デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.445-462(DK260071k) ページ画像

明治42年2月11日(1909年)

是日、当社組織変更発表会開カレ、社則ヲ改定シテ栄一ノ平素唱道スル道徳経済合一主義ニ由リ、商工業者ノ智徳ヲ進メ、人格ヲ高尚ニスルヲ以テ目的トナス。栄一之ニ出席シテ主義綱領ニ関シテ意見ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK260071k-0001)
第26巻 p.445 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
二月十一日 晴 風寒
○上略 午後四時兜町事務所ニ抵リ ○中略 五時ヨリ竜門社評議員会ヲ開キ規則修正ノ事ニ付種々ノ談話アリ、夜食後竜門社綱領ニ関スル一場ノ意見ヲ述ヘ、夜十一時王子ニ帰宿ス
   ○右日記中ニ評議員会トアルハ、組織変更発表会ノ事ナリ。


竜門雑誌 第二四九号・第一―二九頁 明治四二年二月 【左に録するは、去る二月…】(DK260071k-0002)
第26巻 p.445-461 ページ画像

竜門雑誌  第二四九号・第一―二九頁 明治四二年二月
  左に録するは、去る二月十一日を以て発表したる本社組織変更の趣意書、青淵先生の訓言及び改定社則の全文なり、先づ以て之を此巻頭に掲げ、其此に至りし来歴及び発表式の順序等は後に録するとゝとせり
 維新以降青淵先生ノ門下生ト為リ提撕薫陶ヲ受ケ商工ノ業務ニ従事シ身ヲ立テ家ヲ興シタル者其数少シトセズ、玆ニ於テ同門生胥ヒ謀リ倍々同門ノ情誼ヲ厚フセンコトヲ企図シ、明治十八九年ノ交始メテ一社ヲ組織シテ竜門社ト称シ先生ノ令嗣篤二君ヲ推シテ社長ト為シ、毎月雑誌ヲ刊行シテ先生ノ講話及社員ノ寄稿・動静ヲ掲ゲ、又月次集会ヲ設ケテ交情ヲ温ムルコトヽセリ、之ヲ本社ノ起原ト為ス爾来年ヲ閲スルコト二十有余、其間先生ノ高徳ヲ欽慕シテ特ニ入社セル者甚ダ多ク、社員ノ数今ヤ、実ニ七百八十有余名ヲ算スルニ至ル、亦盛ナリト謂フベシ、翻テ現今ノ実業界ヲ通観スルニ、物質ノ進歩稍々見ルベキモノアリト雖モ、商工道義ノ観念尚ホ未ダ発達セズ、此ノ時ニ当リ徳性ヲ涵養シ自任自重以テ斯界ニ立ツベキハ蓋シ我社同人ノ責務ナリ、是ヲ以テ吾人敢テ自ヲ揆ラズ、本社ノ組織ヲ変更シテ一定ノ主義ヲ有スル団体ト為シ、長ヘニ先生ノ趣旨ヲ体シテ之ガ発揚ニ力メ、以テ斯界ニ貢献スル所アラントス、以上ノ旨意
 - 第26巻 p.446 -ページ画像 
ニヨリ玆ニ社則ヲ改定スルニ臨ミ、特ニ先生ノ訓言ヲ乞ヒ、之ヲ以テ本社ノ主義綱領ト為ス
  明治四十二年二月十一日           竜門社
    ○青淵先生の訓言
来会の諸君に一言の謝辞を申上げます、今夕は竜門社の社則を改革致して将来大に社運を発展せしめやうといふ計画で、段々其調査も届いて、玆に評議員を選定し規則書を御議定になりまする為に、此式日を卜して御会同を催されましたのは、最も喜ばしいことでございます、予て今日此御催しのあることを承知致して居りましたから、悦んで当日を待つて居りましたけれども、実は今夕玆に私が申述べやうといふ即ち本社の本体ともなさらうといふことが、甚だ腹案が不満足で、諸君の意を満たすことが出来ぬと惧れまするけれども、併し今日までの行掛りで、是非此社の綱領として私の平常抱持して居る所を、仮令其趣旨は拙いにもせよ、其言辞は冗長に過ぐることがあるにも致せ、会の起原に稽へて、これを以て此社の主義・綱領に致したいと云ふことでありますから、不肖ながら敢て辞せずに玆に愚見を述べて、本社の綱領に代へるやうに致さうと思ふのでございます。
匹夫而為百世師、一言而為天下法と云ふことは、蘇東坡の韓文公廟碑に書いてあつたやうに思ひますが、なかなか凡庸の人に出来べきことではございませぬ、故に今私が申述べることは渋沢の一家言ではないのです、古聖賢の訓言を私の口に由つて伝へるのでありますから、仮令渋沢其人が貴くなくても、渋沢の口から発することは必ず貴いと御覧下すつて宜からうと思ふのでございます、併し渋沢が唯単に論語の素読を致したばかりであつたならば、如何に古聖賢の言を述ぶると雖も、斯の如き学問あり実験あり世故にも熟して居る多数の諸君に依つて、更に拡張改革して行く竜門社の主義綱領とすることは物足らぬやうに相成りはしまいか、故に古聖賢の言を述べるに就ての歴史がございますから其歴史を玆に申述べて併せて、古聖賢の言を本社の綱領に代へるやうに致さうと考へるのでございます。
諸君も御承知の通、私の一身は既に六十年史で御編纂下されたやうな訳で種々に変化を致して居るが、最後の変化が銀行業者となつた、此銀行業者となるに就ての意念はと申すと、既に国家に貢献しやうといふ考から、二十四歳よりして七・八歳迄の四・五年間は、今日死なうか明日死なうか、所謂死生の間に出入して、或は場合には慷慨扼腕、或る場合には長鋏を弾じて悲歌を吟ずるといふやうな境遇でありましたが、意外にも世の中が変化して王政維新の政治が海外旅行中に行はれ、其処へ帰つて来た私の一身でございますから、数年朝廷に微官を勤めましたけれども、どうしても心に安んじなかつたのです、国家に尽すには、自分の材能と云ひ又其時の境遇と申し、官途に居るは本望でもなし、又私の身分としても宜しきを得たるものでない、如何となれば幕府を倒さうとして世に奔走をした身が、一変して幕府の臣下となつて、さうして今日此維新に際して、顕揚の位置に立つといふことは、若し出来得ても好まぬ、一旦幕臣となつた以上は、どうか他の方面で国家に貢献したいものである、斯く考を起しましたのは、惟ふに
 - 第26巻 p.447 -ページ画像 
