デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
4款 東京高等商業学校
■綱文

第26巻 p.659-665(DK260108k) ページ画像

明治40年5月11日(1907年)

是日栄一、当校同窓会ノ懇請ニ応ジ、三縁亭ニ催サレタル同会全国会員懇親会ニ臨ミ挨拶ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK260108k-0001)
第26巻 p.660 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年     (渋沢子爵家所蔵)
五月十一日 晴 軽寒            起床七時
○上略
午後六時芝三縁亭ニ抵リ、高等商業学校出身者ノ設立セル同窓会ノ懇親会ニ出席シ、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、畢テ種々ノ談話ヲ試ミ、夜十一時帰宿ス
○下略

東京高等商業学校同窓会会誌 第五一号・第六―一六頁 明治四〇年五月 全国会員懇親会(DK260108k-0002)
第26巻 p.660-665 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第五一号・第六―一六頁 明治四〇年五月
    ○全国会員懇親会
全国会員懇親会は、予期の如く五月十一日(土曜)午後六時半より三縁亭に於て開会せり。
先づ当日の出席者を挙ぐれば
  来賓
 男爵 渋沢栄一君  法学博士 松崎蔵之助君
  会員 ○九十名氏名略
定刻に至り、開会を報ずるに楽隊の奏楽を以てせらる、是に於て一同会場に入る。
満場の宴卓は燦爛たる草花を以て飾られ、煌々たる電燭の光は其の装飾と相映じ、其の光景人をして一見快を感ぜしむるに足れり。
一同席全く定まると見るや、成瀬隆蔵君立つて会員を代表し述べて曰く。
 閣下紳士諸君
  私は本校出身者中の古参たるを以て、来賓諸君に御挨拶を陳べ、併せて会員諸君に対し本日此会合を催したる理由を一言致します
 来賓諸君は常に御多用の御身、取り別け目下博覧会もあり、年中の好時節にもあり、種々の御会合等御差支勝の場合にも拘はらず、特に御繰合せ御臨席下されましたるは、我々一同感謝に堪へず深く御礼を申上げます、次に同窓会春季総会は是迄毎年桜花爛熳の頃に開くことゝなり居りましたが、本年は博覧会がありますし、地方の方方は昨今上京の多いと云ふことゝ同時に、全国商業学校長の会議もあるより、校長諸君の暫く薀蓄された所の高見を伺ふことも出来、且此総会の場合に渋沢男爵閣下初めの御来臨を請ふて、未た謦咳に接せられぬ方あれば一度好い折柄で、親しく御面晤のことに致したら宜かろうと云ふことで、総会を延ばし置き、今日之を開きました而して今年は前年と異にし、親睦会を後とで開くことに致した訳であります
 下手の長談議はテーブル・スピーチでは殊に禁物なれば此位に止め唯来賓諸君に抂げて御来臨を乞ひ、而して設備万端甚不行届、御迷惑至極でございましたろうが、何卒我々意のある所を察せられ、只管御寛恕あらんことを願ひます
 玆に会員諸君と共に盃を揚げて、来賓諸君の御健康を祈ります(拍手)
右の挨拶終れば全く宴会の席と成る。
 - 第26巻 p.661 -ページ画像 
是に於てか今まで途切れたる奏楽は、再び曲を改めて起り、又彼処に旧を談ずる者あれば、此処には又新を語る者ありて、靄々たる和気場に満ち、歓声笑語漸く喧しからんとす、斯くて宴正に闌なるに当り来賓両君の「テーブル・スピーチ」、及び会員市村芳樹君の挨拶等ありて頗ぶる盛会を極め、一同十二分の歓を尽し、全く散会を告げしは殆んど十時半頃なりき、今来賓両君の「テーブル・スピーチ」及び市村君の挨拶の各速記録を挙ぐれば左の如し。
                 男爵 渋沢栄一君 演説
