デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.462-468(DK260073k) ページ画像

明治42年5月2日(1909年)

是日栄一、当社第四十二回春季総集会ニ出席シ、「人道ト儒教」ト題シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第二五二号・第八四―八五頁 明治四二年五月 ○本社第四十二回春季総集会(DK260073k-0001)
第26巻 p.462-463 ページ画像

竜門雑誌  第二五二号・第八四―八五頁 明治四二年五月
○本社第四十二回春季総集会 本社第四十二回春季総集会は、前号に記したる如く去る二日飛鳥山曖依村荘に於て開会せられたり、時恰も新緑の好時節、特に当日は天気快晴にして神気爽快を覚ゆる程なりしかば、来会者も頗る多数にて、青淵先生・同令夫人・渋沢社長・同令夫人・穂積博士・同令夫人・阪谷男爵・同令夫人を始め、来賓田中館
 - 第26巻 p.463 -ページ画像 
博士・本多博士・角田真平の諸氏、其他下に記す如く会員陸続参集せられたり、午前十時来会者一同前庭芝生に設けたる天幕内の会場に参集し、渋沢社長先づ開会の挨拶を為し次に八十島幹事社務及会計を報告し、夫より講演会に移り、田中館博士及青淵先生の演説あり、之にて式を終り、夫より午餐の饗あり、午後は庭内各所に取設られたる露店を同時に開き、又余興には貞一の手品、支那人の曲芸、洋人の手踊等あり、会員一同一日の清遊を尽して思ひ思ひに帰途に就き、散会したるは午後四時なりき、当日八十島幹事の報告したる社務及会計の状況は左の如し

      ○社務報告
 一、会員現在数
  名誉会員               壱名
  特別会員               参百六拾四名
  通常会員               参百九拾二名
   合計                七百五拾七名
 一、組織変後今日ニ至ルマデ
  一評議員会ヲ開クコト     一回
  一青年談話会ヲ開クコト    一回
  一雑誌発行  毎月一回発行、八百五拾部
      ○会計報告
 明治四拾弐年三月三十一日貸借対照表
      貸方(負債)
 一金参万五千円也       基本金
 一金弐百参拾五円弐拾七銭   積立金
 一金弐百拾円弐拾銭      収入勘定
  合計金参万五千四百四拾五円四拾七銭
      借方(資産)
 一金参万弐千六百壱円拾五銭  第一銀行株式四百三十三株、一株ニ付七十五円二十八銭ノ割
 一金五百円也         軍事公債
 一金四拾弐円也        保証金
 一金千九百八拾九円弐拾弐銭  銀行預金
 一金弐百八拾弐円八拾五銭   支出勘定
 一金参拾円弐拾五銭      現在金
  合計金参万五千四百四拾五円四拾七銭

     ○収支計算書
 組織変更後間も無き事故今回は略之
当日来会諸君の芳名を録すれば左の如し
 青淵先生 ○下略
   ○右ノ文中、「一金参万弐千六百壱円拾五銭第一銀行株式四百三十三株、一株ニ付七十五円二十八銭ノ割」トアリ、実際ニ計算セバ三万二千五百九十六円二十四銭トナルモ、コヽデハ原文ノ儘トスル。
   ○栄一、総集会費トシテ例ニヨリ金三百円寄附ス。


渋沢栄一 日記 明治四二年(DK260073k-0002)
第26巻 p.463-464 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
五月二日 晴 暖
 - 第26巻 p.464 -ページ画像 
○上略 午前十時竜門社春季総会ニ出席シ一場ノ訓示演説ヲ為ス、会ハ王子宅ニ於テ開カレ、畢テ園遊会アリ ○下略


