デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
6節 製紙業
1款 抄紙会社・製紙会社・王子製紙株式会社
■綱文

第11巻 p.8-13(DK110002k) ページ画像

明治5年11月(1872年)

是月三野村利助・古河市兵衛ノ名ヲ以テ抄紙会社設立願書ヲ大蔵省ニ提出ス。翌六年二月十二日許可セラル。抄紙会社ト称シ、資本金十五万円ト定ム。尋イデ三月二十三日栄一立会ノ下ニ、機械買入ニツキ在横浜亜米一商会ト正式ノ契約ヲ結ブ。


■資料

王子製紙株式会社回顧談(男爵 渋沢栄一) 第五―一一丁(DK110002k-0001)
第11巻 p.8-10 ページ画像

王子製紙株式会社回顧談(男爵 渋沢栄一) 第五―一一丁
    二、発起人と出願許可
○上略
斯くて明治五年十一月に至り総ての相談が熟して、其の月大蔵省紙幣寮に向つて会社創立の願書を提出した。社名は「抄紙会社」と名くることになつたが、当時世間一般に紙は抄くといつて製するとは云はなかつたから、抄き紙の会社だから其の儘の意味を取つて抄紙会社と称へたがよからうと云ふのでそれに決した。又玆に今日の人から見て不思議に思はれることは、抄紙会社の出願を大蔵省の紙幣寮へ出したといふ点であるが、其の頃の大蔵省といふものは種々雑多の取扱を行つた場所で、今日農商務省で担当する事務の一部も、大蔵省に属して居た。のみならず事業が紙に関係して居たから、紙幣寮へ出願したもので、現今から顧れば維新後間も無い時代の諸官省の有様を推測されて面白い。却説、発起人は、如何なる人々であつたかといふに、三井治郎右衛門(此の人は先代八郎右衛門氏の長男で、今の八郎右衛門氏の令兄)・渋沢才三郎(今の市郎氏)・小野善右衛門(小野組の主脳)・島田八郎左衛門(島田組の主脳)・斎藤純蔵《(斎藤純造)》(三井家重役)・三野村利助(利左衛門氏の養子)・古河市兵衛(小野組に番頭たりし頃)・永田甚七・三野村利左衛門・行岡庄兵衛・勝間田清三郎・藤田東次郎の諸氏で、自分は官途に在るの身で民間の事業に関係されぬから、渋沢才三郎を代表者として出した訳だ。左に掲ぐるは其の時の願書である。
    乍恐以書付奉願候
近来諸製作之術等漸次相開御国益モ不少、就中諸紙幣類ヲ始メ其佗諸印紙ノ類迄、西洋方法御採摘ニ相成、逐日盛大ニ相赴、西洋紙至要ノ時勢ニ相成候処、抄紙術ニ至テハ今以テ相開ケ不申、御国人共尚旧習ニ因襲致シ、疎拙ニ姑息仕、只目前ノ小利ヲ相謀リ、御国益筋等ハ絶
 - 第11巻 p.9 -ページ画像 
テ注意不仕
皇化ノ御旨趣ヲ体認不仕事、誠以テ恐多次第ニ御座候、就テ愚考仕候処、前文ノ通リ現今至要ノ西洋紙、一々来舶ノ送輸ヲ相待、無限ノ求メヲ充足仕候而ハ、御国ノ損失ハ勿論、尤以不便利ノ次第ニ付、今般私共同志協力仕、別紙ノ通リ抄紙会社相結、西洋抄紙器械買入、右方法ヲ以テ抄紙場相設、精良ノ紙品製造仕、廉価ニ売捌、御国益ノ一端ニモ仕度奉存候
右ハ創業ノ事ニテ未タ従前ノ経験モ無之候得共、不相分売捌目的モ不相立次第ニ而、成業ノ都合モ如何可有之哉ト懸念仕候間、何卒向後右製紙出来ノ上ハ、諸官省御用紙類ハ総テ私共社中エ御用被仰付候様、只今ヨリ御免許被成下度、尤紙品ハ究テ精巧ヲ尽シ、御沙汰次第何様ニモ製造致シ御用弁仕、且其代価中外商価《(賈カ)》ノ売品ヨリ何程歟廉価ニ可奉上納候、依テ別紙申合略則相添、此段伏而奉願上候   以上
  壬申十一月
                      三野村利助
                      古河市兵衛
   大蔵省紙幣寮 御中

