって幕府から米国に留学して経済学を学び、維新後も新政府の留学生として止まる。明治五年、領事心得を命ぜられ、以後ニューヨーク副領事、上海総領事、ロンドン公使館一等書記官を歴任、後、大蔵省書記官に転じ、明治一五年日本銀行副総裁、二一年総裁に就任。退任後、貴族院議員、東京府知事となる。二九年以後は実業界の人となり富士紡、横浜火災、日本鉄道等の会社に関係した。天保六年(一八三五)―大正六年(一九一六)
外山正一  ※
中井三郎兵衛  ※
中井弘
  鹿児島藩士、横山詠助の長男。幕末脱藩して国事に奔走し、江戸に出、捕えられて帰国。再び土佐に走り、後藤象二郎に愛され、英国に赴き、帰国後、伊達宗城に仕え、中井弘三と称し、藩の周旋方として京都に出て諸藩志士と交る。維新後、戸籍改正の令出で、故郷に帰る。明治五年渡米、七年公使館書記を命ぜられ、駐英三年の後帰国。一七年滋賀県知事に任じ、在職七年。二六年京都府知事に就任。元老院議官、貴族院議員。号、桜洲。天保九年(一八三八)―明治二七年(一八九四)
永田甚七
  江戸下谷西町の商家に生る。市右衛門の三男。幼名甚之助。三井組に入り、明治二年為替会社頭取並、六年第一国立銀行取締役、次いで支配人に任じた。文政一二年(一八二九)―明治一四年(一八八一)
永田秀次郎
  兵庫県に生る。明治三二年第三高等学校卒。洲本中学校長、大分県視学官を経て京都府警察部長、三重県知事を歴任、大正一二年東京市長、昭和五年再び東京市長に任じた。日満棉花協会長、拓殖大学学長となり、更に拓務大臣、鉄道大臣の要職に就き、昭和一五年大政翼賛会顧問、一六年大日本興亜同盟顧問、一七年占領地軍政機関顧問に任じ、一八年フィリッピンに客死した。明治九年(一八七六)―昭和一八年(一九四三)
西村勝三
  江戸佐野藩邸に生る。父は芳郁。兄に文学博士西村茂樹がある。幼名三平、後、勝郎、実業に従事した時、行蔵といい、維新後は勝三と称した。安政三年二一歳の折、脱藩して海学を学ぼうとしたが果さず以後主として鉄砲の輸入を業として或る時は巨万の富を得たが、又、種々の事業に着手して損失も重ねた。高嶋嘉右衛門と横浜ガス灯の経営に参画し、更にメリヤスの製造、洋服裁縫等に着手したが、これらは本邦の嚆矢といわれている。靴製造は兵部省より納入を命ぜられたのに始まり、軍用靴製造所を設立したのは明治三年であった。以来靴の製造に苦心し、明治一〇年旧藩主堀田家の出資を誘い、その其代表者依田柴浦と共に依田西村組を起す、後の桜組である。又、栄一と共に東京会議所に関係して副頭取に任じ、東京府から養育院副院長、瓦斯局事務副長を命ぜられた。明治一六年、工部省所轄の深川清澄町の白煉瓦製造工場を借用して事業を継続した。後の品川白煉瓦株式会社の発祥である。明治一八年政府より品川硝子製造所の払下を受けて事業を継いだ。更に明治四〇年には日本皮革株式会社を組識する等、その仕事は非常に多岐にわたった。天保七年(一八三六)―明治四〇年(一九〇七)
新渡戸稲造  ※
林権助  ※
平山成信
  幕臣竹村長十郎の末男。後、奥州三春藩士平山省斎の養子となる。仏語を学び左院に出仕、澳国博覧会事務官となり累進して大蔵書記官、元老院書記官、大蔵大臣秘書官、内閣書記官長、貴族院議員、枢密
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顧問官、日本赤十字社長等を歴任。男爵。安政元年(一八五四)―昭和四年(一九二九)
