デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.372-376(DK260064k) ページ画像

明治39年4月4日(1906年)

栄一、当社三月ノ月次会ニ出席シ、是日当社有志主催ニヨル名誉社員阪谷芳郎、大蔵大臣就任祝賀会ニ出席、挨拶ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三九年(DK260064k-0001)
第26巻 p.372 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三九年     (渋沢子爵家所蔵)
三月十日 曇 風              起床六時三十分 就蓐十二時
○上略 九時 ○午後兜町ニ抵リ竜門社月次会ニ出席ス、夜十一時王子別荘ニ帰宿ス


竜門雑誌 第二一四号・第三八―三九頁 明治三九年三月 ○本社三月月次会(DK260064k-0002)
第26巻 p.372 ページ画像

竜門雑誌  第二一四号・第三八―三九頁 明治三九年三月
○本社三月月次会 本月十日午後七時より月次例会を開会せしが当日青淵先生には八時半頃出席せられたり、社員来会者は四十七名にして過般無事帰朝せられたる工学士渋沢元治君の欧米各国電気事業の発達に関する談話あり(其速記は別項にあり)て、戦後我国に於て最も発達せんとする電気事業に関し、然かも専門家の視察談のことなれば、会員は何れも非常の趣味を以て聴問し、又種々の質問応答あり、同氏の談終りて雑談に時を移し、茶菓を饗し、一同歓を尽して思ひ思ひ十時半頃散会せり、当日の来会諸君は如左
  三月十日本社月次会来会者氏名(出席順)
 青淵先生
○下略


渋沢栄一 日記 明治三九年(DK260064k-0003)
第26巻 p.372 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三九年     (渋沢子爵家所蔵)
四月四日 晴 軽暖             起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 午後五時上野精養軒ニ抵リ、阪谷氏ノ栄転ヲ祝スル宴会ニ出席ス種々ノ余興アリ、且食卓上一場ノ演説ヲ為ス、夜九時過宴散シ王子ニ帰宿ス


竜門雑誌 第二一五号・第三七―四二頁 明治三九年四月 ○法学博士阪谷芳郎君大蔵大臣陞任祝賀晩餐会(DK260064k-0004)
第26巻 p.372-376 ページ画像