一国として政治ばかりが発達してもいかず、法律ばかりが進歩してもいかず、又軍事ばかりが強くなつてもいかぬ、それと伴つて国の富といふものが進まなくてはならぬ、殊に欧羅巴の有様を皮相ながら観た所では、他の方面よりは此商工業の発達進歩に力を用ふることが甚だ多いやうである、是に反して日本は全く其方は度外視して居る、此点だけは己れ自身が大に力を尽して見たならば、聊か貢献が出来るであらう、詰り仏蘭西から帰つて来た時に、全く己れの一身は生れ代つたやうなものであるから、先づ是までを一世紀と致して、第二世紀の未来は商工業に依りて奉公したならば、徳川氏を亡さうとか、外国人を斬らうとかいふた意念の反対で、所謂功罪相償ひはしないか、同時に此商工業者の階級頗る卑く、又商工業者自身の思想も頗る拙劣であるが、これは将来どうしても此儘ではゐぬものであらう、又置いてはならぬものである、斯様に自分は考へたのであるが、さて其銀行業者として経営するには如何なる標準に依るか、どうぞ利用厚生の事業に従事するからには、此利用厚生が道理正しく世の為になるやうにしたいものだ、仮令己れの為す事業が微々たりと雖も、又己れの経営する事柄が力乏しと雖も、亦一身に得る所の財力が甚だ少しと雖も、どうぞ道理を失はぬ範囲に於て、此事業の経営が出来ぬものではなからう、而して其道理を失はぬといふ標準が無くてはならぬ、其標準は如何なるものに依て宜いか、浅学の私、他に広く求めやうもございませぬから、孔子の訓即論語に依つたならば、必ず大過なく事業の経営が出来るであらう、斯様に祈念した訳であります、同時に今尚能く記憶して居りまするが、元来商工業に就て国家の富を図る、其志す所はそれで善いが、事実其事に効能があつても、それに従事する人に利益がなかつたならば、其事は決して繁昌せぬのである、福沢諭吉といふ人の説に、大変に心を尽し興味を帯びて書いた書物でも、多数の人が沢山見る書物でなければ其実世の中を裨益せぬものである、それ程力を注がぬ書物でも、社会の人が沢山見るものはそれだけ効能が多いと言はれた、至つて卑近の説で頗る敬服しがたいやうにもあるが、或点から云ふと大に道理がある、実業も尚其通りで、之を世の中に拡めやうといふのに、利益なくして拡めることは到底出来ぬからして、どうしても此商工業に従事するといふにも、商工業者が相当なる利益を得て発達するといふ方法を考へねばならぬ、其方法は如何にして宜いか、一人の智慧を以て大に富むといふか、己れ自身は仮に其智慧があつたならば富むかも知らぬが、極端に云ふと、一人だけ富んでそれで国は富まぬ、国家が強くはならぬ、殊に今の全体から商工業者の位置が卑い、力が弱いといふことを救ひたいと覚悟するならば、どうしても全般に富むといふことを考へるより外ない、全般に富むといふ考は是は合本法より外にない、故に此会社法を専ら努める外ないといふ考を強く起したのである、されば大蔵省に居る時分に立会略則・会社弁などといふ書物を作つたのも、右等の意念から致したのであつて、其事は今日斯くまでに為し得るといふ理想は持たなかつたけれども、今に会社法に依つて日本を富まさう、商工業者の位置を進めやうと思ふたことは少しも忘れは致しませぬ、而して此会社を組織して行くには、如何な
 - 第26巻 p.448 -ページ画像 
る手段があるかといふことは、是も私は最も考へたことである、自分等法律は能く解らず、政体などには甚だ疎い、併ながら例へば立憲とか独裁とか或は共和とか、凡その政体の差別は心得て居つたが、丁度此の会社の組織は一の共和政体のやうなものである、株主は尚国民のやうなものである、選まれて事に当るものは大統領若しくは国務大臣が政治を執るやうなものである、果して然らば其職に居る間は其会社は我が者である、而して其職を離るゝ時にはそれこそ直さま敝れたる履を捨つるが如き覚悟を持つて居らねばならぬのである、故に此会社に立つものは、其会社を真に我ものと思はなければならぬ、又或る場合には全く人の物だと思はなければならぬ、其権衡を誤ると会社を安穏に維持することは出来ない、飽くまでも其会社を私し、会社の勢力に依て我身を利し、会社の御蔭を以て我幸を得るといふやうなことがあつたならば、是れ即ち会社を家にするのだ、国家を家にするのだ、国家を家にするといふことは既に憲法の精神からは大なる誤である、会社といふものを安穏に健全に盛ならしむるは、今の覚悟が甚だ必要だと斯う私は深く覚悟しましたのです、斯く申すと少しく自惚口上になつて、或は明日如何やうなことがあるかも知らぬが、自分は右の心を一日も忘れずに第一銀行に奉職した積りである、幸に三十五六年未だ株主から一度も苦情を受けたこともないやうに思ひまするし、又自分が職務を動かされやうとも動かうとも思ふたことのないのは、或は僥倖でもございませうが、明治三・四年頃大蔵省に居つて会社を起さねばならぬと思付くと同時に、此会社を経営するは斯る覚悟でなければならぬと思ふた念慮が、始終脳裏に存した為であると申して宜からうと思ふのでございます。
今申す商工業を盛にし国の富を進めるやうにして、其間に立つて商工業者の位置をも進めたいと考へたことが、それが論語に依つたといふのではないのです、是は唯私が自分の境遇として、さういふ方針に依つて経営したが宜からうと考へ定めたのであるが、其事業を行ふや標準は論語に依るが宜からうと斯ふ思ふたのであつて、其以来の経営は苟も道理といふものに依らねば、事は行ふべからざるものといふことを深く自分は覚悟して、或は其間に自分の思ふたことで誤つたことがあるかも知れぬのです、是は蓋し智慧の至らぬのである、が自ら欺いて是は道理に外れるけれども、併し利益だから此方に傾いたといふことは、未だ嘗て私は致さぬといふ事を玆に証言して憚からぬのでございます、為に其事業がいつも跼蹐として進まず、甚だ派手々々しいことが無いけれども、併し幸にして過失なく久しうして先づ蹉跌を来さぬのは、私は惟精惟一の致す所であると、聊か自負するのでございます。もう一つ玆に御話して置きたいのは、孔子の訓が久しう伝つて誤解が益々多く、利用厚生の事柄と仁義道徳とが、始終同じ道行を為すべからざるものにせられて居つたやうに思ふのです、宋朝の学者中の生萃なる朱熹が閩洛の学問、即ち周茂叔・邵康節・張横渠・程明道・程伊川などいふやうな人々の段々攻究し来つたことを集めて、大成して此論語の朱註といふものが最も盛に行はれて、経訳といふものは殆んど此派に止まるが如き勢をなした、其頃は支那は頻に理学を盛にす
 - 第26巻 p.449 -ページ画像 
