デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

5章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 新聞・雑誌・出版
1款 中外物価新報・中外商業新報
■綱文

第27巻 p.496-501(DK270135k) ページ画像

明治9年12月2日(1876年)

是ヨリ先、内務省勧業寮河瀬秀治、海外ノ産業ニ関スル記事ヲ記載セル新聞ヲ創刊シ民心ヲ日本経済開発ニ向ケント欲シ、コノ件ニ関シ益田孝ニ慫慂スルトコロアリ。議熟シ是日「中外物価新報」第一号ノ発刊ヲミルニ至ル。栄一コレニ与ル。


■資料

青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第七〇〇―七〇一頁 明治三三年六月再版刊(DK270135k-0001)
第27巻 p.496 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第七〇〇―七〇一頁 明治三三年六月再版刊
 ○第五十八章 公益及公共事業
    第二十一節 新聞及雑誌
青淵先生ノ多少関係ノ新聞紙ハ数多アリ、其中ニテ最モ関係ノ深カリシハ東京日々新聞ト中外商業新報是ナリ
○中略
中外商業新報ハ初メ中外物価新報ト称ス、明治九年十二月二日第一号ヲ発刊ス、当時ハ毎週一回ニシテ、刊行費ノ幾分ハ内務省勧業寮ヨリ保護セリ、蓋シ同寮ニ於テ取集メタル勧業ニ関スル海外報告其他ノ材料ヲ世ニ公ニセンカ為ナリ、明治十一年一月ヨリ五日目一回ノ刊行トナリ、明治十三年一月ヨリ四日目トナリ、明治十五年ヨリ毎週三回トナリ、明治十八年七月一日ヨリ日刊トナリ、明治二十二年一月二十七日中外商業新報ト改称ス、先生ハ同新聞ノ出資者ノ一人ニシテ、同新聞ノ改良ニ力ヲ添ヘタリ、而シテ同新聞ノ主幹トナリ、其拡張ニ最モ力ヲ尽シタルハ木村清四郎ニシテ、木村ハ常ニ先生ノ指揮ヲ受ケテ従事シタルモノナリ
○下略



〔参考〕青淵回顧録 高橋重治 小貫修一郎編 下巻・第八二三―八二七頁 昭和二年八月刊(DK270135k-0002)
第27巻 p.496-498 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕自叙益田孝翁伝 長井実記 第二一九―二二四頁 昭和一四年一一月再版刊(DK270135k-0003)
第27巻 p.498-499 ページ画像

自叙益田孝翁伝 長井実記  第二一九―二二四頁 昭和一四年一一月再版刊
    中外商業新報
 私が物産会社を引受けた頃、勧業局長〔註・実は商務局長〕の河瀬秀治と云ふ人が、どうも商業上の通信が、ちつとも来なくて困つて居る、商業上の知識を普及する新聞を作れと云ふて私に頻りに勧める。よろしう御座ります、作りましやうと云ふて作つたのが今の〔註〕中外商業新報である。
 最初は物価新報と云ふた。之れは全く私個人で拵へたもので、自分の金を出して作つたのである。先年中外商業の五十周年の時に、渋沢さんが、之れは益田が作つたのだ、自分は直接に関係しなかつたが、良い事だから色々助けもしたと演説された。
○中略
 朝吹英二が三菱に居つた頃〔註・自明治十一年七月至十三年八月〕私が中外物価新報の原稿を書いて居る処へ入つて来て、何を書いて居るのかと云ふから、中外物価新報の原稿だ、斯うやつて僕がひまひま
 - 第27巻 p.499 -ページ画像 
に書いて居るのだと云ふと、さうか、道理でどうも違ふ、素人ばなれがして居ると思つたと云ふたことを記憶して居る。
 中外物価新報は後ちに木村清四郎にやらせ、其の次に野崎広太にやらせた。木村は渋沢さんの世話であつた。
 〔註〕中外商業新報は明治九年十二月二十日《(衍)》、中外物価新報と題して創刊された。中外物価新報は、二十二年一月五日の紙上に、左の社告を掲載して改題した。
  〔前略〕昨年夏より日本橋区三代町一番地へ家屋の新築に着手致候処〔中略〕本月中旬を以て本社を同所へ移し、且来る二十日より中外商業新報と改題したる上〔下略〕
    明治廿二年一月             商況社