    副願書
本文之通奉願候ニ付而者、抄紙器械等買入方並右方法鍛練ノ外国人相傭不申候テハ不相成処、右傭入方並買入方手続等、私共万緒不行届ノ辺ヨリ不都合ノ事共有之候而者却テ成業ヲモ妨ノ儀ニ付、何共奉恐入候得共、紙幣御寮ニハ製紙ノ都合且外国人傭入等ニ於テハ夫々御手心モ可被為在、殊ニ当今御傭外国人モ罷在候趣ニ付、前文傭入並買入方等之儀御措置被成下候様仕度、尤モ右外国人給料並器械等ハ勿論私共ヨリ差出可申候間、右ノ段御聞済被下置候様奉歎願候、且又製造方法ニ水車又ハ蒸気等両様有之候様承及申候、若シ水車便利ニ御座候ハヾ水道町エ《(ニ)》水勢ノ尤宜シキ車有之候間、右ヲ相用候而者如何哉ト奉存候何卒便宜御指揮奉願上候 以上
  壬申十一月
                      三野村利助
                      古河市兵衛
   大蔵省
     御中
  ○別紙ヲ欠ク。
此の願書に三野村利助・古河市兵衛二氏の名を掲げたのは二氏が他の発起人を代表したので、亦当時優勢の三井組・小野組が事業の代表者の地位に居たことも推測される。此の頃は未だ商法などいふものは勿論無かつたから、別に今日の如き面倒なる手続もいらず、「乍恐」の書付一通を以て此の会社の創立は認可され、翌明治六年二月紙幣寮から許可の達があつた。次手を以て玆に一言述べて置き度いことは商工業に関する法制の起源である。明治の初年大政の変革に伴ふて民間に諸種の商工業が勃発すべき兆を生じて来たが、其の仕方も矢張り欧米の方法に倣ふて合本組織にすることを勧めた方が適宜と考へたから、
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自分は大蔵省に居て「会社弁」「立会略則」といふ二書を編纂し、之を大蔵省から出版して各府県に配布し、以て合本事業の如何なるものなるやを知らしむるの便に供した。此の書物は自分主裁の下に故福地源一郎・吉田二郎の二人が西洋の書物を翻訳して編み立てたもので、就中、此の吉田二郎といふ人は其の前仏蘭西の大博覧会の時に商人として仏国へ行つて居た人だが、後に外務省へ奉職することゝなり、更に大蔵省へ転任して来た。よく英文が読めたのみならず、外国へも商事で行つた位だから、西洋に於ける合本会社の概況を知つて居たので「会社弁」を編纂するには当時に於ける唯一の商法学者と云ふ位であつた。扨て此等の書物の内容は如何なるものであるかといふに、「会社弁」の方は論理上から合本会社を説明したもので、又会社に関する手続方法等を実際に説明したものが「立会略則」即ち会社を立てる略則といふのであつた。此等の書物を今日から見れば幼稚なものに相違ないが、其の頃では謂はば今日の商法の会社法位に当つたもので、我が国商工業に関する法制の根源を為したと謂つてもよいのである。而して抄紙会社の創立も亦此の「立会略則」に則り、資金は公募では無かつたが同志者の合本組織で行つたものである。
    三、創業準備と苦心
偖て明治五年の頃一般社会に於ける紙の需用は如何であつたかといふに、大蔵省では其の歳、紙幣寮に於て公債証書や紙幣地券紙及び諸印紙類の新たに発行されたものがあり、加ふるに印書局といふものが創設されて、官辺に於ける洋紙の需用は益々多きを加へる様になる。又民間でも追々と新聞の発行や翻訳書類の出版、小説雑書も活版印刷をする傾向になつて行きつゝあるので、行く先々紙の用途の増加するは想像されたが、玆に困却したのは西洋式の製紙事業に関する経験者の無かつたことである、其の企図した所は果して当を得、又其の時機も敢て宜しきを失はなかつたので、政府から此が設立を認許はされたものゝ、器機を用ひて工芸を企てるといふことは、未だ其の時代には絶無と云つてよい。それと共に百般の周囲の事柄が皆具備して居らぬから、事毎に不便極まる次第で、何事に当つても直に支障を生ずると云ふ有様であつた。従つて其の事に従事する者は、役員と職員雇員の別なく、皆一様に困難を極めたもので、事実も知らねば経験も無い者同志の集合だから、小田原評議に時を費すばかりで事務は滞り勝ち、其の苦心惨憺の有様は殆ど想像の外であつた。
其の頃横浜の「亜米一」は優勢な商館でウオールス・ホール商会といふのであつたが、此の商会はトーマス・ウオールスとジヨージ・ウオールスといふ二人の兄弟が経営して居て、初め支那に於て商売を営んで居たのが、横浜の開港と共に日本へ来て開業したのであつた。然るに此の商会が取次して機械を日本に入れたいと申込んで来た故、明治六年二月会社創立の許可を得ると共に、製紙・印刷・製本等の諸機械を此の商会の手を経てロンドンのイーストン・アンダーソン会社へ註文に及んだ。○下略


