公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
まえがき
本巻は次の三種に分類した。
一、幅物
一、刊本
一、拓本
幅物には掛軸として表装されたものの他に額、巻物、色紙、短冊等を含めた。刊本とは栄一の手書を写真版として複製刊行したもの、拓本は栄一揮毫の碑石類を拓本としたものである。幅物の原本所蔵者及び点数は左の通りである。(氏名五十音順)
明石景明氏 三点
伊藤長次郎氏 三点
国分曼彦氏 一点
酒井杏之助氏 一点
佐々木哲亮氏 七点
渋沢秀雄氏 四点
渋沢雅英氏 一六点
第一銀行 五三点
高松宮家 一点
穂積重行氏 八点
以上の他渋沢青淵記念財団竜門社所蔵の分三点を加え一〇〇点を以って幅物の部を構成した。総て今回新たに写真撮影したものである。
- 別巻第9 p.n02 -ページ画像
配列の順序は所蔵者の五十音順とし、本社所蔵を最後とした。それぞれの内容は時代順としたが、揮毫年次のない場合は若書と推定されるものを前に配置した。
栄一の揮毫は自作の漢詩を書いた場合が多いが、記憶によって揮毫しているので用字の異る場合が少なくない。これらの異同は巻末の解説に示した。
栄一の習字は少年時代に始まり、終生字を書く事を好んだ。多忙な日々の間に、多くの揮毫を成した事は驚くべきである。本巻に示した所は僅かにその一端に過ぎない。その長い一生の間にどれ程の書を残したかは計り難いのである。又、栄一の書を求める人は実に夥しかった。歿後、未済に終った書債は山積していた。今日多くの人が栄一の書を珍蔵しているのは栄一の余栄を示していると言えよう。
「雨夜譚会談話筆記」中に栄一は自ら書について語っているので左に掲げる。
(雨夜譚会談話筆記)
私は一番最初、お父さんから手本を書いて貰って、それを習った。今度「晩香遺薫」と題して私のお父さんがお書きになったものを纏めて本にして出す事にしてゐるが、その中にある商売往来は私が手本に書いて貰ったものだョ。それから更に進んで、お父さんの兄さんで宗助と云ふ人――此人はお父さんの生れた家を嗣いだ人だが――誠室と号して中村仏庵の門人であった。唐様の書をうまく書いた人だが、何でも顔真卿や柳公権を学んださうである。仏庵は江戸の書家で、市川米庵と同時代かそれよりも前の人かも知れない。それから巻菱湖と云ふ書家が居ったが、此人は趙子昂を学んだ人で、顔真卿や柳公権とは大分書風が違ってゐる。董堂敬義と云ふ人は、これはまた別な書風で、一言にして評すれば、仏庵の字はぎごちなくて、米庵の字は曲る処で高くなってゐる。董堂敬義はこれまた蜘蛛が這ひつくばったやうな字を書いた。だから世間でよく「米庵の鶴膝風、董堂敬義の蠅取り蜘蛛」と云ったョ。米庵の鶴膝風と云ふのは、鶴の膝のように節くれ立ってゐるからである。こんな風に種々書風は違って居ったけれども、書家として名を揚げた人は皆唐様で、顔真卿や柳公権もしくは趙子昂などを学んで、然る後一種独特の自分の流儀を書くやうになったのである。
- 別巻第9 p.n03 -ページ画像
手本 晩香書
私の書と云ふのはそんな深い研究をやったのではない。十一二歳の頃からお父さんに教はり、それから伯父さんの誠室先生に就いて十八歳まで稽古をしたまでである。手習を始めて見ると、お父さんは「此子は手筋がいい、少し手習をしたらよからう」と云った。それでその気になり、誠室先生の家に月に二度位、自分の習ったものを持って行って直してもらった。さうすると誠室先生が「此処が伸び過ぎてゐる、此処は力が足りない」などと、よく直して呉れる。それから帰って再び叮嚀に書き更へて持って行く間に、多少興味も出て、六七年間はよく手習をした。今はやる人も多くなったやうだが正月には私は必ず書初めをした。都良香の詩で、気霽風梳新柳髪、水消浪洗旧苔鬚と云った文句などをよく書いた。誠室先生も「栄さんはなかなかうまい。おれの後が継げるヨ」と云ったりした。それから私が十九歳の頃になると、世の中が騒しくなって来て、私も国事に興味を持つやうになったから、敢て項羽の轍を履んだ訳ではないけれども、所謂「書は姓名を記するに足るのみ」で、手習の方はすっかりやめて仕舞った。すると誠室先生が「栄さんは近頃一寸も書いたものを持って来ないが、そんなに怠けるやうでは駄目だ」と注意して呉れた。
ところで最近ではおひおひ年取って来るにつれ、暇も出て来て多少昔を顧みてぼつぼつ古い慰みに帰って来た。然し最早誠室先生の手本位では満足出来なくなって、今では時々古法帖を見てゐる次第である。それでは古法帖の内では誰のものが一番いいかと云へば、
