デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
4款 大日本紡績聯合会
■綱文

第10巻 p.355-361(DK100031k) ページ画像

明治24年7月8日(1891年)

是日栄一、原六郎ガ横浜正金銀行ノ要務ヲ帯ビテ欧米ニ出張スルニ托シテ印度ボンベイ棉ノ実況取調ヲ依頼ス。原ハ是月十六日横浜ヲ解纜、米国・英国ヲ経テ十二月二十八日ボンベイニ着シ、タタ商会及ビサスーン商会トノ交渉ヲ遂ゲ、翌二十五年二月十五日帰朝ス。


■資料

原六郎翁伝 (原邦造編) 下巻・第一一七―二一九頁 〔昭和一二年一一月〕 【明治廿四年海外出張日記 [原六郎]】(DK100031k-0001)
第10巻 p.355-359 ページ画像

原六郎翁伝 (原邦造編) 下巻・第一一七―二一九頁 〔昭和一二年一一月〕
 ○第一海外出張日記
    明治廿四年海外出張日記
六月二十九日
 月曜日 正金銀行取締役会に出席す。……予て頭取より依頼ありし如く、海外支店検査並に規則改正及び為換方法取調の為め、余の海外出張は如何と問ひしに、木村はじめ皆同意の旨を述ぶ。依て余は時日は来る九日に出帆すべしと発案す。皆驚けり。今回は青木・中村を携へ出張することに決す。規程の事は大坪を連れ各店を巡視することとす。
六月三十日
 火曜日 晴天Mrs. Lauder来訪す。来る九日又は十六日若しくは"Oceanic"にて洋行出発に付き、preparationの手伝に頼みたり。本日正金銀行に出頭。園田氏来訪。青木氏に辞令云々に付きては唯紐育出張と申付くる事とし、先方へ到着の上余より臨時主任を申付くる事に決す。
七月八日
 第一銀行に行き渋沢に面語す。印度ボンベイ綿並に銅(英)の実況取調を托せらる。
七月十五日
 晴天。暑さ九十度。終日在宅。旅行支度を調ふ。午後稍々冷気を覚ゆ。来客多し。渋沢・河崎・平野外数十名
    横浜港解纜
七月十六日
 晴天。来客数十名あり。茂木・木村夫婦・有馬来る。八時卅分正金銀行に立寄る。花房兄弟並に駒井来る。社員と共に別盃を酌み九時英波止場より乗込む。土倉夫婦、ベービー四五十名見送の為めCity of
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 Pekingに来る。郵送会社の小蒸汽船弐艘並に税関の小蒸汽船壱艘借用す。十時出帆す。登美子海病の為め終日絶食(朝飯もなしに)臥す。
○中略
  ○以後、原六郎ハ七月三十日桑港着、市俄古・紐育ヲ経テ九月二日英国ニ渡ル。同二十日更ニ仏国ニ渡り視察ノ後、二十九日倫敦ニ帰着ス。十二月三日倫敦発帰国ノ途ニツク。
十二月二十八日
 晴天。十時Bombay Harbourに安着す。steam boatにて上陸、ホテル馬車にてWatson Hotelに十一時着く。registeredせしも旅客多き為め寝室の空室なく依て午後九時迄待つこととせり。漸く晩餐後大なる一室を得て今西も同居せしむ。
 昨七日正午より今十時迄"Khedive" Run 281mを航せり。
十二月二十八日正午 Tata氏を訪ぬ。不在に付き照会状をOfficerに残し午後再同氏を訪ぬるも又不在。依てSassoonに面語せり。
 From David Sassoon & Co.London to Messrs David Sassoon & Co.; D. J. Tata Esq., Victoria Building, Fort Bombay.
  David Sassoon & Co. engaged at 4 p. m. 29th. inst.
  D. J. Tata Esq. engaged at 12 1/2 o'clock 29th. Dec.
  D. J. Tata, President of Trade Navigation, Bombay.
十二月二十九日
 晴天。D. J. Tata氏を同人居宅に訪ふ。同人云ふ。君の来印は二ケ月前従弟Tataより通知せり云々。暫時談話の後同人の商店に行きBombayの商況を尋問す。日本との商業は至て僅少なり。
   1886――1887
    Impt. 5. 100,000   Exp. 37. 100,000
   1887――1888
    Imp. 1.100,000    Exp. 69.00,000
   1888――1889
    Imp. 2.100,000    Exp. 94.00,000
   1889――1890
    Imp. 5.00,000     Exp. 105.00,000
   1890――1891
