デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
2節 蚕糸絹織業
1款 京都織物株式会社
■綱文

第10巻 p.597-613(DK100052k) ページ画像

明治24年3月24日(1891年)

時勢風潮ノ推移ハ会社創業ノ意図ニ悉ク反シ、加フルニ前年来ノ一般的経済界ノ不況ハ是年当会社ヲシテ極度ノ悲境ニ陥シ、重役ノ辞任相踵グニ至レリ。栄一極力会社ノ維持ニ奔走セシガ、是日委員会ニ於テ委員ニ当選シ、尋イデ互選ヲ以テ委員長ニ当選セリ。以後重任シテ専ラ会社ノ整理改革
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ニ当リ、明治二十六年十一月五日ニ及ブ。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第三九―四〇頁 〔明治三三年六月〕(DK100052k-0001)
第10巻 p.598 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第三九―四〇頁 〔明治三三年六月〕
 ○第二十四章 織物業
    第一節 京都織物会社
○上略
同社ハ初メ京都府知事ノ勧誘ニ起リ、京都西陣製織業ノ改良発達ヲ図リ、且ツ当業者ヲ喚起シテ欧風ノ便利ナルヲ知ラシメンコトヲ期セルモノナリ、先生ハ同社ノ相談役トシテ内貴・田中及同役大倉喜八郎等ト会社ノ枢機ニ参与シ大ニ社業ニ力メタリ、当時一般ノ風習家屋ノ装飾衣服ノ制度ニ至ルマテ全ク欧風ニ化スルノ観アリ、為メニ同社ハ大ニ是等ノ需用ニ応スルヲ以テ尤モ策ノ得タルモノトナシ、専ラ意ヲ玆ニ注キテ設計シタリ、然ルニ明治二十四年ノ交ニ至リ俄然風潮一変シ欧風ノ家屋ハ官衙工場等ニ止マリ、服装ハ高貴婦人ノ一部ニ要スルニ過キサルノ形状ヲ呈スルニ至リシヲ以テ、同社当初ノ目的ハ全ク画餅ニ属シ資本ノ大半ハ損失シ器械モ亦一変セサル可カラサルノ悲境ニ沈メリ、時ノ重役百方苦慮シタレ共事既ニ遅ク会社ハ年々損失ヲ生スルニ至リタリ、青淵先生此ノ間ニ処シ百折撓マス敢テ一時ノ蹉跌ニ屈セス、自カラ百方経営ノ任ニ当リ其整理改革ニ力ヲ尽シ先ツ損失補塡ノ為メ資本金ノ内五万円ヲ減シテ四十五万円トナシ、従来ノ製織品ニ代フルニ都朱子生朱子等ハ輸入品ヲ防遏スルコトニ強メ、他ハ需用者ノ注文ニ応スルコトヽナシ専ラ守成ノ実ヲ挙ケ、為メニ社業年ヲ追フテ漸ク恢復スルモノアルニ至レリ、依テ爾後更ニ資本金ヲ一倍シテ九十万円トナシ、工場ヲ増築シ或ハ海外ヘ練習生ヲ派遣スル等社業着々進運ニ向ヒ復タ昔日否運ノ旧態ヲ存セス、年々相当ノ利益ヲ株主ニ配当スルコトヲ得ルニ至レリ


(京都織物会社)半季実際考課状 第七回 明治二四年八月(DK100052k-0002)
第10巻 p.598 ページ画像

(京都織物会社)半季実際考課状 第七回 明治二四年八月
    役員及職工之事
一二月二日 支配人稲垣喜多造以下傭員十七名辞職セリ
一三月廿二日 委員長内貴甚三郎辞職セリ
一三月廿四日 委員会ニ於テ委員壱名ノ補欠撰挙ヲ行ヒ相談役渋沢栄一当選シ、再ヒ互撰ヲ以テ委員長ニ撰定セリ
一同日 委員田中源太郎・浜岡光哲・渡辺伊之助・熊谷辰太郎辞職セリ
一三月廿八日 委員会ニ於テ互撰ヲ以テ渋沢栄一ヲ委員長ニ、荒川新一郎ヲ専務委員ニ、中井三郎兵衛ヲ撿査掛ニ撰任シ、辻川新三郎ニ支配人ヲ兼任セリ
一四月廿八日 本社雇仏国織物師ルーイジレルヲ臨時解雇セリ
一六月三十日 現在役員ハ四拾壱名ニシテ職工ハ男女総数二百七十三名ナリ ○下略


(京都織物会社)半季実際考課状 第八回 明治二五年二月(DK100052k-0003)
第10巻 p.598-599 ページ画像

(京都織物会社)半季実際考課状 第八回 明治二五年二月
    株主総会決議之事
 - 第10巻 p.599 -ページ画像 
一明治廿四年八月廿三日 京都市河原町四条上ル備前島町共楽館ニ於テ第七回定式総会ヲ開キ、業務ノ要領及諸勘定ノ件ヲ報告セリ
一次ニ成規ニ依り満期役員ノ改選ヲ行フ筈ナリシニ、会員一同ノ希望ニ依り左ノ人名重任セリ
  委員   内貴甚三郎   補欠員  渋沢栄一
  同    浜岡光哲    補欠員  磯野小右衛門
  同    渡辺伊之助   補欠員  荒川新一郎
  相談役  渋沢栄一    補欠員  西邑虎四郎
  相談役               大倉喜八郎
  同                 益田孝
  ○明治二十五年二月ノ第八回半季実際考課状記載ノ役員人名ノ記述形式ニ不可解ノ点アルモ、コレハ次ノ如ク解釈スベキト信ズ。
   即チ先ニ明治二十四年三月内貴甚三郎以下旧委員辞任シ、栄一・磯野小右衛門等新委員トナリタルガ同年八月廿三日ノ満期役員改選ニ当リ、其儘前委員ガ重任シタルニヨリ此決定ニ基キ、三月以後ノ委員並相談役ノ交替ノ次第ヲ此処ニ記述セシモノナラン。即チ上段ハ旧委員並旧相談役、下段ハ新委員並新相談役ニシテ上段ノ役員ノ辞任ニ代ツテ下段ノ役員ガ夫々就任セシモノナルヲ意昧ス。


(京都織物会社)半季実際考課状 第一〇回 明治二六年一月(DK100052k-0004)
第10巻 p.599 ページ画像

(京都織物会社)半季実際考課状 第一〇回 明治二六年一月
    株主総会決議之事
一明治二十五年八月八日 京都市鴨東花見小路有楽館ニ於テ第九回定式総会ヲ開キ、業務ノ要領及諸勘定ノ件ヲ報告シ並ニ利益金配当ノコトヲ決議セリ
一次ニ成規ニ依リ満期役員ノ改選ヲ行フ筈ナリシモ、会員一同ノ希望ニ依リ左ノ人名重任セリ
   委員   能谷辰太郎  補欠員  中井三郎兵衛
   同    田中源太郎  補欠員  辻川新三郎
一同日臨時総会ヲ開キ本社負担株五百十五株ヲ資本金ヨリ控除スルコト、並ニ定款第四十四条中修正ノ件ヲ決議シ、此決議ニ依リ定款中矛楯《(盾)》スル条項ノ修正ヲ現任委員ニ嘱托スルコトニ決セリ