る場合であつたから、一時学者社会を風靡したやうに見えます、私も広く書物を読んだ訳ではないが――、然るに徳川幕府が政治を専にする場合になつて、余り戦争の長く継続した所から、殆ど皆無学不文と云ふ有様になつて来た、此弊を救はうとしたのが徳川家康といふ人の考でありままう[ありませう]、段々学者を集めて学問を世に進めるやうにしたい、其学問は差向き漢学であつて、而も是が朱子学であつた、後に享保頃に色々の人が輩出して其説を異にして種々に学風が紊れたが、松平定信といふ人は最も朱子学は弊が少いというて、他の学派を禁ずる迄に至つたのです、其以前元亀・天正頃からして慶長・元和に渉つて、藤原惺窩・林羅山の如き学者に依つて盛に朱子学の行はれたる頃より、学問といふものは唯一種の道理を説くものといふことになつて、学問と事実の行ひといふものを全く一にすることは出来なかつた、而して此漢学といふものは武士以上の者の修むべきものとなつて居つた、仁義とか忠孝とかいふものは、殆んど普通の人に余り必要のない如くになつて居つた、殊に前に申す商工を卑むといふ風習であつたから、そこで此功利を論ずる方の側は、学問は殆んど顧みなかつたのであります、是に於て学問といふものと功利といふものとは全く引離れて、先づ学理では斯ういふこともあるといふことで、偶々学んだ人の論は事実に於て共に行ふべからざるものゝ如くになつて来た、既に朱子の訓が其通りであるのに加へて、日本の実体がさういふ有様であつたから日本に於て漢学の訓ゆる道徳仁義といふものと、利用厚生との懸隔が日に増し遠くなつた、殆んど利義といふものは別物の如く相成つて来たのです、為仁則不富、富則不仁、利に附けば義を得られぬ、義に依れば利は得られぬ、斯ういふやうに誤解してしまつたのです、所が孔子の訓は決して私はさうでないと思ふ、例へば顔淵の言に、飯疏食飲水、曲肱而枕之、楽亦在其中矣、斯ういふと成程、此利用厚生・功名富貴のことは、とんと意にせぬやうに見えるけれども、元来それらの解釈が悪いので、飯疏食飲水、曲肱而枕之、といふことを望めといふ趣意ではない、楽亦在其中――後句がある、不義而富且貴、於我如浮雲、飯疏食飲水といふのは、不義を嫌ふためにさうしたい、といふ意味であつて、飯疏食飲水のが望みだと、斯ふ解釈しては大なる誤である、漢学の誤は多くはさういふ点にある、例へば富与貴是人之所欲也不以其道得之不処也、反対に貧与賤是人之所悪也、不以其道得之不去也、孔子は常に利用厚生のみを説きは致さぬけれども、例へば仁と云ふ字を強く解釈して、孔子が子貢の問に答へた言に、曰如有博施於民而能済衆、如何、可謂仁乎、子曰何事於仁、必也聖乎、尭舜其猶病諸して見ると此仁義道徳といふことは飯疏食飲水のみであるならば、博施於民而能済衆といふことは怪しからんことと言はなければならぬ、所が何事於仁、必也聖乎、尭舜其猶病諸、仁どころではない、それは聖人も尚為し兼ねることだと斯ふ答へた、それは何かといふと、博施於民而能済衆といふのは即ち今の聖天子のなさることである、又少くとも王道を以て国を治むる人の行為である、王道を以て国を治むる人は決して利用厚生を離れて、王道が行はれるといふことは無い筈であると私は思ふのです、嘗て孔子の祭典に実業界から見たる孔夫子といふ
 - 第26巻 p.450 -ページ画像 
表題で演説したことがありますが、私は殆んど二千五百年前の孔子とは甚だ近いものである、孔子は吾々の最も近き友達と思ふたのであるそれを其後の種々なる学者が段々に障壁を築いて、実業界と孔子とは友達でないかの如くにしてしまつた、幸に二千五百年後の今日に、私が孔子と実業界とを近くして見せると斯ういふ大言を吐きましたが、蓋し孔子を地下に起したならば肯くであらうと私は思ふのです。
而して先づ自分の是まで経営して居ることは、不幸にして智慧も足らず力も乏しく致しますからして、其働きや微々たり、其為すことや甚だ小であるが、唯今申す此利用厚生の道と仁義道徳の訓とは、全く合体するものであるといふことだけは、自分聊か事実に証拠立て得られるやうに思ふのでございます、が是は決して今日に私は云ふのではありませぬ、先づ第一に自分の祈念が真正の国の進歩、真正の国の文明を望むならば、どうしても国を富ますといふことを努めなければならぬ、国を富ますは商工業に依らねばならぬ、商工業に依るといふならば今日の場合どうしても会社組織が甚だ必要である、会社を経営するは道理に依らねばならぬ、道理の標準は何に帰するか、論語に依らねばならぬ、故に不肖ながら自分は論語を以て此会社の経営を致して見やうと云ふので、宋朝学者若くは爾来の日本の学者、論語を講ずる人が仁義道徳と功名富貴とを別物にしたのは誤である、私は之を一緒に為し得らるものである、斯ふいふ意念で三十四・五年間経営をしましても、先づ過失がなかつたと憶ふのでございます。
然るに世の中が段々進んで行くと種々事柄も繁くなつて来る、進歩も甚だ著しい、拡張も頗る大である、但しそれに伴うて貴むべき道徳仁義といふものが、相共に進歩拡張して行くといふことは甚だ難い、否難いどころではない、或る場合には反対に下るといふことが無きにしもあらずである、是は果して国の為に慶事であるか、決して慶事ではなからう、国富さへ進んで行けば、道徳は欠けても仁義に外れても、世の中はそれで足れりとはどうしても言へまい、遂には種々なる蹉跌を惹起す、斯ふ考へて見ますると、微々たる私の経営も、他日は世の中の一の主義として追々に拡張して、社会をして此風習に帰せしむるやうにせねばならぬと私は思ふのです、但し或は私の解釈が違ふかも知れませぬが、仮令違ふにしても此竜門社の諸君は少くとも一致であると思ふのです、既に同一である、全く同心であるといふならば、どうぞ此主義を以て飽くまでも世に立つて、世の進むと共に道理に依つて進まねばならぬ、唯富さへ致せば宜しい、物質的の発達さへすれば我事成れりといふべきものでないといふことは、どうしても我竜門社が中枢に立つて、世の中を警醒もせねばなるまい、或る場合には改善もせねばならぬやうに私は思ふのでございます。
更に極く未来を希望して見ますると、凡そ物の標準に立てるといふは動き易いものでは標準にならぬ、尚尺度の如く、秤の如く、枡の如く成るべく不動体のものを以て立てるが宜しいと思ふ、玆に竜門社といふものが生れ出て、此竜門社が永久に伝はるものとすれば、其中には私のみではない、此処に御座る御方も皆代らなければならぬ、皆代つても人間がなくならぬ以上は竜門社は立つて行くであらふと思ふ、其
