デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
4節 諸外国災害救助
2款 サンフランシスコ震災義捐金募集
■綱文

第25巻 p.737-744(DK250114k) ページ画像

明治39年4月29日(1906年)

是日、日本赤十字社ハサンフランシスコ震災義捐金募集ノタメ、外務大臣官舎ニ都下各新聞通信社ノ代表者ヲ招キテ協議会ヲ催ス。栄一臨席シ演説ヲナス。


■資料

中外商業新報 第七三一七号 明治三九年四月二七日 ○桑港救済会議(DK250114k-0001)
第25巻 p.737 ページ画像

中外商業新報  第七三一七号 明治三九年四月二七日
    ○桑港救済会議
桑港震災被害者救済金募集に関する外相邸に於ける相談会は、廿六日午後三時より開会、原内相を除く外各大臣・珍田外務次官・石井通商局長・寺島秘書官・東郷軍令部長・松方赤十字社長・小沢同副社長・曾我子、及渋沢男爵・大倉喜八郎・早川千吉郎・日比谷平左衛門・菊地長四郎・田村利七・高橋豊吉・安藤浩・雨宮敬次郎・大谷嘉兵衛・原富太郎・大橋新太郎・茂木総兵衛の各実業家等集会、種々協議の結果、一同皆赤十字社の主旨に賛同し、応分の醵金をなすことに意見一定して散会したる由

中外商業新報 第七三二〇号 明治三九年四月三〇日 ☆桑港救災義金(DK250114k-0002)
第25巻 p.737 ページ画像

中外商業新報  第七三二〇号 明治三九年四月三〇日
    ☆桑港救災義金
桑港震災救恤に関し去廿七日外相官邸《(マヽ)》に於て開催したる協議会に於て即時捐資を承諾せしは、日本銀行・三菱・三井各二万円、日本郵船・日本鉄道各一万円、東洋汽船・森村組・大倉組・第一銀行・安田銀行等は各一万円乃至五千円にして、合計十七万円に達し、尚横浜は平沼専蔵氏、大阪は志立鉄太郎氏募集方を引受け夫々打合中なりと云ふ、此外勧業銀行・興業銀行等も已に義捐を諾したる而已ならず、其他の団体並に個人にも同情者少なからずとなり


東京朝日新聞 第七〇七八号 明治三九年四月三〇日 ○米国震災義捐金受領(DK250114k-0003)
第25巻 p.737 ページ画像

東京朝日新聞  第七〇七八号 明治三九年四月三〇日
○米国震災義捐金受領
米国大統領は外国よりの義捐金を受領せずとの説ありしが、桑港地方震災に対する救済の如きはカリフオルニヤ州知事の職権に属し、外国の義捐金の如きも知事は喜んで其義捐を受くる由なれば、目下我赤十字社に於て募集中の義捐金応募者は、風説に顧慮する処なく速かに応募して、米国に対する我国民の同情を発揮するを要す