- 別巻第9 p.n04 -ページ画像
手本 誠室書
私は趙子昂が一番習ひいいやうな気がする。趙子昂と云ふ人は人柄の点に於いては誠に取るに足らぬ人物である。何でも南宋の人で、而も天子の血族であるにも不拘、平気で元に降ったといふ節操のないつまらぬ人物である。けれども私は其人格を稽古するのではない、字を習ふのである。書家仲間には王羲之の書が非常に尊ばれるが、どうも私は王羲之の書はうま味がわからない。実は一年ばかり王羲之を習った事があるけれども、どうも其骨がつかめなくて、及びもつかぬ気がしてやめて仕舞った。そこへ行くと子昂のものは私の手に合ふのか、筆癖を真似る事が来るやうに思へるし、筆意も幾分理解される。それから書を書く時の感想に就ては、私は字を書いてゐる間、外の事は何にも頭に浮ばなくて無心になるのが大変愉快である。私はよく思ふ事だが、何でも一つの事をやってる間は唯その事のみに専念して余事を考へるのはよくない。遊んでゐる場合にはそれになり切ると云ふ事が肝心である。況んや仕事に携ってゐる時は精神を集中してやるのは無論の事だらうと思ふ。
大正四年八月、栄一は箱根に避暑して、旅館に滞在中溜った書債を果そうとして数日揮毫を続けた。その日記に揮毫の速度と態度について自ら語っているので左に掲げる。
大正四年
八月十六日 ……八時朝飧シ、後、揮毫ニ勉ム、午飧ノ後モ継続シテ薄暮ニ至リテ止ム、額面題字又ハ軸物等ニテ四十枚余ヲ揮灑ス。
八月十八日 ……朝飧畢テ揮毫ヲ為ス、午飧前後ヲ通シテ五時間
- 別巻第9 p.n05 -ページ画像
余ニ及フ、然レトモ其揮灑セシモノハ額面題字又ハ幅物等ニテ五拾枚ニ至ラス、以テ余カ運筆ノ如何ニ遅鈍ナルヲ見ルニ足ル、蓋シ揮毫ハ只自己記憶ノ警句又ハ好文字ヲ紙面ニ揮灑シテ目前之ヲ玩味スルニ在リ、故ニ人ノ需ニ応シテ時々運筆スルモ素ヨリ古人ノ書法ヲ習得スル事ナク、所謂自己ノ一流ニシテ、要ハ只胸ニ記憶ノ文字ヲ筆ニテ紙面ニ現出スルニアリ、是レ余カ揮毫ヲ為スノ主旨ナリトス、午後四時頃、墨汁尽ルヲ以テ揮毫ヲ罷メ、云々。
大正四年は栄一七十六歳であった。この高齢で一日五十枚の揮毫をして、尚遅筆だというのは、栄一の積極的な一面を示していると思われる。
幅物中最も古いのは伊藤長次郎氏所蔵の三点と、渋沢雅英氏所蔵の一点とで、共に栄一渡仏以前の揮毫である。特に、伊藤家所蔵の一点には「乙丑」と年次が記入されていて、他の二点には年次の記入はないが、同時に書かれたと推定してよいであろう。乙丑は慶応元年で、栄一、二十六歳であった。(因に第一銀行所蔵、五三、暁風吹雪漏声頻。云々の詩に、迎斯二十五年春。とあり、甲子元旦書感とあるのは元治元年の年頭所感であり、揮毫は後年である。)伊藤家は現在も兵庫県高砂市に居住されているが、栄一は当時一橋家家臣として歩兵募集に努め、播州、岡山辺の一橋家の領地に往復し、特に播州今市では木棉札を発行する等、頗る因縁の深い土地であった。伊藤長次郎氏の三代前の晩黄翁は青年時代に栄一と交渉があって、共に詩を作り合ったことがあり、その折の揮毫が永く同家に伝えられていたのである。甚だ貴重なものである。
又、渋沢家に所蔵された一点には故大沢正道氏の、慶応年間書、の旨の箱書がある。大沢氏は栄一の側近の一人であって、かつ書道に精しい人であったから、この鑑定を下したものと思考される。
刊本には左記十一点を収めた。
「手写古典」として 孝経 論語 大学 前赤壁賦
「楽翁公諸書写本その他」として むら千鳥 楽翁公住吉奉納百首和歌 楽亭壁書解説緒言 楽翁公自教鑑緒言 戴恩の記 田園都市会社事業発展祝辞 出がら繭の記
- 別巻第9 p.n06 -ページ画像
栄一の揮毫を写真版として印行したものは他にもあるが、今は右十一点を収めた。書籍の序文、題字等は百数十種に及んでいるが総て省略した。右の古典類の手写本は刊本と言っても発刊部数は少く、狭い範囲に配布されたものであった。詳細の説明は解説に記した。
拓本は従来編纂室に保存されていたもののみを収録し新たに資料を求める事はしなかった。栄一揮毫の碑石は尚多くあり、墓誌に至っては更に多く存しているが、総て新たに拓本とすることはせず割愛した。
これを要するに前記したように幅物のみならず、刊本、拓本の類にしても一端を示すに過ぎない。それ程多くの揮毫が成され、全貌は尽し得ないのである。
終りに本巻作成に当って、貴重な所蔵品の撮影をお許し下すった各家に深甚の謝意を表するものである。
○参考。本資料第四八巻「栄一ノ序文、跋文、題言」及ビ同第二八巻・第四九巻「碑石」。