    Imp. 14.00,000    Exp. 70.00,000
  Raw Cotton from Bombay, 1889―90
    Total 9.21 = R 258.52
    1891 10.919 = R 374.77
 David Sassoonは先年日本へ旅行せしことある由本人申居れり。同人の支配人S. E. Shollom氏は香港に在留せしことありと云ふ。同人はSassoon商店よりもRaw Cottonを日本に輸入せよ。又得意先に談示致呉れとのことに付き其旨を談し、同時にfavorable term何程を問ふ。同社は追て委細を通知するとのことなり(Tata氏計りより買取らず云々の話あり)。
 午後David Sassoonを問ひ面語す。同人前日約束せしも"Report on information is ready"依て明卅日又は卅一日を約す。今夕刻今
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西氏とNative townを乗車しMarket並にVictoria Stationを見る。
 飯田義一氏の報によればBombayより日本への
 Cotton & yarn $5,000,000 内Raw Cotton(4,000,000) 内yarn(1,000,000)
 Coffee 日本より $1,500,000 (銅の総輸入高$2,500,000)
十二月三十日
 晴天。十弐時迄在宿一時よりTata氏をVictoria Buildingに訪ふ。明卅一日午前七時十分前迄にVictoria Stationに於て面会の事に約す。此れはMillsを一見の為めなり。午後二時迄にDocksを一見の為め再び同人のOfficeに吾輩行く事に約す。
 本日Sassoon & Co.に行積なりしが明卅一日にても宜しとのSassoonの(昨廿九日)口上に付き本日午後Dr. & Mrs, Robertsonの案内に依り当地の"Tower of Silence"に四時同車せり。同所はParsi宗旨の墓所にして彼等死する時は彼のTowerに死骸を送り、Towerの中に入れ死骸は鳥杯《(抔)》つゝき日晒らしたる後、骨は粉になり自然に海に流れるの仕掛けなり。同宗旨は日を信心し火を用ることを忌み又地をも嫌ひ依て火葬も土葬をも避け如此葬式を為すと云ふ。如何に習慣なれば迚実に驚きたり。同所にTowerは大小都合五ケ所あり。
十二月三十一日
 晴天。五時半起く。予てTata氏の約束あるに付きafter took tea六時当カトランホラより馬車にて今西と同行し、Victoria Station, Bombayに到る。待つこと半時間にしてTata来る。同所より凡そ九マイルKoolar Millに四十分間にて到る。同工場(Cotton yarn Mill)は1868に設立し度々失敗の後D. J. Tata氏之を引受け改良せるものと見ゆ。株券は千Rupeeにて配当は年四分相場は(昨卅日)R. 450. なり。1863の器械に付き総てold fassion《(マヽ)》なり屡ば新規の器械を取替たりと云ふ。同工場の職工は3000人にして給料はR. 26,000 a month一人に付き凡R. 30 a month子供は一人に付一ケ月五、六ルーピーなりと云ふ。子供の切れ糸を継ぐは実に巧者なり。印度は人民怠惰にて三千人を雇ひ漸く弐千五百人実際に働くと云ふ。不勤のもの多き為めなり。
 Victoria Station Bombayは世界中に類なき立派なるものなるに汽車鉄道並に間の駅々の停車場は実に粗末なり。此亦再び驚きたり。同鉄道会社は政府より年四分の補助を受け配当は年五分位なりと云ふ(何れの会社も同様なりと云)。上等一マイルに付き壱アンナなり(即9 Miles往復の切符は18 Annaなり)日本の鉄道汽車よりは安けれどもtrain並に建築は余程粗末なり。
  The Parliament of the Japanese Empire is disolved
 今朝Stationにて新聞紙を見るに日本帝国議会は解散されしと云ふ。其故は改進党政府の処置に反対し、即地震に補助したる杯《(抔)》は反対の重なるものなりと云ふ。
 本日午後三時Tata氏に再びVictoria Buildingにて面会す。同氏の手代と馬車にてVictoria Dock政府持の分並にP & OのPrivate
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 Dockを一見す。Albert Museum並にGardenを一見す。Art of Indiaは実にPoorにて日本のArtを見ては実に観るべきものなし。