京都織物株式会社五十年史 第一一六―一三二頁 〔昭和一二年一一月〕(DK100052k-0005)
第10巻 p.599-608 ページ画像

京都織物株式会社五十年史 第一一六―一三二頁 〔昭和一二年一一月〕
 〇第一編第三章 業績
    第一節 第一期(明治二十一年より同三十年に至る)
   当期においては明治二十三年の経済界動揺と、本社設立の一大要素たる洋風家屋の新築上流婦人服装の流行異変に業態一頓挫を来たし、営業開始匆々一大打撃を被り遂に重役の総辞職、社員の同盟辞職を見る等の一大受難に遭遇したが、鋭意内部改革に努力し、且つ営業方針を変更した結果、漸く順調に向ひ、創業第九期に至り、年一分五厘の処女配当をなし、やがて日清戦役の財界好況に恵まれ、年一割から一割二分の配当をなすとともに、倍額増資を行つた。
     一、明治二十一年――二十三年
 業況  当社は明治二十年五月五日設立せられ同二十三年五月一日を以て営業を開始した。仮営業期たる二十二年および営業開始当時の業況については、第二章第二節において記述せる如くである。開業当
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時明治二十三年の我が経済界は前年来企業過度の反動と前年の凶作とにより金利大に昂騰し、株式は下落して各人困憊の折柄、米国銀貨条例の変更ありて銀貨の暴騰を来たし、我が外国貿易は非常に影響を蒙り、生糸の輸出停滞して三万梱を横浜埠頭に堆積せしむる等惨憺たる状況に陥つた。当社においては織物製造の方針を改正し専ら汽織機運転に従事し、漸次好転を見たが、手織部に至りては未だ実効を得ず、その製造高は前期に比し二割五分を増加したにとゞまる。売上高も幾分増加せるも、財界の不況前述の通りとて好結果を挙げ得なかつた。再整染物両部は共に製造高やゝ進歩し、前期に比し一倍の額を増進したが、再整部の収支相償ふに対し、染物部にありてはその規模殊に宏大なるため未だ収支相償ふに至らない。結局上半期は参千七百四拾参円拾弐銭弐厘の損失を計上し、前期繰越益金弐千百六拾弐円四拾九銭八厘を差引金千五百八拾円六拾弐銭四厘を総損金とし、別途積立金を以て之を補塡した。下半期においても六千参百六拾七円拾八銭七厘の損失金を計上し、別途積立金を以て補塡した。
 社業改革声明 前述上半期の損失金内訳は、織物部五拾五円、染物部参千参百円、再整部弐百八拾円、撚糸部百七拾余円、其他五六両月分営業費壱千百八拾壱円等である。これは、各工場の職工不熟練のため、充分の操業をなし得なかつた――と八月弐拾六日の株主総会に報告されてゐる。なほ同総会において内貴委員長、田中委員から之等に関し説明あり、又株主は技師解雇について要望してゐる。(明治二十三年八月廿六日第五回定時株主総会録事より)
 (内貴委員長)汽織機運転上第一に必要なるは織工の熟練にして、仏国製造所の如きも一日の製品高一丈乃至二三丈なりしも、近時織工の熟練を来し一日製品額六丈に達するを得るに至りたり。本社の如きは現時漸く一丈七尺前後にして漸次進歩の傾向ありと雖も、完全の地位に達するは尚容易の業にあらず。
 (株主)染物部には雇仏国人もあり、且つ完全なる技師をも有しながら、斯の如く損失を来たしたるは解する能はず。
 (内貴委員長)織物部の如きは織殿以来引続き熟練の織工を有するも、染物部に至つては多くは素人なるが故に、雇西洋人及技師等にあつても、未だ其手足を伸ばす能はざるに依る。
 (株主)染物部の雇仏国人と技師何れが巧みなるや。その給料は何程なるや。
 (田中委員)素より一長一短其巧拙言ひ難しと雖も、給料は仏国人百五拾円、技師八拾円なり。
 (株主)この不景気の時節において八拾円の給料は実に多額と言はざるを得ず。然れども営利会社においては給料の如きはその損益の多少により論ぜざるべからず。染物部今日の如き場合において、斯の如き高給者を買ふは不利益の甚しきものなれば、速に解雇せられんことを望む。
 (田中委員)目下会社に利益なく、且将来甚だ憂苦に堪へざるものあるは、其仕掛宏大度に過ぎたる事にて、最初創立の際に於ては斯の如き困難の事業ならんとは思惟せざりしなり。然れども今日に於
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ては只々歎じて止むべきにあらされば、至急に之が救済の策を講ぜさるべからす。且技術師の件に就て議論もある事なるが、抑も本社の創立を計画したる所以のもの、曩に京都府知事槙村正直氏が勧業奨励の主旨よりして生徒を海外に送り、実業を講究せしめたる技師等のあるを以て、現時の相談役渋沢栄一氏来京発意せられたるものにて、氏は創業以来引続き相談役たるを以て、去る四月来京の節親しく本社の景況を取調べ、屡々技師等を会して氏が経験上より懇諭せられたる処あるも、実際上今日の如き結果を呈したれば何とか相当の改革を執行せざる可からず。委員に於ても過日来焦心苦慮。屡屡会合談判中にして現に本日は東京に於て浜岡委員は相談役と会合の旨通知ありたり。しかして染物の如き往々京都同業者に劣る処あるは、同業者は主に実験上より成立ち洋式の染法は主に学理上より成立ち居るを以て、仏国里昂に於けると同一の方法同一の薬料同一の分量を以てするも同一の結果を呈せず。此頃に至り全く水質の作用にある事を発見したる次第にして、猶他に空気の作用に異なる処尠なからざるによるなり。去り乍ら又技術師の如き日本在来の同業者に優る特有の技術一切之なきやと云ふに決して然らず。数多特有の技術あるも未だ充分に発揚するの場合に至らず。救済策に付ては第一・第二・第三と種々の方法を設け目下試験考究中なるを以て、一二ケ月の中に技師を其儘据置くか、廃するか又は給料を低減するか、孰れにしても改革を施行し、明年二月総会に於て株主各位に報道する処あるべし云々。
 改革を断行す 九月に入り三技師長を解雇し、支配人以下社員一同の俸給を二割程度減給し、且つ社員数を減じた。
     二、明治二十四年
 業況  上半期における業況は専ら汽織機に従事し前期に比し八割六分強を増加し、手織機は注文に応ずるの外は、つとめて規模を縮少し、五割八分五厘強減少した。再整部製造高は前期に比し二割強を増加し、製造高に対し二割三分強の純益を得た。染物部は前期と大差ないがやゝ収支相償ふに至つた。然し上半期において結局五千六百四拾九円五拾九銭参厘の純損金を計上し、別途積立金を以て、之を補塡した。下半期に入り汽織機製品高は前期に比し三割二分強を増加し、八月より十月に至る冬物仕入季節において南京繻子気配最も好況を呈し前期来の織留品も頓に売尽し、就中中等品は多量の注文を受け一時機数を増し製織せるもなほ要求に応じ得なかつたが、尾濃震災のため東国筋仕入客の気配挫折しやゝ不景気を示した。手織機製造は前期に比し三割二分弱を増加した。これは主として琥珀地肩掛地綾織エコス縞類にて、震災以後は気配やゝ萎縮したが、注文以外の見込製造をなさざりしため、製品の渋滞を見るに至らなかつた。撚糸等においては機械新設日尚ほ浅く職工も未だ習熟せぬので、未だ営業景況の記すべきものがない。染物賃金上り高は前期に比し五分三厘強を増加した。この増加の原因中最も著しきものは、黒糸染・反染・及本社特有の練染業である。再整賃金上り高は前期に比較し十一割六厘強を増加した。この増加原因は繻子再整と琥珀杢目出しにおいて著しく、前期末始め