竜門雑誌 第二五四号・第七―一三頁 明治四二年七月 ○人道と儒数[人道と儒教](DK260073k-0003)
第26巻 p.464-468 ページ画像

竜門雑誌  第二五四号・第七―一三頁 明治四二年七月
    ○人道と儒数[人道と儒教]
 本篇は竜門社春季総会に於ける青淵先生の訓話なり
此竜門社の春季総集会が斯様に好天気を得ましたのは、御互に此上もない喜ばしいことでございます、唯今社長からして竜門社の社則改正並に此社の主義・綱領を定めることに前回決定致したといふことを、皆様へ報告がございました、而して其綱領といふものは私が平常自分の主義として居る所を採つて、それを此社の主義に致すといふことに確定されたといふは、如何にも喜ばしうは感じまするけれども、其喜ばしう感ずると同時に、甚だ恐懼に堪えぬのでございます、先頃評議員の出来まする時、評議員諸君に対して私は斯く考へまするといふことを述べました事柄は、筆記されて竜門雑誌には訓言とまで題されて冒頭に出て居りまするで、諸君も御覧下されたでありませうから、最早其事に就て再び之を重複する必要はございませぬけれども、蓋し此は評議員諸君に向つて申述べたのでありますから、今日之を敷衍致して、他の諸君にも斯く御承知ありたいといふことを申述るやうに致さうと思ひます。
前席に田中館博士から度量衡の有益なる御講話を拝聴致しましたが、結局は事を処し物を行つて行くに、斯る標準が要る――今私の申述べやうといふことはメートルの如き正しきものでもなく、左様に大なる実測に必要なる学術的のものではない、申さば唯渋沢の一家言に止るかも知れませぬ、併し独り私が自分の発明を申上るではなくて、人間は斯くあれかし、世に立つて勤めるには斯う心得たら宜しからうといふことを、学問の狭い私であるから唯単に儒道――即ち孔子の教に依つて申述べるに過ぎぬのです、故に此孔子の教といふものが、百幾年前に赤道と北極星とを測つて、指定めたメートル法の如く適切には参らぬか知らぬけれども、蓋し人の標準とすべき点に於て、余り大なる違ひは無いであらう、矢張拠るべき道としては孔子の立てた教が甚だ適切である、果して左様に思ひますると、矢張此標準を以て論ずる点に於ては渋沢の一家言ではない、古い昔の説をば玆に諸君と共に之を遵奉して行かうといふに過ぎぬのであると、斯う御諒解下さるやうに願ひたいと思ふのであります。
      ○地租改正と度量衡
丁度唯今度量衡のお話が出ましたに就て、是は余事であるが想ひ起しますのは、私が明治二年に大蔵省に勤務した時分に、矢張此度量衡の話が出まして、私は之を調査する一員となつて頻に心配したことがあるのです、今から思ふと、田中館博士などに取つては随分抱腹に堪えぬ話でありませうが、大蔵省で庶務の改正をせねばならぬといふので改正掛といふものが置かれた、其時分の大蔵省の主脳者は大隈伯と伊藤公のお二人であつて、頻に諸制度改正といふことを考へられた、其改正をするにはどうしても通常の事務を引離して、別に改正局といふ
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ものを置て、そこで取調べるが宜いといふことになつて、其局の掛長を私が命ぜられた、其時に是非数年を期して租税を改正せねばならぬそれには先づ丈量をしなければならぬ、丈量をするには寸尺が判らなくてはならぬ、日本の呉服尺と曲尺は甚だ不確実のものである、又尺ばかりではない、秤も改正しなければならぬ、桝も改正しなければならぬ、遂に度量衡といふものを取調べるが宜からうといふことになつて、さて取調べに着手しやうとした所が、何処へ行つて聴いて見ても少しも解らぬ、又解る筈がない、何しろ其時分には地方凡例録とか塵功記とかいふやうな書籍が僅かにあつたが、是も量衡は無くつて度だけがあつた、且つ甚だ浅薄なる学者の書いたものであるから、それを以て其時分の度量衡の薀奥を極めたものとは言はれない、それで拠どころなしに私は改正掛長として、福沢諭吉先生に度量衡の講釈を聴きに行つたことがあります、今考へて見ると殆ど見当違の話で、内科の医者に外科の膏薬を貰ひに行つたやうな訳であるが、明治二年・三年の頃はさういふ有様であつたのが、今伺ふと八十二年前に業に既に度量衡が各国の評議に上つて、而して此十数年に大なる進歩を遂げたといふ、蓋し田中館君が其時に居らしつたかどうか、それ程御老人とは思ひませぬが(笑ふ)十数年の間に左様に進歩したといふことは、実に日本の学術の一特色と申しても宜いやうに思ひます、其頃勝さんの門人で佐藤与之助といふ人が改正掛にあつて、是非土地の丈量法を行つて見やうといふことを評議して、それからして遂に今申上げたやうな度量衡の調査に掛つた、所が迚も今の場合丈量などは出来ぬ、況や当時未だ藩といふものがあつて、日本全体が大蔵省の支配に属するのでないのだから、是は藩政の始末の附かぬ前に土地丈量などゝいふことは、唯空想に論じて見た所が事実行ひ難いといふので、改正局の調べは緒にも就かずに終りましたけれども、明治二年にさういふことがあつた、偶然にも唯今田中館君の御講義を伺つて往事を考へ出したのであります。
