デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
1節 外遊
3款 欧米行
■綱文

第25巻 p.141-178(DK250007k) ページ画像

明治35年5月30日(1902年)

是日栄一、サンフランシスコニ着ス。六月三日同地発、八日シカゴ着。十日シカゴヲ発シ、ピッツバーグ、フィラデルフィアヲ経テ、十三日ニューヨークニ向フ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK250007k-0001)
第25巻 p.141-145 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年       (渋沢子爵家所蔵)
五月三十日 晴
午前四時頃本船桑港安着ス、六時ヨリ起テ甲板上ニ出ツ、十数日ニシテ始メテ米国ノ山ヲ視ル、頗ル快ヲ覚フ、八時頃上野領事、東洋汽船会社員伊藤氏ト共ニ来リテ安着ヲ祝ス、桑港税関吏来リテ船中ヲ検査ス、朝飧後本船ヲ下リ、埠頭ヨリ馬車ニテ午前十時桑港パレースホテルニ投宿ス、上野領事夫妻・伊藤氏夫妻及三井物産会社支店長御酒本氏等来リ迎フ、東洋汽船会社雇米人エブリー氏等来リテ、携帯ノ荷物税関通過ノ為メ尽力セラル、午後二時荷物ノ調査畢リテ一行ホテルニ来ル、依テ上野領事及一行ト共ニホテルニ於テ午飧ス、畢テ正金銀行支店長戸沢氏来話ス、午後五時馬車ヲ駆テ伊藤氏宅ニ抵ル、其饗宴ニ応スル為メナリ、兼子同伴ス、一行悉ク招宴セラル、上野領事夫妻モ来会ス、此夜ハ日本料理ノ饗応ニテ一同歓ヲ尽ス、夜十時室内ニ於テ写真ヲ為シ、十一時ホテルニ帰宿ス、東京ヲ発シテヨリ十七日ヲ経テ始テ陸上ノ安眠ヲ得テ、各旅中ノ労苦ヲ慰スルヲ得タリ
五月三十一日 曇朝少シク雨
午前七時起テ、高平公使・能勢領事及白石元治郎氏等ヘノ書状ヲ裁シテ郵便ニ附ス、留守宅篤二ヘモ一書ヲ認メ、過日船中ニテ裁セシモノヲ補足ス、八時半一行ト共ニ朝飧ヲ為ス、畢テ正金銀行戸沢氏来リ、当地商業会議所会頭ニユーホール氏、今日面会セラレタキ事ヲ報シ来ル、依テ市原氏ヲシテ東洋汽船会社エブリーニ電話ヲ以テ通告シ、早早ホテルニ帰ラシムル事トシ、其間倉長某ノ来訪ニ接ス、蓋シ倉永ハ日本移住民ヲ南部鉄道事務ニ服役スル事ヲ受負フノ営業ヲ為ス者ノ由ナリ、談話中領事ニ対スル不満ノ言語アルニヨリ、切ニ之ニ注意ヲ与フ、雑貨業練習生葛原及学校生二人来話ス、正金銀行戸沢氏来リ、ニユーホール今日十二時マデニ面会ノ事ヲ報シ来ル、十一時市原氏同伴ニユーホール氏ヲ其事務所ニ訪ヒ、商業会議所聯合会ヨリ委托セラレタル意志疏通ノ事ヲ款話ス、同氏ヨリモ懇切ナル回答アリ、談話三十分許リシテ其会議所書記長ニ誘引セラレテ桑港商業会議所ヲ一覧ス、会議室其他ノ事務室ヲ見、概略ノ手続ヲ聞知ス、後ニ警察本部ヲ一覧ス、罪人処分ノ手続等各事務処ニ於テ悉ク説明セラル、牢獄ヲモ一覧ス、頗ル簡易ニシテ周到ナリ、畢テ午後一時ホテルニ帰ル、上野領事来訪ス
午飧後日本ニ発スル書状一通ヲ裁シ、且高平・能勢両氏ヘ来書ノ回答ヲ発ス、午後六時過キ旅宿ヲ出テ電気車又ハケーブル車ニ乗リテ上野領事ノ居住ヲ訪フ、其招宴ニ応スルナリ、一行悉ク随伴ス、上野氏ノ
 - 第25巻 p.142 -ページ画像 
居住ハ桑港市街ノ上層高所ニ在リ、東北海面ヲ一覧スルヲ得ル、眺望頗ル佳ナリ、此夜日本料理ノ饗応ヲ受ケ、十一時辞シテ徒歩市中ヲ散策シ、十二時頃帰寓ス、但兼子ハ馬車ニテ先ツ帰寓ス
六月一日 晴
午前八時朝飧ヲ畢ル、九時上野領事夫妻・伊藤氏夫妻及東洋汽船会社雇米人エブリー氏ノ細君来ル、御酒本氏・関根等又来ル、蓋シ今日ハ日曜日ナルヲ以テ、一行相携テ市中ヲ散歩シ且ゴールデンゲートヲ眺望シ、クリースハウス及海水浴場ヲ一覧シテ後、桑港ニ有名ナル公園遊覧ノ約アリシ為メナリ、九時半馬車二輛ヲ以テ男女ヲ区別シ、市街ヲ通過シテ兵隊調練場ニ抵ル、奏楽アリ、停車数分ニシテ去テ海岸ニ出テ、尋テクリスハウスト称スル家屋ニ抵ル、桑港公園ニ接近スル遊覧場ナリ、海ニ添フテ岸上ニ建築ス、眺望壮快ナリ、海上数十歩ニシテ巨厳アリ、オツトセー其巌上ニ棲息ス、此家ニテ小憩シ、後海水浴場ニ入リテ一覧ス、博物館アリ、動植物及海産物等ノ陳列場アリ、此場ヲ出テ公園ニ入リ馬車ニテ園内ヲ一覧シ、午後二時過キ旅寓ニ帰リテ午飧ス、畢テ上野氏夫妻ハ帰宅ス、午後七時エブリー氏ヨリノ招宴アリテ一行之ニ赴ク、上野領事・伊藤幸次郎夫妻皆来会ス、食事中種種ノ談話アリテ夜十一時帰寓ス
六月二日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ、九時過キヨリ当地ユニオン・アイヨン・オークヲ一覧スル為メ婦人ヲ除キテ一行同伴ス、先ツ東洋汽船会社事務所ニ抵リエブリー氏ニ面会シ、尋テ造船所ノ事務所ニ抵リ社長スコツト氏ニ面会ス、社長ハ其児スコツト及社員一名ヲ以テ小蒸気船ニテ埠頭ヨリ工場ニ渡航セシム、工場ノ地積概略三万坪、職工四千人ナリト云フ巡洋艦・水電駆逐艇及荷物運送船等《(雷)》、現ニ新造ニ係ルモノ四艘アリ、造機・製鑵・鋳物・木工・電気・木形等ノ各工場悉ク具備ス、船渠ハ水圧仕掛ケノ浮トツクナリ、其工費凡五拾万弗ヲ要セリト云フ、一年ノ作業高約四・五百万弗ナリト云フ、職工ノ賃銀高キハ日給六弗、安キモ弐弗位ニテ、平均三弗位ナリト云フ、一覧済工場中ノ一室ニテ午飧ヲ饗セラル、其用意極テ簡易ナリ、食事畢テ再ヒ小蒸気船ニテ停車場ニ接スル埠頭ニ帰着ス、午後四時帰寓、上野領事来ル、草花栽培ヲ職業トスル堂本某来訪ス、其勤労ヲ慰シ且将来ノ注意ヲ説示ス、三井物産会社御酒本氏来訪ス、伊藤氏来リテ明日出立ノ手続ヲ協議ス
夜ホテルニ於テ食事ヲ為シ、一行相集テ会話ス
六月三日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ、九時上野領事来ル、十時上野・市原・萩原氏同伴ニテ桑港市長ヲ市役所ニ訪フ、此市長スエーツ氏ハ本年春当撰セシ人ナリト云フ、年齢四十歳位ニシテ風采野鄙ナラス、一見能ク事務ヲ弁スル能力アルヲ覚フ、依テ先ツ市ノ制度及経費徴収ノ手続等ヲ問フ市長ハ順次詳細ニ之ヲ説明ス、其問答ノ要領ハ萩原ヲシテ之ヲ筆録セシム、十二時帰宿午飧ヲ為シ、午後領事館・正金銀行支店及三井物産会社等ヲ訪問ス、更ニ帰宿シテ旅装ヲ理シ、六時桑港発ノ汽船ニテオークランドニ達シ、同所ニテ汽車ニ搭シ、夜中汽車ニ一宿ス
桑港ヲ発シテ後凡一時間許ニシテ汽車ヲ水上ニ搭シテ前岸ニ送ルノ仕
 - 第25巻 p.143 -ページ画像 
掛アリ、其設備壮大ニシテ軽妙ナル、驚クニ堪ヘタリ
六月四日 晴
昨夜来汽車カリホルニヤ州ヲ経過シテ、今朝ハネバタ砂漠ニ出ルノ山脈ニ達ス、両辺ノ山ニハ雪ヲ見ル、気候寒冷ヲ覚フ、線路漸ク下リテ曠原ニ出ツ、即チネバタ砂漠ナリ、終日原野中ヲ進行シ、又一物ノ目ヲ慰ムルモノナシ
六月五日 晴
午前八時頃汽車オグデンニ達シ、同地ヨリ線路ヲ転シテ十時ソールトレーキニ達ス、同地ノ旅館ニ投シテ午飧ス、食事前後ニ於テ市街ヲ一覧シ、且モルモン宗ノ一大寺院ニ附属スル会堂テ大オルガンノ奏楽ヲ聴ク、午後三時汽車ニ搭スルノ際同線ニテ旅行スル米国人某《*》ヲ其特ニ設クル汽車中ニ訪問ス、蓋シ某氏ヨリ招待セラルヽ為メナリ、汽車ハ其人ニ専属スルモノニシテ、寝室・待合・食堂・浴室等総テ具備ス、極テ美麗ナリ、別後直ニ発車ス、此夜ヨリ有名ノロツキー山脈ヲ超ユルヲ以テ汽車極テ動揺ス
   *行間書入
[ホルツモール人エモルソン氏
六月六日 晴
朝来ロツキー山脈ヲ超ヘテカロライナ州ニ入ル、車中両辺ノ山ヲ見ルニ断崖絶壁頗ル壮観ナリ、両山相欹ツテ其間僅ニ十数尺ノ距離アリ、中ニ一川アリ、川ニ沿フテ線路ヲ架設ス、工事ノ困難想像スルニ堪ヘタリ、行程数時間ニシテ平野ニ出ツ、是ヨリ田野大ニ開ケ両沿ニ時々牧場ヲ見ル、午後六時デーバーニ着ス《(ン)》、デンバー停車場ニ於テ馬車ヲ僦フテ市街ヲ一覧シ、午後七時小店ニ於テ夜飧シ、九時再ヒ汽車ニ搭ス、此夜ハ車中ニ在テ起臥ス
六月七日
昨夜ヨリ大雨、暁ニ至リテ少ク減ス、朝来沿道処々ニ牧場ヲ見ル、終日汽車ニ在テ四方ヲ眺望スルノミ、沿道ノ土地曠大ニシテ農業ハ粗大ナルヲ覚フ、然レトモ能ク牛馬及器械力ヲ用フルヲ以テ、土地ノ広キニ比シテ居民稀疎ナレトモ、田野ハ極テ開拓ノ力ヲ尽セシヲ覚フ
六月八日 晴
午前七時シカゴ市ニ着ス、藤田領事・水谷某及留学生数名・米国人フエービアン氏夫妻等来リテ停車場ニ迎フ、相携ヘテホテルオーヂートリヨ・アンネツクキスニ投宿ス、朝食後米国人フエービアン夫妻及藤田領事同伴ニテ公園ニ抵ル、公園内ノ茶亭ニ於テ午飧ス、食後園中ヲ散歩シ各種ノ観覧場ヲ縦覧ス、米国土人ノ相集テ雑貨ヲ販売スルアリ更ニジヤクソン公園ニ抵リテ鳳凰殿ヲ一覧ス、先年我邦ヨリシカゴ万国博覧会ニ出品セシ建築ニシテ、会畢テ後政府ヨリ市ニ寄附セシモノナリ、爾来修繕宜キヲ得サルヲ以テ、堂宇廻廊大ニ頽敗シテ美観ヲ損セリ、依テ藤田領事ニ注意ノ一言ヲ述ベ置キタリ、午後四時帰館、五時兼子・梅浦・萩原・元治・八十島等ト共ニ藤田領事ヨリ招宴ニ応シテ其宅ニ抵リ、日本風ノ夜飧ヲ饗宴セラル、十一時帰宿ス
六月九日 晴
朝飧後シカゴ市ニ於テ有名ナル屠獣場ニ抵ル、ストツクヤードト称ス
 - 第25巻 p.144 -ページ画像 
ルモノナリ、牛豚ノ屠場ヲ一覧ス、一見戦慄ヲ覚ユ、畢テ穀物取引所ニ抵ル、蓋シ此取引所ハ貿易会議所《ボールド・オフ・トレード》ニ属スル一取引場ナリ、小麦・肉類等各農産ヲ区別シテ、毎日時ヲ定メテ立合ヲ為ス、其状恰モ我取引所ト同シ、一覧後事務所ニ於テ取引ノ手続ヲ質問ス、午後二時ホテルニ帰宿シテ午飧ス、三時ホテル前ノ汽車ニ搭シテシカゴ市南部ニ設置スルポルマン車輛製造場ヲ一覧ス、シカゴ市ヨリ十七・八哩ノ距離アリ、工場ノ設置極テ完全ナリ、職工ノ数五千人余アリト云フ、其使役ノ方法多クハ部分受負ナリト云フ、一人ノ得ル賃銀平均一日弐弗五拾銭モシクハ三弗位ナリト云フ
車台ノ製造ヲ始メ、客車ノ装置ニ至ルマテ細大精粗能ク其秩序アリテ工場極テ整頓セリ、午後六時職工ノ工場ヲ出テ其家ニ帰ルヲ見ル、車中雑沓ス、七時帰宿ス、夜食後フエービアン氏夫妻ノ案内ニヨリテ劇場ヲ一覧ス、夜十一時帰宿ス
六月十日 晴
昨日ワシントン公使館ヘ藤田領事ヨリ電報ヲ発シテ、来ル十六日ヲ以テ同府着ノ事ヲ通知ス、紐克府内田領事及ビ堀越氏等ヘモ同シク電報ヲ以テ、来十三日到着ノ事ヲ通知ス、午前九時半水谷氏ノ誘引ニテシカゴ市第一国立銀行ニ抵リ行内ヲ一覧ス、頭取ホーガン氏ニ面話ス、氏ハ英国スコツトランド人ニシテ、十七歳ヨリ銀行事務ニ従事シ、前頭取ゲージ氏ノ抜擢ヲ得テ頭取ニ就職セル由ナリ、為人頗ル堅固老実ノ態アリ、自ラ各局ヲ案内シテ詳細ニ説明セラル、極テ深切ナリ、本行ノ資本高ハ八百万弗ニシテ、現ニ預金ノ総高四千五百万弗余ナリ、而シテ利足ヲ付スルモ多キモ二分ヲ出ズト云フ、割引取扱ノ順序、貸出ノ手続、各地方コルレスポンデンスノ約束等、其詳細ノ事ハ清水氏ヲシテ記録セシム、蓋シ米国銀行中有数ノ大銀行ト云フベシ、一覧畢テ第一国立銀行ヲ辞シ、水谷氏ノ茶業事務所ニ抵リ、本邦茶ヲ米国ニ販売スルノ手続ヲ聴ク、更ニ水谷氏ノ案内ニテ一料理店ニ抵リテ午飧ス、第一国立銀行頭取ホーガン氏モ来会ス、食事中銀行営業上及法律上ニ付種々ノ談話ヲ為シ、且清水泰吉ノ修行講習ヲ依頼ス、畢テシカゴ市ニ開店スルエリノイ貯蓄銀行ニ抵リ、支配人ヘンクル氏ニ面会シ銀行営業ノ大体ヲ質問シ、且ツ行中ノ各室ヲ一覧ス、其建築壮麗ヲ極ム、之ヲ第一国立銀行ニ比スレハ、彼レハ事業繁雑ニシテ取引先モ頗ル多ク、所謂多々益弁ノ態アリ、之ニ反シ貯蓄銀行ハ信托業ヲ兼営スルヲ以テ、其経営静粛ニシテ閑雅ノ風アリ、一覧畢テ旅宿ニ帰リ、更ニ藤田氏ト共ニフエービアン氏ヲ訪フテ告別ス、午後五時シカゴ青年会館ニ抵リ館内各室ヲ一覧ス、此青年会館ハシカゴ市人多数ノ寄附金ニテ設立スルモノニシテ、其費額五拾万弗余、年々ノ維持費拾六万弗余ヲ要スト云フ、午後七時旅宿ヲ発シ停車場ニ抵リ、ヒツツブルグ行ノ汽車ニ乗組ム
此日シカゴニ於テ兼子ニ別レ、余ハ市原・八十島・清水・梅浦・萩原ノ五氏ヲ伴フテヒツツブルグノ製鉄事業ヲ一覧シ、兼子ハ元治・西河嬢及エブリーノ三氏ト共ニナイヤガラ瀑布ヲ一覧シ、共ニ十二日ヲ以テヒラデルヒヤ市ニ於テ相会スルヲ約ス、兼子ハ午後三時ニ出発シ、余ハ七時ヲ以テシカゴヲ出発セリ
 - 第25巻 p.145 -ページ画像 
六月十一日 曇又雨
午前七時ピツツブルグニ抵ル、汽車ヲ下リテピツツブルグ市旅館ニ投シ朝飧ヲ為シ、直ニカーネギー鉄工場ニ抵ル、工場ハホームステツトト称スル土地ニ在リテ、ピツツブルグヨリ電車ニテ凡一時間ニシテ達ス、工場ノ巨大ナル、各種器械装置ノ壮宏ニシテ整頓セル、鋼鉄ノ鋳造又ハ鍛錬ノ順序等総テ電気器械ヲ以テ操縦ス、其壮大ニシテ軽妙ナル実ニ驚クニ堪ヘタリ、工場ノ坪数〔   〕《(欠字)》ニシテ職工凡ソ六千人ヲ使役スト云フ、此日ハ時々大雨衣ヲ濡フス、工場ノ観覧午前九時ヨリ始メ、午後一時工場内ニテ午飧シ、食後更ニ他ノ方面ヲ巡覧シ、午後五時ニ畢リテ旅宿ニ帰リ、衣服ヲ改メ入浴ヲ為ス、七時旅宿ニテ夜食シ、九時発ノ汽車ニテピツツブルグヲ発ス、梅浦精一氏ハ此地ノ天然瓦斯産出ノ実況其他ノ工事ヲ調査スルトテ、一行ニ別レテ此地ニ滞留ス
六月十二日 晴
午前七時過ヒラドルヒヤニ着ス、直ニホテルオルトンニ投宿ス、休憩久クシテ兼子其他ノ一行モ来会ス、又此地ノ絹物商ハツキンスト云フ人、堀越善重郎氏ヨリノ嘱托アリトテ此地ノ案内者トシテ来リ迎フ、午飧後此地ニ開設シアル商品陳列館ニ抵リ、グリーン氏ニ面会ス、蓋シ氏ハ三十一年ニ本邦ニ来遊シ、此陳列館建設ニ付我商業会議所ト種種協議スル処アリタルカ為メナリ、館中各所ヲ案内セラレ、種々ノ陳列品ヲ一覧ス、更ニボルドビン汽鑵車製造所ニ抵ル、輸出支配人ジヨンソン氏ニ面会ス、邦人鈴木四十氏ノ案内ニテ工場内ヲ詳細ニ一覧ス此工場ハ現在七人ノ株主ニテ共有スルモノニシテ、株主ノ重立タルモノ重役ノ位地ニ居リ全体ノ営業ヲ監督ス、但工務ハ堪能ノ人ヲ撰テ之レニ専任スト云フ、職工ノ数壱万人余、製造汽鑵車ノ数一年千三百個位ナリト云フ、職工使役ノ方法ハ、成ルヘク部分請負法ヲ採用スト云フ、一覧畢テ午後四時旅宿ニ帰ル、此夜元治・八十島・清水等ト市中ヲ散歩シ、電気車ニ搭シテ一ノ河岸ニ抵ル
   ○明治三十五年ノ日記ニハ巻末ニ旅行中ノ漢詩・和歌ヲ記ス。左ハソノ中ノ一首ナリ。
    汽車ネバタ州を超ゆるとて戯によめる
まかね路のたひは曠野にせまきまとおきてねはたの月を見るかな