  明治廿五年
一月一日
 晴天。六時早起してBombayの海岸並に公園を散歩し、当国兵隊の観兵式を一見す。回顧すれば昨廿四年一月は日本熱海に於てInfluenzaを煩ひ殊に病後疲労の際種々困難せしが本年はThe best season of the year in Indiaに日本四五月頃の気候を呼吸し、近年稀なる健康を保つは寔に幸福なる新年なりと相感ぜり。
 本日Khediveは香港へ向ふ。当地出帆のメールに托し池田謙三其他二、三氏へ寸楮を認む。
 園田氏へも寸楮を認め今西に命じ置きしに多忙の際郵便に取落せしは遺憾なり。
 Cave Elephantaを一見す。同所は一千年以上のHinduの寺にして岩中を切抜きたるものにして実に酒天童子にても住みそうなる石屋なり。委細はMurryの案内書を見るべし。同所へは三時にホテルを出でデポー・ボンダーより小蒸汽にて出づ。夕刻七時に帰る。途中涼しき事恰も三月頃の気候なり。
 郵便本日附を以て園田・池田に通信す。園田氏の分は発送遅刻せしやも知れず。
一月二日
 晴天。土曜日。Holy dayに付き終日Watsonに在宿せり。Historyを読む。尤午後三時よりTata氏の手代同車今西を連れVictoria Dock(Governmentの分)並にP & O Dockを一見す。何れも石造にしてP & Oの分も長さ500ft. あり深さ63ft. High Water 24 or 25ft.
一月三日
 日曜日、晴天。終日在宿す。尤早朝々飯前海岸を散歩せしは甚だ愉快なり。夕刻Opor Banderを散歩せり。
一月四日
 晴天。本夕Ajemarに向け出発に付き本日は最も急ケ敷覚へたり。
 早朝六時半に起き茶を取り直ちにMr. J. Sunder Slaterを訪ふ。同氏は法学士(バリスター)にて当地のHindu慣習を知る。彼れ等は父子兄弟姉妹同居するを恒とし、若し同居せざる時はincomeの割合を受くること能はず。依て其割合を多くせんが為め成丈人を減ずるを望み居る由。就而は互に嫉妬あるべし。Parsiにも此慣習ある由。一度Parsiの或るfamilyに主人死後訴訟起り其結末に至て入費の為め各壱ルーピーを受けしと云又Hinduは主人死後は財産は其兄弟等受取後家には一ケ月R. 10 or 20位を附給すると云ふ。実に其惨酷なるを知るべし。
 Mr. D. J. Tataを訪ふ。未だ帰宅せず。依てMessrs. David Sassoonを訪ふ。照会状をもつて当地の商法会議所に行きMr. Marshallに面会す。当地並に印度Cotton並にkarの出来高の報告を得る又同氏よりShare Mania 1865の報告を得たり。午後Sassoonを再び
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香港同社支店に訪ひ照会状を得る。
 同氏のSilk Millを一見す。Sassoon & Alliance Silk Mill & Co. Ltd. は織機約250. 男女職人約900にして盛なるものなるが何れも印度内地の需要に供すると云ふ、成程印度色の品多し、生糸、支那糸一を使用すと云ふ。
 Bombay Chamber of Commerceの書記に面語す(Sassoonの紹介により)Bombay Share Maniaの事並に当地商況を問ふ。同氏報告の上1892のCotton Associationのreport並に同港印度の商況報告各壱部を受く、書記はMr. Marshallにて凡六十有余歳にして支那に行きしことありと云ふ。
 帰路Tata氏をOfficeに訪ふ。同氏態々壱名某を余の為め備へ照会せり。同氏は統計等に委しき人にしてHistory of Bombay;Share Maniaを相尋たるに同氏はMaclean's Guide of Bombayを以て答ふ。早速1892発行壱部を求む。此れには委しく記載せり。
 Messrs.David Sassoon同社香港支店へ照会状を得たり。帰時香港に於て某要を為すならん(為替事件)
    Leave Bombay
 一月四日夕刻七時半Watson Hotelを発しB. & B. I. C. R. R. 1st Stationに行く。今西先づあり。Seatを前約する事出来ず迚待居れり。発車時刻来り何れも約束のSeatを得る。余は今西を当にせし為に遂にupper bedを得て一夜困難を覚へたり。
○下略
  ○原六郎ハ一月四日ボンベイ発後、アジメール、ジエイプール、デルヒ、アグラ、ラツクノー、ベナレスヲ経テ、同二十三日カルカツタ出帆、二月二十五日神戸ニ着ス。