竜門雑誌 第二一六号・第三〇頁 明治三九年五月 ○桑港震災義捐金(DK250114k-0004)
第25巻 p.737-738 ページ画像

竜門雑誌  第二一六号・第三〇頁 明治三九年五月
○桑港震災義捐金 米国桑港の震災に付、我日本赤十字社は救恤の義捐金を募り、且つ病院船派遣の義ありしも、病院船派遣の事に就ては其筋より問合せの結果、米国の憲法上斯る場合に他国の救護を受くる
 - 第25巻 p.738 -ページ画像 
の規定なしとて、大統領は叮重なる言辞を以て謝絶し来りしにより、専ら義捐金を募集して、我国民の同情を表明せんとし、過日来政府当局者並に民間実業家との間に協議中なりしが、更らに四月二十九日午前十時半より府下各新聞通信社の代表者を霞ケ関の外相官邸に招ぎて募金のことにつき協議し、政府側よりは寺内陸相・牧野臨時外相・珍田次官・石井通商局長、赤十字社よりは小沢副社長、実業家側よりは青淵先生等出席の上、寺内陸相は先づ米国が開国以来絶えず好意を我国に表したる事歴を説きて、今回日本赤十字社か義捐金を募集して米国に贈らんとするは、年来の厚誼に酬ゆる所以なるを述べ、次に小沢男爵は近く東北の饑饉に際して、米国大統領以下の熱心なる同情により既に今日迄三十六・七万円を寄贈せられ、東北三県の窮民皆米国の好意を感謝しつゝあり、仙台の米国宣教師等は其本国に通信して義捐金の送附を求め居れる状況を述べて、此際日本赤十字社が桑港震災に対する義金募集の衝に当るは博愛慈善の主義を海外に宣揚し、併せて米国との間に不久《(マヽ)》の同盟を締結する機会なるを説き、次に青淵先生は実業家方面の此挙を賛成するに至りたる次第を述べ、最後牧野臨時外相は米国は其制度の上より病院船の派遣を謝絶したるも、我国民の熱誠より出でたる義捐金は、加州政庁に於ても快よく受納すべしとの意を述べて此事業に賛同せんことを求め何れも同意を表して散会したり
   ○栄一ノ演説筆記ナシ。


日本赤十字社発達史 川俣馨一著 第五九四―五九七頁 明治四二年一〇月刊(DK250114k-0005)
第25巻 p.738-739 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

鶴岡伊作氏談話(DK250114k-0006)
第25巻 p.739-740 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK250114k-0007)
第25巻 p.740 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三九年    (八十島親義氏所蔵)
五月二日 曇後雨
○上略 桑港震災義捐金勧誘人名調 ○中略 ニテ夜鍋マデ為シ、夜九時半帰宅ス ○下略



〔参考〕中外商業新報 第七三二〇号 明治三九年四月三〇日 ☆桑港近情公電(DK250114k-0008)
第25巻 p.740 ページ画像

中外商業新報  第七三二〇号 明治三九年四月三〇日
    ☆桑港近情公電
桑港上野領事廿九日発電……前報告以来秩序次第に恢復し、戒厳令は既に撤去せられ、行通は自由となり、市街鉄道の一部分は既に開通せり、銀行は一般業務中止中なるも、少額の支払に関しては遠からず便宜の方法開かるゝ筈、日本正金銀行は三十日より特殊の方法に依り支払を開始する予定、各保険会社は保険金の金額を支払ふ筈
財産の損害は大約四億弗と称せらる、我在留民の銀行・会社・商店殆んど悉く類焼したり、而して損害高は取調中
死傷者調べ済、各国人を合せて死者二百九十五名・傷者五百九十三名我死傷者は前電後今日迄報告なし、我救済会附属病院入院者は二十七日当地赤十字病院及び慈恵病院へ引渡せり
救助金五万円御支出の報に接し感激に堪へず、右は出来得る丈有効の支途を講じ、我政府救護の御主意を空しくせざる様努む可し



〔参考〕中外商業新報 第七三二三号 明治三九年五月三日 ☆桑港近況公電(DK250114k-0009)
第25巻 p.740 ページ画像

中外商業新報  第七三二三号 明治三九年五月三日
    ☆桑港近況公電
桑港上野領事発、五月一日外務省着電……事変後カリフホルニヤ州庁並に桑港市の官憲及輿論は、共に熱心に当市再建の方法を講究中にして、各銀行は已に市内に於て不日業務開始の議を決し、重なる会社・商店も夫々仮事務所を設けて業務を取扱ふに至り、又東部諸州の資本家は続々来集して再建事業に投資せんとするの状態なるを以て、商業貿易の恢復は案外速かなる可し、従来本邦より当港へ輸入する物品は十中八九は東部へ転送せらる可き物なるを以て、当地方の消費品小部分を除くの外は、我対米輸出貿易上には大なる影響を及ほさゞる可きを確信す、我国の輸出に係る当地方需要品中、差当り影響を蒙る可きは茶・雑貨・花莚等にて、日本人用食料品類は別に減退なかる可しと信ず