竜門雑誌  第二一五号・第三七―四二頁 明治三九年四月
○法学博士阪谷芳郎君大蔵大臣陞任祝賀晩餐会 石井健吾・西脇長太郎・星野錫・田中栄八郎・植村澄三郎・八十島親徳・佐々木勇之助・斎藤峰三郎・清水釘吉・諸井時三郎の諸氏は、本社の名誉社員たる阪谷博士が多年大蔵省の重職に累任し、終に此般大蔵大臣に陞任せられ
 - 第26巻 p.373 -ページ画像 
たるを以て、其祝意を表さん為め発起人と為りて、去る四月四日上野精養軒に於て祝賀晩餐会を開かれたるが、当日は主賓たる阪谷博士・同令夫人を始め、青淵先生・同令夫人・渋沢篤二君・同令夫人・穂積法学博士・同令夫人、又主人側にては前記発起人の外六拾名(芳名末尾にあり)定刻に来会し、午後六時より当日特に聘せられたる楽友倶楽部員の奏楽に連れ楼上の食堂に着席し、喨々たる音楽を耳にしつゝ鄭重なる晩餐に移れり、斯て宴の漸く終らんとする頃、主人側総代佐佐木勇之助君起て
 本日は竜門社の名誉社員たる阪谷法学博士が過般大蔵大臣に陞任せられたるに付、我々始め平素御眷顧を蒙りたるもの、其多くは竜門社の社員たるもの相集りて聊か祝意を表せんと欲し、玆に小宴を設けて阪谷博士・渋沢男爵・穂積博士・渋沢篤二諸閣下及各令夫人の御光臨を仰ぎたるに、多忙中にも拘はらず、御臨場を忝ふしたるは一同の光栄として深く感謝する所なり、然れども設備も甚不充分にして、何等の風情なきは慚愧に堪へざるなり、実に阪谷博士が是迄財政上に多大の功績を挙げられたる事は敢て我々の喋々するを要せずと雖ども、明治の財政史中に於て重要なる事績は多く博士が関係せられたる如くに思惟す、今其一・二を挙ぐれば
 明治二十七・八年の日清戦争に於ける財政始末の如き、其戦後経営の如き、我国に金貨本位を確立して兌換制度の基礎を鞏固にしたるが如き、或は勧業銀行・農工銀行を設立したる如き、台湾銀行を設けて同島の幣制を統一したる如き、其他税法の改正・煙草の専売の如き、施設経営せられたるもの枚挙に遑あらず、就中明治三十七・八年日露戦役の軍事費の如き、我国の運命を賭すると云ふ大戦役の事なれば、其費額も我々の未だ嘗て夢にだも思はざる程の巨額に達し、為夫十数億の国債を内外に募集せらるゝとか、諸種の増税を徴収せらるゝとか、非常の大計画を実行せられたりと雖ども、為之商工業者に格別の苦痛を感ぜしめず、又経済界に波瀾をも生ぜしめずして此巨額なる軍費を供給せられたる如きは、実に偉大なる功績と云はざるを得ず、右に付き思ひ出せば、過日公債募集の事に関し博士が大蔵大臣の官邸に我々銀行者を招かれたる時に於て、欧米より帰朝せられて其席に出席せられたる日本銀行の高橋副総裁が、外債募集に付て尽力したる功労を賞せられて、今回の戦役に陸海軍の大将が敵軍を破りたる功績に譲らずと述べられたるが、我々は、日露戦争に於ける阪谷博士の財政上の御功績は、陸海軍の参謀総長が総ての作戦計画を為されたる功績に譲らずと信ずるなり、去ながら右に列挙したる事柄は博士が或は主計局長とし、若くは大蔵次官として、時の大蔵大臣を輔けて施行せられたる事なるを以て、或は之を博士のみの功に期《(帰)》するを得ざるやも知らずと雖ども、今や我国が財政上に於て最も至難とする処の、大戦争後の大経営を為すの時に当りて、博士が一躍して大臣の要職に就かれ、多年の経綸を実行せらるゝ場合に会したるは、平素御眷顧を蒙る我々が特り博士の為め及渋沢家御一族の為めに祝するのみならず、国民として如此有為なる大蔵大臣を得たるを祝せざるべからず、云々
 - 第26巻 p.374 -ページ画像 
次で阪谷博士起て答辞を述ぶ、其要に曰く
 凡そ人生の愉快を感ずる場合は種々ありと雖ども、昔の竹馬の朋友に等しき人々より同情を得る位、恐らく愉快の事はあらざるべし、則ち今夕は此同情を有する諸君より、予の大臣に就任したのを祝さんとして、種々の趣向を以て迎へられたるは大に感謝に堪えざる次第なりとす、然れども人生大臣に就任したりとて、之が立身の尤も良きものなる哉否哉は別問題として、諸君に於ても実業方面に大に成効せらるれば、則ち大臣の就任に比して蓋し尚大なる立身成効と云はざるを得ざるなり、と説き而して、予も永らく内閣に在りたる後、此般大戦後に大臣に就任したるに付ては責任の益々重大なる場合となりしゆへ、向後諸君に於ても厚き同情を与へられんことを望むものなり、而して此度の財政計画は戦争に依て得たる勢力範囲の大なると共に、益々大にして、之を彼の二十七・八年戦役に比すれば、彼は却て外国に拠らず内国限りに経営したるものなれ共、是は已に費用に於て彼の十倍を要し、最初より内国のみにては到底経営すること能はざることは、戦闘開始前より必要なる人を海外に派遣して外債募集等に力を尽さしめたるにて明かなりとす云々、と説去り説来りて、国有後の鉄道に付ては、満洲鉄道は将来欧亜の連絡線となること必定なれは、日本内地の鉄道は是非共米亜両地間の連絡線と為さゞるべからざる理由を説き、尚ほまた凡て事の成否は全く其人に依るものにして、現在其局に在るものは何れも維新以来随分種々雑多の事に際会し、難件を処理し、廃藩置県の如き大改革すら実行したるものなれ共、此後とても同様益々有為の人に依らざれば朝野を論せず事物の成効中々困難なるべしと思はる、殊に竜門社の諸君の如きは必ず其方針に於て成効を収むるに勉められざるべからず、否収むるの人たらざるべからざるなりと説き、而して本日此に発展せられたる愉快なる御同情は、向後社界の事業に向て発展せられんことを切に希望するものなり、云々