 臨場の諸君、今夕は東京高等商業学校の出身諸君、即ち同窓会の懇親会に当りまして、私も従来の関係から此処に御招きを頂いて、御目に懸ることの光栄を得ました次第でございます、チヨツと打見ても百人近い御方の御集りがある位に、商業に対して十分の教育を御受けなすつた方々が会合し得る世の中になつたのは、実に此上もない嬉しい次第でございます、私は五年以前に海外旅行をしまして、初めて己が高等商業学校に永年御世話をしたに付いて、其御世話が斯の如く一身に光栄を以て酬はれ来るものかと喜んだことがございます、それは紐育に於て、若くは倫敦に於て、又は里昂に於て、其帰途香港に於て、殆ど前後五回程同窓会員の内でいらつしやいませう、高等商業学校出身諸君の御集りで旅情を慰めると云ふ名の下に鄭重なる御饗応を受けて、愉快に且目下の事情を御談話して、殆ど更の闌くるを忘れたことがございます、併し海外でございますから今夕の如く多人数の御方と会することは出来ませなんだ、二十名乃至二十四五名、併し海外に於て同窓の御方々、同趣味の人々、失礼ながら私から申上げると何やら自分が御世話して育てた御人の如き感情を持ちますと真に愉快で、今でも尚其愉快を念頭に能く覚えて居るのでございます、又今夕はそれとは数倍の御人が加つて、殊に東京に在り各地に在り、多くは此御集りの諸君は実業界の事務に鞅掌されて居る諸君と思ひますと、斯の如くに一寸集つても百人の御人が高等商業教育を受けた御方にあるかと、……一体同窓会の名簿を見てもあることは分つて居りますが、それを面たり見るのは、唯数字を聞くよりは感念が大層強くなりますので、実に喜ばしく感じますから、先づ第一其喜びから御礼を申上げます
 斯く御集りの御席で、何か自分も今日時事問題に就て愚説でも申上げて多少御参考に、一歩進んで御利益になる事が申上げたいと思ひますけれども、あまり新説はございませぬし、又古い説は諸君の御耳にも御胸にも、大抵十分御貯へになつて居ることゝ思ひますから余り言ふても益ないやうに考へます、去りながら商業学校の御方が多数と考へますと、此未来の国本に就いて例へ年溜めた意見としても一言陳情して諸君の御参考に供するのは、或は無用の弁か知りませぬが、例へ無用の弁たりとも幾らか年取つた私の責務でなからうかと考へますで、今日陳腐な愚説を一言申述べて見やうと思ふのでございます
 日本の今日は、斯く諸君が集つても高等商業教育を受けた御方々が一堂に充ち溢れる程集はるゝと同様に、商工業界の三十年若くは四
 - 第26巻 p.662 -ページ画像 
十年以前を顧みますと、如何にも発達したと申して宜しい、而して此発達には追々時期がありまして、四十年の間に毎年同じ割合に伸びて来たかと申しますと決してさうでないので、丁度人の体格が若い時分には大に伸びるが、壮年に及んでは其度を異にする様なもので、総て此殊に意識あるものゝ発動して参ると云ふことは、一年三百六十五日、其日一日に成長することが極つて居るのでないと同様に、我が経済界も或る場合には大に伸び、或る場合には少し躊躇して居る、又退歩する事が屹度ないとは限らぬだらうと思ふので、併し明治四十年の今日迄に我が経済界は決して退歩はせぬ、進んで居る、且其進みが最もどう云ふ時期に能く発達したかと云ふと、国の困難な後に大に進んだと云ふことは、歴々証拠立てられるやうにございます、誠に明治十年頃から以後を顧みて見ましても、十年以後に大に伸びて来たのは、十年戦争が余程与つて力があると云つて宜しい、又二十年に大に経済界が発達したやうに記臆しますが、是は丁度十四年からして銀紙の差を是非なからしめる、即ち紙幣を兌換せしめるやうにしたいと云ふので、政府が鋭意之に努めた、一時は十五・六・七、此三四年間の頃は大変困難したことがございます、併し其事は幸ひ功を奏して、二十年に紙幣が兌換し得ると同時に、大に事物が発達したやうに思ひます、紡績事業の発達は最も二十一年が盛だつたと思ひます、但し其代り発達の進み過ぎた結果、二十三年に大分不景気、殊に大阪などでは殆ど金融逼迫、就中紡績業者などは業務の継続覚束ないと云ふ有様を惹起しました、今日本銀行に在る担保品に見返り品と云ふものゝ制度が立ちましたが、蓋し二十三年に行つた方法であつたと覚へて居ります、是は戦争ではなかつたけれども矢張財政に対する一の進歩、即ち前の苦みが事業の進歩を与へたと云ふ事に思はれます、それから後に大に此経済界の発達を見たのは二十七八年戦役の以後でございます、但し其の当時例へば二十九年とか三十年とか云ふ年に、直ぐ様に其有様が見えは致しませなんだ、或る場合には甚だ膨脹に過ぎて、等しく二十三年の経済界の悲境と同じやうな有様を、三十一二年には現しましたけれども、其実今の二十九年・三十年頃の各種の発達は追々に歳月を経て往つて其功を奏したものと見えて、遂に三十六年の末若くは三十七年に至りまして、スワ更に重大な国難に遭遇するといふ場合に至て、初めて二十七年以後に日本の富の進んだことを我人共に知つたやうな次第で、恰も己の力が平日分らなかつたが、火事があつて俵を担いで見ると、初めて己は二十貫目の物は楽に持上げられるものだと悟つた位の訳である、偖此大戦役も都合好く終結後の今日であるからして、此場合が御互最も重要な時期と云ふことは今私が申上げるまでもなく、誰も彼も共に戦後の経営大切だと論ずるは誠にさもあらん、又さうなければならぬと思ふのでございますが、偖此間に甚だ喜ぶと共に憂ふべきことがある、私共は前に述べ来つた理由からして、即ち戦後の経営としては相当の事業には十分力を入れるやうにせねばいかぬ、今日も尚其通り考へて居ります、況んや一方には満洲に対し朝鮮に対し、……満韓だからと云つて目的ない事業
 - 第26巻 p.663 -ページ画像 
に唯砂上に楼閣を築くやうな経営は好みませぬけれども、併し所謂旅順の如き砲煙弾雨を凌いで、殆ど国を賭して今日あるを致した場所に、吾々経済界の者が唯懸念、唯心配のみ考へて居りましたならば、何仕事も決して安心とのみ思ふことはないのです、多少危険は凌いで其宜きを制して往く外ない、現に今日迄内地に為した事業と雖も、成た暁には成程あゝやつて宜かつたと云ひますけれども、成らぬ前から云ふたら或は無謀であるとか、或は軽卒であるとか云ふ謗りは、何事にも大抵聞いた事である、一二の例を言はうならば、例へば内地に起つた鉄道でございます、日本鉄道の如き大会社が、明治十四年頃に私は、迚もあれが成立つことは六ケ敷からうと思つた、西本願寺の門主は其株を持つて居て売るに苦んだ、私は頼まれて大変骨を折つて売却の世話をしたことすらある、十四五年の日本鉄道の株式と云ふ者は其位であつたから、彼会社が後に百円以上の株式にならうと云ふことは誰も想像した人はない、鉄道と云ふものは世の中に必要なもの、日本の未来がマサカに鉄道の一本位維持することが出来ぬことはなからうと、今日なら誰も想像するが、明治十四年にはさう考へなかつたのは、其株式の買手がなかつたのが確な証拠である、もう一ツ近い例は京釜鉄道・京仁鉄道も御辞義するやうにして方々頼んだが、株式を持つて呉れる者がなかつた、若し力を入れて彼を架設することなかりせば、三十七年の戦争は如何であつたか、果して鉄道の為に戦争が勝つたと云はぬか知りませぬが併し若し彼の鉄道がないと云ふ位の日本の人気であつたならば、日露の関係何れであつたらうと云ふことは、蓋し多言を労するまでもなからうと私は思ふのでございます、斯く考へ来ると鉄道事業でも其他紡績事業でも、或は銀行の如きに至つても、先づ以て比較的安全な事業でも、其初めに考へて見ますと云ふと、屹度大なる利益あるものとのみ指定めて組立てる訳に往くものでない、組立てる時には皆始めでなければ成長する訳はない、どのやうな智者でも生れた時にはタツタ一ツに違ひない、天下を掌上に廻らす如き大英雄でも生れた時には一ツたることをどのやうな人も免れぬと同様、始めての事業に多少危険のあることは、決して免れぬことである、故に私共は民間の事業に就ては、相当なる見込あることなら成るべく発達させたい、又着手も誘導もしたい、独り満韓の事業許りでございませぬ、内地の事業と雖も尚然り、能く考へて見ますと云ふと今日の日本は貿易も進んで往つたわ、生産力も増して来たわ、国力も大に増進したわと申しますが、亜米利加とか独逸とか、或は英吉利とか云ふ国々に数字を以て、又事物の物質的の比較を以て考へて見たら遠く及ばぬと残念ながら云はなければならぬ、而して東洋の潮流は甚だ急である、此東洋の潮流が急であれば、悠長に現在の安全許り考へて居られぬと云ふ論も、決して私は軽卒でも軽挙でもなからうと思ふのでございます、故に自分等は昨年来種々事業の経営に就ては、稍々道理ある仕事・確実な事業と考へますと、成るべく成立に賛助して、頻りに苦心経営する所以でございます、去りながらそこに直様従つて生ずる弊害がある、一方に於て事業が勃興すると共に
 - 第26巻 p.664 -ページ画像 