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てこの杢目出しの業を開いたところ好結果を奏し、爾来陸続注文あり一時要求に応じ得なかつた。機械部収入高は前期に比し九分四厘強を減少した。この減少は本社工場の用に応じ、他方の注文に対しては充分見込あるものゝ外、要求に応ぜなかつたゝめである。
 会社現状に関する内貴委員長の演説 経済界の不況と欧化反動時代のため且つ当時においては理想的宏大に過ぎたる工場設備により、投下資本効率を発揮し得ざるため、重役はその局面打開策に尠からざる苦心を重ねた。当時四拾五円払込の当社株価は時価拾壱円五拾銭に低下し、二十三年下半期決算報告の第六回定時株主総会(二十四年二月二十五日)は株主の質問相次ぎ一波瀾を呈した。同総会席上会社現状に関する内貴委員長の演説並に田中委員の補足的説明は、いかに当社の営業が困難に陥りつゝあつたかを語つて余りがある。(明治二十四年二月二十五日第六回定時株主総会録事より)
 (議長内貴甚三郎)前回に於て株主諸君より当時の技師も随分高給に過ぎ、且技術上余り評判も宜しからざるに付き、一日も早く処置すべしとの請求あり。予も亦多少此事柄に関しては処置の考按も抱き居れり。去りながら其三名の技師は当会社創立以前より関係せし者にして、其創業費四万円の内より殆んど半額弐万円計りも費消しをれば、其れを直に処置するに於ては或は又会社の為め惜むべき事も有らんかと思ひ、予に在りても知りつゝ多少は躊躇せしものの如し。然し昨年九月末に至り断然一の改革を行ひ、各技師を解雇し社員を減じ又社員の俸給を減じ、仮令ば従来百円給の支配人を八拾円となし、参拾円給の者を弐拾五円とするが如く、或は弐拾五円を弐拾円と各減給し、加之仮令減員するも事業上格別差閊なき迄は夫々技師と共に解雇せり。就ては其後事業上の実況を視察するに改革以前と以後とを比較すれば、毫も差閊なきのみか反つて技術なり経済に多少進歩せるの姿を呈せり。就中著しきは、改革以前に在つて染物部原料消費高の如き、賃金収入高より一割乃至二三割も超過し居りしものが、今日に至りては其原料消費高は、反つて其収入高の二割乃至四割を漸次減少する事となれり。尚其他凡ての経費に於ても大に減少を来たせしのみか、工場内の取締も其後余程の好結果を得るに至れり。是等詳細の事柄は殊更考課状には登載せざりし訳なれば、前季総会に御約束もあれば一応御報告致し置き、尚序に御報告致したき事は嘗て当会社より馬港日本名誉領事「ジユリー」氏に嘱託し、仏国へ注文せし彼の撚糸機械も、昨年九月以降糸繰機械其他大半は来着せしも、今其の主要なる撚糸機械の如きは未だ到着せざるなり。而して其工場未だ新設に至らざりしを以て、幸ひ該機械は染物工場内に仮設し、本年三月中にはなるべく運転せしむるの見込なり。然し乍ら先に述べたる如く、今日迄到着せざるものもある事なれば、或は一二ケ月間位延引する事あるかも図られざるべし。次に当会社が是迄執り来たれる営業上の模様を少しく述べん。実は現在の株主諸君中以前の発起人なる方々は、充分御承知の事なり御記憶もあらん、併し近頃新に御加入の株主方も多少あれば、此場合当会社を設立せし最初の目論見及び成立を概略御話申すも不必要に非
 - 第10巻 p.603 -ページ画像 
ずと信ず。元来当会社は明治十九年冬渋沢・大倉・益田・西邑の諸氏来京せられし際、当地の有志者と種々相談の上漸く成立せし処の一の織物会社にして、此の会社の起るや実に最も大なる原因のあればなり。当時世上の風潮は日本流の家屋並に衣服も、今や悉く欧洲風に傾き改まらんとする程の極点迄其流行を来たしたり。
  明治十八九年前後の頃は皇居御造営もあり。皇族方の宮殿、諸官衙及大臣の官邸、華族紳士の邸宅より学校病院等の如きものゝ新築は、悉く欧洲風の家造りとはなれり。之れに附随する必要品は家具装飾に供する織物にして、其当時には余程多額の需用ありしが、如何せん之に応ずるの織物製造所なきは甚だ遺憾の至りなりき。加之婦人の衣服の如きも同時に洋服流行の有様となり、上 皇后陛下は申し奉るに及ばず、皇族大臣の貴夫人方より知事書記官及属官等の夫人に至る迄、衣服は悉皆欧風を以て、装飾するの風潮とはなれり。殊に皇后陛下には我邦古来よりの婦人衣裳の制度沿革等に就ての御諭旨もあり、旁々婦人洋服の流行は益々隆盛の有様とはなれり。其当時の景況にては将来必ず其流行に応じ、是れが供給を為す織物製造所なかるべからず、是れ即ち爰に当会社を創設するの必要を感じたるものにして、強ち無謀の計画に非ず。且つ幸ひ我京都府には勧業資金を以て仏国に派遺留学せしめし各専門の技師、即ち織物に近藤徳太郎、染物に稲畑勝太郎、高松長四郎、撚糸に今西直次郎等、皆彼地に於て専門の技術に多年学理と実地とを練磨し、各々業を修め帰朝せし専門の技術家ありて、欧風織物の製造所を興すの機関全く此際に於て備れり。夫れ斯くの如く流行の時機と云ひ、資本金と云ひ専門の技術家と云ひ、宜なる哉爰に当会社を創立したるの所以なり。然るに不幸にして間もなく其婦人洋服流行の風潮は二十年頃より一変し、今日に至りては実に其形跡だも残さず、宮殿官衙の新築改造は勿論、宴会の席上に於ても洋服を着する夫人は殆んどこれなきに至りたり。且それのみならず創立の際会社に聘用せし各専門の技師も、技術上の都合に拠り解雇を為すの不幸なる結果を来たしたり。是等は実に、大に会社創立の目的と相反するものにして、既に此有様に成行たる上は又順つて将来の方針をも変更し、時機に応じて処置すべきは当然の事なり。然るに亦近来種々なる困難あり。諸会社の恐慌内国商業の沈滞並に外国為替相場の昇降常ならずして、大いに輸出販売に弛緩を来たせし等、此の三原因は実に会社の為め一大困難なる点と言はざるを得ず。是を以て当会社の現状を例すれば、恰も暴風激浪の中に漂ふ処の船舶に異ならざるなり。船中石炭及飲料等の欠乏するの恐れも有り、殊に乗組員及水夫も多人数乗込めり、果して然らば此の場合に於て強て資本僅少なる石炭を焚き、方針の指定もなく、怒濤を衝き航海を試みんとするが如きは、実に無謀無定見極まる事にして、不得策なる処置と云はざるを得ず。若し仮令資本なる石炭あり迚此の激浪怒濤を遮て航海を為さんか、然るときは会社なる船体は、忽ち暴風激浪の為めに破砕せられ、其乗組員なる株主は共に魚腹に葬らるゝが如き不幸に陥るやも計り知るべからざれば、斯る海洋の浪荒き時は程善き港湾を撰び、
 - 第10巻 p.604 -ページ画像 