竜門雑誌 第一六九号・第一八頁 明治三五年六月 ○青淵先生より渋沢社長に宛てたる手翰(DK250007k-0002)
第25巻 p.145-146 ページ画像

竜門雑誌  第一六九号・第一八頁 明治三五年六月
    ○青淵先生より渋沢社長に宛てたる手翰
亜米利加丸船中にて相認候一書も此書状と共に御落手の事と存候、其後一行無事に昨朝桑港へ到着いたし、直に東洋汽船会社よりエブリー氏及伊藤氏等上野領事と共に本船に来訪せられ、引続き税関吏の臨撿又は撿疫等の手続相済十時頃上陸、老生は兼子・上野領事夫妻と同行「ハレースホテル」に投宿し、一行は行李の撿査を税関に受け、漸く午後一時頃一同ホテルに安着仕候、荷物の改方は会社雇外国人エブリー氏の心配にて面倒なく相済候も、数十箇の荷物一々撿査せられ候為め容易ならさる時間を費し申候、昨夜は汽船会社の伊藤と申人より案内を受、久し振にて完全なる日本料理の饗応に相成、一同満足仕候、
 - 第25巻 p.146 -ページ画像 
昨日来種々の訪問者又は来状等にて中々余暇も無之、旅は世話敷ものとは存居候得共、船を離れ候ては最早閑日月は得難き事と存候、右等桑港着後の景況不取敢一書申上候 不一
  五月三十一日
                      渋沢栄一
    渋沢篤二殿
尚々両家へも銀行へも別に書状さし出不申候間、可然御伝声可被成候過日船中にて相認候詩作は左の通り相改候、為念申入候
  海城一路向東馳。  乾転坤旋経緯移。
  莫謂盛年難重見。  有斯一日再来時。
是は過日の一首を改作せしものに候


竜門雑誌 第一六九号・第四二頁 明治三五年六月 △桑港よりの電報(五月三十日桑港発)(DK250007k-0003)
第25巻 p.146 ページ画像

竜門雑誌  第一六九号・第四二頁 明治三五年六月
    △桑港よりの電報(五月三十日桑港発)
渋沢男爵の一行は本日無事当港に到着せられたるが、多数の在留日本官民並に米国朝野紳士は鄭重なる出迎をなしたり
    △又別報には
去る三十日米国桑港に上陸したる渋沢男一行は、何れも至極健全にして何等の微恙もなく、船中甚だ愉快に経過したる由、男の一行上陸するや本邦領事及び居留民の重なる者、正金銀行・東洋汽船会社支店員等無慮百五十余名埠頭に出迎へ、連夜歓迎会・晩餐会等あり、男は同地に数日滞在し、尚附近の都府を巡遊し、二週後には紐育に赴く予定なり