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場合に若し標準といふものがあるというたら、千載不易のものでなければ真正の標準にはならぬのです、仮令幾代を経るとも、道理といふものは磨滅せぬであらう、未来を考へるのは既往を見るが宜いのです即ち二千五百年前、而も国の異る周時代の訓言が、今日此処へ持つて参つて一・二の例を引いても其通り、論語の全部を読んで見ても大抵吾々の心に理解して、成程尤もだ、斯うありたいと思ふのは即ち之を千載不易の言と云ひ得るであらう、果して然らば是から後に、私は勿論のこと、若い青年のお人が亡くなる時代になつても、更に十代経つても百代経つても、此の風習が次へ次へと拡充して行くやうになつたならば、即ち今日の主義は何時まで経つても、未来の標準となり得るであらうと思ふのでございます、若しさういふことになり行くならば遂に世の中をして此竜門社の主義に依らねば、真正なる富は出来ぬものである、真正なる道理は履めぬものである、而して其仁義道徳と功名富貴といふものは、全く離るべからざるものになる、といふことが近い未来に証明し得られたら尚宜し、百年経つても千年経つても決して晩きを憂へぬではないか、如何となれば二千五百年以前の孔子のことを今日申しても誰も笑ひはせぬ、古臭いことゝ軽蔑もせぬのを見れば、決して目前に信用を受ける受けないを以て、此主義の軽重をなす必要はなからうと私は思ふのでございます。
顧ふに竜門社といふものが其初めは唯ほんの少年の人々の一の慰みに成立つたものであつたが、追々に人も増し事も殖えるに就て、不肖ながら私の此の世に抱持して居る趣意を善として、私に関係の多い人々が相集つて種々計画するのみならず、日を追うて拡張して参りますに依つて、所謂葎の雫、萩の下露といふ如く、段々に集り湊うて、細流も終には大河となつて滔々と流れ行くやうな有様になるまいものでもない、之れをして唯無主義に一時の慰みにせずして、どうぞ相当なる主義・綱領を立てゝ、或る場合には世の為に斯くなれかしといふ位に自ら打出す覚悟を以て遣つたが宜くはないかといふ希望を先頃の竜門社の会に申述べました所、其一言が諸君の意に適して、如何にも左様であるから玆に改革をしたい、改革をするとなれば此竜門社の主義・綱領といふものは渋沢の平常執つて居るものを以て定めたい、就ては渋沢は如何なる意見で今日迄世に処し事を経営し来つたか、其事を此社則を改進して大に拡張するといふ場合に一言申述べろといふことは先頃来の御注文であつたので、悦んで申述べませうと御約束は致しましたが、さて愈々其意見を述べると云ふ今夕に至るまで、考へては見たものゝ、順序好く適切には申し得られませぬ、又書かうといふ時間も無し、遂に首尾徹底せぬ唯我履歴談を申述べるに止まつたのでありますけれども、併し此主義・綱領といふものが、必ずしも前後貫徹した名文章でなくても、貴重とするに足るといふことは、今の論語を以て証明することが出来るではないか、二千五百年前に或は有子が云ひ曾子が云ひ、子路が云ひ、子張が云ひ、子貢が云ひ、種々なる人々の問答が、論語一巻となつて立派な主義・綱領となつたとして見るならば、私の今申す支離滅裂のやうな言葉であるけれども、之を貫くに誠心――真実と云ふものを以てしたならば、尚論語一巻の如く、今より
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二千五百年後の人が見たならば、縦令此雑駁の言葉も一の主義・綱領と見られぬものでもなからうと思ひます、且つ取繕うて形容した言葉よりも、唯真正に思ふた事実を吐露したのが宜からう、斯様に考へて自問自答の末、自ら慰めて此雑駁なる事を申述べた次第であります、どうぞ之を以て諸君の主義・綱領となし下されて、目前は甚だ見悪いが、百年の後論語にはならぬでも、論語に似たものにならぬとも限りますまいから、諸君御尊重下さることを希望致します。
    竜門社社則
第一条 本社ハ竜門社ト称ス
第二条 本社ハ青淵先生ノ常ニ唱道セラルヽ主義ニ基ツキ、主トシテ商工業者ノ智徳ヲ進メ人格ヲ高尚ニスルヲ以テ目的トス
第三条 本社ハ前条ノ目的ヲ達スル為メ左ノ事業ヲ行フ
 一、会員ノ集会ヲ開ク事
 一、大家ヲ招請シ講演会ヲ開ク事
 一、雑誌ヲ発行スル事
 一、右ノ外評議員会ニ於テ必要ナリト認メタル事項
第四条 本社ハ事務所ヲ東京市日本橋区兜町二番地ニ置ク
第五条 本社ノ財産ハ社長之ヲ保管シ、評議員会ノ議決ヲ経テ之ヲ処理ス
第六条 本社ノ会員ヲ分チテ左ノ二種トス
 一、通常会員
 一、特別会員
第七条 会員タランコトヲ望ム者ハ会員弐名以上ノ紹介ヲ以テ本社ニ申込ムベシ、其諾否ハ評議員会ニ於テ無記名投票ヲ以テ之ヲ定ム
第八条 会員ハ会費トシテ毎年左ノ金額ヲ二期ニ分納スベシ
 一、通常会員 金壱円弐拾銭
 一、特別会員 金参円六拾銭
第九条 社長ハ評議員会ノ議決ヲ経テ特ニ名誉会員ヲ推選スルコトアルベシ
 名誉会員ハ会費ヲ要セズ
第十条 会員退社セントスル時ハ本社ニ通告スベシ
第十一条 会員ニシテ本社ノ目的ニ違背シ、又ハ体面ヲ汚損スルノ行為アリト認メラルヽ者ハ、評議員会ノ議決ヲ経テ之ヲ除名スルコトアルベシ
第十二条 会員ハ雑誌ノ配付ヲ受ケ、講演会ニ出席スルコトヲ得、其他会員待遇ニ関スル事項ハ評議員会ノ議決ヲ以テ之ヲ定ム
第十三条 本社ニ左ノ役員ヲ置ク
 一、社長   壱名
 一、評議員  弐拾名
  内幹事   弐名
第十四条 社長ハ評議員会之ヲ推選ス
第十五条 評議員ハ特別会員中ヨリ選定シ、幹事ハ評議員ノ互選ニ依リ之ヲ定ム
第十六条 評議員ノ任期ハ弐ケ年トシ、毎年其半数宛ヲ改選ス
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 前項ニ依リ新任スベキ半数ハ留任者ノ推薦ニ依リテ社長之ヲ選定ス但再選ヲ妨ゲズ
第十七条 役員ハ総テ無報酬トス
第十八条 社長ハ本社ヲ総理シ、総集会及評議員会ノ議長トナル
第十九条 幹事ハ本社ノ事務ヲ処理シ、及評議員会ノ議決シタル事項ヲ執行ス
 幹事ハ評議員会ノ議決ヲ経テ有給ノ書記ヲ任用スルコトヲ得
第二十条 評議員会ハ社長ニ於テ必要ト認メタル時之ヲ開ク
第二十一条 評議員会ノ議事ハ過半数ヲ以テ決ス、可否同数ナル時ハ議長之ヲ決ス
第二十二条 毎年春秋ノ二回会員ノ総集会ヲ開キ、社務及会計ノ状況ヲ報告ス
第二十三条 本社ノ事務ニ関スル細則ハ評議員会ノ議決ヲ以テ別ニ之ヲ定ム
第二十四条 社則ハ評議員四分ノ参以上ノ同意アルニ非レバ之ヲ変更スルコトヲ得ズ
      附則
第二十五条 従来ノ社員ハ、此新社則ニ拠リ会員タルコトヲ得ルモノトス
第二十六条 第一期ノ評議員ハ特ニ其指名選定ヲ青淵先生ニ請フモノトス
第二十七条 第一期評議員ノ半数ハ其任期ヲ壱ケ年トシ、抽籤ヲ以テ退任者ヲ定ムルモノトス
    ○本社組織変更及社則改定の顛末
      ○我社の来歴