爰に寄りて碇舶し姑らく此の暴激なる風浪の鎮静するを待ち、然る後其の方針を確定し、徐々に航海を始むる方危険なくして反つて穏当なる処置ならんか、故に会社に在りては今暫くは事業上充分保守的を主とし、大いに節険を守り、工場は凡て今夕織製して翌朝売行きする物品を撰択し、以て製造の目的となさんとするに在り。要するに最早今日は欧風の家具装飾、即ち窓掛、椅子張地及び婦人洋服地等の如き仕入品を織らんとするは、時機遅れたりと云はざるを得ず。若し果して其遅れたるものなりと知りつゝも、強て此儘織製する時は矢張倉庫に積置くの外なきなり。又本社製造の「ハンカチーフ」の如きもの迄も、今日の処にては余程需用の減少を見るに至れり。故に将来に於ては販路少なき者は之れを断然中止し、手織機は二十四五台に止め、汽織機は可成全部を運転せしめ、南京繻子生繻子其他成丈ケ需用の多くして販路の広きものを撰択織製する事とせば、事業を保続するには充分の策略なりと信ず。就中南京繻子の如きは仮令幾何を製造し置きたりとも、格外なる損失を蒙る事なきのみか、若し製品の不捌に遭遇するとも唯利潤の尠なき位に止むるならば、何程の反数にても少しも販路に差閊なし。因て会社製造品中汽織機を以て第一の事業となし、次に染物部・再整部・撚糸部等の事業の如きは、其要する処の原料も、僅少にして出来得るものなれば、是亦将来充分盛大に遣り遂げる積りなり。先づ事業の順序を斯の如くなし、耐忍して時機の到るを待たんとす。尤も其間は主として汽織機を運転せしめ、之れによりて得たる利益をして其他の損失を生ぜしものゝ不足を補ひ、尚ほ其の余の損失は積立金より補塡する事とし、而して姑らく此暴風激浪の鎮静する時期を待ち居れば、一両年の間には亦順風に帆を揚げ黒煙を吐き、愉々快々として進航し得べき時機にも遭遇するに至らん。先づ我々委員の執る処の主義方針の概略は、以上述べたるが如き次第なり。
 (委員田中源太郎)委員長の説明せられし如く、創立の当初は日本家屋は悉く欧風と改まり、順つて衣服も凡て欧風に粧ふの風潮なりしも、其後何となく家屋の建築は云ふに及ばず、夫人にして欧風の粧をなす者絶えて見ざるに至りし為め、今日会社の不振を致せし訳なれば致し方なし。去り迚現在の機械を以て西陣風の織物は出来ざるべし。仮令出来得るとするも、或は体裁悪くして同様の価値に行かざるべし。惟ふに株主諸君の内には学校或は会社に御関係の方もあらんが、全体一己人の商業と集合体なる事業とは大いに違ふものなれば、その一己人なる商業の方針を変更するが如く易く行かざる事は予て御承知ならん。又誰にても売れ口良き商品を製造せんとするは人情の常なれども、悲しいかな現在の機械を以て西陣風の織物を製するは容易の業に非ざる訳なるにも拘らず、諸君にして役員の処置尚悪しと云はるゝに於ては予等は何時にても辞する考なり。只今迚も已むなく勤め居る訳なれば、今此会社へ立入りて遣ると云ふ人さへあれば誰にても御代り申し、幾何の給料なりとも与ふる事とせん。併し誰にても此の儘為さんとするは随分六ケ敷き事と思ふ。要するに斯の如き議論の起るも畢竟利益の配当なきが故に原因せざ
 - 第10巻 p.605 -ページ画像 
るか。尤も事業の点に至りては先に述べられし如く、技師の出でたる後は反つて好都合となれり。又損失金に対して論ぜらるゝ方あれども這は不景気に依る事なれば如何共致し難しとは云へ、上半季よりは下半季の方反つて好結果を呈せり。何となれば上半季に於ては仮令損失あるも、凡て之れを創業入費へ繰込みし故明かに知り得ざるも、下半季は反つて之を尽く営業費へ繰込みし為め、著しく損失せしものゝ如く見ゆ、然し其実損失は余程減少し居るものならん。以上は概略を述べたるに過ぎざれども、諸君に於て御不満の廉あれば、別に遠慮して改選とか何とか云ふに及ばず、辞すべしと云はれて可なり。
 重役総辞職渋沢栄一氏委員長就任 二月二十五日臨時株主総会において、定款第三章第十二条を更正して委員三名を増員すべき件が提案せられたが、討議の結果、六十日間以内に延期して再議することに決し、越えて三月二十二日臨時株主総会を開き、委員三名増員の件を再議のところ原案を否決した。同日委員長内貴甚三郎氏辞職、同月二十四日委員会に於て、委員一名の補欠選挙を行ひ、相談役渋沢栄一氏当選、互選を以て同氏委員長に当選した。同日委員田中源太郎・浜岡光哲・渡辺伊之助・熊谷辰太郎の四氏辞職した。次いで三月二十七日臨時総会を開き、委員四名相談役一名の補欠選挙を行ひ、荒川新一郎・磯野小右衛門・辻川新三郎・中井三郎兵衛の四氏委員に、西邑虎四郎氏相談役に当選、翌二十八日委員会の互選を以て、渋沢栄一氏を委員長に荒川新一郎氏を専務委員に、中井三郎兵衛氏を検査掛に選任、辻川新三郎氏支配人を兼任した。
 重役総辞職経緯 内貴委員長、田中委員はじめ各委員は、すでに辞職を決意しつゝあつたが、会社内外の動揺に乗じて策するものなきにあらざるを以て、株主一部の攻撃反対を意に介せず、会社将来のために信任し得る適当なる後継候補者を求めつゝあつたが、漸く之を得たので総辞職を決行したものである。この間の経緯は三月二十七日開会の臨時総会席上における田中前委員並に内貴前委員長の陳述によつて明かである。(明治二十四年三月二十七日臨時株主総会録事より)
 (二十六番、田中源太郎)株主諸君に一言致さん、尤も私は、只今株主と申す資格でなくして、前役員の資格より述べんと欲するにあり。全体当春通常会以後引続き再三の臨時会を開設し、尚ほ且つ創立以来斯様に役員の一時に辞職する場合に立至りし事情について少しく陳述せんとす。抑も今回の辞職は全く私共が信認する適当の後任者を得たるが為めなり。而して私共当会社創立後屡々諸君の叱咤を蒙りしとは云へ、其創業事務の事柄に付ては格別不都合はなかりしと思ふ。去り迚其内機械購入等の如きに至りては或は幾分か高価に過ぎしものありしかは知らざるなり。併し何分重なる建築事業等に付ては他に随分種々のごだごだあるものなれども、幸にして当会社の如きは是等にかゝる不都合は格別なくして、漸く玆に落成を告げ、爾来営業を為すことと成れり。然れども是れ迚何分試業同様の仕事振なれば、さぞ商工業上に対し株主諸君も御目だるき事ありしならんが、畢竟営業は始めたるも其の試業期日は僅々なれば仲々充
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分なる見込も立つ可き筈なきのみか、其方針も未だ確定致し居らざりし、然れども近頃に至り稍々其見込も立ち仮令目ざましく利潤なくとも半季間に弐参千円位は得るに至らんと思ふに依り、将来少しく方針を改め、進む処あらんとせしに、遂に委員長と支配人との間に、少しく意見を異にするの結果となりしものゝ、要するに委員長並に支配人等の会社に対し、常に忠実を旨とし職を尽されし事は公衆に対し毫も恥づる処なく、而して委員長並に支配人の意見に就き何れを是なりとせんか、私共及東京相談役に於ては委員長の意見に賛成せり。将来果して其の方針を採りしならば、仮令少くとも弐千円若くは参千円位の利益は得らるゝならん。左れば殆んど収支相償ふに至る訳なりと思ひ居れり。然るに其内株券は非常に下落を来たし、是に依り株主諸君の御心配を愈々増し種々尽力せらるゝ事とはなれり。尤も役員にありては去十二月に於て其方針を改めんとせし処、或はそれに関したるものか、曩に社員中に同盟辞職の挙あり、恰も其の当時は私共東上中なりしを以て、東京の相談役にも篤と相談を遂げ、会社の為め其適任者を得んと欲したり。尤も其際私、浜岡・渋沢と種々協議の末、遂に荒川氏の入社を乞ふ事とせり。然れども一方株主諸君に於ては、尚ほ彼処此処に集り種々議せらるゝ事となれり。亦役員に在りては仮令株主より如何に思はるゝとも、なるだけ適任の候補者を求むるに勤め、且つ今日迄の徳義を全ふせん事を希望したり。然れども昨年以来は実に役員の勉励も徳義も一として株主諸君に感ぜざる事となりしのみならず。終に相反するが如き姿とはなれり。