渋沢男爵欧米漫遊報告 全国商業会議聯所合会編 第九―一〇頁 明治三五年一二月刊(DK250007k-0004)
第25巻 p.146-147 ページ画像

渋沢男爵欧米漫遊報告 全国商業会議聯所合会編
                        第九―一〇頁 明治三五年一二月刊
  ○欧米各地商業会議所等訪問顛末
    桑港
明治三十五年五月三十一日、渋沢男爵ハ市原盛宏氏ヲ随ヘ桑港商業会議所会頭ニウホール氏(Mr.George Almer Newhall.)ヲ其私宅ニ訪問シ、全国商業会議所聯合会附託ノ趣旨ヲ陳述シ、引続キ同商業会議所ヲ訪問シ、書記長スコツト氏(Mr.E.Scott.)ノ案内ニテ議場ノ体裁及執務ノ状況等ヲ一覧シタリ
又同月同日、萩原源太郎氏ハ渋沢男爵ノ命ニ依リ更ニ桑港商業会議所ヲ訪問シ、書記長スコツト氏ト会談スル所アリタリ ○中略
    シカゴ
同年六月九日、渋沢男爵ハ藤田領事同道、梅浦精一・市原盛宏及萩原源太郎ノ三氏ヲ随ヘ、シカゴ市商務会議(ボールド・オフ・トレード)ヲ訪問シ、役員諸氏ニ面会シテ全国商業会議所附託ノ趣旨ヲ陳述シ、猶諸氏ノ案内ニ依リ、取引所ニ於ケル小麦其他取引ノ実況ヲ一覧シタリ ○中略
    費府
同年六月十二日、渋沢男爵ハ一行ヲ随ヘ同地商品陳列館ヲ訪問シ、同館通信部副長グリーン氏(Mr.C.A.Green.)ニ面会シテ全国商業会
 - 第25巻 p.147 -ページ画像 
議所聯合会附託ノ趣旨ヲ陳述シ、猶同氏ノ案内ニ依リ館内商品見本陳列ノ模様其他執務ノ状況ヲ一覧シタリ ○下略


竜門雑誌 第一七〇号・第九―一四頁 明治三五年七月 ○青淵先生漫遊紀行(其二)(八十島親徳)(DK250007k-0005)
第25巻 p.147-151 ページ画像

竜門雑誌  第一七〇号・第九―一四頁 明治三五年七月
  ○青淵先生漫遊紀行 (其二) (八十島親徳)
    △布哇より米国桑港(第三信)
                    米国桑港六月二日発
○上略
兎角する中五月三十日の払暁を以て船は桑港々外に着し、午前九時を以て桟橋に繋泊し、先生一行はパレース・ホテルに投宿したり、当日先生を出迎たる人々は

図表を画像で表示--

  領 事       上野季三郎氏  東洋汽船会社主任  関根氏  東洋汽船会社支店長 エブリー氏   三井物産会社支店長 御酒本徳松氏  東洋汽船会社主任  伊藤幸次郎氏  正金銀行員     小林和介氏 



の諸氏なりき
先生到着の報一たび伝はるやクロニクル、ヱキザミナー其他の新聞記者並一般士人の来訪織るが如し、同夜先生以下の一行は伊藤幸次郎氏邸に招待せられ、上野領事・同夫人も出席せり、此外居留日本人及桑港商業会議所にても先生を招待せんとする計画ありし由なるも、先生の多忙なると日取なき為め中止せられたりといふ
三十一日先生には桑港商業会議所会頭ニユーホール氏を往訪し、談話多時なりしが、思ふに全国商業会議所より先生に委托せる彼我の意思疏通問題の如きは恐らく此間に於てせられたることなるべし、会談終り同氏の案内にて桑港の警察本部を観覧せしが、同夜は先生以下上野領事邸に招待せられ、伊藤氏夫妻及御酒本氏も同席せり
六月一日は日曜の上に好天気なりしを以て、先生一行はエブリー夫人上野領事及同夫人・伊藤幸次郎・同夫人・御酒本・関根諸氏の案内にて馬車二輛に分乗し、市の北方ゴールデン・ゲート方面を巡覧し、兵営構内より海岸に出で、スートロ・ハイトの花園を過き、クラツスハクスに於ける崖上の公館にて少憩したるが、崖下には太平洋の狂浪怒号し、雄大の風色賞するに堪へたり、夫よりスートロ・バツス(泳游場)を視、ゴールデン・ゲート・パーク内を過ぎり、午後二時帰館、同七時東洋汽船会社出張所エブリー氏夫妻の招待により、一行ブードル・ドクなる割烹店に到る、領事夫妻・伊藤氏夫妻・御酒本氏亦同席せり
二日午前ユニオン・アイオン・ウオークスを観る、一行は先づアーケツト・ストリートに於る同社の事務所に到り、社長スコツト氏に面会の上、息スコツト氏の案内により小蒸汽船にて工場に到る、工場は米国に於ける重なる造船所の一にして千八百八十四年の設立に係り、軍艦及商船を建造すること既に七十四艘、現今建造中のもの十二艘にして、中には一万二千噸の巡洋艦、二万噸の貨物船もあり、規摸宏大、機械も最も進歩したるものを用ゐつゝありといふに拘らず、建物其他は出来得る限り粗末なるものを用ゐつゝあるは、蓋し米国に於ける一般の風なるべし、原動力エンジン用の汽缶の燃料に重油を用ゐるもの
 - 第25巻 p.148 -ページ画像 
あり、此風次第に行はれ、現に汽船の汽缶にも之を使用せんとするの計画熟しつゝありといふ、同工場にては昼餐の饗応を受け午後帰宿す尚ほ先生には明三日午前中桑港市長に会見し、午後六時桑港発の列車にて東行の途に就けり
    △桑港より市俄古に至る途上(第四信)
                   米国市俄古六月十日発
青淵先生一行は、六月三日午後五時三十分を以つて桑港のフヱリー・デホーを発しシカゴに向ふ、フヱリー・デホーは桑港より対岸のアウクランド停車場に接続せしむる艀汽船の定繋場なり、出発の際は上野領事・伊藤幸次郎氏を始め本邦人数十名に見送られ、特に東洋汽船会社のエブリー氏は折柄紐育行の用向ありし為め一行に同道せられ、途中万般の世話を為すこととなれり、同六時アウクランド停車場に達し列車に搭乗す、青淵先生・同令夫人はドロウイング・ルーム、他は孰も寝台車に乗る、是れ一行が米大陸旅行の発程第一歩にぞありける
四日 払暁シエラ・ネバタ山脈を横断し、終日ネバタの砂漠を過ぐ、一望漠々眼界些かの風光なく、倦厭の情転々加はる
五日 午前オクデンを経て、九時ソルトレーキ・シチーに着す、次の発車迄には数時間の間隙あるを以て、一行は馬車を傭ふて市内を遊覧す、市は人口七万五千に過ぎざる山間の小市なれども、電気鉄道市内を縦横し交通の便を極む、市にモルモンの本山モルモンテンプルあり往て之を観る、大会堂あり、八千人を容るべしといふ、管長の厚意により先生一行の為め特に米国最大のオルガンを奏せらる、バルチモーアの富豪キヤプテン・エミソン氏家族と共に米国漫遊の途次、別仕立列車に乗りてソルトレーキ停車場に在り、男爵以下其特別列車内に招かれて茶菓を饗せらる、五時ソルトレーキを発す
六日 ロツキー山中を往く、上には千仞の絶壁懸り、下、渓流奔馳飛沫雪の如くなるの間を、汽車は右に左に崖下を縫ふて走る、怪岩巨石の間パイン樹鬱茂し、風色譬ふるに物なし、此間青淵先生には、四辺の風色甚た雄大にして如何にも大陸の風あると、米国の鉄道が他の企業と同く毫も形式に拘泥せずして一に実益と速成とを尊び、線路・橋梁・停車場等の設備は力めて之を簡易にするに反し、車内の設備に就ては用意甚だ周密なることを感嘆せられつゝありき、汽車の速力は平均一時間四・五十哩の間に在り、午後に至り暑気漸く加はり、寒暖計八十五度を示せり、午後五時半デムバー市に着す、次の発車迄には四時間余あり、乃ち一行は下車して市中を巡覧し、ホテルにて晩餐を喫す、市は人口十七・八万を有し、米国中部に於ける鉄道の中心たり、市街は新開なれども高楼櫛比し、電気鉄道は市内を縦横し、其他電話水道・下水・公園等完備せざるなく、就中長途の汽車旅行に疲労せるの身を以て万樹青々たる公園内を通過せる時の如き、快感真に言ふ許りなかりき
七日 曇、此日ネバタの平原を過ぐ、満目畑と牧場とあるのみ、茫々又漠々、際涯を知らず
以上桑港よりサクラメントを経てオクデン迄はサウザーン・パシフヒツク線、夫よりデムバー迄はデムバー・リヲクランド線、夫よりシカ
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ゴ迄はバリントン・ロード線なれども、一行の列車は貸車《ブルマンカー》なりしを以て乗換の累なかりし
    △市俄古市
八日 晴、午前七時二十分シカゴ市ユニオン・デボー停車場に着す、本邦領事藤田敏郎氏を始め、金万喜人・水谷友恒・中村藤兵衛其他の諸氏出迎はる、一行はミシガン湖畔アウヂトリァム・アンネキス・ホテルに投じ、正午コロネル・フエビアン氏夫妻の案内にて一行はワシントン・パークのクラブにて昼餐を喫し、午後は市内及公園を巡覧し夜は藤田領事の邸に招かれ日本料理の饗応を受く、言ふ迄もなくシカゴは米国第二の大市にして、其繁栄筆紙に尽し難し
九日 快晴、午前藤田領事の案内によりユニオン・ストツク・ヤード即大屠畜場を観る、壮大言ふ許なし、午後一時よりボールド・オブ・ツレードに到り、副頭取に面会し、穀物其他定期取引の市場を観る、ボールド・オブ・ツレードは取引所にして、商業会議所を兼ぬるものなり、ボールド・オブ・ツレードの観覧終て後、藤田領事の案内によりプルマンカー製造所に赴き、鉄工・木工・組立・仕上等の各科を観る、規摸宏大、職工八・九千人を使用し、資本金七千二百万弗なりといふ、如斯宏大の事業なるに拘らず、木工彫刻等の精巧なること驚くに堪へたり、聞く米国各鉄道に於ける車輛の大部分は此工場に於て製作せられ、多くは貸車となすものなりといふ、此夜コロネル・フヱビアン氏の招待によりシカゴ・シアターを観る
十日 晴、午前シカゴ・ナシヨナル・バンクを訪ひ、頭取に会見し事務の実況を視察す、正午水谷友恒氏に招かれ昼餐を供せらる、午後再ボールド・オブ・ツレードの頭取を訪ふ、午後三時青淵先生令夫人はエブリー氏・西川嬢・渋沢元治氏を随へて、ナイヤガラに向ひ出発せらる、先生一行は午後七時を以てピツツバーグに向ひ出発せられ、十二日を以て費府に入り、令夫人一行と会せらるゝ筈なり、尚ほ一行の紐育着は十三日か十四日の予定なり、一行孰も健在なり
    △市俄古市(補遺) (第五信)
               (米国市俄古六月十日午後七時発)
十日(補遺) 先生一行は前便に報道せる如く今夕七時を以てシカゴを発し米国製鋼事業の中心ピツツバーグに向ふ予定なるが、時間の尚ほ許すものありたるを以て、先生は国立商業銀行・手形交換所・シカゴ第一国立銀行等を歴訪し、更に大日本茶業組合出張所に水谷友恒氏と会し茶業談を試み、次で水谷氏の案内に依り第一国立銀行頭取フオーガン氏と会食をなし、終りて更にイリノイ・トラスト・コムパニー及び貿易局を訪ひ、転じて基督教青年会館に到り、辞して後ピツツバーグに向ふ、時に午後七時なり、尚ほ先生一行は明後十二日を以てフイラデルフイアに入り、曩にナイヤガラ瀑布に赴きたる令夫人一行と会し、翌十三日若くは十四日を以て紐育市に入るの予定なり
    △ピツツバーグ(第六信)
                  (米国費府六月十二日発)
六月十一日 一昨十日午後七時、先生の一行はシカゴを発し十一日朝ピツツバーグに着し、直にカーネーギー氏の製鋼所に到り、午前より
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午後に掛け工場内を巡覧す、其規摸の宏大なる、其施設の完備せる、唯だ驚嘆の外なし
六月十二日 昨十一日夜を以てピツツバーグを発し、今朝当費府に安着す、曩にナイアガラ見物に赴きたる令夫人の一行は、十日シカゴを発し、十一日大瀑布を観覧し、同じく本日を以て費府に入着したり、本日先生には、当市に於て商業博物館を始め、京仁鉄道の機関車を建造したるボルドウヰン機関車工場等を巡覧し、明十三日夜を以て紐育に向け出発することに決したり、目下暑気既に酷しく、行路頗る易からず
    △ピツツバーグ合衆国鋼鉄会社参観(第七信)
                  (米国紐育六月十四日発)
 去十日シカゴを発し同十二日フイラデルフヰヤに到る迄の行程は曩に既に略報する所ありしも、今紐育着を報すると同時に其漏れたるを補ふ所あらんと欲す
六月十一日 詳報(略報前便に出づ)大雨、午前七時ピツツバーグに着す、停車場にはペンシルヴアニア鉄道エジエント、ジヨーンス氏出迎はれ、直に用意の馬車に搭してヘンリー・ホテルに入り、朝食を喫して後同氏の先導にて市外ホームステツドに到り、有名なるカーネギー鋼鉄工場を見る
抑も此工場は合衆国鋼鉄会社、即ち十億大《ビルリオン》トラストの一部にして、ホームステツド鋼鉄工場と称す、工場の総坪数無慮二百十万坪、構内に用ゆる鉄道機関車七十七台、職工一万人を超ゆ、其壮大なる筆紙の能く尽す所にあらず
一行は午前より午後に亘りて仔細に場内を巡覧し、午餐は工場の饗応に預り、観覧を終りて後副社長ウヰリアム氏に面接し、鋼鉄事業に就き意見を闘はす、話頭偶々大トラストの組織に及ひ、其十大会社より成立し、使傭職工十八万に達し、ホームステツドのみを以て一ケ年の産出額百十二万噸に及ぶ等種々有益なる談話ありしも、旅途匆忙の際且は同トラストの大体は既に邦人の略々知了する所なれば、玆には暫く省略に随へり、一行中梅浦精一氏は視察の都合上四・五日間の予定を以て同地に滞留することゝなり、男爵以下は午後九時発急行列車に搭してフイラデルフヰアに向ふ
    △費府
六月十二日詳報(略報前便に出づ) 午前八時費府に着す、ペンシルヴアニア鉄道エジエント某氏並に堀越商会代理人パーキンス氏出迎え、其案内に依りてウオルトン・ホテルに投ず、着後間もなく先生令夫人の一行は、ナイヤガラの見物を終へて入着す
午後は東京商業会議所と通信の往復をなせる商品博物館に到り、館長グリーン氏に面会し、館内の組織及事務整理法を見、次でボルドウヰン機関車工場に赴く、社長コムバース氏並に輸出主任重役ジヨンソン氏面接し、延て構内を巡覧せしむ、規摸頗る宏大、昨年機関車の製出高は千三百台に達せりと云ふ
六月十三日 午前費府の公園を馬車にて巡覧し、午前十時発汽車に搭し八哩外のブリンモーア女子大学を参観す、蓋し同校は米国第一流の
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女子大学なり
午後費府に帰り更に市内ジラード・コーレージを見る、本校はジラード氏の寄附金に依りて成立したる慈善孤児学校にして、頗る著名の学院なりとす、校長は喜で一行を迎え、学科教場並に実業教場を示し、茶菓の饗応をなして後、生徒千六百名を大講堂に集め、先生を一統に紹介す、此に於て先生には起て
 世界周遊に際し当米国に到り、実に工業進歩の著しさに驚きたるが今日貴校長始め諸氏の厚意に依り実際に実業教育の盛況を目睹するを得、玆に始めて曩に驚きたる物質的進歩の偶然ならざる所以を悟り、誠に感嘆の至りに堪へす、実に貴国の為め賀すへき所にして、又同時に自ら啓発する所少なしとせす、校長始め職員生徒諸氏の厚意を感謝し併せて一言所感を述ぶ、云々
との意を演説し、一同拍手喝采の裡に席に復し、市原盛宏氏起て之を通訳す、一同再ひ拍手喝采す、右終りて校長は構内運動場に於て先生の為に生徒隊の分列式を行ひ、軍楽隊の奏楽等あり、優待実に至らさるなし、本校は慈善学校として其設備一も間然すへき所なし、蓋し先生帰朝の後其関係せらるゝ慈善事業を経営する上に於て、其参考に資せらるゝ所決して少なきにあらざるべきなり