回顧すれば、我社の起源は今を距ること二十三・四年前の昔に在り、之より先き明治の初年我青淵先生が出でて大蔵省に仕へ、後任を辞して実業界に投ぜられし頃より先生の門客となりて其薫陶を受け、或は校舎に通学し、或は銀行会社に日勤するもの常に数名に達し、此の如くにして漸次身を立て家を興したるもの少なからず、此等同門の交誼を温め、互に其情況を知悉し、先進後進相扶援するの便に供する為、当時深川福住町に於ける先生の本邸に寄寓したる尾高次郎氏等数名相謀り、新古同門者の名簿を調製したるに、故藍香尾高惇忠翁大に之を可とし題して竜門と名けらる、依て此名簿の人々を集めて一の集団を作り、相互懇親の機関となさん事を議し、初めて竜門社なるものを組織したるなり、是れ即明治十八・九年の交のことなりき、時に一同の評議を以て先生の令嗣渋沢篤二君を挙げて社長となし、故尾高先生及穂積法学博士に監督を嘱託し、毎月一回深川邸に集会を開きて見聞知識を交換し、又竜門雑誌を月刊して各自の文章詞藻を載せ、且相互の事情を通ずるの便に供したり、此の如き状態なるを以て、本社の初は真に先生本邸の一隅に於ける書生寮の小集に過ぎず、相会して互に討論演説を試むと称するも、演壇に立つの人は多くは尚ほ乳臭の青年に過ぎず、雑誌の如き其初は蒟蒻版摺を以て之を充てたるが如き、以て其幼稚なる一般を推すに足らん、後二十一年更に阪谷博士に監督を嘱
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託し、斎藤峰三郎氏等幹事となり、専ら社務の拡張を図り、尋で春秋二季総集会を催し、主として道徳に関する先生の講話を乞ふの制を開きたりき、爾来閲年二十又余、其間先生の高徳を欽慕し入社を請ふの人々年と共に増加し今や社員の総数七百八十有名の多きに達し、基本金を寄贈するの特志家亦少からず、其額参万円に達するに至れり。
本社の起源は実に前記の如くにして、真に微々たる書生集団たるに過ぎざりしものも、二十年後の今日に於ては青淵先生門下に於ける有力者の殆と全部を網羅せるは言ふに及ばず、外部より来り加はる人々さへ少からず、此く慮外の盛況に達せるは、是れ一に先生の徳望に依るものと言はざるべからざるなり。
然かれども翻て思へば、一見此の如きの盛大も其実質に於ては大に言ふに足るものなりと称するを得ず、其目的如何を問へば、最初門下青年の懇親を計り、一面討論演説によりて知識の発達を講せしに初まり後漸次先生門下其他縁故ある人々の来り加はるに及びても、一の社交団体として比較的大を致せしに留まり、決して一定の主義の下に一団として何等の企画行動をなすものに非るなり、仮令其初の成立は微々たる状態なりしとはいへ、又今日迄の発達が寧ろ偶然の有様なりしとはいへ、今日に於て事実上多数の有力者を網羅するに至れる以上は、宜しく一の主義をそなへ、進ては社会公益の為めに行動するの機関となすこそ、蓋し我社の本分ならんとは、過去数年来時々社中同人の話題に上りたる所なりき。
      ○青淵先生の御勧告
      ○組織変更方針の決定
偶々明治四十年十月二十七日、我社第三十九回秋季総集会を向島札幌麦酒庭園に開きし時に当りて、我が青淵先生は竜門社の将来を如何に進展せしむべきやにつき吾社同人に一の研究問題を与へらるゝ趣旨を以て、一場の懇篤なる演説あり、其要旨を録すれば
 竜門社の成立以来已に二十星霜以上を経、其間発達して今日の盛況に至りし事、既往に於ては仮令偶然の経過なりとするも、今日以後は宜しく其基礎を鞏固に為し、之れが維持保存を図り、進んでは倍倍拡張して其繁盛を期せんことを切望せざるべからず、而かも之を成すには依て以て結合するの道理即ち主義目的を有することを要す諸子幸に予の言を納れ、此社の組織を変更し、規則を改正し、団体として世に貢献せんことを期せば、予め社の大精神となすべきものに付て最よく熟考あらんことを望む、凡そ一国の繁盛は国民の挙げて希望する所にして、必ずや又其責務也、而して此一国の繁盛は実に国民の知識の進歩と勤勉力行と、而して之を為す一に道徳仁義の道に従ふとに維れ因る、実業者たるものよく此理を体し、常に義と利との一致を努め、苟くも君子の商売人たるの覚悟を以て励精勤勉以て一国の富を図らさるべからず、古の所謂王道・覇道の別は蓋し為政の道のみに限りて之を言ふべき者に非ず、実業界にも同一の区別ありと言ふを至当とす、凡そ自己を本位とせず、一国の繁盛、多数の殷富を目的として実業を経営するは之即王道なり、之に反して唯一身一家の利益、一族の殷富のみを図り、敢て他の利害を顧みざ
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るの経営法は之れ即ち覇道なり、王道を以て事業を経営するものにして初めて真正の実業家と云ふを得べし、一国の富強繁栄はかゝる真正の実業家に須たざるべからず、以上は予が既往四十年来常に称道し、且つ現に実行し来りし所の主義なり、諸子願くは此主義を社の大精神となし、内にしては一身を処し自ら事業に当り、進んでは之を一般実業界に及ぼし、一国真正の繁栄を計るを目的とせられんことを望む
と云ふに在りき、吾社同人は青淵先生の懇篤なる訓諭に感激し、忽ち此趣旨に基きて組織変更及社則の改定を企画する事に評議一決せり。
      ○組織変更方法の調査及決定
此くて渋沢社長は、社の監督たる穂積・阪谷両博士に詢りて組織変更に関する大体の方針を定め、且特に佐々木勇之助・土岐僙・尾高次郎杉田富・八十島親徳の諸氏に委員を嘱して社則改正案の調査を托せられしかば、爾来諸氏は屡々会同往復して審重に研究をなし、且反覆熟議を経て一の草案を得るに至れり、即ち之を両監督に詢り、更に青淵先生の高閲を乞ひ、加除添削を経て、玆に確定案の成立を告ぐるに至れり。
改正の要旨は、其性質に於ては従来の如き単純なる社交的集合たるを廃し、進て一定の主義を有するの団体となし、以て世間に対し其主義発揚に努むる事、而して青淵先生の常に唱導せらるゝ主義に基つき主として商工業者の知識を開発し、殊に其道徳を進め人格を高尚にするを以て目的とする事、又其組織方法に就ては従前の如き社長単独経営の方法を廃して、社長及評議員二十名を社の中枢となし目的遂行の任に当るの制に改むる事、而して最初の評議員は特に青淵先生に指名を乞ひて選定し、向後毎年半数宛を改選するに当りては其選定を留任者に委ね、以て永久に社の大精神を伝へ、長へに之が発揚に勉むるの方法を図りたる事是れなり、而して社の主義・綱領となすべきものに至りては単に一片の趣旨書・社則等に尽し得べきものに非ざるを以て、特に青淵先生の講話を請ふことに決し且先生の快諾を忝ふしたり。