〔参考〕中外商業新報 第七三二四号 明治三九年五月四日 ☆桑港義金受理(DK250114k-0010)
第25巻 p.740-741 ページ画像

中外商業新報  第七三二四号 明治三九年五月四日
    ☆桑港義金受理
桑港震災に対して目下募集中なる我義捐金を米国が受理すべきや否やに関し、或は疑を抱く者あるも、右は米国政府に於て仮設謝絶するも州政府は必ず受理すべしとは既に報道せし所なるが、我政府に於て特に青木大使をして問合しめたる結果、三日左の電報同大使より到着したりと云ふ
 - 第25巻 p.741 -ページ画像 
 米国々務省よりの報道によれば、カリフオルニヤ州庁に於ては外国救恤金を受くと云へり
斯る次第なれば、義気に富める我国民は速に応分の資を義損して、我厚き同情の意を致さむ事望ましき次第なり



〔参考〕中外商業新報 第七三二五号 明治三九年五月五日 ☆桑港の義金受納(DK250114k-0011)
第25巻 p.741 ページ画像

中外商業新報  第七三二五号 明治三九年五月五日
    ☆桑港の義金受納
桑港震災救恤委員は、曩に大統領ルーズヴエルト氏の謝絶せる日本帝室の義捐金二十万円を受領するに決せり



〔参考〕中外商業新報 第七三三四号 明治三九年五月一六日 ○桑港震災詳報(上野領事四月廿四日発公報)(DK250114k-0012)
第25巻 p.741-742 ページ画像

中外商業新報  第七三三四号 明治三九年五月一六日
    ○桑港震災詳報
      (上野領事四月廿四日発公報)
桑港震災の詳細に関し、在同港上野領事の報告左の如し、惨憺の極殆ど卒読するに忍ひず
四月十八日午前五時十四分頃当桑港に於て最も激烈なる地震あり、程なく市の中央を東西に貫通するマーケツト街の左右数個所に於て同時に火を起し、火勢猛烈を加へ、東方マーケツト街の南第三街附近に於て焔上したるものはハワード街及ミツシヨン街を中心として四周に延焼し、東海岸に至る迄を焼払ひ、北は次第にマーケツト街に出で、正午頃には当市建物中第一の壮観と称せらるゝコール新聞社、エキザミナー新聞社、パーレス・ホテル等偉大なる諸建物を焼払ひ、更に一道の大猛火となりて西北両面に延焼したり、而して市の東方マーケツト街の北海岸附近に於て起りたるものはクレー街・ワシントン街を中心とし、次第に西方に延焼し、食料品大市場の所在地区を焼払ひ、午後三時頃には早く已に十数町西方なるサムソン街よりモンゴメリー街に及び、横浜正金銀行支店其他高壮なる多数の商店は悉く類焼の災に罹れり、是に於て当地金融其他商業各機関の中心たるカリフオルニヤ街以南、サムソン街以西は刻一刻危険に迫り来りしより、消防方死力を尽して之が鎮滅を試みしも、炎々たる猛火留め得べくも非す、午後八時前後我帝国領事館を始めとし、商業会議所建物(此内に三井物産会社・東洋汽船会社及当市の重なる商業機関ありたり)多数の大銀行・保険会社其他重要建物を一掃したり、曩に南の方第三街よりマーケツト街を経て北面に襲来せるものと相合し、同十時過にはデユポン街に出で、先づ支那街を始めとし、次に日本街に及び、漸次北方に猛進し一陣の大烈火となりて、当市富豪の住宅多きノブ・ヒル高地に向ひ、西方に延焼せり、而して最初燃へ揚りし第三点は、マーケツト街の南第八街附近に於て起れるものにして、正午頃北の方マーケツト街に出で、市の中心にある市庁及附近を一掃しつゝ各方面より来れる数道の猛火と相合し鎮滅の望殆んど絶へたるの状あり、斯の如くして十九日未明迄に市内商業地の全部は悉く焼失し終り、死力を尽せる消防も遂に何等の効を収むるを得す、水力の欠乏を来せると時々変更せる風向と火勢の猛撃当る可からさるとにより非常の速度を以て西南北各面に蔓延し、廿一日午前頃十時迄三昼夜以上の久しきに亘り漸く火勢の衰
 - 第25巻 p.742 -ページ画像 
ふるを認め、極限せる一部を除き他は皆鎮火するに至れり、火勢の猛烈以上の如くなりしも、幸に海岸桟橋の全部及倉庫の多数は類焼を免れたるも、東及北の方海岸より南堀割西ブアネス街よりゲレロ街附近迄市の過半は全然烏有に帰したり、是より先き失火の報あるや、在カリフオルニヤ街帝国領事館は当時安全の位地にありたるも、万一を慮り取敢ず重要書類は凡て金庫に納め、電信符号及機密書類一部を持出したるも、午前八時頃附近の火勢烈甚となり頗る不安の状況を呈せるを以て、官印・帳簿・書類其他重要品を持出さんとせしも、此時早く已に戒厳令を施行せられ、領事館附近は商業会議所・銀行其他重要機関集中せるの故を以て警戒最も厳重なりし為め、遂に其区域内に入る事を得す、館内一切の物品悉く烏有に帰せり、尚金庫は小形旧式の物なるを以て其安全は殆ど望なかる可し、分館は家屋・備品共に大破損を受けたるも幸に類焼を免かれ 御聖影は御無事なる事を得たり、右の結果在当地日本人約一万は類焼の為め非常の困難に陥り、目下其救済に尽力せり、生命財産の損害程度は未た詳にするを得ず、要するに当地に於ける本邦人銀行・会社・商店は殆んど悉く灰炉に帰し去りたるものといふ可し