竜門雑誌 第一七〇号・第二二―二四頁 明治三五年七月 ○洋行日誌(其二)(梅浦精一)(DK250007k-0006)
第25巻 p.151-152 ページ画像

竜門雑誌  第一七〇号・第二二―二四頁 明治三五年七月
    ○洋行日誌(其二) (梅浦精一)
○上略
五月三十日(金曜日、快晴) 午前二時三十分本船は彼の有名なるゴルデンゲイトを通過して、桑港東北の沖合に繋留して検疫官の到るを待てり、午前九時下等船客支那人及日本人の検疫を了り、上等船客は只形式的に其姓名と顔色を見較ぶる迄にて其手続を了りたれば、本船は徐々に進行して午前十時埠頭に着したり
船客上陸と共に手荷物は直ちに税関の検査場に持ち込まれ、検査掛は各自の手荷物に就き逸々鍵を外づさせ無遠慮に中の品物を掻き回はし取調べ、其了りたるものには其表面に白墨を以て自署して以て検査結了物なるを証せり、我等一行の手荷物は其数頗る多きが為め殆ど検査の為め二・三時間余を費し、午後一時三十分に及んで漸くパレースホテルに至れり
此地ホテルは大小其数多き中にもパレースホテルを以て第一流とし、之に次ぐものをオクシデンタルホテルと為す、此ホテルは常に日本人を歓迎し極めて親切に待遇するとの評判高く、近年日本人は多く此に投宿すと云ふ、パレースホテルは其規模宏大にして内部の装飾も亦極めて整頓完美なりと雖も、其の旅客待遇の点に至ては我等日本人としては不平なき能はざるなり
午後六時東洋汽船会社の支配人伊藤幸次郎君の招宴に臨む、食後撮影す、其人員は即ち
 渋沢男爵及其一行
 領事上野季三郎君及夫人
 主人伊藤幸次郎君及夫人
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伊藤君は桑港に在勤三年、今回東洋汽船会社の支配人たる白石元次郎に代りて其事務を鞅掌すと云ふ
五月三十一日(土曜日) 午前雨、午後霧、日暮より風あり、寒気殊に甚だし、市中各所を巡覧し、正金銀行支配人戸沢君・三井物産会社主任御酒本徳松君等と会見す、午後六時より上野領事の案内に依り渋沢男爵始め一行同君の邸に臨み日本料理の饗応を受く、其款待殊に厚し
六月一日(日曜日、快晴) 午前微雨、午後晴天、風あり、午前九時より馬車を駆つて「クリツフハウス」を遊覧す、此地は市街の西南凡そ四哩の所に在り、海岸岩石の上に建築したる家屋にして広く太平洋を臨み其眺望最も佳なり、此庭園はストロウ氏が巨大の資本を投じて経営したるものなるを、同氏は之を市に寄附して以て公衆の共有に供したるものなりと云ふ、園中又博物館あり、其下に海水を引き以て水泳場を設く、其設備完備と云ふべし、米人が巨大の資産を惜まず、公衆の為めに寄附するは各地到る所に其美挙を見るべしと云ふ、就中当市を距る約二十哩の地に「スタンフオルド」大学あり、此大学は今より十二年前「スタンフオルド」氏が、其子なきを以て己の財産八千万弗を投じて少年を養成するの資となし、以て設立したるものなりと云ふ此日午後六時東洋汽船会社支配人エブリイ氏の招宴に臨む、此席は某ホテルの楼上に設けられ、円形巨大の食卓上に各種のバラを以て装飾し、主人夫婦は相対し座し、我等一行は渋沢男爵始め其左右に環座し佳肴美酒以て饗せらる、其款待至れるなり、食後主客談笑数刻に渉り夜十二時漸くホテルに帰る
六月二日(月曜日、快晴) 午前十時より一行ユニオンアイオンオルクを見る、此れは造船及機械工場にして当市の東隅に位し、港湾船舶繋留の場所に隣接す、此工場に就き見聞する所は、更に記して以て報告すべし


竜門雑誌 第一七〇号・第四二頁 明治三五年七月 欧米漫遊中之青淵先生(DK250007k-0007)
第25巻 p.152-153 ページ画像

竜門雑誌  第一七〇号・第四二頁 明治三五年七月
  欧米漫遊中之青淵先生
    ○青淵先生の消息
青淵先生及一行諸氏の消息は梅浦・八十島両君の紀行にて詳細なるも今桑港着以後に於ける先生の消息の概要を摘録せん
 五月三十日 桑港着パレース・ホテルに投宿せらる
 同三十一日 先生には桑港商業会議所会頭ニウホール氏を訪問し、商業会議所の事に関し会談せらる
 六月一日 上野領事・伊藤幸次郎氏等の案内にてストロウハイト、クリツフハウス、ゴルデンゲートパーク其他市内を巡覧せらる
 同二日 ユニオン鉄工場を一覧せらる
 同三日 先生には上野領事同道にて市長スウイツ氏を訪問し、市行政に関し会談せられ、帰路青年会館を縦覧せらる、此日、夕方先生を始め一行桑港を発しシカゴに向はる
 同五日 サルトレーキ・シチーに着、暫時下車して市内を巡覧せらる
 同六日 デンワルに着し、暫時下車して市内を巡覧せらる
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 同八日 シカゴに着し、「ヲウジトリアムホテル」に投宿せらる
 同九日 スウイフト会社支配人の案内により有名なるストツクヤード(屠牛場)を一覧し、帰路「ボールド・オブ・トレード」を訪問し、小麦其他の取引の実況及びプルマン会社の車輛製造所を一覧せらる
 同十日 夕方シカゴを発しヒラデルヒアに向はる
 同十一日 ピツツボルクに着、暫時下車して有名なるカーネギー製鋼所を一覧せらる
 同十二日 ヒラデルヒアに着、ワルトンホテルに投宿、商品陳列館を訪問、グリーン氏の案内にて館内を一覧し、夫よりボードウイン汽関車製造所を一覧せらる
 同十三日 ブリンモール女子大学校、「ジラルド・コルレージ」(孤児院)を一覧せらる、此日夕方ヒラデルヒヤを発し紐育に向はる
○下略


欧米紀行 大田彪次郎編 第七九―一二六頁 明治三六年六月刊(DK250007k-0008)
第25巻 p.153-164 ページ画像

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竜門雑誌 第一七一号・第一五―二五頁 明治三五年八月 ○洋行日誌(其三)(梅浦精一)(DK250007k-0009)
第25巻 p.164-171 ページ画像

竜門雑誌  第一七一号・第一五―二五頁 明治三五年八月
    ○洋行日誌(其三) (梅浦精一)
六月三日 拝啓、然ば去る三日午後六時桑港出発、対岸のオークランドにて乗車以来、汽車途中停車致候ソルトレイキ・シチイより去る五日絵葉書郵便差上げ、又デンパアよりも同様出翰仕り候、其後オマハア及リンコルン等重なる都市を通過して、去る八日午前七時三十分当シカゴ市に来着、此旅行中男爵一行無事健全に御座候間、幸に御放慮可被下候、扨て今回桑港より当市に達する汽車線は所謂ソウザウーンパシフヱツクレールロート会社の鉄道線路にして、此線路は上部の線路よりは哩数遠き由に御座候へ共、此線路はコロラド洲内彼の有名なるロツキー山脈を通過し、其山間には極めて絶景の場所に富み居候ふより、此風景を旅窓中より眺望するも亦旅行中の一興ならんとて、態と此線路を撰み候次第に御座候、蓋し此大陸を東西紐育より桑港、又は桑港より紐育迄旅行する者は必ず往返一度は此線路を通過し、此絶景を賞して旅中の疲労を医するを例と致し候様承はり及候、扨て此旅行中の日記を概略記載仕つり候はゞ左の通に御座候間、前回桑港より御郵送致せし日誌と御対照可被下候
去る二日桑港に於てユニオンアイアンウオーク(造船機械工場)一覧の事申上置候得共、同所に於て見聞の記事は桑港出発前多忙の為め認め候遑無之に付、更に左に其見聞の一・二申上候、目下同所に於て製造に着手中のものは