昨年などの現況を論じますと諸会社の株式は追々直を進めて往く、其直の高くなると同時に新しい事業に同意賛成と云ふのは、其実多数の観念は実際に其事業が望み、其事柄が希望といふので成立つて来るのではない、之に就て生ずる利益が望みで賛同する、或は雷同すると云ふやうな種類が追々増して来る、人気集る所段々に其調子が進んで往つて、俗に申す船頭多ければ船が山に上る如き有様、さうなつた調子は遂に途方もない有様に往走ります、昨年末当年の一月初頃の景況は其通りであつた、去りながら是が悪いからと云て、最初起さぬ訳にいかず、去ればとて遂に起して之を防ぐのが又甚だ六ケ敷いのであります、故にそれはどうしても全体の智識が一般に進むより外、斯う云ふ場合に弊害を少なからしむるの方法はなかろうと私は思ふのでございます、併し自からに制裁があるものと見へて、甚だ無謀に進み過ることに付ての懸念は、先づ経済界にも或は其他の方面にも、識者は皆考へて居りますやうでございますから、其憂が直に事実となつて一月の末か二月の始めでしたか、段々下落を引起した、併し此下落を引起したのは目が覚めたと云ふ方であるからですが、今日の有様を以て見ますと云ふと丁度又其下落を引起した勢が、上つた勢と同じやうに甚だ道理以外に往き走るかと想像されるやうでございます、蓋し総てが皆怖い怖いと云ふ観念を示して居るやうに、私には見へますのでございます、此怖いと云ふ人は必ずいづくんぞ知らん一月迄一番強かつた人に違ひない、一番強かつた人が一番今日怖がる人である、先づ斯く論じ来りますと、どうしても自分の観念では事業は起さなければならぬ、相当の事業は力ある限り起したい、併し此弊害には成るべく近寄りたくない、弊害は務めて避けたいが、必ず此事業に全く伴つた弊害ですから、之を取除くと云ふことは其当事者其人に知識があつて防ぐ外ない、是に至つて完全なる商業教育のある御方が世間に多くなければ、之を防ぐことが出来ぬと云ふことが、始めて証拠立てられるのでございます、(拍手喝采)幸に今夕御集りの諸君などは、必ず石橋を叩いてゞなければ歩くものでないと云ふ如く、唯慎重に、唯堅固にと云つて世の進みをも察知せぬ如き無知識の御方でないことは、明に分つて居る、併し又如何に進むからと云つて、軽卒に雷同軽挙と云ふことをなさる諸君でないことも明に分つて居る、幸に其自から分量を知つて進むべきに能く進み、而して其弊害に陥らぬ度を計ると云ふ人が沢山此商業界にございましたならば、経済界をして斯くの如くに或は進み過ぎ、或は衰へ過ぎて、世間に甚だ危まれるやうなことなくて、世の進みを為し遂げ得るであらうと思ふのでございます、まだ今日かゝる弊害の免かれぬと云ふのは、例へ御互此処に集つた連中はそう云ふ者流でないにせよ、世間の広きに較ぶれば吾々甚だ少数、少数故に未だ完全なる其時期に至らぬと斯う考へますと、御互に今一層も二層も力を尽し心を励して、更に後進者を誘掖して、追追尚良い人を造るよう努めねばならぬ、而して吾々其職に居る者は今のやうに其功を知り、又其弊を知り、苟も弊を見て功を没することのないやうにし、又功に乗じて弊を引起すと云ふことのなきよう
 - 第26巻 p.665 -ページ画像 
に慎み、果して其事がシツクリと出来至つたならば、或は経済界が何時も危険、或は調子に乗り過ぎるとか、或は萎縮し過るとか云ふ不安固な声を、世間に聞かせぬやうに為し得るであらうと思ふのでございます、決して其責任は自分等も敢て負はぬとは申上げませぬが、玆に完全なる教育を受けられたる所の、而して今実地に就いて居る所の諸君が、御担ひなさらなければならぬかと考へます、此処に御集りの御席で御馳走に預つて、責任を御与へ申すことになると甚だ失礼千万でございますけれども、決して私一人が其責は免れると申しませぬ、私も共に負担を充す積りであるが、併し此の御席の諸君は今申す軽挙に失する、萎縮に陥ると云ふが如き商売人たることは、なすつてはならぬと云ふ責任を以つてござることゝ御自信あることを希望致します(拍手喝采)
○下略


竜門雑誌 第二二八号・第二四―二五頁 明治四〇年五月 【東京高等商業学校同窓…】(DK260108k-0003)
第26巻 p.665 ページ画像

竜門雑誌  第二二八号・第二四―二五頁 明治四〇年五月
○東京高等商業学校同窓会 にては目下開催中の東京勧業博覧会並に過日開会の全国商業学校長会議の為め会員の上京したるを機とし、五月十一日午後五時より同校同窓会に引続き懇親会を開かれしが、同校商議委員たる青淵先生は同会の懇請に応じ右懇親会に臨み、且食卓上に於て一場の演説を為されたり