福沢諭吉
  豊前中津藩士百助末男。大阪緒方洪庵の塾に学び、塾頭となる。二五歳の秋江戸に来り、鉄砲洲中津藩の中屋敷に塾舎を設け藩の子弟を教育し、これが慶応義塾の基となる。安政六年咸臨丸に乗組み渡米、文久元年幕府の使節に従い渡欧、維新後は慶応義塾の経営に努めるかたわら時事新報を創刊して社会の啓蒙に尽した。著書多数。天保五年(一八三四)―明治三四年(一九〇一)
穂積歌子  ※
穂積陳重  ※
本多晋
  もと敏三郎と称した。一橋家家臣、元治元年一橋家が禁裡守護となるのに従って京都に赴く。慶喜が将軍家を継いだ後は幕臣となり、陸軍調役となる。維新に際して同志と彰義隊を組織。戦後、官に仕え、民部省、大蔵省を経、明治五年、吉田清成に随行して英米に赴き、帰国後国債局に出仕、後、官を辞し正金銀行役員となったが、これも辞して上野東照宮に奉仕した。生没年未詳。
前島密
  越後高田藩領内上野助右衛門の二男。三二歳にして幕吏前島錠次郎の養子となり、幕府開成所の反訳方同数学教師等を勤む。維新後明治政府に出仕して、民部、大蔵、内務の各省に勤め、後、逓信次官、元老院議官を歴任。又、北越鉄道、東洋汽船等の創立に尽す。男爵。天保六年(一八三五)―大正八年(一九一九)
益田孝  ※
松井慶四郎
  大阪府保蔵の二男。明治二二年東京帝大法科卒。外務省に勤務、累進して外務次官、全権大使、外務大臣、枢密顧問官等を歴任。男爵。明治元年(一八六八)―昭和一九年(一九四四)
松平茂昭
  福井藩主。糸魚川藩主松平直春の長男。幼名鑜之助初名直廉。安政四年父の隠居により糸魚川一万石を継いたが、翌年福井藩主慶永が幕譴をうけたので、幕命によって宗家を継ぐ。慶応三年以来大政復古の盛業を輔け、維新後福井藩知事に任じた。侯爵。天保七年(一八三六)―明治二三年(一八九〇)
松本順
  下総佐倉藩医佐藤泰然の二男に生れ幕府の医官松本良甫の養嗣となった。多年長崎に留学、蘭医学を修め、将軍の侍医となる。戊辰の役に会津藩のため傷病兵の治療に尽した廉により禁錮の厄に遭ったが、後、許されて兵部省に出仕、軍医頭となる。貴族院議員。男爵。天保三年(一八三二)―明治四〇年(一九〇七)
松本暢
  明治七年「掌中官員録」司法省の部に「中判事 ト ケイ[トウケイ] 正五位松本暢」。
松本常蔵  ※
松本徳次郎
  横浜の茶商。
松室致
  小倉藩士晨吾の長男。明治一七年東京帝大卒、判事補となり、累進して検事総長、行政裁判所長官を歴任、桂内閣・寺内内閣の司法大臣に任ず。退官後、貴族院議員、枢密顧問官、法政大学長等を勤めた。法学博士。嘉永五年(一八五二)―昭和六年(一九三一)
三井三郎助  ※
水野錬太郎  ※
三野村利左衛門  ※
三野村利助  ※
三好退蔵
  日向高鍋藩士。明治二年行政官に出仕し、待詔局判事試補に任ぜられ、累進して徴士待詔局参事、伊万里県少参事、司法大書記官、司法次官、大審院長等を歴任。退官後、弁護士会長に推され貴族院議員となる。一方、東京市養育院の顧問として感化事業に尽す。弘化二年(一八四五)―明治四一年(一九〇八)
陸奥宗光  ※
村田保