図表を画像で表示--

        船名                噸数      速力    馬力 巡洋艦   カリフオルニヤ            一三、四〇〇  二二、   二三、〇〇〇 同     サウスダコタ             一三、四〇〇  二二、   二二、〇〇〇 同     ミルウケイ              一三、四〇〇  二二、   二一、〇〇〇 同     タコマ                 三、四〇〇  一六、半   五、四〇〇 軍艦    オハヨウ               一二、二八〇  一九、   一六、〇〇〇 同     ワイヲミシ               三、〇〇〇  一一、半   二、四〇〇 水雷艦   バオルジヨン ペリイ、レフパア 三艘共   四二〇  二九、    八、〇〇〇 潜水々雷  プランパス、パーク          二艘共(長七十呎) 商船    アリグナ               一一、〇〇〇  一一、半(長四七一呎) 石油運送船 一万バアレルの石油を運送する丈けの設計   (長二八八呎) 




目下造船に着手中のものは右の通にして、其他市街電気鉄道会社の注文に応じ四千五百馬力のヱンジン及び汽鑵等工事中に有之候、其外電汽機械等は各種製造中にして、此電気機械の如きは一時に二千台位宛仕入工事を為し、順次同一の設計を以て同一の機械を製造致し、竣工すれば随つて新規のものに着手するの仕組にて、其需用は片端より陸
 - 第25巻 p.165 -ページ画像 
続需用有之趣きに御座候、石川島浦賀分工場の技師たりし熊井某に該工場内に於て面会致し候処、同人は此頃一日一弗五十銭の日給にて、追々増給の見込有之様申居候、近来は日本人と雖も他の米人とは毫も差別なく同様の待遇を受け居候趣きにて、昨年当国に於て或る部分より日本人排斥論相起り候節、日本人を使用致し居候工場又は農場は勿論、近年は桑港に於て花園を造り又は野菜等を造りて市中に供給する者は多く日本人の手に帰したるより、若し日本人を排斥する時は非常の不便を生ずるの恐あるを以て一方排斥論に反対する者其気勢を強め終に其目的を達すること能はざるに至りたるより、漸く日本人の信用を増し来り候由誠に可賀義と奉存り候、現に右の造船所に於て日本人を使用すること七十余名に達し居候由に御座候
桑港の人口は四十五万人内外の由にて、日本人は領事の管轄内にある者凡そ二万人にて、市中に住する者凡そ四千人内外と申す事に御座候去る二日即ち出発の前夜三井物産会社の御酒本徳松君来りて報じて曰く、此地に日本料理店数軒あるのみならず、蕎麦店もあり、又一昨夜来日本人の催せる演劇あり、試みに一見すべしと、依て市原君と共に同氏に誘はれて一覧仕つり候処、当夜は忠臣蔵を演じ居り、其道具立て装束は総て日本より輸入のものにて、役者は男女混じ居り中々其技芸の巧みなるには一驚を喫し候、而して観客は凡そ三百人計にして、是亦悉く日本人なるには驚き入候、三日には午前九時より渋沢男爵と共に領事館・正金銀行・東洋汽船会社・三井物産会社等を訪問し、滞在中諸氏の厚き待遇を謝し暇乞を為し、午後四時三十分より出発の用意を為して五時三十分停車場に入る、此よりオークランドに往返する渡船は三十分毎に各所より発する由にて、此渡船は二階付きにて三十四・五名を容るゝに足ると云ふ、発船の時刻に至れば船次第に陸を離れて進行を始む、恰も陸地の家に在りて其家屋が自然に水中に浮き出たるが如き感あり、対岸ヲークランドに着すれば船は停車場に密着して恰も陸より造り出したる家屋の如し、而して潮水の干満に依りて、渡船の陸との密着は機械の作用に依りて其高低を自在ならしむるものの如し
渡船を去り直ちに汽車に乗り込み発車したるは午後六時なり、上野領事・伊藤・関根・御酒本等の諸氏、此地迄男爵一行を見送られたり
六月四日 天気晴朗、前夜よりカリフオルニヤ洲を過ぎてネバタ洲に入り、山又は平原を通過す、蓋し此洲は土地豊穣ならず、寧ろ沙漠と云ふべきか、而して風色の見るべきもの更に無之候
六月五日 午前九時ソルト・レイキ・シチィに入る、此シチィはユタ州の都市にして、彼の一夫多妻宗徒即ちモルモン宗の根拠地にして、現今其人口は七万五千人、而して其過半はモルモン宗徒なりと云ふ、一行の人々は停車場より直に馬車を駆りて市中を巡覧し、市街の西方なる高丘に登れば遠く市外に数条の煙突を見る、是等は此州内遠く三十哩の地にある金銀鉱を溶解分析するの工場なりと云ふ、終に下りて其寺院に入りヲルガンを聴聞す、蓋し此ヲルガンは米国第一巨大のものなりと云ふ、市中の見物を了りナツツフオルドホテルに於て中食致し、同所より当市見聞の概略端書にて御報申上候筈に御座価候、午後三
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時よりカプテンヱマフン氏の招待に応じ一行皆同氏の自用汽車に赴き候、同氏はバルチモールの富豪家にして、曩きに世界巡遊を企て、東洋諸国を経て日本に到り、今乃ち郷国に帰らんとするの途次にして、其の自用汽車には宗族一同を同伴せり、其汽車中の客室.喫煙室・化粧室等の構造の美なる驚くべし、同氏は自用汽船をも所有し、嘗て自ら船長となりてシンガポールに航せしと語れり、殊に驚きたるは同氏が同伴せる妻女は勿論同氏の友人として紹介せられたる貴女が、一行の人々に向て、喋々喃々恰も雀の啼るが如く間断なく話し掛けられたるには閉口仕り候、米国婦人が交際に巧みなるは兼て承はり及び居候得共、我等日本人より観察すれば日本婦人の温柔なる方寧ろ賞すべきものあり、米国婦人の多弁は過ぎたるは尚ほ及ばざるの感有之候
午後七時ソルト・レイキ・シチイを発し候処、汽車中炎熱如焼八十五六度に達し、殆ど眠ること能はざる程に御座候
六月六日 不相変快晴、暑気一層劇しく寒暖計九十度に相達し申候、此日は早朝よりロツキー山の渓間を通過し、山色絶美、岩石累々、我塩原の谷を行くが如くにして、土色赤きものあり、青きものあり、黒きものあり、殆ど五色を以て画きたるが如く、其絶景紙筆を以て形容すべからざるなり
午後三時コロラド州の都市デルバーに達す、例の如く馬車を駆りて市中を巡覧し、午後十時再び乗車す、此市は人口百二十万余と承はり及び候
六月七日 はネブラスカ州に入り、終日車窓より平原広野を見て走る而して其耕耘せるものは最も少なきを覚ゆ、蓋し米国人と雖も未だ全部に着手すること能はざる程其原野の広且大なるが故ならん、而して其耕地は大抵麦・燕麦・コルン等最も多き様認め申候
午後二時同州に於て汽車の大接続地なるリンコルン、及びミツソリイ河の西岸にあるヲマハ等の都市を過ぎ、アイオワ州を横断してイリノイス州に入る、此二州は平原肥野千里山を見ず、汽車沿道概ね耕地ならざるはなしと申し候て差支無之か、実に其広大なるには一驚を喫し申候
六月八日 午前七時三十分イリノイス州の大都市シカゴに着す、領事藤田敏郎君・書記生金満喜人君等に迎へられてミシカン街のアウジトリアムホテルに投宿致し、当市に滞留は今八日より十日迄三日間の予定にして、渋沢男爵夫人は通弁西川令嬢及び渋沢元治君と共にナイヤガラ瀑布見物の為め男爵一行と相分かれ、男爵一行はビツチボルグ、ヒラデルヒヤ等を巡遊して、紐育にて会合する筈に御座候
ヒラデルヒヤ若くは紐育より御郵送致可と存候、只玆に特筆すべきは当国各地の事業は到処其規摸の広且大なるには驚くの外無之候、然るに此大規摸を一見し而して其外観に心酔し直ちに之を日本に移さんと企つるも、中々資本の乏しき我国にては容易に企て及ばざる所に有之候処、兎角我国力の如何を顧みず漫りに此国の事業を移植せんと企て候事は、前者の覆轍を踏むの嫌なきにあらずと相戒め候外無之、乍去我国今日の形勢にては先以て外国資本を輸入し、金利の低廉なるものを以て大に開発を謀るの外良策有之間敷、然るに外資輸入の一条に至
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りては我国法律規則に妨げられ、是亦近き将来に於て其運び如何に有之候哉、旁以て歎息の至に不堪候
以上前回の日記と御対照御覧被下度、当市に於て三日間見聞の事柄は追々御報道可仕候、幸に一行無事漫遊罷在候間乍慮外御休意願上候
 拝啓、去る八日シカゴに於て相認め投函の書中には同市に到着迄の見聞の次第を記載致置候、其後今日迄(即ち八日より十日迄シカゴ市滞在中)の見聞記左の通に御座候間、右御通信申上候
六月八日 丁度日曜日にて、諸官衙及各商店共事務一般の休業にて、一切訪問・用談等は出来不申、幸に当日は此の市に於て日本人好きとも可申富豪家にてコロネル・ヘビアンと申す人の渋沢男爵の来着を藤田領事より聞き込みたりとて、其の前日より態々夫婦にてホテル迄出迎へられて市中遊覧に男爵一行の為めに馬車を設けられ、先づ第一に当市の消防機械場に案内せられ其の装置を一覧仕候に、消防ポンプを運搬すべき馬車二台は一台は二頭曳、一台は四頭曳にして、其の傍らに高さ七十五呎余に達すべき階梯の横置せるもの、一台は即ち馬車四頭曳にて、此の馬車には各エンジンを備へ付けありて常に床下より鉄管とゴム管とに依り蒸汽を各汽缶中に通じ置き非常の節には僅かに二分間にしてポンプ其の他の機械を運転すべき丈けの準備あり、斯くして消防隊の小頭の如き者電気装置に依りて床頭を一踏すれば忽ち隣室の戸を排して馬は各々其の曳くべき馬車の轅に自から整列せば、階上八ケ所に一人の僅かに出入するに足るべき丈けの穴ありて此の穴の中央に床より此の穴を貫ぬきて階上に達する真鍮棒ありて、此の棒を抱きて直ちに階上より八人の馭者滑下して殆ど瞬間に馬を轅に繋ぎ付け馭者は手綱を取りて駆け出さんとす、其の用意の神速なるには実に一驚を喫し申候、我東京の如き火災の多き土地には此の類の消防機械を装置有之候はゞ、貴重の財産を徒らに烏有に帰せしむるの憂は自ら減少すべき義と窃に羨望仕候、我警視庁の当局者は必ず海外諸国に就き充分の調査を尽されたるならん、蓋し今日に至る迄斯る設備を欠くは経費支弁の途なきが故ならんとは存じ候へ共、一夜にして数十万の財産を焼尽するの点を研究せば、其損益決して識者を待て知るへきには無之義と奉存候、此辺は当局者に於て一考ありたきものと存候
此見聞を了りて直ちにヘビアン氏の邸宅に到りて暫時休憩の上、市の南部なるワシントン公園に到り、園内に設けある倶楽部に於て中食を饗せられ、了りて当市の有名なる競馬場を一覧せり、蓋しシカゴ市の競馬は馬の競争にあらずして、貴女が美服盛装以て互に競争するにありとは兼て伝聞致し居候処、此競馬は来る廿五日に開催せらるゝ由にて、果して伝聞の通りと申す事に御座候、当市の紳士・富豪家が其妻女の為め痛く嚢中を絞らるゝは此時にありと申す事に御座候
帰路ジヤクソンパークに到り、当市大博覧会の節日本出品の遺物なる鳳凰館を一覧せし処、痛く頽廃致し居、畳の如き、障子の如き、殆ど見る影も無之程の有様に有之、外国に在りて畳・障子の修繕の出来ざるは去ることながら、何とか見苦敷からざる様修繕の途は無之ものかと存候
此公園を出て馬車を海岸に駆り、右に有名なるミシガン湖を臨み、左