と述べられたり、次ぎて青淵先生は起つて
 余は是迄阪谷博士の大臣就任の為に開かれたる宴会の主となり客となり、数多き宴席に列したれども、今夕の如く何れを見ても皆知人のみに依て開かれたる宴会に参列したことなし、以玆人が克く西洋料理は角張つてくつろがないと云ふけれど、此席はまるでしやも鍋を向ひ合ふて突つく様な愉快な心持であるとて、諧譃一番一坐を絶倒せしめ、今般博士の大臣就任を祝はん為め、本人夫婦を始め、渋沢一族を招請せられたるは深く感謝する処にして、只今主人側佐々木氏及博士の挨拶にて最早余の述ぶる辞も無く、只難有と申せは良き筈なれど、一寸一言述べ置かんとす、今回博士の大臣に就かれたるは諸君と共に喜ふべき事なれども、老年の余から云ふと其喜びと共に憂の念ありとて、古文真宝の待漏院記(是は参政に与かる宰相以下の役人が、帝王に己が意見を上奏せんとして其拝謁を時刻を玆にて待つものにて、玆に集合したるものゝ内には或は立派の考のものもあり、或は然らざるものもあるなり)と引用して、博士が就任以来今日の位置は恰も此待漏院にあると同様なれば、其目的が成効
 - 第26巻 p.375 -ページ画像 
貫徹した上でなければ、真の悦びと云ふを得ざるなり、然し幸ひ余等は主人側の諸君と共に経済界にあるものなれば、将来博士を援けて成効せしめんことを希望すると同時に、博士には国家の為め愈々増々努力せられんことを望む、云々
尚又本席に配付せられたる紀念絵はがき、博士の幼年時代・少年時代及現時代の三種の内、幼年時代の端書に付て回顧すれば、慶応元年余が二十五才の折、一ツ橋公に仕へ命を帯びて備中へ歩兵の募集に到りし時、始めて博士の父たる阪谷朗盧先生に興譲館に於て面会し、其為人に感服したりとて、其当時興譲館の景況、先生の高潔なること、其当時幕臣の待遇等に付きて今昔の感を述べられたり
次ぎて穂積博士は起つて、諸君の厚意に依り末席を汚すの光栄を得たるを悦ふとて、謙譲なる言葉を以て謝意を述べられ、阪谷氏の少年時代即大学時代の絵端書に付きて
 印度にては親類を三種に区別せり、一、血族親・二、縁族親・三、学親とあるが、余と氏とは此縁親と学親とを兼ねたるものにて、阪谷氏は大学の赤門よりは一年前の出身なるが、同氏が今度志を得て大臣に陞任せられたるを諸君に於て祝さるゝは、取も直さず大学其物を祝し呉れらるゝと同時に、学校教育の効果に対して祝せらるゝものとして余の感謝に堪へざる所なり、況んや経済学の方面より出身して成功の位置に就きたる人を、経済界に重きを置かるゝ諸君よりかく盛大に祝せらるゝに於ておや、思ふて玆に至れば実に愉快禁ぜざる所なり、祈るらくば将来に於ても各専門より出でたる諸君が其道に於て益々大なる成功を遂げ、かゝる立派なる祝賀会の屡々開かるゝに至らんことを、聊か親類一同に代りて謝辞を述ぶ、云々
次ぎに渋沢篤二君は起つて、是迄絵端書の幼年時代と少年時代とに就きては、已に説明せられたり、依て今現時代に於ける端書に就き一言述べんとて、単簡の句調を以て
 諸君、此現時代に於ける絵端書の図を顛倒して、諸君は願はくは卓上に登られたし、阪谷民を始め余等渋沢一族は卓下に去りて、諸君の今夕の御厚志を謹て謝すると同時に諸君の健康を祝す
と述べてシヤンパン酒を捧ぐ、依て一同之に和し和気靄々座に満ち満庭の桜花窓外に立つて之を迎ふ、其歓楽云ふべからざるなり、已にして饗を終り休憩室に赴けば楽友倶楽部員の演奏は耳朶を穿ち心気を洗ひ、賓客・主人十二分の歓を尽して退散したるは午後十時なりき
当日の賓客及主人側の芳名を録すれば左の如し
  賓客
 大蔵大臣阪谷芳郎君 同令夫人 青淵先生 同令夫人 渋沢篤二君 同令夫人 法学博士穂積陳重君 同令夫人
  主人側
 伊藤登喜造 ○以下六十九名氏名略
又演奏の曲目左の如し
 一、オーケストラ            楽友倶楽部員
      ミリタリー・マーチ
 一、ピアノ聯弾              前田久八氏
 - 第26巻 p.376 -ページ画像 
      竜騎兵突貫進行曲        岡野貞一氏
 一、合奏                  石野巍氏
                      石原重雄氏
      箏曲地久節          新田小一郎氏
                      太田勘七氏
 一、オーケストラ            楽友倶楽部員
      ウヰリアム・テル
 一、独吟                 北村季晴氏
      勧進帳
 一、オーケストラ            楽友倶楽部員
      デル・フライシヱツ
  以上



〔参考〕(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK260064k-0005)
第26巻 p.376 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三九年   (八十島親義氏所蔵)
三月十九日 晴
○上略 夕五時半ヨリ偕楽園ニ至ル、竜門社中ノ重立者ニ於テ阪谷博士ノ大蔵大臣陞任祝宴ヲ開ク件ニ関シ、発起人トシテ佐々木勇之助・植村澄三郎・星野錫・清水釘吉・西脇長太郎・諸井時三郎・田中栄八郎・石井健吾・斎藤峰三郎及予ノ十名集会、凝議ノ上花時分ニ付、来月上旬中上の精養軒ニテ晩餐会、余興ハ食事中ノ音楽、陪賓ハ青淵翁・篤二氏及穂積氏、主人側勧誘ハ精撰シテ発起人共六十七人、会費ハ一人前八円ト決定ス