素より役員に於ても、辞職の決心は致したるものの、凡そ大家の衰微に赴く際は必ず夫れを奇貨とし、種々の弊害を生ぜしむるの恐れもある事なれば、之を憂慮せざるを得ず。左れば仮令今日の如き不信用を蒙りしとは雖も、些々たる事柄に拘泥し適当の後任者をも求め置かずして辞職せんとするは、誠に会社へ対し不親切の所為なりと思ひ、如何に株主諸君より攻撃せらるゝも之を厭はず、熱心に其候補者を求めし訳なり。左れど不幸にして姑らく見附からざりしが、前会に於て某氏の如きは最早委員一同辞する者の様誤解されしも、其際は未だ私共の信認を置くべき後任者も確定し居らざりし故殊更御披露も為さゞる訳にてありし、然るに其後漸く渋沢氏に後任を願ひし処、同氏に於ては再三辞退せられしも、種種事情を陳述し、強て相談役なる渋沢氏に委員たることを願へり。玆に於て私共希望する適当の後任者を得るの見込立ちし故一同辞職する事とはなれり。就ては渋沢委員長の御話に同氏が将来採らんとする主義方針も、殆んど前任役員と同様の見込を抱き居れりと。果して然りとせば本日玆に選ばるゝ新任委員にありても御迷惑乍ら之れを承諾せられ、当会社の事業に従事せらるゝ事を希望す。私共は玆に適任の候補者として辻川新三郎・荒川新一郎・磯野小右衛門・中井三郎兵衛の四氏を委員に推薦し、並に渋沢氏を委員長とし以て組織せんとするにあり。左すれば仮令今日に利潤なくとも必ず其目的は二・三年の内に達するならん。以上陳述せし通りなれば私共一時に辞したり迚、決して無暗の所為に非ず、玆に其理由の概略を御
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話致せし次第なり。
 (四十六番、内貴甚三郎)只今当選せられし新任委員諸氏に対し一言申上度きは、何分当会社も此処迄成立せしめたるものなれば、充分会社の為将来利益を図り、壊すとか崩すとか云ふべき不吉の事なき様只管希望する処なり。就ては私共殆んど五ケ年間も会社の為め非常の困難を嘗め、是迄経営し来りし者なれば、此場合少く意見を申述べたきも、或は衝突するの恐れなきに非ざる故、遺憾乍ら本日は申述べざる可し。然りと雖も他日拙なき筆か或は演説を以て、諸君の清聴を汚す機会あるべきも、今日は主として事の円滑を希望して会社の為め玆に弁ぜず、併し後任者の内荒川氏よりは特に将来に就て非常の御懸念説を承れり。然れども何分私共は予て同氏を信認致し居れば、昨年九月に於ても他用に托し態々東上同氏の入社を勧めし事ありしも、其際は御承諾なかりし。然るに今幸にして承諾の声を承る事は私に於ても満足に思ふ訳なれば、何卒将来会社の為め利益の上る様御尽力あり度し。
 社員同盟辞職 これより先き二月二日支配人稲垣喜多造氏以下傭員十七名辞職した。前掲三月二十七日臨時株主総会席上における、田中委員陳述中にある如く、会社従業方針に対し、委員長と意見を異にしたる支配人稲垣喜多造氏の辞職に端を発してこの挙に出たのである。
 仏国技師臨時解雇 四月十八日を以て当社仏国織物技師ルーイジレルヲ氏を、又八月三十一日を以て仏国織物技師ウイクトルメニール氏を何れも臨時解傭した。九月一日稲畑勝太郎氏を染物技師として傭聘す。(二十五年上半期に入り、染物部業務整理の都合に依り専担を解き、単に染物部顧問を嘱託)
 新重役の所見 上半期の決算は五千六百四拾九円五拾九銭参厘の損失勘定となつた。この理由並に会社の状態について、新重役は八月二十三日の定時株主総会席上、左の如く述べてゐる。(明治二十四年八月二十三日第七回定時株主総会録事より)
 (委員、荒川新一郎)此場合株主諸氏に一言申上置かん、這は私共が去四月以降、前重役より引継たる会社仕事に付、今日迄為し来りたる景況の概略を少しく御話申上んとするにあり。然れども事業全体の方針たるや格別前重役の執り来たりたる処と敢て差違あるに非ず。よし仮令其方針に多少の差違ありとするも、諸氏克く御承知の如く引継後何分日も浅き事なるを以て、精しく之れが研究を遂ぐるの時日も得ず、順つて著しき変象を顕すに至らず。然りと雖も彼の汽織機の如きは、単一のものなるを以て稍々其目的も確め得たり。又染物部の如きは予て諸氏も御存じの通り、此迄は総て外国人にのみ其の全権を委ね居りし事なれば、今更之れが経済を緻密に執らんと欲するも、為めに為し能はざる次第とはなれり。何となれば全体技術師なるものは一の職工より成上りたるもの多ければ、中々経済上などに注意するものゝ如きは至つて尠かるべし。故に私共は大に此辺を憂慮し彼是指示を為せしも、到底此迄通外国人にのみ委ね置きては其の整理も行届かざるべし。仮令今日高価なる原料を消費して業を執るにもせよ、決して夫れに相当する仕事も出来上らざるの
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みか、又其の経費を償ふに足るべき注文も覚束なし。故に将来の方針は成だけ内国人にして染物に熟練のものを雇入れ。充分注意を加へて遣らせる積りなれども、今回報告せし損失金の一大部分を占むるものは、此の染物部にありと云はざるを得ず。亦再整部の如きは余程見込も立ちしのみか随分信用を得るに至りしかば、追々利益を得る事とならん。
 (委員、荒川新一郎)先に申述べたる如く染物部は此迄外国人に悉皆全権を委ねありしに依り、或は如斯多分の損失を生ぜし訳ならん。併し箇様に申すものゝ前重役の整理中は左程にもなかりしならんと想へども、彼の引継の際に乗じ或は為せしものならんかとも想像せり。然れども如何せん私共引継後凡そ一ケ月間位は、何分内部の事情も一向不案内にて充分腹に入らざりし故致方なきを以て、其儘看過致し居りたれども、少しく此頃に至り其模様も了解せしに因り、染物に対し一々之れが予算を見積り、而して為さしむる事とせり。左れど何分地が職人上りのもの故、幾許指示を為すも到底其通り出来ざるを以て大に迷惑致し居れば、将来は更に日本人にて克く染物の業に熟練したるものを雇入れ、先づ之れに委ねて充分其業を尽さしむる積なり。左り迚其外国人も何分最初の約束もある事故、やれ只今解雇すと申す訳にゆかざれば、恰も腫物に触る如く充分注意をなして使用し居れり。併し前に述べたる如く日本人のみを使用するに至らば、如斯大枚なる損失を蒙るが如き事は為さしめざる積なり。又彼の「メニール」は曩日委員長渋沢氏在京中、即ち事務引継の際之れを奇貨とせしものか、雇年期継続の儀を申出たり。然れども這は全く此際を附け込み申出でたるものと思考せしに依り、何分六十日以内即六月中に否や取極め返答に及ぶべしと通じ置き、其後同人の技量に就て試みたる処、内地事業に対しては殊更外国人に委ね置かずとも、日本人にて決して不自由もなく、充分出来得る事とさとりしを以て、私も先頃東上し委員長にも其の相談を遂げ、又前重役も此事は屡々相話し居られたる程なれば、旁々当期を幸ひ解雇致す事に決せり。左れど之を為せしため、若し会社に対し故障が間敷こと共致す様なる事ありてはと思ひ、曾て仏語の通弁に上手なる人を頼み、充分其の事情を話したるに、彼に於ても承諾する事となれり。就ては稲畑氏を雇入れ今後一層経済上に注意をなして営業せん。尤も箇様なる事は一切委員長渋沢氏と充分相談を遂げたる事なれば、染物も将来は多分好結果を得るならんと保証を致すつもりなり。