社長は二月五日を以て幹事会を召集して、告ぐるに組織変更及社則改定のことを以てし、又来る二月十一日を以て之を発表し、同日より新社則を実施すべき旨を決定し、且幹事一同が従来多年社務の処理に従ひ其発達に尽力せし功労を謝せられたり。
かくて改定社則に依り第一期評議員二十名の選定を青淵先生に請ひたるに、先生は快く之を諾して左の諸氏を指定せられたり。
 市原盛宏君   石井健吾君  原林之助君
 西脇長太郎君  穂積陳重君  星野錫君
 堀越善重郎君  尾高次郎君  田中栄八郎君
 植村澄三郎君  山口荘吉君  八十島親徳君
 福島甲子三君  阪谷芳郎君  佐々木勇之助君
 斎藤峰三郎君  渋沢元治君  清水釘吉君
 諸井恒平君   杉田富君
      ○組織変更発表会
明治四十二年二月十一日紀元節当日、殊に憲法発布満二十年祝典の好
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紀念日を卜し我社組織変更発表会を開くことに定め、午後五時を期して青淵先生より指名せられたる前記二十名の諸氏を兜町なる渋沢家事務所に招請したるに、目下海外旅行中なる堀越善重郎氏を除くの外全員の来会を得、又青淵先生にも特に臨場を忝ふす、席定まるや渋沢社長は立て組織変更の趣旨を詳述して改定規則を発表し、且青淵先生の指名選定に依り来会諸氏に評議員の任を嘱する旨を告げ、吾社の為尽瘁せられんことを請はれたるに、一同諸氏は異口同音に組織変更のことを賛し、且評議員たることを快諾せられ、佐々木勇之助氏を代表者として其旨の答辞あり、社長の演説及ひ佐々木氏の挨拶は左の如し。
      渋沢社長の演説
 諸君。竜門社の事に就きまして本日此の所に御集会を戴きました趣旨を一言申上げたく存じます、そこで本日は丁度紀元節でございまして、憲法発布以来二十年の紀念日で御座いますが、其吉辰に、竜門社の発展に就て改めて御報告を申上げ、且種々御相談を願ひますことは洵に愉快のことゝ存じますし、又同時に此席に私が本社の既往及将来に就て申上げる光栄を得ましたことは、洵に仕合の義と存じて居ります。
 扨竜門社は、既に事新しく申上げませぬでも皆様既に御承知下さいまする通り、明治十八年の冬の頃に元との深川の宅の書生部屋から出ましたものでございまして、其書生さんの中で初めは何でも改進新聞とかいふ名前で蒟蒻版刷にして、今日昼何かあつたとか昨晩どうゆう事があつたとかいふやうな、謂はゝ猫の嚏をしたといふやうなことを新聞体にして家中に配つて歩いたといふのが初めでございまして、それが段々に発達して、家に居る人又他へ出た人の交誼を温めるために一の社が出来ました、それを故人になられました尾高藍香先生が竜門社といふ名を付けて呉れまして、稍々組織立つた一つの団体となりました、然しながら是れ一の懇親目的の集まりたるに過ぎずして、爾来本日まで或一定の主義を以て世間に行動するといふのでは無く、唯青淵先生の薫陶を受けた者、又は敬慕して入会を求めた者といふやうな、詰り情に依つて集つた人が七百何十人といふ多きに達しました丈けで御座ひますが、併し中々盛大になつたもので御座います、従て本社の仕事と申しては是からは沢山ございませうが、今までは内輪の事は多少御座いますが外に向つてはとんと御座いません、けれども丁度二十年の昔を憶ひ出しますと、一言余事でございますが申上げて見たいと思ふ事が御座います、それは竜門社が大なる仕事をして居ります、それは何かと云へば二十年前の今月今日に憲法発布を祝するが為めに、本社が大祝賀会を致しました、それはどういふ趣向で遣りましたかといふと、其当時第一銀行に一隻、竜門社に一隻、大学より古い短艇を買つて来たのがありまして、其大きな古短艇の真中へ竿を立てまして、其竿の先へ金巾に謹祝憲法発布といふ文字を大書した旗を附けまして、それを書かれたのは此処に居られまする尾高次郎君ですが、それで方々へ綱を張りまして日の丸の国旗をずつと飾りました、併是も皆書生部屋で以て日の丸の旗を拵えましたので、それからメリヤスのシヤツの背
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中へ日の丸の国旗を画き、揃のシヤツを拵へまして、是を皆インキで染めましたので、さうして深川の家から隅田川へ押出しました、で、何をしたかといふと非常の大煙火を揚げました、尤其煙火は皆尾高君、或は私などが叱られ叱られ内証で拵へましたもので、中々盛大な事で御座いましたが二十年前はそれが竜門社の一の仕事であつたのでございます、併二十年と云へば随分永いやうでありますけれども、又経過して見ると実に束の間に経つてしまひましたが、其間に皆様の御尽力に依つて兎に角大きくなつたから、一人歩みをするやうに組織を改めなければならぬといふやうに至つたのは、実に喜ばしいことでございまして、是は偏に青淵先生の徳望と同時に、社中諸君の御尽力の結果と存じます。
 所で只今申上た様に短艇の上で煙火を揚げた竜門社が、段々大きくなつて参りましたから、いつまでも無為に過ぐるのは遺憾な次第故特に一定の主義を持て社会に尽くす処の団体にするが宜いではないかといふことを、一昨年の秋青淵先生の御勧めもございましたので爾来本社の監督たる穂積・阪谷両博士、其他社員の方々、及び従来の幹事等と色々相談を致しまして、改正規則の草案を作りました、即ち今日御手許へ差出しましたものでございます、それで一応皆様の御意見を伺ひまして、愈々是で宜しいといふことに決しますれば直に今日より其改正規則を実施致したいと存じます。
 そこで其改正規則の中にはどういふことがございますかと申しますると、是には二大綱目がございまして、一は青淵先生の主義を帯しまして、商業道徳を進めて実業界の人格を高尚にするのを以て目的とし、会員は自ら実践躬行能く其主義を鼓吹し之を拡めるといふことが第一でございます、第二は組織でございまして、之は評議員二十名を置いて、竜門社の中枢と致し、社長は従来の関係上今回は私が其職を汚す事に相成ましたが、将来は評議員に於て選出して其目的を達するやうに致すといふことでございます、元来唯今までの組織は社員も沢山あり、又幹事も置いてありますけれども、謂はゞ社長独裁といふやうな有様になつて居りましたのですが、是からは何を中心と致して参るかといふに、詰り青淵先生の主義を奉ずる所の評議員が、重に此竜門社の親柱となつて働くといふことに致したいと存じます、但し其評議員は毎年半数づゝを改選して参りまして、任期満了になりますれば其留任者が新任者を推選して、さうして社長が之を選定するといふ方法にして参ります、之は一寸変つた方法かも知れませぬが、斯様の風にして参つたならば、永久に最も好く其主義を伝へて行くことが出来やうと存じます、それで第一回の評議員は其指名を青淵先生に乞ひました結果、今日此処へ御来会を願ひました諸君に其任を御願ひ申したいと存じます、幸に皆様の御承諾を得ますれば洵に仕合せと存じます、之れより粗末な食事の用意が出来て居りますから、夫れが済みました後に、青淵先生に一場の御講話を願ふ事になつて居ります、之を即ち竜門社の主義・綱領と致して、此旗の下に皆集つて、さうして今申上げた方が不肖私を御助け下されて、竜門社を青淵先生の主義・綱領と共に万世不朽に伝