原六郎翁伝 (原邦造編) 中巻・第一五八―一六一頁 〔昭和一二年一一月〕(DK100031k-0002)
第10巻 p.359-361 ページ画像

原六郎翁伝 (原邦造編) 中巻・第一五八―一六一頁 〔昭和一二年一一月〕
 ○第五章 横浜正金銀行頭取勇退の事情
    第三節 頭取引退後の翁と横浜正金銀行
○上略
 翁が第三回海外旅行の主たる目的は此度新たに制定された為替出合法実施の為といふことになつた。即ち御用荷為替廃止以来、為替売買の損益は正金銀行自ら負担しなければならなくなつたが、先頃からの銀価の変動では尠からぬ打撃を受け、殊に米国銀貨鋳造の件では非常の苦痛を経験したので将来再びかやうな苦境に陥らぬやう講究して得た予防策がこの為替出合法である。これによると正金銀行の各支店出張所を二団体に区別し、銀貨国各店の売買持高は之を本店に移し、又金貨国各店の売買持高は之を倫敦支店に移し、本店と倫敦支店とは毎週一回互に其持高を電報して出合相殺に努め、而かも尚出合の附かぬ丈は両店呼応して、更に出合を得るやうに努力する方法である。即ちかくして正金銀行全体の為替持高を出来る限り減少し、為替の変動によつて生ずべき損害を最少限度に止めようとしたのである。(横浜正金銀行史第一二九―一三〇頁)
 併し翁の外遊目的はそれのみに止まらなかつた。前年不景気のあとを受け、明治二十四年になつてからも内外商店の倒産するものが尠く
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なかつた。これらの中で正金銀行へ最も大きな打撃を与へたのは日本及び支那で手広く生糸の輸出に従事してゐた英商アダムソン・ベル商会の破綻であつた。この商会の破綻だけでも生金銀行は約五十万円の損失を受けた。翁が出発の直前に起つたこの出来事はこの機会に海外商況の綿密なる調査をなす必要を痛感せしめたのである。更に、この旅行は最近迎へた新夫人との密月旅行《(蜜)》をも兼ねてゐた。
 国内の動揺は経済界のみではなかつた。明治二十二年二月十一日に憲法が発布せられてからも政界の動揺は続いた。条約改正をめぐる大隈氏の爆弾事件はその後に黒田内閣の瓦解と第一次山県内閣の成立を招いた。政党勢力は次第に拡張されてはゐたが、第一議会終了後も薩長政権は依然として続き、山県内閣が条約改正の実行難を口実として闕下に骸骨を乞ふた後には、長派の山県氏に代り薩派の松方氏が第一次松方内閣を組織した。松方内閣が成立して週日を出でざる明治二十四年五月十一日には近江大津において露国皇太子の襲撃事件が降つて湧いたやうに起り内外の人心を刺戟した。明治大帝は露国皇儲を御見舞のため聖駕を大津に進めさせられ、当時滋賀県知事をしてゐた翁の親友沖守固氏は責任を間はれて免官となつた。世間には今にも露国が日本へ攻めてくるやうな噂が拡まり財界ではこれがために恐慌来の風説連りであつた。翁は直ちに井上伯を訪れてその対策を打ち合せた。
 明治廿四年七月十六日、新婚の翁夫妻を乗せたシティ・オブ・ペキン号はかうした国内の動揺をあとに横浜を解纜一路サンフランシスコへ向つた。横浜港には各国の軍艦に混り清国北洋海軍提督丁汝昌の率ゆる清国艦隊も碇泊して居り多年懸案の条約改正問題は未だ解決に至らず、帝国の対外関係の将来は益々多岐なるを思はせるものがあつた。
 七月三十日桑港へ上陸するや翁はその翌日には早速正金銀行桑港支店を、また八月十四日には紐育支店を検査した。なほ夫人は暫くニューポートに遊学中の令妹土倉政子嬢(後の伯爵内田康哉夫人)の許に留まり、語学、家政学を研究することに決つたので、翁は夫人を米国に残し、九月二日単身シティ・オブ・ニューヨーク号で紐育を出帆英国に向つた。九月十日には倫敦支店の検査を、二十三日には仏蘭西里昂支店の検査を了へ、その後倫敦に滞在して同国の経済状態を調査し、帰国の途に就いたのはこの年の十二月三日であつた。
 併しこの度の外遊における最も大きな収穫は何と云つても印度訪問であらう。これは既に日本をたつ時に渋沢栄一氏からの依頼もあり、十二月二十八日船が孟買に入港するや翁は直ちに同地の豪商ターター商会を訪ね、D・T・ターター氏《(D・J・ターター)》に会つて日印貿易状態を調査したところ両国間の取引が予想外に少いのに驚いた。そこでターター商会及び同じく同地の貿易商で世界各地に支店をもつデービツド・サスーン商会に交渉して日印貿易、就中印綿輸入の振興に努力することを約束した。これが機縁となつてやがて日本郵船会社の印度航路が開かれ、又其頃まで殆んど印度商館などを見ることの出来なかつた横浜にも数年を出でずしてターター商会の支店をはじめ数十軒の印度商館が建ち並び、随つて渡来した孟買人の数も少くなかつた。彼等は印度棉・外国米・印度藍・皮類・錫・象牙等を輸入し重に我雑貨品を輸出し、凡
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て従来英商若しくは清商の手に在つた商業を回収して行つた。 (東洋経済新報第一号第二七頁)かくて日印間の貿易は急速に発展し、印綿の輸入は日を逐ふて激増した。
 翁が印度各地を視察後、香港・上海の商況を調べて帰朝したのは翌二十五年の二月二十八日であつた。