抄紙会社創立記事 壱 自明治五年十月至同七年十二月卅一日(DK110002k-0002)
第11巻 p.10-11 ページ画像

抄紙会社創立記事 壱  自明治五年十月至同七年十二月卅一日
 - 第11巻 p.11 -ページ画像 
                 (王子製紙株式会社所蔵)
抄紙会社創立記事緒言
我抄紙会社創立ノ起源ハ去明治五年冬十月頃、大蔵省紙幣寮ニ於テ公債証書紙幣諸印紙等専ラ御製造相成候際、其紙品及ヒ雕刻共多ク之ヲ欧亜各国ニ需ル耳ナラス、殊ニ印書局モ御創置相成候処、右紙品モ之ヲ洋外ニ仰カサルヲ得ス、其外諸簿冊書籍類日用新聞紙ノ類ニ至ル迄日ニ増シ月ニ盛ナルノ時ニ於テ、独リ抄紙ノ術我邦ニ開ラケザルハ実ニ邦内ノ損耗ニシテ、富殖ヲ勤ムルノ大欠典ナルコトヲ官私吾人相共ニ憂苦スルニ当リ、紙幣寮ニ於テモ厚ク御審議アリトイヘトモ、其創立ニ於テハ素ヨリ商估上ノ事務ニ係リ候ニ付、此発起人等ニ御説諭モ有之一同大ニ興起シテ弥其創立ヲ心掛ケ、竟ニ其十一月ニ至申合略則約第一号等モ議決シテ、願書ヲ紙幣寮ニ上呈官第一号スルニ至レリ
此発起人ノ中ニ連名スル島田氏モ其紙幣寮ニ申請スルニ於テ共ニ協議決案ヲ為セシ処、豈料別ニ自己壱人ノ名ヲ以テ其際此器械注文ノ儀ヲ横浜亜米一商会ニ対談シ、右談判ニ至シ上ニテ其趣旨ヲ発起人一同ニ披露セシニ付、発起人等一同ハ大ニ之ヲ不快トシ、島田氏ノ代理人永田彦一ナルモノニ其表裏反覆ノ所作ヲ詰リシニ、島田氏モ大ニ困迷シテ之ヲ謝シ、尋テ渋沢氏其間ニ介シ島田氏ノ亜米一トノ約定ヲ廃棄シ全ク此発起之中ニ同心シ更ニ其約定ヲ為スヘキコトニ協議相済シニ付渋沢氏ヨリ亜米一ヘ詢リシトコロ亜米一商会モ其情実ヲ了知セシニ付速ニ之ヲ承諾シタリ、継テ紙幣寮ノ許可モ申請ノ通官第二号指令明治六年二月十二日附相済タレハ、発起人等ハ亜米一商会ト再約定約第二号ノ事ヲ議シ、其約定ノ条款ハ悉ク紙幣寮ニ調査ヲ乞ヒ双方協議セシニ付、明治六年三月廿三日ニ於テ注文ノ約定書約第二号ニ双方トモ調印シ、且第一払方弐万五千弗ノ注文前金ヲ同会社ヘ払渡シタリ


大蔵省沿革志 紙幣寮第二(明治前期財政経済史料集成 第三巻・第九四頁〔昭和九年五月〕)(DK110002k-0003)
第11巻 p.11-12 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

(抄紙会社)自明治五年至明治八年考課状抄本(DK110002k-0004)
第11巻 p.12 ページ画像

(抄紙会社)自明治五年至明治八年考課状抄本
                 (王子製紙株式会社所蔵)
明治五年十一月会社創立ヲ紙幣寮ニ出願シ、翌六年二月十二日許可ヲ得タリ、当初本社ノ資本金ヲ拾五万円ト定メ、此内拾万円ヲ以テ機械代機械運賃及組立入費其他家屋建築地所代諸傭人給料等総テ開業迄ノ諸費トシテ、他ノ五万円ハ追テ開業ノ後集金スベキノ目的ナリシニ、明治七年十月二十三日ニ至ル迄ニ集金ノ金額既ニ拾五万円ヲ超ヘタリ
 金拾五万弐千弐百五拾円  明治七年十月迄集金高
              (総株数壱百五拾弐株弐分五厘)
 金弐万八千参百五拾円   明治七年十二月迄集金高
              (株数弐拾八株参分五厘)
 合金拾八万六百円
 金参万円         明治八年九月廿五日第拾参回払込
  合計金弐拾壱万六百円
 以上