      ○国体の精華と教育淵源
さて本題に戻つて此竜門社の主義綱領でございますが、元来儒者の教から説を立てゝ見ますると、人といふものはどういふ訳で此世の中に生存して行くか、大きく云ふたならば何で生れて来たか、之を一つ考へて見なければならぬ、考へると同時にどう自分を保持して行つたら宜からうかといふことを、もう一つ研究しなければなるまいと思ふ、詰り銘々が唯己れさへ都合の好いやうにするだけが抑々人の務めであるか、又それで人たるものは完全と言ひ得るか、孝経には立身行道揚名於後世以顕父母孝之終也とある、即ち父母を顕はすといふ眼目から、立身行道揚名於後世其間には必ず功名富貴といふものは皆籠つて居る、さうすると此功名富貴といふものが人生の要務のやうにも相成りまするけれども、併し人間が集つて一国を成して其国を進めて行くといふには、唯単に己れだけが功名富貴を求むればそれで能事終れりとすべきものではなからうと私は思ふのである、先刻田中館博士のお述の如く、度量衡に対する要点は、例へば相欺き相偽ることなからしむる標準と、又一方には大きな事を研究する材料と、其必要
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とする点が二つあると仰しやいましたけれども、人の世に処するは単に二つであるか又は三つであるか、若し哲学者に十分攻究させて見たならば、種々説があるでありませう、私の浅学で右等のことを軽々判断することは出来ませぬ、又深く攻究して玆に申述るのではないけれども、之を哲学的に論ぜずに、御互が常に遵奉せねばならぬ、又尊敬すべき教育勅語に依つて考へて見ても、人間の此世に処するは自ら二つの意味を含蓄して居ることは明瞭であると思ふのです、「克く忠に克く孝に、億兆心を一にして、世々厥の美を済せるは、此れ我が国体の精華にして、教育の淵源亦実に此に存す」、と仰せられた、即ち忠孝といふものが日本国民の最も精華である、骨髄である、と云ふことを先づ冒頭に置て、それから爾臣民――と、せねばならぬ事を仰せられた御趣意は、「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信し恭倹己れを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業を習ひ、以て智能を啓発し、徳器を成就し、進で公益を広め世務を開き……」、尚何と仰せられたか「国憲を重し国法に遵ひ」、――それだけで済むかと云へば「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すへし」と斯う仰せられてある、即ち前に私が申した儒者の教から観察する人間の務めといふものは、己れ一身に対しても栄達富貴を求むべきものではあるけれども、単にそれだけの事で人は此世に立つものではない即ち国家といふものを、何処までも其国民が相共に担つて、さうして国運を進めて行く、従つて其行動は君には忠、父母には孝、朋友には信、尚汎く衆に対しては努めて之を愛し、且つ敬するといふ、所謂忠恕の心を拡めて、世の進みを助けて行く、是が人間の務めであつて、而して其問[間]に己れ一身の栄達も含まれて居る、故に工業に従事するにも商売に従事するにも、唯単に其事に就て己れを利するのみが本分だとは私はどうも思はれない、蓋し工といひ商といひ、其他総ての物質的業務に従事するものは、詰り己れの利益を図るが目的だといふことも、或は言ひ得るでありませう、人力を挽くのも賃銭を貰ふためであつて、若し賃銭さへ貰へば人力は挽かぬでも宜いと、斯ういふ風な議論があるかも知れぬけれども、私はどうもそれは至当な議論ではないと思ふ、人力を挽かずに唯賃銭を貰ふといふことは、或は人力挽として希望することかも知らぬけれども、併し人として決して希望すべき道ではない、即ち車を挽くといふ務めに対して、そこに報酬が生じて来るのである、是と同じく商売人は即ち有無相通ずるといふことが己れの職分であると考へて見ると、其有無を通ずる職分の間から、其智恵、其働き、其事柄に依つて、報酬が或は多くなり或は少くなるのである、即ち職分に対する報酬であるから、唯報酬のみを望むが目的ではないと、斯う覚悟せねばなるまいと思ふ、丁度前に申す国に尽すといふ意念と、己れ一身の栄進を求むるといふ希望と権衡を保つて、彼れにのみ重からず、是れにのみ傾かず、相並んで行き得たならば、相当の智恵を持ち、良い学問をして、適当な事業に十分なる勉強をしたならば、そこで始めて其事業も世に効能があり、其人も亦相当の栄達が出来るであらう、或は相当の技倆あり知識ある人で、而して其権衡をも失はぬのにそれ程の声価を得ぬ者もありませう、又或は反対に、
 - 第26巻 p.467 -ページ画像 