原六郎翁伝 (原邦造編) 中巻・第四〇二―四〇三頁〔昭和一二年一一月〕(DK100031k-0003)
第10巻 p.361 ページ画像

原六郎翁伝 (原邦造編) 中巻・第四〇二―四〇三頁〔昭和一二年一一月〕
 ○第十章 其他の企業興隆に対する翁の貢献
    第七節 富士紡績会社
○上略
 翁が森村市左衛門氏等と共に綿糸紡績会社を設立しようといふ計画を樹てたのは未だ日清戦争の始まらない明治二十五、六年の交即ち、宛かも翁が第三回目の欧米旅行から帰つた頃である。この翁の第三回欧米旅行の目的は嚮きにも述べたやうに表向は横浜正金銀行為替出合
法実施のためであつたが、出発に先立ち行詰れる我紡績事業に一新生面を開くべく予め渋沢栄一氏から印度綿輸入の下調査を一任されてゐた。当時我国に於ける綿糸製造には日支両原棉を併用してゐたが、明治二十二年支那政府が上海に紡績工場を起したゝめ輸入支那綿は暴騰し、且つ支那市場へは比較的良質安価の印度糸が次第に普及し、我が製品の割込む余地をなからしめた。何故なら我国の紡績会社は設立に際して日本の劣等な綿花を見本に送つてこれに適合するやうな機械を外国に注文した程であつたから、その製品は粗悪で到底印度綿糸に匹敵することが出来ず、印度原綿の使用が要望されてゐたのである。
 そこで翁は欧米旅行からの帰途印度に立寄り、同地のターター商会やサスーン商会と交渉の結果は我国へ印度直輸入の端緒が開かれ、明治二十六年には大日本紡績聯合会と日本郵船会社との間に印綿輸送契約が締結され、孟買航路が開けて我紡績事業の発展に大なる刺戟を与へた。富士紡績会社が翁等によつて設立され様としたのはこの時である。