〔参考〕財界物故傑物伝 実業之世界社編輯局編 上巻・第四二六―四二七頁 昭和一一年六月刊(DK270135k-0004)
第27巻 p.499 ページ画像

財界物故傑物伝 実業之世界社編輯局編
                  上巻・第四二六―四二七頁 昭和一一年六月刊
    木村清四郎(日本銀行の重鎮)
 さきの日本銀行副総裁勲二等貴族院議員木村清四郎は、我が金融界の整調発展のために三十有余年間精励し、特に日清・日露両戦役の金融非常時に処して、至誠粉骨以て財界秩序の維持に当つて功あり、晩年日銀参与たる傍ら、財界に在つて身を終るまで献身するところがあつた。
    ×
 彼は文久元年六月五日、岡山県小田郡三谷村に木村勘介の長男として生れた。家は数百年間連綿として続いた名家であつた。幼にして漢学を修め、明治十一年、十六歳の時、立志笈を負うて大阪に出で、専ら英学を学び、翌年十七歳にして東京に遊学し、三菱商業学校に入つた。後、同校に組織の改正あり、やむなく、三田の慶応義塾に入学した。彼は福沢諭吉の薫陶の下に、専ら経済書を耽読し、当時青年社会を風靡した自由民権説に耳を傾けず一意実業の将来に希望をかけた。明治十六年、二十二歳にして優等を以て慶応義塾を卒業、初め商況社に入り、今日の中外商業新報の前身たる中外物価新聞《(報)》に関係して論説を担当した。当時同紙は週刊新聞で、極めて微々たるものだつたが、彼はその発展改善に尽し、更に十八年に至りその経営全部を引受けてこれを主宰した。ここに於て中外商業新報と改題して新聞名をその実に伴はしめ、週間発行を隔日に改め、更に日刊新聞に変更した。拮据経営に任じ、苦心努力の甲斐あり、社運益々発展して基礎愈々鞏固となり、日本橋区三代町の角に工場と事務所を新築して移転するに至つた。かくて筆陣を張り、また朝野の大官・富豪に接触してゐるうち、二十九年日清戦後の金融界整理の大任を負うて三菱王国の主宰者岩崎弥之助男が日本銀行総裁の顕職に就くや、彼は予て知遇を得てゐた関係から、勧誘されて翌三十年遂に日銀の人となつた。よつて同年、主宰経営してゐた中外商業新報と全然関係を絶ち、これを合資組織に改め、前農商務次官たる友人斎藤修一郎を挙げて業務担当社員たらしめた。
○下略
 - 第27巻 p.500 -ページ画像 



〔参考〕中外物価新報 第五一六号 明治一五年七月八日 中外物価新報の改刊(DK270135k-0005)
第27巻 p.500-501 ページ画像

中外物価新報  第五一六号 明治一五年七月八日
    中外物価新報の改刊
商売の道博く、商売の術難し、道の博きも中正を履むの外は無く、術の難きも機略を誤らさるの外は無し、而して其活用は人材に在り、資力に在り、信望に在り、勉強に在りと雖も、先づ広く中外の物価を明らかにして彼此の高低を参酌し、中外の商況を審らかにして自他の有無を識別するに非すんは、何そ能く其活用を全ふすることを得んや、物価・商況の商売に必要なる斯の如しと雖も、吾邦未た之を審明にし以て吾が商業社会の眼界を闢かしめ、又吾が商業社会の情状に適せしむる者あるを見さるなり、吾輩之を憂ふること久し、嘗て一の新紙を発し以て専ら中外の物価商況を捜索し、敢て商業社会の耳目に任せんと欲したれども、荏苒乎其志を暢ふるに由なかりしか、近者偶中外物価新報を閲せしに、其記する所報する所の審明剴切なるのみならす、其見る所も亦実際に的中せるを覚へたり、然れども尚其足らさる所なきにあらされハ、之に改良を加へ純然無瑕の新報たらしめは可ならんと、之を同志者に議り、尋て其如何を三井物産会社に問ひ、且新報の譲与を請ひたるに、会社は之を然りとして速に其請を諾せられしかば爰に中外物価新報の体裁を釐革し、新に商況社の一局を開くを得たり嗚呼明治十五年七月八日は則ち将に吾輩が宿憂を解き素志を暢へんとしたるの初として、永く之を念頭に記せすんはあらさるなり
抑も中外物価新報は素と内務省商務局の勧奨に創起し、其発刊は明治九年十二月二日に在りて、当時より昨明治十四年九月に至る迄は、其維持を助くる為めとして内務省より年々多少の保護金を下付せられ、加之旧社主の忍耐と社員の勉励とに藉て、今や稍々其基礎を固ふし、益々世上の愛顧を増さんとするの勢を見るに至れりと雖も、本紙の精神たるや陽には中外の商況及諸物価を報道し以て商業社会の実勢を示し、陰には吾邦の商業者をして或は勇進敢為の気象を発せしめ、或は確着持重の心力を具へしめんと欲するに在りて、彼の政論を以て感を鬻き、戯談を以て興を売るが如きの新紙と、其性質を異にし、本紙を看んと要する人は、独り商業社会に止まると謂ふも可なるべく、其領する所の区域は実に甚た狭し、矧んや吾邦の商業者にして広く中外の物価・商況に注目し、大に之が進退を為す者は稀れなる今日に於ておや、故に此領域を拡め、此商業者をして内地東西は勿論、海外各方の物価・商況にまて彼此の参酌を索め、自他の有無を究むるに至らしむるは、吾が商業進歩の期節を俟つの外なきに似たれども、苟も其進歩を促すの方途あらんには、此に由て以て吾が商業者を誘導せすんばあらず、蓋し其方途は啻に一ならざれど、我が新報の如きも亦聊か其誘導に小補なきにもあらさらん、是れ吾輩の不文浅識を顧みずして叨りに商業社会の耳目たらんと欲する所以なり、若し夫れ中正を履み機略を誤らさるごときは、商業者其人の責務たり、吾輩は只中外の物価・商況を審明にし以て商売の必要に供せんことを務めん耳、又汲々孜々として本紙の精神を貫かしめん耳、世上愛顧の諸君は、請ふ幸に其意を了せられ、感なく興なきの新紙として一随に之を唾棄せらるゝ勿ら
 - 第27巻 p.501 -ページ画像 
んことを、改刊の初日に当り謹んて一言を述ふること爾り



〔参考〕新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第三巻・第一〇六頁 昭和一〇年四月刊(DK270135k-0006)
第27巻 p.501 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第三巻・第一〇六頁 昭和一〇年四月刊
〔一一・二五 ○明治九年朝野〕 兜町六番地の三井物産会社物価新報局にて中外物価新報と題せる新聞を毎土曜日の夜に刊行し、来月二日より発兌するといふ。