渋沢栄一 書翰 三木安三郎宛 明治二四年 ○二月二〇日(DK100052k-0006)
第10巻 p.608-609 ページ画像

渋沢栄一 書翰 三木安三郎宛 明治二四年 (三木熊次郎氏所蔵)
 ○二月二〇日
  尚々本文之一条ハ至急を要し候ニ付、封入之中井氏宛之書状ハ直ニ御遣し被下、荒川氏御面会も早々御取計可被下候也
拝啓、先頃ハ御細書被下候得共、多忙ニ紛れ御答も不申上候、然は織物会社之義ニ付、先般来種々面倒相生し候為、当地ニても心配いたし終ニ荒川新一郎氏へ申談し、過日貴方へ出張為致候処、貴方田中・浜
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岡氏抔之見込と荒川氏之考案と相違いたし、荒川氏ハ折角出張せしも不得已帰京と申来候、乍去小生之考ニてハ荒川氏之思入、少々過激と被存候ニ付今夕同氏へも評細書通いたし、尚中井三郎兵衛氏へ委細申遣し、同氏より篤と協議致候様仕度、就而ハ貴兄ニも中井より先日来之次第御聞取之上ニて荒川へ充分御説得被下、此際程能折合相付候様御心配被下度候、右行違之顛末ハ委細中井氏へ書通仕候ニ付、御聞取可被下、又大坂熊谷へも一書申遣し、早速同氏ニも出京ニて荒川へ丁寧説諭候様取計候筈ニ候
右之段御依頼迄如此御坐候 匆々不一
  二月廿日夜
                      渋沢栄一
    三木安三郎様
○下略

渋沢栄一 書翰 三木安三郎宛 明治二四年 ○三月三日(DK100052k-0007)
第10巻 p.609 ページ画像

 ○三月三日
拝啓、別封弐通ハ至急ニ中井・荒川へ相渡度ニ付、御落手早々御届可被下候、右ハ織物会社之事ニ付、去ル廿日附詳細之書状申遣候得共、何分小生之見込通ニも行届不申、終ニ廿五日之臨時会ハ更ニ六十日間延期と相成候由、就而ハ此際中井・荒川抔弥以改撰之時ニハ其一人と相成、委員引受候心得ニ有之候哉、其辺慥ニ承合度と即此書状差遣候義ニ候
一昨日田中帰京申聞候処ニてハ、内貴も是非とも此際、辞職之見込之由、然ル時ハ田中・浜岡とても同様と存候、もし右様ニ相成、中井とか三越とか又ハ事務者ニハ、荒川とか申人々引受之義相談行届兼候時ハ、辞職後任ハ引受不申、終ニ危険不満足之人会社を支配候様相成可申、別而痛心之至ニ御坐候、右等貴兄より中井へ能々御相談可被下候、此段取急き御依頼申上候 匆々
  三月三日
                      渋沢栄一
    三木安三郎様