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へるやうに致したいと存じます、どうぞ左様御承知を願ひます。
      佐々木勇之助氏の挨拶
 私が皆様に代りまして申しますのは僣越のやうでございますが、御招になりました者の中で幾らか私が年上のやうでござりますで、私が敢て代表といふ訳ではありませぬが、皆様から一々御返辞になりまするのも如何と思ひますから、又今日皆様が評議員に選定せられたに就て御不承諾はあるまいと信じますから、私から総代として御請を致します、全体私共は数多き竜門社員の中から此評議員に御選みに預りましたのは、洵に吾々の名誉と致しまする所で、殊に穂積阪谷両博士の如き是れ迄竜門社の監督に当られてゐらしつた御方と共に、評議員として職に当るといふことは、私自身と致しましては決して其職に堪へないと存じまするが、併し此度斯ういふ規則を改正になり、且つ一層此竜門社を発達せしめやうといふ思召でもあり青淵先生の予ての御主義を是から追々拡張して行くといふことでございますから、其任に適しませぬでも初期の評議員と致しまして、先づ此責を塞いて置いて、適当なる評議員の出来るまで吾々奮つて力を尽したいと存じます、皆様に代りまして悦んで御請を致しますそれからもう一つ序でに申しますのは、唯今申上げました幹事のこと、是はこれまで監督をして下さいました御縁故に依りまして、穂積・阪谷両博士の中で然るべく御指定を願ひたいと存じます。
次に評議員中より幹事二名を互選したるに、佐々木勇之助氏の発議に基づき、穂積・阪谷両博士の指名に依り八十島親徳・杉田富の二氏当選、何れも就任を承諾せられ、尋で八十島幹事は、旧組織の幹事より引継を受けたる諸計算書及び財産目録を朗読して、評議員諸氏に報告したり。
当日晩餐の席上に於て阪谷男爵は盃を挙げて我社の前途を祝福し、且最深き縁故ある穂積博士に送旧迎新の辞を陳べられんことを求めしかば、穂積博士は之れに応じ立て左の趣旨を陳べ、終つて祝盃を挙げられたり。
 予は縁故よりせば或は最も古きならんも、実業家の集団たる点より見るときは本社に対し一番の門外漢なるが故に、祝詞を陳ぶるの適任にあらざるを恐る、併し英国に「家の内に在りては家の大さを知らず」との諺あり、我邦にも岡目八目と云ふ言あり、門外漢の観察は皮相の見たるを免れざると同時に、或は多少右の俗諺に叶ふものなきを保せず、所謂北辰居其所、尚衆星共之と云ふが如き、竜門社の中心は申す迄もなく青淵先生也、先生の主義也、諸君が作りたる組織変更の趣旨書中に自任自重云々の語ありたるは蓋し青淵先生の主義に遵ひて内は自ら勤勉し、外は一世の木鐸を以て自ら任し、自ら重んずるの意に外ならずと信ず、諸君の此覚悟こそ実に敬慕すべきものにして、我邦の状態に於て最も緊要とする所也、凡そ我国現時の実業者稍もすれば人に侮らるゝは自ら侮るに基く也、日本固有の道徳を名けて武士道と云ひ、今尚之れが改称を見ざるは一面に於ては実業家の恥辱と言ふべし、他日其称すたれて或は「紳士道」或は「真正の人たるの道」などの称呼行はるゝに至らば、そは蓋し竜
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門社隆盛の結果と解するを得べし、竜門社たるもの真に自任自重、自ら実業界の中心となり、其道徳を進め、勤勉・力行・忍耐等の美徳を奨励し、実業者の位地を進め、其結果社会に於けるあらゆる階級皆平等たるの理想を実現せしむるに至らんこと予の切望する所にして、有力なる評議員各位は必ずや此任を全ふして余りあるを信す予はかゝる嘱望を以て喜で将来を迎へ、又今日の基礎を作りたる社長及旧幹事諸君の過去の労に対し深く感謝するものなり。
晩餐終りて一同客室に復するや、青淵先生は予ての請に応じて演壇に立たれ、我社不磨の主義・綱領とすべきものに就き、約一時間に亘りて惇々として訓言を与へられ、満場最も静粛に謹聴したり、我社今や組織を改めて世に行動せんことを期するに当り、永久の大精神となすべき本領に就きて特に青淵先生の訓言を忝ふしたるは我社永遠の光栄にして、真に金科玉条となすべきものなり、即ち謹で之を筆録して、之を我社の主義・綱領となし、改定社則と共に恭しく本誌の巻頭に掲げたり。
此くて本日の要務を了し、来会諸氏は先生の席を囲みて閑談に時を移し、軈て解散せんとするに臨み、先生は再び立て一場の挨拶をなし、評議員諸氏に対して重ねて懇嘱の意を陳べられ、終て佐々木勇之助氏は立て一同を代表し先生の訓言を鳴謝し、眷々之を服膺して其主義の発揚に努むべき旨を答へられたり、即ち左の如し。
      青淵先生の御挨拶
 竜門社の創業は皆様御承知の通りで、寧ろ私が中心でなくて此処迄に次第に進んで参つたのです、併ながら丁度倅が推されて社長と云ふやうな位置を以て居ります所からいふと、渋沢の家とは甚だ縁が厚うございまして、斯く迄御心配下さると、私まで竜門社を我ものらしう御礼を申さなければ相成らぬ、併し一体此の商業道徳の観念を世の中に拡充したいといふことは、渋沢だけが思ふて外の人は思はぬでも宜いといふものでなくて、此処に御集りの諸君は、社会の先進者として商業道徳の観念を、どうぞ広く及ぼしたいといふ御意思は、勿論私以上に持つて御座ることゝ思ふのでございます、果してさうでございますれば、私は年が上のために先に言つた、諸君は年が下の為めに後から言つた、後から言ふたことが軽くて先に言ふたことが重いといふことは無い筈である、さう考へますと私は却て諸君から御礼を言はれても、私が諸君に竜門社を盛んにするに就て一言も御礼を申す所はない、却て結構でございますと自ら喜びを申して諸君の御勤労を謝しは致しますけれども、自身一家のことゝして斟酌する言葉には及ばぬと思ふのでございます、右に就て私は是まで竜門社に対して別に有難いとか辱ないとかいふことは一言も申上げないのでございます、但しそれは此道の為に共に尽すといふ方の趣意から、願くは此竜門社といふものを盛にしたいと思ふが、是は決して渋沢一身に属したものではないのであつて唯渋沢がそれを唱導しだしたに就て、今日私の訓言を玆に一の綱領になさるといふことは、私に取つて此の上もない名誉のことであるけれども、併し諸君が此善事を我ものとして、之を拡充するといふことであれば、