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に公園を見るの場所を卜して、藤田領事とヘビアン氏夫人の舎弟とが男爵一行を撮影せり、此写真は永く当市の領事館に保存せられて、紀念とせらるゝ趣きに承知仕り候
此夜は藤田領事の邸宅に於て男爵一行に向て日本料理を饗せられ、其魚類の如きは遠く三・四百哩外の海岸より来りたるものゝ由、此地にて日本料理にあり付き候は全く思ひ掛け無之事にて、一層其風味を賞し申候
六月九日 不相変快晴にて、前日の冷気に引替へ頗る暑気を感じ申候当日は早朝より(ユニオンストツクヤルド)と申し(スウイフトコンパニイ)の屠獣場を一覧仕候、即ち同会社の支配人なるエー・デイ・ホワイト氏及び副支配人ジヨンス氏両人にて一行を案内せられたるにより、尋常の縦覧人が見聞致候よりは一層緻密に実況を一覧仕候、此屠獣場にては一週間に六万頭内外の獣類を屠殺致候由にて、第一牛、第二豚、第三羊の三種にて、其屠殺の惨状は実に見るに忍びざる有様に御座候、只驚くべきは此室に於て屠殺の獣類隣室に到れば忽ち其体を変じ、次第に変化して終に鑵詰に至る迄少時間中に変化する事に御座候、素より此変化は多くは機械的に依りて生ずるものにして、人力を施すべきものは小部分と申して可然哉に見受申候、今は此屠獣揚より当米国各地は勿論、大陸其他広き世界各国に供給販売する趣に御座候、此実況は鎌田某氏の米国漫遊記行中に詳悉致し有之に付、其他は相省申候
午後ボード・ヲヴ・トレイドに到り一覧仕候、此会は会員千八百余名も有之、専ら小麦・燕麦・コルン其他獣類を売買する場所にして、男爵一行の参り候節は丁度小麦の売買最中にして、一段小高き所に書記一人立ち居り、其前面に数十百人の会員相集り互に手を張り出し、其指を二本出し又は三本出して売買を決するものにて、恰も我が株式取引所又は米穀取引所の仲買が売買に臨みて手を振るが如し、而して転売買戻しは自由に行ひ得るものと承知仕候、先般松方伯が当市に被参候節藤田領事を介して質問せられたる時、書記長の答には転売買戻しは一切出来ざる様説明有之候趣の処、我等の質問に対して斯く反対の答有之候は甚不審の至に付、渋沢男は種々に例を挙げて試問せられたるに、転売買戻しは自由に出来得るものと判然答弁有之候、加之ならず此場の或る売買は、投機の範囲を脱して殆ど賭博の頂上に達するものありと迄説明有之候、此点は尚ほ紐育に於て再び取調御報告可仕と奉存候
六月十日 早朝より汽車に搭じて、当市の東南八哩の地にある、パルマン汽車工場を一覧致し候、同工場に於ては各種の汽車を製造して当国各鉄道会社に供給する由にて、其規模の広大なると其製造方の機械的なるには驚き入申候、同工場に使役する職工の人員は六千人余にして、而して其使役法は大抵ピースオルク即ち切分け請負法にて、凡そ一人の職工が一日幾干の仕事を為し得るものと定め之を標準として仕事を給与し、其進行の程度に従て給料を増減するの仕組に有之、当国各工場職工使役の方法は大抵此類の仕組に依るもの多きかに被存候、前日桑港に於てユニオンアイヲンオルクにて職工の使役方も亦此如き
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仕組と申上げ置候処、其後諸方の工場に就き取調候に大抵右之通りと存候間、我国に於ても可成職工一人前の仕事の分量を定め之に対して其給料定め、而して出来高の加減に従て之を増減するの方法を取り候事に相勉め候方、第一工場の経済かと存候間、尚ほ御研究有之様冀望の至に御座候
八日より十日迄三日間シカゴ市に滞在し、十日夜七時当ピツチボルグに向けて出発す
六月十一日 午前七時三十分ピツチボルグに着、直に第五アベニウ、ヘンリーホテルに投宿仕り候、シカゴよりピツチボルグに至る鉄道線はペンシルバニヤ・レイルラウド・コンパニイに属し、紐育市其他此近傍諸洲に連絡して其延長は五千哩に達し居候由、目下シカゴより紐育迄の距離は九百十二哩の所、二十四時間相掛り可申之処、昨年此時間を短縮するの企て有之、追付け二十時間にて相達し候様相成可申趣然る時は途中停車の時間を差引く時は一時間或は六十哩以上走行する所も可有之、実に其速力の強大なるには敬服の外無之候
当ピツチボルク市は米国第一の工場地にして、就中カネギイの製鋼場は外国より来遊者の一見すべき価値あるものにて、男爵一行が当市に立寄候は全く該工場を一覧せんとの目的に有之候、当市に着するや兼て待ち設けられ候ペンシルバニヤ鉄道会社のヱゼントなる、ジヨンと申人、誠に深切に土地の情況等案内せられ、先づ第一にカネギイ製鋼場に同道せられ候、該工場は市の中央即ちホテルヘンリイ(男爵一行の投宿せしホテル)を距ること東方八哩の地ホームステツドと申す処にして、即ち電気市街鉄道に搭じて僅かに三十五分にして該工場に相達し申し候、然るに生憎当日は早朝より曇天なりしが、丁度男爵一行が工場に着する頃より驟雨頻りに到り、工場縦覧中は頗る困難仕候へ共、若し此降雨微かりせば工場の内外は黒煙と塵埃にて丸るで黒子に変体すべかりし処、幸ひに此降雨の為めに此変体を免かれ候は不幸中の幸と可申歟
カネギー工場の地積は百八十エーカーと申す事にて、此全地は悉く外部より鉄道の連絡を取り、先づミシガン地方より運送せる鉱石を貨車に搭載の儘場内に持ち込み、之を溶鉱炉に移し適当の温度に依りて溶解の加減を見計ひ、之を炉内より他の鉄鍋(此鉄鍋には溶鋼四十九噸を容るゝと云ふ)に移し込み、而して此鉄鍋より又高さ約七呎、巾二呎、厚さ一呎五吋位なる壷中に移し、其温度次第に減じて冷却するを待ちて壷中より出して更にロール機械に掛けて、鋼板又は橋桁等其望む所の模型に従つて厚薄適宜に製造するの仕掛けにして、此等各部の工事は悉く機械作用に依りて成るものにして、各部に機械を運転する技師多くも三人に過ぎ不申、其他人夫の如き者は誠に少数にして、我国の工場に於て百人以上の人夫無之候ては働かれ得ざるものと相考候ものを、僅かに技師一人其他助手四五人にて自由自在に取扱候には一驚を喫し申候
扨て工場の原動は天然瓦斯と石炭とを使用致し候由にて、御承知の如く当洲は米国第一の石油生産地にして随つて天然瓦斯に富み居候由にて、カネギイ工場の如きは今より十五六年前より之を使用し、当工場
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より六七十哩内外より鉄管を以て此瓦斯を引き来たり居候由、而して溶鉱炉の如きは天然瓦斯とコークスとを使用する故、殊に熱度を強大ならしむるの効有之様承り及候、就中当地は僅かに四五十哩の先きより石炭を汽車と水運とに依りて供給し来たり、一噸の石炭代価は当市に於て大抵一弗四五十仙位と申す事に御座候、如此工業に最大必要なる材料に富み居候場所なれば、米国第一の工場地と賞せらるゝに至りし宜ならずやと存候
男爵一行の縦覧致し候工場は専ら製鋼を目的と致し候ものにて、鉄のみを製造する工場は当市の西方ヲハイヨ河を隔てたる処に有之候、是亦カネギイ関係の会社にして先年此等の各工場は勿論其他鉄道・石炭鉄山・石油鉱等数十会社合同してトラストを組織し、此トラスト各会社の下に労働する鉄工は無慮十八万人に達し、而かもカネギイ会社の管轄する労働者の数は二万人余にして、男爵一行が昨日縦覧せし製鋼場丈けにて六千人を雇役致し居候由に御座候、当国トラストの組織ハ各同業者若くは苟くも其事業に関係あるものを共同合併して其利害を共にし、一は可成的製品の価格を低下ならしめ、一は他の競争者に打ち勝たん事を期するものにして、カネギイ諸会社のトラストも亦此趣意に外ならざる義と存候、斯る規模と計画とに依りて始めて益々強大隆盛を来すべきの処、我国現今の情態を顧みれば同業相互に猜忌し、野心と野心と相衝突し、我一身の損益のみを慮りて国家公共の利害如何を念とせざるの傾きあるに至りては、実に慚愧の至に不堪候
カネギイ氏はスコツトランドの人、少壮志を立てゝ当国に来り、単身無一物より此大事業を成効したる人物の由にて、今のカネギイ会社総体を管理するシユラツプ氏は、当市より西方百哩計の一小村落より出でたる小農民の次男の由にて、年齢は今年四十五歳の由、前年カネギイ氏が同氏を雇入るゝ時一ケ年百万弗の報酬として五ケ年間の契約を取結びたる由の処、其後一ケ年を過ぎて彼のトラスト組織の成立するやカネギイ氏は契約年限中の全報酬を一時に給与したる由にて、今は一ケ年十万弗の報酬にて所謂名誉職とも可申地位に据り居候趣に御座候、一ケ年百万弗の報酬は世界無比の巨額にして、彼の三井銀行の故中上川彦次郎君が嘗て日本人第一の高給者として云々せられたるも、同君も三舎を避くる処にて有之と存候、シユラツブ氏は其齢未だ五十に達せざる壮年にして如此大事業を管理し、又カネギイ製鋼を管轄する総支配人ジンケイ氏は本年四十歳、支配人ウリヤムス氏は三十八歳なりと云ふ、而して其事務室に勤務せる秘書其他一二の人を見るに、大抵二十二三歳より三十歳位迄の青年に御座候、米国人が近年少壮の人士を使用するは、繁雑の事務を処弁するには老朽者能く其任に堪えざるを知り漸く此に至りたる趣に承り及候、我国に於ては近年兎角青年を擯斥して老成者のみを重んずるの傾き有之哉の様被考候へ共、自今は多少海外の文字を知り其教育を受けたる者に無之候ては、到底世界的の事業は成功不仕義と存候に付、我国の老成者は此辺に一層注意有之度ものと冀望致候
此点に就き一事の玆に特書すべきものは、例の矢野次郎先生が多年青年を薫陶し、其利害を一身に負担して養成せられたる一事に有之候、
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小生日本出発の際矢野君より二通の紹介的の書面を領し来り候処、先づ桑港に着するや其領事上野季三郎君、三井物産会社の支配人御酒本徳松君等は所謂矢野次郎君の門下生にて、一行に向て懇到なる待遇を与へられ事々物々痛痒の歎なからしめ候、又シカゴ市に至りては領事藤田敏郎君も亦先生の知遇を得て常に先生の親切に感じ居候人にて、是又同様の便利と愉快とを与へられ、総て此等諸氏の行為は所謂矢野流義にて百事抜け目なく注意の行届きたる方に御座候、今より紐育に入り倫敦・巴里に到らば又夫々先生の門下生在勤被致候に付ては大に人意を強ふする処有之候、畢竟矢野君が多年の苦辛此等少壮者を薫陶せられたるの功徳、今は我身に取りても亦感受する事と窃に矢野君に拝謝致し居候
前陳の通り当市は米国第一の工業地にして、硝子製造所・ウヰスキイ製造所・石油製造所其他見るべきもの尠しとせず、然るに渋沢男爵は今十二日ヒラデルヒヤ府に於て去る十日ナイヤガラ瀑布見物の為め出発せられたる夫人一行に出会するの約あるが故に、不止得昨十一日午後九時の汽車に乗り込み同府へ向け出発せられ、小生一人当市に止まり此等各工場を見物致し、更に一行とワシントンに於て出会する事を約し申候
 当ピツチポルク市滞在中各工業見聞の概略左に御報道仕候、前便申し候通り小生は当市各工業視察の為め十二・十三の両日間同市に滞在致し、昨十三日午後九時の汽車に搭じ今十四日午前七時三十分当ヒラデルヒヤ府に到着(十時三十分間にして三百五十四哩を走行致し)候処、昨夜五時の発車にて渋沢男爵及其一行は紐育市に出向せられたる跡にて、小生は来る月曜日即ち十六日ワシントン府に於て此一行に出会、大統領に拝謁の筈に御座候
○下略