〔参考〕中外商業新報 第七三三六号 明治三九年五月一八日 ○震後の邦人(四月二十四日附上野領事報告)(DK250114k-0013)
第25巻 p.742-743 ページ画像

中外商業新報  第七三三六号 明治三九年五月一八日
    ○震後の邦人
      (四月二十四日附上野領事報告)
 桑港大震後我邦人が如何にして其難を免かれしかは何人も知らんと欲する所なるが左の公報は之を尽せり
公信第一号報告の通り、地震後火災三昼夜以上に亘り、罹災者の数約三万の上に出で、一同飢渇に迫るの惨状に陥りたり、右に付当国官憲並に各種団体は火災区域の増加すると共に、早く已に救護に着手し、避難者の収容、食物の分配等夫れ夫れ手配を尽せるも、如何せん烈火の蔓延迅速なりしと、罹災者増加の激甚たりしとに因り、容易に其目的を達すること能はざりし、本官に於ては帝国罹災民救護の緊切なるを認め、多数有志者を糾合指導し、比較的安穏なる場所に就き罹災者の収容を計りたるに、忽にして各所其数百乃至千余の避難者を以て充たさるゝに至りたり、右に付本官は不取敢日本罹災民救護会を設け、本部を当分館内に置き、病院及婦人小供収容所を設置し、日本医師・看護婦・薬剤師全体を以て治療の任に当らしめたり、而して避難の重なるものは金門公園附近日本花園・海岸砂地を始めとし、其他残存せる数個所の日本人家屋を以て之れに充用する事とせり、右の外対岸オークランド市に於て支部を置き、同市内十数個所に避難所を設置し、外に同市隣村フルード・ツエールに於て約二千人を収容し得べき仮小屋を建設し、又桑港渡船場及オークランド方面各停車場には夫々委員を派遣し通弁其他種々の便宜を与ふる事とせり、次に糧食の蒐集に関しては非常の困難を感したるも、各委員奔走の結果白米数十俵を買収し、以て焦眉の急を救ふことを得、更に当国官憲より応急救助品の分配を受くることを得るに及び、幾分救助の道を開くことを得たり、然れとも未た之れのみを以てしては一万有余の罹災者の救護を全ふする
 - 第25巻 p.743 -ページ画像 
を望むべからず、大に痛心せしも、幸に鉄道会社に於て桑港より百哩以内何地なりとも無賃搭乗を許したるを以て、成るべく速かに対岸地方へ避難せしむるの方針を取り、漸次罹災民残留者の数を減することを得、更に各員の奔走と当国官憲の好意とに因り、糧食の供給運搬の便宜を得るに至り、幾分愁眉を開くを得たり」是より先き凶報の各地に伝はるや、内地各所在留の日本人有志は孰れも救護会を組織し、金品の義捐を募り、サクラメント市の如きは約二千人を収容するに足る準備整へる趣にて、出来得る丈の援助を為すことを申出たり」現在尚ほ当市に残留せる者の大部分は両三日中対岸に送付する筈にて、既に其準備を終りたるも、今後病傷者・家族持困難民の救護方法を講することは、最も吃緊の事なるへし」終りに臨み、今回稀有の災厄に際し在留日本人有志者が困難危険を排擠し、百方奔走せる熱情と、当国官憲か一般罹災者に対すると同様、我罹災民に対しても多大なる救護を与へ、以て飢渇を減せしめたるの好意は本官に於て特記せざるを得ざる所なり