大川平三郎君伝(竹越与三郎編) 第六五―六九頁〔昭和一一年九月〕(DK110002k-0005)
第11巻 p.12-13 ページ画像

大川平三郎君伝(竹越与三郎編)  第六五―六九頁〔昭和一一年九月〕
    第四、王子製紙会社に入る
 然るに明治六年二月に至り、東京府下の王子に抄紙会社が出来るやうになつたので、大川君は開成学校を退いて、同会社に入ることゝなつた。之は渋沢君の肝煮の結果である。当時の経済社会は農業本位の組織であり、一般の産業は極めて幼稚であつたので、合資組織に因り西洋式の機械を運転し、之によりて大量生産を行ふことは、極めて希有であり、むしろ珍奇であつたことは、明治六年三月の「新聞雑誌」と号する新聞が同会社のことを報道して、左の如く記したる稚拙の筆法を見ても想像することが出来る。
    抄紙会社設立
  府下商人三井冶郎右衛門・嶋田八郎左衛門・小野善右衛門等協議して抄紙会社を創立し、既に官許を得十万円の株金を募り、米英に注文して器械を買入れ、洋人四人を雇ひ、大に諸紙を製造し、上は諸官省府県の使用に供し、下は普く世人の需要に充て、内は国恩万分の一を報し、外は洋人をして売紙の利を独占する事能はざらしめんとせり。此社開業に至りては、実に国益の大なるものにして、世用便利之に過る者なからん。
 右の如く王子製紙会社は三井・小野組及び嶋田組(之は銀座の尾張屋である)三家の合同組織で初は十万円の資本金であつたが、其後次第に増加して明治八年頃には二十五万円の資本となつたのであつた、当時会社組織の方法などを知るものは、絶無と言つて差支なきほどの状態であつた。そこで渋沢君は「会社弁」と言ふ小冊子を著はし、合本組織の方法を世人に知らしめたのであるが、之は其の在仏中の研究の発表であると思はれる。王子製紙会社は実は此小冊子に則つて組織
 - 第11巻 p.13 -ページ画像 
せられたものである。
 然るに此の会社が創立せられて、外国から愈々機械が到着した時、意外にも経済界に変動が起り、第一に嶋田組が倒産し、次いて、小野組もまた倒産したので、此の会社の株券は、大部分三井で引受けなければならぬやうになつたのである。渋沢君は当時大蔵省三等出仕で少輔の職を摂行して居つたが、当初より此の事業の発案者であつた為め両家倒産の後始末には尠からず苦心したのである。そして整理後は陰に社長の如き実権を握つて万事を指揮したのである。
 此の頃渋沢君の邸宅へは、大官や、名士の来訪が可なり頻繁であつた。大川君は書生として玄関で其の取次をする毎に数々小さき胸が躍つた。自分も一つ大奮発して此等の人々の様に立派に出世をしたい。工部卿にでもなつて見たいものだと考へた。当時此の少年の頭脳に豪い人とは工部卿と写つたのであつた。併し乍ら運命は大川少年をして此の大なる希望を放擲するの余儀なきに至らしめた。大川君の一家は此の頃全く貧乏のどん底に落ちて居た。母君のみつ子さんは家計の苦しさの余り時々妹の渋沢夫人の許に来て十円・二十円の金を借りたのであつた。其の度が重なるにつけて流石の渋沢夫人も良い顔のみは見せなかつた。時には大川君に対し父君の無能を口にする事もあつた。大川君は此を聞いて憤慨し、之は学校処でない。又徒らに未来の工部卿などを夢みるべきでない。自分の現在は早く職業を得て給料を取り父母の苦痛を減ぜねばならぬのだ、と決心した。恰も其の時分此の王子製紙会社が出来て、渋沢君が此の会社の世話を焼く際中なので、大川君は自ら進んで渋沢君に請ふて入社さして貰つたのである。之が大川君の実業界への門出の動機であり、最初であつた。○下略