竜門雑誌 第一七一号・第四一―四四頁 明治三五年八月 欧米漫遊中之青淵先生 ○青淵先生に対する欧米諸新聞の論評及記事(其二)(DK250007k-0010)
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竜門雑誌  第一七一号・第四一―四四頁 明治三五年八月
  欧米漫遊中之青淵先生
    ○青淵先生に対する欧米諸新聞の論評及記事(其二)
      △六月七日「シカゴ・イヴニング・ポスト」
六月七日「ゼー・シカゴ・イヴニング・ポスト」は『日本帝国の最富豪男爵来遊の途にあり』“Japanese Baron,wealthiest man, is coming”と題し、記して曰く
 日本の渋沢栄一男は多くの随行員書記通訳者を伴ひ明日当シカゴ市に到着すべし、一行は目下桑港よりの途上にあり、来る月曜日(六月九日)迄当市に留まり、然る上東行の途に上るべし、聞く所に拠れば男爵は日本帝国に於ける最富豪にして、四十余の株式会社の社長たり、其配下会社の資本金総額は一億弗に上れり、就中日本に於ける最大銀行の頭取たる外、三ケの銀行、日本郵船会社、其他種々なる製造会社並日本及朝鮮に於て五ケの鉄道会社に重大なる関係を有せり、男は実に実業家として同国の貴族に列せられたる最初の人にして、其名誉を負ふに至りし所以は全く邦国商工業の開発を計りたる功尠なからさりしか為めなりと云ふ、今回の旅行は全く保養的
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漫遊なりと云へるも、製鉄及造船業に就て大に研究を為すならん、而して一行は帰朝前に猶ほ英吉利・仏蘭西・独逸等をも漫遊せらるる山なり
      △六月九日「シカゴ・トリビユーン」
六月九日の「ゼー・シカゴ・トリビユーン」は「卓越せる日本人の一行当市に到着」“Distinguished Japanese visitors come to City”と題し、記して曰く
 世界漫遊の途上にある日本の卓越せる人々の一行は、昨日当市に到着せるか、明日午后東行の途に上るべし、一行はデンヴアーよりパーリングトンを経て午前七時三十分当市に着せられたるが、途中より日本領事藤田敏郎氏同行し「アウヂトリユーム・アンネツクス」に投宿せり、一行の長は日本に於ける最富豪渋沢栄一男にして男爵夫人、男爵の通訳者ヘンリー・ヂヱー・シーマン(市原氏の事?)梅浦(L.Umeuralと綴れり)・八十島・萩原・清水(Shimzuと綴れり)西川等の諸氏を伴へるが、此等の人々は皆日本の富豪なる市民なり
 一行の人々皆健康にして愉快に観光を為しつゝあり、男爵には曾て欧洲及東洋諸国に遊ひたることあるも当米国への漫遊は始めての事なれば、格別の注意を以て其視察に怠りなく、就中当シカゴ市の如きは男の為めに特に趣味を感せしめたり、云々
是れより先生がシカゴ市中に於て重なる工場・銀行・公園を視察見聞したることを記し、最後に藤田敏郎氏が先生に就て左の如く語れりと其言を引て記事を終れり、「シカゴ・トリビユーン」が藤田氏の談話なりとて記する所左の如し
 男爵は米国が最急なる商工業上の進歩を為せしことを痛く驚嘆し、日本国をしても亦該国の如き進歩を為すの好機会に際会せしめんと期待せり、男爵は実業家として貴族に列せられし開祖にして、ソハ全く邦国商工業の開発に尽せし功績著大なりし為めなり、男爵は其株式会社の長として、一億弗に余る木資本を支配する点より、屡々「日本のピーアポント・モルガン」“Pierpont Morgan of Japan”と称せらる、其支配する会社は日本に於ける最大の銀行、日本及朝鮮に於ける数多の鉄道会社及其他数十の銀行・商工業会社等なり
      △六月九日「シカゴ・レコード・ヘラルド」
六月九日の「ゼー・シカゴ・レコード・ヘラルド」も亦「日本の商人にして而も貴族たる渋沢男爵シカゴ観光中なり」“Baron Shibusawai,Japanese merchant and Peer, being shown Chicago sights”と題して、青淵先生の一行がデンヴアーよりバーリングトンを経同所に於て藤田氏に面会し、且つ同氏の案内にて六月八日シカゴ市に着し「アウヂトリユーム・アンネツクス」に投宿し、シカゴ市の重なる銀行・工場・公園・倶楽部等を見聞せしことを記し、同新聞も他の米国新聞と同じく一個の商人にして貴族に列せられしことを記し、一行の氏名をも併記せるが、就中先生の姓をShibusawai、梅浦氏をVmeusae、清水氏をShumzuと綴りしが如きありき
      △六月九日シカゴ「ゼー・デーリー・ニユース」
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六月九日シカゴ「ゼー・デーリー・ニユース」は青淵先生及藤田敏郎氏等が「アウヂトリユーム・アンネツクス」を出つる所を影写して其肖像を掲げ、「渋沢男爵及一行ストツクヤード及プツルマンを見舞ふ」“Barom Shibusawai and party visit Stockyard and Pullman”と題し、記して曰く
 日本唯一の財政家にして且つ製造業者たる渋沢栄一男は、今やシカゴに於ける商工業の現況を視察しつゝあり、本日午前男爵は多くの日本人を伴ふて先づストツクヤードのスウイフト会社の「パツキング・プラント」を視察し、正午には商業会議所を訪はれ、午后プツルマンの「プツルマン」会社の「カー・シヨツプ」を見舞れたり、其間男爵夫人には「アウヂトリユーム・アンネツクス」に他の人々と在宿せられたるが、夫人は通訳者として西川嬢を随へり
云々、是れより先生の随行者一同の氏名・身分等を記したるが、其中に清水泰吉君をVice-president of first bank of Tokyo.東京第一銀行副頭取とせしは如何なる間違にや、又同新聞も大分一行中姓名の綴りを誤り、青淵先生をShibusawai、梅浦氏をUmeuralとせり、最後に同紙は左の数言を添へて記事を終れり、曰く
 男爵の支配する事業会社は五ケの鉄道会社、四ケの銀行、三ケの汽船会社、ニケの造船所の外百ケ所の製造工業等にして、其個人としての富一億弗に上り、今や男爵自身すら、其富其関係の余りに広大にして正確に之を表出する能はさるを以て、殆んど其幾何なるやを知る能はずと云ふ
      △六月九日「シカゴ・クロニツクル」
六月九日「ゼー・シカゴ・クロニツクル」は「斯くも速に発達せし都市と日本の貴族商人は云へり」“So Quick Happening City,”say Japanese Merchant Princeと題し、青淵先生が日本の最大財政家たること、皇帝国に於ける最も有名なる人物たること、商人として貴族に列せられしこと等を記し、終に先生の関係せる事業会社を列記すること前掲「デーリー・ニユース」と同じく、又先生の富を一億弗と算し、我米国に於けるロツクフヱラーに匹敵せりと云ひ、夫れより先生がシカゴ市発達の速なることを観て驚き、Such a Quick-happening Cityの言を為せりと記し、其他先生の視察せし工場・会社の事、随行員の氏名等を録し一段に余る長文を載せりと雖、其記する所前掲諸新聞と同一の通信に依りしものと見へ大同小異の記事なれば省略せり
      △六月十三日フヒラデルフヒァ「ゼー・ノース・アメリカン」
六月十三日の費府「ゼー・ノース・アメリカン」は「日本財界の帝王当市に着す」“Japan's King of Finance is here”と題し、更に渋沢男は同夫人並に随員と共に費府の光景を視察中なりと前置し、先生を始め市原・清水・八十島等諸氏歩行中の全身像を掲け、記して曰く
 渋沢男及男爵夫人(Shibosawaと綴れり)は日本に於て最も富豪なる人にして、且つ同国に於て卓越せる人物なるが、昨日多くの日本知名の紳士を伴ひ当市(費府)に到着せられ、一行直に「ワルトンホテル」に投じ、昼食後暫次休息の後、観光の為め外出せられたり
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其歴訪されたる重なる場所は「ボルドウイン・ロコモーチーヴ・ウオークス」、商業博物館、「プリン・モーアー」、「ギラード・コレツヂ」等なり、又男爵及夫人一行の人々は西川嬢・萩原・市原(Ochiharaと綴れり)清水・梅浦(Umevuraと綴れり)八十島等の諸氏にして、渋沢男は当国に於ける旅行は予て久しく存念中にありし単なる漫遊に過ぎず、其使命の重なるは日本商工業者と欧米商工業者との関係を密ならしめ、意志の疏通を計らんとするにある由なり
 渋沢男の日本財界に於て大達物たることは恰も故李鴻章伯の支那に於けると同様の他位を占め、男爵は一億弗の富を有し多くの商工業の発達を計り、且つ「サウサーン・パシフヒツク・カムパニー」(東洋汽船の誤りか)に多くの資本を投下し其会社の総代理店たるタブルユー・ヱツチ・ヱブリー氏は男の案内者たり、而して本日午后より一行の人々紐育に向て出発し数日の後ワシントン府に赴きて大統領ルースヴヱルト氏に謁見し、然る後日本公使館に留まるならん
○下略


竜門雑誌 第三一〇号・第一九―二〇頁 大正三年三月 ○日米国交と予の関係(青淵先生)(DK250007k-0011)
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竜門雑誌  第三一〇号・第一九ー二〇頁 大正三年三月
    ○日米国交と予の関係 (青淵先生)
 本篇は青淵先生が正岡猶一氏の請ひに応じて日米国交に関せる顛末の概略を語られたるものなり、正岡氏は尚ほ諸名士の説を蒐集し之を英訳して一書と為し、他の用向にて渡米の序でに之を米国諸名士の間に醍附する考へなりと云ふ(編者識)
○上略
 私が初めて欧羅巴へ旅行したのは旧幕時代であつた、慶応三年に仏蘭西に行つて約一年も居り、其他の国々も巡回して、一と当りの事情は知るを得たけれども、不幸にして其時には亜米利加に旅行をしなかつたが、明治三十五年(西暦一千九百二年)に初めて亜米利加へ行つた、前に述べた如く仮令其土地は踏まぬでも十四五歳の時から、亜米利加なるものを知り、其外交の関係に就て特に注目し、且つ従来の国交が甚だ適順に進んで居るので、亜米利加と云ふ音は常に自分の耳を楽しましめるのであつた、而して其土地を初めて見たのであるから、事々物々実に私の心を喜ばして、殆ど我が故郷へでも帰りたるやうな感じを持つた、最初に桑港に上陸して様々なる事物に接触して深く興味を持つて居つた、所が唯一つ大に私の心を刺戟したのは、金門公園の水泳場へ行つた時に、其水泳場の掛札に、日本人泳ぐべからずと云ふ事が書いてあつた、是は私の如き亜米利加に対して愉快なる感じを持つて居る身には、特に奇異の思ひを為さしめた、当時桑港に居つた日本の領事上野季三郎と云ふ人に、何故斯かる掛札があるかと問ふたら、夫れは亜米利加に来て居る移住民の青年等が公園の水泳場に行つて、亜米利加の婦人が泳いで居るのを、潜行して足を引張る、さう云ふ悪戯が多い為めに右の掛札を掛けられたのであると説明した、其時に私は大に驚いて、夫れは日本の青年の不作法が原因をなして居る、併ながら斯く些細な事でも兎に角差別的の待遇を受けると云ふ事は日本として心苦しい話だ、斯う云ふ事が段々増長して行くと、終には両
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国の間に如何なる憂ふべき事が生ずるかも知れぬ、さなきだに東西洋の人種間には種族の関係、宗教の関係と云ふのもは、斯くの如く親んで居るとも、未だ全く融和したとは云へないやうに思ふのに、さう云ふ事が現はれたのは真に憂ふべき事である、領事に職を奉ずる人は充分御注意をして欲しいものだと言つて別れたが、之れが三十五年の六月の初めであつた○下略
   ○右記事ト同趣旨ノ見解ハ世界公論(大正八年七月)所載「日米提携と国民外交」ナル談話中ニモ述ベラレタリ。又実業公論(大正六年五月十五日)所載「日米両国の国民外交」ナル談話中ニモ述ベラレタリ。