〔参考〕中外商業新報 第七三三八号 明治三九年五月二〇日 ○震災救済後報(五月十八日上野領事発電)(DK250114k-0014)
第25巻 p.743 ページ画像

中外商業新報  第七三三八号 明治三九年五月二〇日
    ○震災救済後報
      (五月十八日上野領事発電)
当市秩序は漸次恢復し、各銀行は当月内に其業務を開く筈、事変の為死亡者調済三百八十三人、尚多少の増加あるべきも、五百名以上に昇る事なかるべし、日本人死者前報後大分県人諸富一作避難中病歿せる外増加なし、我救済事務所は、既に充分秩序つき救助を要するもの漸次減少し、目下当所及び対岸地方を通して千五百人(?)なり、韓国人罹災者は約八十五名にして、火災当時は一般罹災者同様惨状を極めしも、幸に同人協会の類焼を免れたる為め、其多数は之を同所に収容し、韓国牧師専ら救護の任に当り、我救済会より金品の供給其他出来得べき限り便宜を与へ焦眉の急を救ひたり、目下同協会内に残留する者男十三名・女一名にして、他は地方に出で日本人同様自活の途を求めしむることとせり、同国人中には幸に死傷者無きが如し、今後も困難民は我救済会にて充分救助をなす筈也



〔参考〕竜門雑誌 第二一七号・第四二―四三頁 明治三九年六月 ○桑港の惨害(DK250114k-0015)
第25巻 p.743-744 ページ画像

竜門雑誌  第二一七号・第四二―四三頁 明治三九年六月
○桑港の惨害 上野領事より青淵先生に宛てられたる書翰に就ては已に各種新聞に依りて報告せられたる次第なるが、青淵先生より同地本邦領事上野季三郎氏に見舞はれたる書翰に対し、同氏の返信は如何に惨害の激甚なりしかを示すと同時に、同国民の本邦朝野の同情に感じつゝあるかを想像するに余りあるを以て、本社は先生に請ふて該書の写を左に掲て、読者諸彦に報告することゝせり
 前略当地今回の災害は未曾有の惨状を呈し、今日迄調済の圧死者三百内外、傷者数百、火災区域は全市の四分の三(四英方哩)、財産の損害四億弗近に相達し、チカゴ、バルチモーア等の惨害に比すれば遥に甚大に有之候、正金銀行を始め邦人の主なる会社商店等殆悉く焼失、領事館事務所も同様の難に遭遇致候、住宅の方は半丁程下に
 - 第25巻 p.744 -ページ画像 
て鎮火したる為辛して類厄を免れ候、館員及家族一同は幸に無事避難致候、乍憚御放慮被下度候、邦人罹災者約一万、救済上一時は非常に繁雑を極め候、昨今は漸く応急の時期を去り、稍々秩序も相立候、全市内罹災三十万、今尚給養を受くるもの十五万以上と注せられ候、我政府及一般国民よりの寄贈金に対しては市民の感激不一方新聞紙等も屡々我好意を賞揚感謝するの記事を掲げ候程にて、我上下同情の精神は慥に当国民の脳裏に印章を与へ候
 大小のホテルは悉く焼失したる為め旅人の不便無此上、石井君(四月二十八日横浜を解纜して欧米銀行業務視察の途に就きたる第一銀行横浜支店支配人石井健吾君)も不得止今夕匆々シヤトルに向け出発被致候、甚だ気の毒に存候、云々