  唐津藩士。初め官界に入り、司法権大録、太政官兼内務大書記官等を歴任、明治二三年貴族院議員に勅選され錦鶏間祗候を仰付けられる。一方、水産事業に意を用い大日本水産会を創立、その副総裁となり小松宮より水産翁の雅号を賜わる。天保一三年(一八四二)―大正一四年(一九二五)
元田肇
  豊後国猪俣栄造の二男、杵築藩儒者元田直の養子となる。明治一三年東京帝大卒業、代言人となり、明治二三年以来毎回衆議院議員に選ばれ在職四〇年、副議長、議長となった。又、逓信大臣、鉄道大臣等を歴任、枢密顧問官を勤めた。安政五年(一八五八)―昭和一三年(一九三八)
本山七郎兵衛  ※
桃井宜三
  幕末の志土可堂の二男。酒井伊勢崎侯に嘱されて孔彰館教授を兼ね近郷好学の子弟を導く。明治三年民部省に出仕、庶務少佑となり、累進して大蔵省七等出仕となったが、病を得て官を辞した。天保一一年(一八四〇)―明治一〇年(一八七七)
八木朋直
  米沢藩士金子文弥二男、長じて同藩士八木丈七の養
 - 別巻第8 p.502 -ページ画像 
子となる。戊辰の役に出征、明治政府となるや仕官したが明治九年辞して第四国立銀行の二代目頭取となる。同二二年新潟市会議員に当選、同三二年市長となり、爾来同地方自治に尽した。天保一二年(一八四一)―昭和四年(一九二九)
安川敬一郎
  福岡藩士徳永省易の四男として戸畑に生れ、安川岡右衛門の養子となる。初め藩の執政局に出仕し、維新後勉学に努め、勝安房、山岡鉄太郎等につき、後慶応義塾に学ぶ。明治七年以後実業につき石炭採掘販売の業を営み着実に発展、北九州地方の諸会社に関与す。また育英事業に意を用い、鉱山学校、明治専門学校等を創立した。貴族院議員。男爵。嘉永二年(一八四九)―昭和九年(一九三四)
矢野二郎
  幕臣富永惣五郎二男、幼時に矢野氏を嗣ぐ。次郎兵衛と称し、後、次郎と改め、晩年は二郎と書き、通称とした。若くして英語を学び、文久三年遣欧使節に訳官として随行、明治三年外務省に入り、ワシントン在勤を命ぜらる。八年帰国、官を辞して東京商法講習所長に就任、商業教育の基礎を定む。後、堀越商会、日本麦酒株式会社の重役を歴任す。貴族院議員。弘化二年(一八四五)―明治三九年(一九〇六)
山岡鉄太郎
  号、鉄舟、幕臣小野朝右衛門の長子、山岡氏を嗣いだ。明治天皇侍従。子爵。天保七年(一八三六)―明治二一年(一八八八)
山県有朋  ※
山辺丈夫  ※
山本達雄
  臼杵藩士山本確の二男として生れ、先代幽棲の養子となる。慶応義塾、三菱商業学校等に学び、一時教鞭をとったが、明治一六年三菱会社に入る。その後日本郵船、日本銀行に勤務、同三一年同行総裁となり、任期満了後貴族院議員に勅選され、大蔵大臣、農商務大臣等を歴任した。男爵。安政三年(一八五六)―昭和二二年(一九四七)
芳川顕正  ※
吉田二郎
  明治七年刊「掌中官員録」大蔵省の部に「少丞トウケフ正六位」。
若槻礼次郎
  松江藩士奥村仙三郎の二男に生れ、若槻家の養嗣子となった。明治二五年東京帝大仏法科卒業。大蔵省に入り、累進して大蔵次官、大蔵大臣に任ぜられ、政党人となって総理大臣を勤めた。男爵。慶応二年(一八六六)―昭和二四年(一九四九)
渡辺洪基
  福井県武生の人。維新前漢学・蘭学を修め、明治二年大学少助教、明治四年、岩倉特命全権大使一行の幹部として欧米に出向き、外交官となり、後、学習院長、東京帝大総長、元老院議官、貴族院議員等を歴任した。嘉永元年(一八四八)―明治三四年(一九〇一)
 発信人名録 終