中外商業新報 第六二三六号 明治三五年一一月一日 ○渋沢男爵の談片(一)(DK250007k-0012)
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中外商業新報  第六二三六号 明治三五年一一月一日
    ○渋沢男爵の談片(一)
○上略
亜米利加の強大なることは実に非常なものです、一寸汽車の中でその一部を見てもネバタ地方の如き瘠土もないではないが、マア見渡す限りは茫漠たる原野ばかりで、而かもその地味も富饒にてあるやうに見受けられる、元来自分は農家に産まれたものだから一見して土質の肥へて居るか居ないか位は分るのですが、雑草の生育から土の塩梅が如何にも地味が宜いようである、そうして全体に高低がなく、見渡す限り平々坦々たる広原で、何れを見るも目を遮るものがないと云ふ土地です、で斯様に広大無辺の地であるに拘らず、人家を見受けることが稀である、夫故大農法で耕すことが出来るのであるが、農民は余り骨を折らぬで棉花でも麦でも玉蜀黍でも何でも好く出来る、勿論亜米利加は商業も工業も盛であるが、併し農家のために凡てが非常に盛であると云ふことは我々旅人が通過して見て直く分るのです、シカゴの繁昌は実に非常であるが、畢竟農産物が盛に集散するためで、シカゴの繁昌を見ても農産物のために亜米利加が如何に盛大であるかと云ふことの一端を想像することが出来るのです
○下略


時事新報 第六八二四号 明治三五年一一月八日 ○渋沢氏の米国談(一)(DK250007k-0013)
第25巻 p.175-177 ページ画像

時事新報  第六八二四号 明治三五年一一月八日
    ○渋沢氏の米国談(一)
予は此度米・英・独・仏・白等の国々を旅行し来りたれども、日常の日記は随行の書記が書取りて之を或新聞に報告し、尚ほ帰朝早々請はるゝ儘に観察の概要を語り、既に新聞紙上に書立てられたる事もあれば、成るべく重複せざる点のみを拾うてお話しすべし
各国それぞれ特色ありて、一様ならざるは固より云ふまでもなき事なり、予が桑港に着したるは五月十三日にして、同所は左程古き土地に非ず、又非常なる財産家ありと云ふには非ざれども、市街の交通機関の有様と云ひ、家庭の構造と云ひ、商売の繁昌、居民の活溌なる態度を見て、其富の尋常ならざる所以を察し、其他公園・ホテルの設備、造船所の実況を目撃して先づ一驚を喫したり、自分の見聞の狭きを披露するに似たれども、上陸早々我国と事々物々非常の懸隔ある有様を見て、斯くまで繁昌の土地は又と有るまじと思ひきや、最初第一等を
 - 第25巻 p.176 -ページ画像 
思ひしものが旅脚の進むに従て層一層その結構設備のいよいよ雄大なるに心目を奪はれ、遂に桑港は紐育其他の各都会に比し見劣りの感を懐くに至れり、何しろ言語通ぜざる自分が通弁の労を仮りて、短日月の間に涇渭の差ある事物を目撃せしことゝて、最初見たる事物の未だ全く理解し得ざる其中に、又後からも後からも眼を遮るものは悉く珍奇ならざるはなしと云ふ有様にて、聊か面喰ひし感ありて、グルグル廻る其間に容易に真相を看破する能はざるべしとの感懐を起すに至れり、一行の中には若き人達もありて、イヤ孰れの国は斯く斯くの方針・主義なるが故に斯くあるは道理なる抔と速断する者もあらんが、自分は速断の忽にすべからざるを戒め、自らも慎みて成るべく心を冷静にして諸般の事物を観察するに力めたる積りなれど、何事に就ても是非得失の断案を下して申し上ぐる程の勇気なしと云ふの外なし
旅行の第一は三日に桑港を発し、昼夜乗詰にて七日にシカゴに着したる次第なれば、其間の農園稼穡の有様は単に汽車の窓より覗きたりと云ふに過ぎす、見渡すところネバタ州の沙漠地は別として、コルラードの山も過《よ》ぎりしが、山壁は岩石峨々として殆ど傾くが如く落ちるが如く、上州妙義山の巌石は黒けれどもコルラード山の岩石は紫色を帯びたる赤石にして、何とも形容し能はぬ峻厳なる山岳なり、此間は農業上別に観るべきものなしと雖も、此地を通り過ぎて一昼夜程シカゴに着くまでの間は漸く地味太りて農作も亦甚だ盛なり、シカゴは亜米利加の中心にして、商業地と云はんよりは寧ろ農産物の集散地なりと予て聞知する所に違はず、一目して其然る所以を知り得たり、只この旅行中に自分が甚だ不思議に感じたるは、茫漠たる原野の見渡す限り地質豊穣なる畑なるにも拘はらず、人家の乏しきこと是れなり、日本にても関東中の田場と称せらるゝ処に於ては見渡す限りとまでは往かぬが、相応に広き耕地ある其割合に村落の少なき場所なきに非ざれども、上州・武州特に自分在所附近の如きは耕地面積甚だ少なし、仮に一村の全面積を十とすれば耕地面積は其七に過ぎずして、宅地は其三を占むるが如し、亜米利加は之に反し百分の九十五は耕地にして、宅地は僅に百分の五に過ぎざるの有様なり、我国にては古来の慣習已むを得ずとは云ひながら、一軒の家を建つるに方りては恰も神社・仏閣を築くが如く先づ其周囲に壕を穿ち、門を建て、垣根を廻らし、庭の彼方此方には下らぬ花卉樹木を栽うるの習ひにて、見栄えは誠に立派なれども、自山有用《(然カ)》の土地を潰ぶすの損失を忍ばざるを得ざるなり、甚だしきは東京の如き日に月に狭きを感じつゝある繁華の土地に於てすら(自分の事務所も同様なれども)日常の事務を扱ふ家屋の周囲に多少の樹を栽うるの常なり、或は衛生上の関係もあらん、併し衛生の点より樹木を栽うるの必要ありとすれば、其身の境遇の許す限り紅塵万丈の巷を避くるを可とす、云はゞ事務所は其日の用を弁ずる所なれば数本の樹木の有無は衛生上に左程の関係も非ざるべし、農家の宅地も亦広きに過ぎざるやと思はるゝ所多きが如し、今も云ふ通り亜米利加は日本と反対にして野広き耕作地の真中頃にポツンと住居の建てられあるを見るのみ、日本人の眼には甚だ淋しく見ゆれども、其代り殆ど無用の空地あるを見ず、一村落一団となりて其間に杉あり松あり鶏犬
 - 第25巻 p.177 -ページ画像 
の声相聞ゆるは床しけれども、徒に有用の地を潰ぶすは如何あるべきか、自分は亜米利加の耕地の有様を見て俄に之に習へとは云はざれども、一見して彼我の農耕稼穡の相違せる一端を理解し、農業上の富の偶然ならざる所以を窺ひ得たり、鑑むべき事なるべし


時事新報 第六八二五号 明治三五年一一月九日 ○渋沢氏の米国談(二)(DK250007k-0014)
第25巻 p.177-178 ページ画像

時事新報  第六八二五号 明治三五年一一月九日
    ○渋沢氏の米国談(二)
自分は欧米漫遊の途に上るに方り、慶応義塾の鎌田氏の著書を見つゝ行きたりしが、シカゴに着くに及びて其中の一節に在る豚の牧場の事を想ひ起し、見渡す限りの牧場に養はるゝは豚か牛かは認めざりしも一見して其牧畜の盛大なるに驚けり、穀物の如きも空気仕掛にて汽車に積み卸しする様を幾度か目撃したり、此等は孰れも農産に密接の関係ある事柄にして、凡ての設備の雄大なるは到底実地を目撃せざる者の想像にだも及ばざる事なり、同市に於てポルトマンカーと云へる客車製造の大工場を見たれども、其設備は甚だ大にして七・八千人の職工を使役し居たり、其他第一銀行の如き、イリノエ・トラスト・コンパニーの如き、皆有力なる金融機関なり、シカゴは僅に二晩の逗留に過ぎざりしが故に充分の視察を遂ぐる能はざりしも、同地人がシカゴの繁華は紐育を凌駕すと自負するだけありて、其繁華の程度は桑港の比に非ざるなり、近来亜米利加に於てはますます精巧なる機械を発明して人力を省くの工夫を為しつゝありとの事は、予て聞く所なりしが蓋し機械の利用は農工業に属し、其他の方面は左程にも非ざるべしと思ひ居たるに开は甚だしき了簡違ひにして、独り農工業のみならず、行往坐臥凡ての事柄に就ても人を使はぬと云ふ方針を執りて、迅速に事を運ぶの手際には感服と云はんより、寧ろ恐怖の念を懐く位なり
自分の一行はシカゴに於て二手に別れたり、家内はナイヤガラの滝見物に出掛け、自分は彼の有名なるカーネギーの製鉄工場を見て、他の一行と紐育に落合ふの約束にてビツツバルクに廻り、夫れより例のカーネギー、モルガン其他何れも有力なる米人の組織に係るトラスト工場を見たり、壮大と云はんか絶大と云はんか、兎に角想像にも及ばざる大仕掛の工場なるには一行みな舌を捲いて驚きたり、其製造方法は凡て新式の電気仕掛なるが故に生物識の説明を為すこと能はず、只ドエライ仕掛と申すの外なし、雨を侵して終日各工場を見物して後、事務所に於て同所の副支配人其他二・三の人に就て種種なる談話を試みる中に、近来米国にては皆若手を使ふと云ふ談話を聞きたり、成程カーネギー氏のトラスト工場を見ても、牧場の様子を見ても、使用する人の数は少ないけれども孰れも若手なるが如し、自分は予て此トラストコンパニーの製鉄事業の発達は眼を驚かす許りにて、近来欧羅巴にも侵入して同業者を圧倒するの勢あり、東洋其他にも需用あれば、多少損失を忍ぶも販路拡張の為め輸出を試みんとて頻に計画を為し居るやに聞けり、依て年々製造の模様及び其仕向先を問ひたるに、海外競争の強き意念を有せざるに似たり、其答に近頃の相場なれば我工場の品物は欧羅巴に輸出するも決して引合はざることなし、左りながら今日御覧の品物は何れも普通の鉄にして、東洋には始終取引先あるを以
 - 第25巻 p.178 -ページ画像 
て多少輸出もあれど多くは内国の需要に供給し兼ぬる位の現状なれば追ては海外の販路拡張に力を尽すの時機もあるべし、何を苦んで今日海外に安売するの必要あらんやと云へり、此答は果して事実なりや否やは知らざれども、故意に虚言を云ふ筈もなければ如何にも真率の答ならんと察したり、要するに此答は以て米国の如何に富めるかを証拠立つるものに非ずやと思考せり、自分は其他の工場は見ざれども、此辺は先づ工業の亜米利加と云ふべき土地ならん
翌日フヰラデルフヰヤに到り、ボルドウヰンの機関車製造所を見たり是れも中々広大なる製造所なれども、日本の各鉄道の評判にては、亜米利加製殊にボルドウヰンの製品は所謂安からう悪からうで破損し易しとて、日本鉄道抔にては余り之を買入れずと聞けり、勿論価は廉なれども堅固ならずと云ふは事実なるが如し、之に反し英国製は比較的価格は高けれども堅固なるが故に割合上却て利益ありと云ふ、开は兎も角ボルドウヰンは市街の中央に在る六・七階建の大工場にして、殆ど一万に近き職工を使役し、一年に千三百台位の機関車を製造する由なれば随分大仕掛の工場なり、其他の工場は見ざれども凡て彼の辺の工業の発達は著しきものにして、是れ又農業の部に述べたる如く人手を省く点に於ては至れり尽せりと云ふべきのみ