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これから先は全く諸君の共有物であるから、此力が弱くなるのは即ち諸君の働きが悪いので、此力が益々拡充して行くのは諸君の働きが善いのだと斯ふ御考を願ひたい、但しさう申上げても私が是から先、もう我事足れりとして安んずると云ふ意念は毛頭ありません、老いたりと雖も益々智慧も磨き徳も高めて、出来得るだけ世の中に処する積りであります、是から先と雖も決して勤勉を怠らぬ、所謂倒れて後止むといふ観念を以て、諸君と共に拮据経営することは敢て辞しませぬけれども、此商工業の道義を高める、又拡充するといふことは、勿論私の肩にも一分担つてあるが、最早今日は諸君の双肩には年の若い力の強いだけ大に担つて居るといふことを、十分に御記憶下さるやう願ひます、御礼の言葉にいやに負担を重からしむるが如くに相成るのは、失礼のやうにありまするけれども、自ら任ずるではない、世の中の識者に任ぜらるゝものとしたならば、諸君が決して私の言葉を押付言葉と御理解なさるまいと思ひまするので之を以て御礼の言葉に代へまする。
      佐々木勇之助氏の答辞
 誠に有難い御訓言を戴きました、吾々及ばずながら眷々之を服膺致しまして、此御主義を十分発揚するやうに努めたいと考へます、一寸御挨拶を申上げます。
此の如くにして我社の組織変更及び之に伴ふ社則の改定は目出たく其発表を了し、玆に新組織の完全なる成立を告げたるを以て、不取敢其顛末を印刷して普ねく会員諸君に報告書を郵送したり。
今此組織の改まるに臨み旧幹事より引継を了したる会計収支の計算は左の如し。
    (一)普通部貸借対照表
              (明治四十一年十二月卅一日現在)

      負債之部
 一金四千弐百四拾円九拾九銭    準備金
 一金百四拾五円六拾八銭      本年度収入超過金
  合計金四千参百八拾六円六拾七銭
      資産之部
 一金参千参百七拾四円九拾銭    第一銀行株五十三株(一株平均六拾参円六拾七銭)
 一金五百円            無記名整理公債証書 額面五百円
 一金四拾弐円           保証金
 一金参百四拾五円五拾参銭     第一銀行当座預金
 一金六円参拾弐銭         現金
  合計金四千参百八拾六円六拾七銭


   (二)普通部明治四十一年度収支計算書
      収入之部
 一金千四百七拾七円七拾弐銭    会費
 一金九百九拾六円         総集会寄附金
 一金弐百弐拾四円弐拾銭      配当金及利息
 一金拾壱円弐拾銭         雑収入
  合計金弐千七百九円拾弐銭
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      支出之部
 一金百参拾参円六拾壱銭      月次会諸費
 一金千弐百五拾九円七拾壱銭    総集会諸費
 一金弐百四拾参円         報酬
 一金六百七拾五円八拾壱銭     雑誌印刷費
 一金九拾弐円九拾七銭       郵税
 一金百五拾八円参拾四銭      雑費
  合計金弐千五百六拾参円四拾四銭
 差引
  残金百四拾五円六拾八銭     収入超過

    (三)基本金部貸借対照表
               (明治四十二年二月十一日現在)

      負債之部
 一金壱万九千弐百円        寄贈金
     内訳
  一金壱万円       清水満之助君
  一金参千円       西村直君(故西村勝三君遺言寄付)
  一金千円        東京瓦斯会社々員諸君
  一金千円        日本煉瓦製造会社々員諸君
  一金千円        大橋新太郎同進一両君
  一金千円        合名会社中井商店
  一金五百円       故西村勝三君
  一金五百円       上原豊吉君
  一金参百円       服部金太郎君
  一金弐百円       六十九銀行岸宇吉君
  一金弐百円       寺田洪一君
  一金百五拾円      東京貯蓄銀行
  一金百五拾円      諸井四郎君
  一金百円        井上公二君
  一金百円        故松本武一郎君
 一金壱万九百八拾七円五拾五銭     配当金其他収益
  合計金参万百八拾七円五拾五銭
      資産之部
 一金弐万八千五百六拾五円弐拾銭    第一銀行株三百八十株(一株平均七拾六円拾五銭)
 一金千六百弐拾弐円参拾五銭      第一銀行預ケ金
  合計金参万百八拾七円五拾五銭
   以上

吾人は玆に組織変更の顛末を報告するに臨み、我社の責務は殆んど無限に重大を致せることを自覚し、七百数十名の会員諸君と共に眷々として青淵先生の訓言を奉じ、自任自重、永遠に主義の実行に従はんことを期するものなり、若し夫れ社則実行上の細目に至りては、評議員会に於て決定次第逐次之を誌上に報道すべし。


(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK260071k-0003)
第26巻 p.461-462 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四二年   (八十島親義氏所蔵)
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一月三十日 晴 烈寒風
早起、汽車ニテ王子ニ至ル、今日ハ午前十時ヨリ同族会議アリ ○中略 夕方迄ニ一ト通リ結了、大部分散会セラレシモ、予ハ居残リ、男爵ニ対シ竜門社組織変更実行案、評議員選定ノ事、綱領発布式ノ順序等ニツキ ○中略 篤ト御協議シ、何レモ同意ヲ得 ○下略