偶然の結果に依つて其知識・技倆以外に大層立派になるものもありませう、けれども其結果だけに就て、其人の世に尽した功績を判断する訳には行くまいと思ふ、古人の言葉に成敗を以て英雄を論ずる勿れ、――敗れたからといふて其人が英雄でないとは言へぬ、是等は決して孔子の教即ち儒道から立てたる議論ではない、寧ろ歴史家などの古来の英雄・豪傑の成敗を見て、或は嘆息の言葉を発する場合に表はした言語であらうと思ひますが、併し吾々実業界にも随分さういふことがあらうと思ひますからして、此実業界に従事する御互多数の人々は成敗を措て、先づ人といふ本分を尽すといふことを目的として、さうして併せて其一身が人たるに恥ぢぬといふことを心掛けねばなるまいと思ひます、私が竜門社の綱領としたいと思ふた所謂訓言は、先づ其要を申述べた積りである、今日玆に申述べるのは、決して大方の諸君に申上げるのではない、寧ろ竜門社の青年の人々に能くお心得あれかしと思うて、玆に一言を添へ置く次第でございます。
      ○仁義道徳と利用厚生
今一つ是も訓言の中にあることでございますけれども、兎角人の間違ひ易いことであるから、重複ながら玆に申述べますのは、仁義道徳のことゝ、利用厚生のことです、彼を為すと是が出来ぬ、是に依ると彼に外れるといふ誤解が、押並べて世間にあるやうに思ひます、是は前に申す心掛を以て、世に立つ人々は能く理解して、決してさう離るべきものではないといふことを、十分会得して事に当るやうにしたいと思ふのです、蓋し其事は昔から左様に隔離したものではなかつたのである、私は浅学ながら度々此漢学の弊を論じて孔孟の訓の仁義道徳と利用厚生とを引離すやうに立論したのは、閩洛派といふ程子・朱子あたりの学派が最も罪を造つたといふことを申して居りますが、既に大学などにも明瞭に書いてある、経書を残らず私は記憶も致しませぬし又それを一々例証するも煩はしうございますが、財務のことに就て大学の一番終の右伝之十章に、此謂国不以利為利、以義為利也と二つ返して書いてある、又孟子には王何必曰利《王何ゾ必ズシモ利曰ハン》、亦有仁義而耳矣――是は梁の恵王の問に対する答です、大学は孔子の遺書である、孟子は申すまでもなく孟軻の七篇である、此孔孟の訓言は義利合一にあることは確実なる証拠がある、決して利益といふものが仁義と背馳したものでないことは明かに解つて居るが、後世の学者は誤つて富といふものは兎角仁義忠孝或は道徳と引離れたものゝ如く解釈をした為めに、大に漢学といふものが世の中に疎じられるやうになつた、若し又実際其通であつたならば、漢学の必要といふものは失くなつて、漢学は唯一の心学になつてしまふ、心学といふものゝみで世に活用せぬものであつたなら、孔子の教は少しも尊敬するに足らぬと私は思ふのです、併ながら、孔孟の世に訓へる言葉は、決して左様に迂濶な、現在と引離れたものでないといふことは、四書中の各章に就て証拠立てられるやうである、故にどうぞ竜門社の諸君に望む所は、前に申した如く、先づ第一に人たる本分を尽すと同時に、道徳と功利といふものは必ず相共に進んで行ける、利用厚生の道は仁義に依つて益々拡張発達して行けるものであるから、仁義忠孝を論ずれば貧困に甘んじ、所謂、飯
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疏食飲水曲肱而枕之、それが仁義忠孝の骨髄だと、斯様に誤解のないやうにしたいのであります、さらばといふて、前にも申す通り唯一身が富めばそれで能事終れりとすることは、どうしても仁義忠孝の教から云ふても、又人たる本分から云ふても、私は希望すべきことではない、人たるものは国家に対し、それこそ強く言ふたならば、此世を黄金世界にし遂げるだけの責任があるものと解釈して此世に立ちたいものと思ひます、始終書物を読み道理を攻究する余暇もございませぬ、又それ程私は学問的の人でもないが、此竜門社に対しては先づ私が標準となつて、どうぞ諸君と共に今の利用厚生と仁義道徳とを併行させることを一の主義として、此主義の下に立ち、益々之を拡張して行きたいといふ今日でありますからして、是に対して斯くありたい、斯様自分は考へるといふことは、機会のある毎にいつも此事を申述るに憚りませぬ、又諸君に於てもお考のあつたことは、どうぞ月次会若くは総会等に於て、黙してござらずに、十分考を述べられるやうに致したいと思ふのでございます、物の標準といふものは、唯今田中館博士のお述になつた如く、誠に必要なることは疑もなく吾々も感じて居る、権然後知軽重、度然後知長短者皆然心為甚也≪権リテ然ル後ニ知軽重、度リテ然ル後ニ知長短者皆然心為甚也≫、と孟子の言葉にあつたと思ひます、私は今のメートルの根原も能く知らず、其数字も弁へませぬけれども、孟子の云ふ権度以外の心の標準は、今申述べたことが決して諸君を誤らせるやうなことは無いと信じますから、どうぞ今田中館君の述べられたメートル法に標準を取ると同時に、孔孟の教を十分に心の標準と為し下さることを希望致します、是で御免を蒙ります。(拍手)