渋沢栄一 書翰 三木安三郎宛 明治二四年 ○三月一八日(DK100052k-0008)
第10巻 p.609-610 ページ画像

 ○三月一八日
拝啓、然は過日来再三申上候織物会社之義ニ付、荒川も帰京後再三相談いたし、其上此度委員之惣代として中井始両三人出京ニ付、一昨日已来面会評議いたし候末、終ニ中井・荒川ハ新委員引受之事ニ相成候得共、三越之義は小生より西村乕四郎氏を以呉服店へ相談候得共承諾無之、井上嘉四郎丈ハ都合可致と申事ニて、稍其辺之都合ハ相付候、乍去此度出京之委員等ニ於てハ兎角現委員即内貴抔是迄之取扱方ニ不満之様子ニ相見、又荒川・中井抔向後撰任を受候人々とも其意味ハ不少、之ニ反し内貴抔ハ随分立腹之様子ニ付、廿二日之臨時会ニ於て何か又物議ニても相生し、終ニ現委員ハ辞職、跡委員ハ出来不申と成行候恐も有之候ニ付、不得已当日小生も出席之積ニて、来ル廿一日壱番汽車ニ乗組罷越可申候、就而ハ同夜十一時頃、貴地着之積ニ付、其積御含被下、旅宿ハ昨年之玉川屋ニてもよろしく候ニ付御申付可被下候
又大坂熊谷氏ニも同日ハ是非出京、田中・浜岡等と夫々相談之上、小生之着京相待呉候様と申遣候、是又御承知被下度候、尚委細之事ハ拝
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眉ニ可申上候得共、不取敢此段御通知申上候 匆々不一
  三月十八日夜
                      渋沢栄一
    三木安三郎様
  尚々小生出京之事ハ田中・浜岡等へも一書申通候間、別封至急ニ御届被下、其段貴兄よりも可然御伝声被下度候


渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛 (明治二四年) ○三月二五日(DK100052k-0009)
第10巻 p.610-611 ページ画像

渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛 (明治二四年) (斎藤峰三郎氏所蔵)
 ○三月二五日
途中無別条廿一日夜十二時頃京都着、其翌日より織物会社総会へ出席いたし、引続き新旧委員交代及向後会社営業方法等ニて種々相談致居候、去ル廿二日之総会ハ先月廿五日之継続臨事会ニて委員三人増員之議案を決定可致筈之会議ニ候処、其後新委員之候補者ニ色々面倒有之会社之為ニ相望候人ハ多く辞退し、本人より企望之向ハ或ハ不為之者ニて中々取纏も出来兼、終ニ無拠拙生も一時新委員之一人と相成、此交迭を致候外無之様相成申候、併右等辞職及改撰ハ廿二日之総会ニてハ条理上難取扱ニ付、不得已廿二日ハ三人之増員議案を否決し、更ニ廿七日を以て再応撰挙会相開候事ニ相成、現委員五人之中拙生一人ハ昨日内貴委員之辞職補欠として委員と相成、他之四名ハ昨日辞表差出し候都合ニて即其四名之委員を明後日撰挙と申事ニ候、右新任候補ハ磯野・中井・荒川・辻川之四人ニ当撰相成度と即今心配中ニ候、右之都合ニ付明後日之総会ニも、東京株主より拙生へ之委任状有之候方ニ候得共、至急間ニ合兼候ニ付貴兄より益田・大倉・西村氏位へ前条之概況申述、明後朝電報ニて東京株主一同ハ今日之総会代理を引続き拙生へ委任之事、電報ニて御通し被下候様御取計可被下候
右様相運候も種々事情有之事ニて、旧委員ニ於てハ地方株主との感情大ニ行違相生し候処ニて、色々之物議有之万一此改撰之取扱方ニ付議論上之交迭と相成候ハヽ、向後両派相共ニ攻撃之念を生し其極会社ハ瓦解とも相成可申勢ニ相見候ニ付、拙生補欠委員ニ任し候も実ニ不得已情勢ニ応せし義ニ候、就而弥明後日新旧之交代相済候上向後会社営業之手順等打合略見込相立候迄ハ、拙生滞在無之而ハ、相運不申候ニ付、出立之際ハ遅くとも本月中帰京或ハ廿八日頃ニもと佐々木氏及取締役へも申置候得共、右之次第ニ付本月中ハ帰京出来兼候間其段貴兄より宜敷御申述可被下候
諸方より之来状ハ急用之分ハ京都迄御廻し可被下候、宅之方へも尾高迄右之段申通し候間御打合可被下候
此書状之意味ハ佐々木氏へも概況御話被下、且織物会社東京株主中益田・大倉等へハ能々御通し被下度候
右至急得御意度如此御坐候 匆々
  三月廿五日
                      渋沢栄一
    斎藤峯三郎殿
  尚々廿七日之総会ニ於て東京株主より代理之委任ハ本文ニ拙生へと申上候得共、拙生ハ既ニ委員之補欠と相成候ニ付三木安三郎へ委
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任相成度、就而ハ明後日之電報ニて東京株主一同ハ廿七日之総会ニ、代理委任ハ都而三木安三郎へ相托し候旨、電信被成下度候、此段呉々も御頼申上候、尚明日電報ニても申上候様可仕候也

渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛 (明治二四年) ○三月三〇日(DK100052k-0010)
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 ○三月三〇日
廿七日附御状昨日落手仕候、織物会社株主総会委任状之事ニ付而ハ、種々御手数被成、当日之間ニ合都合宜敷候、右総会ニて四名之委員一名之相談役も相定り、昨日迄ニて同会社向後営業之見込役員之担任等も略相談相済候二付、今日ハ京都支店へ出勤し行務承糺し今夕五時ニ下坂、明日同所滞留、明後一日神戸巡回ニて即夜京都帰着、二日ニ出立帰京之見込ニ候、就而帰途名古屋迄兼子迎之為、見物旁罷出度と出立之際被申聞候間、二日夜名古屋秋琴楼迄参り候様御通声有之度候、尤も此事ハ大磯へ向一書遣し候得共、尾高へも御打合被成、品ニ寄岡本なりとも大磯へ遣し供為致候方可然と存候、但弥以名古屋へ向出立之時日二日と決定之義ハ明日又は明後日中ニ電信相発し可申ニ付、其上ニて出立候様致度候、もし万一行違候而ハ双方とも迷惑ニ付、其辺能々大磯へも御申通し有之度候
尾高へも一書差出候筈之処、日々取込居直ニ寸暇無之ニ付其段御伝へ可被下候
留守中ハ別条無之と存候、充分注意候様尾高・柴崎等へ御申伝可被下候、成瀬之頼母子講ハ承知いたし候外来状も封入之通落手仕候
支那公使招待之事大倉氏より申越候ニ付、佐々木君へ返書中申通し候承合之上可然御周旋可被下候
着京之夜より織物会社之面倒引続き再度之集会、新旧委員交迭新委員就務ニ付百事分担之方法取極方又ハ営業之方針論定、外国人解雇其外昨夜迄ニ漸く取纏候次第、春風之時節も身ニ副不申次第ニ御坐候
吉岡来状も一覧帰京後回答可致と存候
右当用如此御坐候 不一
  三月三十日
                      渋沢栄一
    斎藤契兄
  ○三木安三郎氏ハ当時ノ第一国立銀行京都支店長。又斎藤峰三郎氏ハ当時兜町ノ第一国立銀行内ニテ栄一ノ秘書役ナリ。
  ○明治政府成立以来、日本ノ欧化政策着々進ミシガトリ分ケ伊藤博文ハ憲法及ヨーロツパノ文明諸制度研究ノ為、欧洲ニ派遣サレ十六年夏帰朝シ、十八年官制ノ変更ニヨル新内閣組織成リ、伊藤初代ノ内閣総理大臣トナルヤ彼ガ得シヨーロツパ的新知識ニヨル極端ナル欧化政策ハ、国内ノ生活風俗ノ隅々ニ迄及ビタリ。政府大官ヲ中心トスル上流階級ノ「鹿鳴館時代」ヲ現出セシハ正ニ此間ナリ。京都織物会社ハ斯ル気運ニ推サレテ、栄一ラ先導シテ国内ノ欧風々俗化ニ応センタメ、設立セラレシコト「青淵先生六十年史」ニヨルモ明カナリ。
   然ルニ明治二十四年ノ国会開設近ヅクヤ、物情騒然トシ、明治二十年暮ノ「保安条例」公布ヲ基点トシ、逸早ク其反動来リテ政府部内ニ保守的国粋主義ノ思潮主流トナリ、殊ニ条約改正問題ヲメグリ此勢漸ク強化サル。サレバ民間ニテモツイ前年迄ノ極端ナル欧風ノ生活風俗排斥サレ、日本伝来ノモノニ還ル情勢トナレリ。京都織物会社ノ初期ノ意図ハカヽル時流ニヨリテ早クモ挫折シ、加フルニ十九年来ノ投機ノ反動、国費節約ニヨル一般
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的不景気ハ此会社ヲ不況ノ底ニ突落シタリ。当社ノ明治二十四年ノ悲境、重役ノ相踵グ脱退、更ニ栄一ノ委員長トシテ尽力サレシ事情ハカヽル社会的政治的背景ヲ明ラカニシテ初メテ理解シ得ルトコロナリト信ズ。



〔参考〕稲畑勝太郎君伝 (高梨光司編著) 第二二七―二三〇頁 〔昭和一三年一〇月〕(DK100052k-0011)
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稲畑勝太郎君伝 (高梨光司編著) 第二二七―二三〇頁 〔昭和一三年一〇月〕
 ○第三編第五章 京都織物会社を去る
    三 織物会社を退く
 京都織物株式会社は開業前に於ては、皇居御造営の御事があつて、その御装飾品並に御調度品等多数の御用命を拝し、一方欧化主義の全盛を来したゝめに、世人の生活様態も欧米化し、その方面の需要も尠からずあるものと予想されてゐたが、明治二十二三年頃に至り欧化主義の反動として、国粋保存の説起り、世間の風潮も一変して、欧風家屋の如きも諸官衙工場等の大建築に限られ、洋式服装も亦上流貴婦人の一部だけに用ゐられるに過ぎぬことゝなつたので、当初の目論見は大いに齟齬し、会社の前途には容易ならぬ困難が横はるに至つた。
 然るに工場の建設機械の据付等は前述の如き事情に依つて、予想以上に遅延を来し、且つ君を始めとして近藤徳太郎・高松長四郎等の主任技師は、眼先の利害得失には頓着せず、国家のために模範工場を造るの意気込を以て、飽くまで理想的の設備を整へんとしたので、自然会社の経営方針に就ても、実利本位の重役或ひは株主と意見の扞格を生じ、株主中には三技師の解雇を要望する両者の間に面白からぬ空気を醸成しつゝあつた。
 その結果として重役側に於ては、会社の方針に背くものとして、君及び近藤・高松三技師を退社せしむることゝし、操業を開始して未だ幾許もなき明治二十三年八月一片の葉書を以て、自今出社に及ばずと通告し、解雇を宣するに至つた。
 此の一件に就ては、当時の新聞『日本』は、京都通信としてその事実を報道し、更らに数日後の雑報欄に左の如き記事を掲載した。
    京都織物会社の改革
  京都織物会社の改革に付ては過日の紙上に掲載せしが今ま其改革後の実況を目撃して帰京したる人の話を聞くに、抑も同会社は三・四年前資本金五十万円を以て、重に西京・東京の株主より成り立たる会社なるが、其発端は明治八・九年頃京都府より仏国里昂府へ遣はしたる染物織物実地伝習生の業成り帰朝したるも、当時之を利用するの機会到らず手を空しくしてありたるを、東京の或る有力者之を聞き込み、京都は織物に有名の地なるに、斯かる熟練の技手を遊ばせ置くことは勿体なきことなり、いざ之を利用して、織物及染色等の改良を謀らば、利益も大なるべしとのことより、急に会社を創立するの運に至りたり。然るに該会社たる、右の如く技手をして得意の技術を顕はさしめんとの目的より成立したるものなれば、器械の購入工場の構造其他一切のことは、二・三技手の意見に任せたるを以て、場内各部の器械悉く全備し外観頗る壮麗なりと雖も、工場全体の経済より観るときは往々無用の器械多く、現に人力を以て迅
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速且つ廉価に成し得べき仕事にても、一々器械力に依るの有様にて無用の処に蒸滊を送り、石炭を浪費する等の例少なからず。畢竟ずるに初め会社全体の経済を顧みず、技手銘々に放任して適意の運動を為さしめたるの過ちと云ふべし。斯くては将来の維持覚束なしとて、本月初め頃断然大改革を行ひ、冗員を沙汰し、無用の器械を省き、専ら工場の経済に基き、着々整理を為したれば、事業上大に面目を改めたり。先づ是れにて、同社将来の方針一定したるものゝ如し。此改革に就ては、支配人稲垣氏の苦心勉励一方ならざりしと。因に記す近来同会社に於て製造する家屋粧飾用の織物精工美麗の品多く、就中新案の紋羽二重並に薄縮緬等は、大いに外人の嗜好に適し、注文益々夥多なりと云ふ。外国は固より彼の器械を利用して、内地一般の需用に適すべき衣服地を製したらんには、其販路定めて広からんと思はる。
 此の新聞記事は勿論重役側の口吻を材料として捏ち上げたもので、その正鵠を失してゐることは云ふまでもないが、これに依つて見ても当時如何に君等の若手技術者が、模範工場としての理想的設備を為すために、鋭意精進したかゞ分る。