デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

7章 軍事関係事業
3節 日露戦役
2款 国論強化運動
■綱文

第28巻 p.472-476(DK280067k) ページ画像

明治36年10月17日(1903年)

是日陸軍参謀次長児玉源太郎、栄一ヲ兜町ノ事務所ニ訪ヒ、日露間国交ノ急迫ヲ告グ。之ニヨリ栄一、其後屡々国論ノ強化ニ努ム。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三六年(DK280067k-0001)
第28巻 p.472 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年     (渋沢子爵家所蔵)
十月十七日 雨
○上略 十時兜町事務所ニ抵ル、児玉参謀本部次長来話ス、時事ニ付テ緊急ノ件ナリ ○下略
十月十八日 晴
○上略 午前十時近藤廉平氏ヲ牛込ニ訪ヒ、昨日児玉次長ヨリノ内話ニ関シテ種々ノ協議ヲ為ス○下略


児玉藤園将軍 吉武源五郎編 前輯・第一〇―一三頁 大正七年八月刊 【頭抜けて偉かつた (男爵 渋沢栄一)】(DK280067k-0002)
第28巻 p.472-474 ページ画像

児玉藤園将軍 吉武源五郎編  前輯・第一〇―一三頁 大正七年八月刊
    頭抜けて偉かつた (男爵 渋沢栄一)
○上略
      対露宣戦の布告前
 夫れから其後将軍と親しく話を交へたことは、恰度日露の戦争が愈よ始まらんとする少し前、即ち明治三十六年十月頃であつた。どうしても拠所なく、日本と露西亜が戦を交へなければならぬ、と云ふ風雲の急なるを告げつゝある時であつた。元来、私は極く平和論を主張する方で、戦は避けられるだけ避けると云ふ主義である。道理の明かなものに対しては喧嘩するの必要がない。喧嘩と云ふものは、自己が道理を弁へず人を虐げる。自己が横暴を極めて、人の仕事を妨げる、と云ふやうなことをするから、自然人が背いて来る。さうして其結果と云ふものは、各自其勢を争ふと云ふことになるのであつて、夫れは自己が悪いから喧嘩が出来るので、さう云ふ者に対しては、出来るだけ恕すべきは恕するとしても、若し遂に恕すべからざる無礼があるならば、其時は拠所なく、力のあらん限り懲さなければならぬのである。併しさう云ふ場合は甚だ稀れであるが、併し人と人との一身上に於ける交際に於ても亦然り、実業界に於ても、国と国との交際に於ても、能く此処を深慮して行かなければならぬのである。
      平和論者に戦争論
 凡人類の生活に就て、個人間に於ける道徳と云ふものを重んじて行くことが大切な事は、今更喋々を要せぬことであるが、夫れと同じく此国際間に於ても道徳が、必ず其処にあると信ずる。然るに露西亜の我国に対する態度は、どうも能くは分らないけれども、其当時執れる態度、交渉遣口の筋々に無理があるやうで、私もどうも是は困つたことであると思ふた。さうして私は拠所なければ、其無礼を懲らす為め
 - 第28巻 p.473 -ページ画像 
全国焦土と化すとも、国を挙げて戈を持つて起ち、戦はなければならぬことゝ思ふて居つた処、其頃突然児玉将軍が私の兜町の事務所に来られたのである。常々は将軍と方面も異なるので、私も訪ねなければ将軍も訪ねられたことがないので、是が殆ど初めて私の所を訪ねられたのである。然も突然で先触もなく、さうして将軍は私に対し、話したいことがあるので来たのだと誠に率直に私に向ひ、実は露西亜との関係が斯う云ふ訳で、実に行詰つた場合である。実業家の前に斯様なことを話しては、甚だ方面違ひのことであるけれども、今日の場合唯だ軍人だけが騒いで居る秋でないと思ふ。君は平和論者であるが、此場合如何に考へるか、是は容易ならぬ秘密の事柄であるが、君だけに話す、兎に角容易ならぬ問題として聴いて呉れとて、諄々と其関係を話されたのであつた。私も夫れに対しては、前述の如き意見を抱持して居つたので、一言の下に、どうしても拠所ないことであるから彼と戦を交へるより仕方ないことゝ信ずると。斯う答へたのである。
      実業界に戦争観念
 此時児玉将軍は語をついで、是は君だけへの話だが、此事に就て経済界の人がどう云ふ考を有するか知らぬが、今日の場合、戟を取ると云ふ覚悟を有つて欲しいのである。而して其覚悟が殊に依ると、平和を得る手段ともなるか知れない。其処で実は君に今日相談して、容易ならぬ秋であるから、実業家――経済界の人々が如何にも止を得ないと云ふ考を有するやうになつて欲しい。之に尽力して貰ひたいのである。斯くすれば是が或は平和を来すと同時に、是が有利なる一手段にならんとも限らぬと思ふと。併ながら是は極く要領を得たる話ではあるが、予として執る可き手段方法はどうするかと云ふことが頗る心を悩ました。其処で私は之を表面から策を講じて行くと云ふことは余り面白くない。却つて夫れが為に悪結果を来すやうなことがあつてはならぬ為め、开こで是は軍時となれば必ず運送が関係することであるから、此日本郵船会社を利用して、郵船会社は日清戦役の時にも大に軍事の運輸に関して力を尽し、其後十年の間に大分輸送船の数も増して軍時には必ず之が必要であるから、露西亜と日本の風雲急なるの秋、郵船会社をして場合に依りては、其船全部を国の輸送上に提供すると云ふやうなことにして、一面風雲急なることを知らしめ、覚悟を持さしむることにした方が一策ではないかと提言した所、児玉将軍は夫れは妙である、此事を早速やつて貰ひたいと云ふ事であつた。
    戦時観念の喚起策
 夫れから私は郵船の近藤男爵に其内意を告げ、而して玆に郵船会社は、所謂貿易に対する貨物の運送が主であるけれども、此今日の場合形勢急なりと云ふ時には、何時でも船全部を提供して他の運送を断り詰り早く戦端を開かなければならぬ、と云ふ意味を知せる目的の下に此意味の書状を作つて、各方面に郵便で出したのである。(此書状などは、今日でも郵船会社に遺つて居るかも知れぬ)果然時は来れり、日露の戦は遂に交へられて、其結果は日本の勝利に帰したのであるが、斯く言ふと、大に我々の力与つて功あるやうに聞こえるのである。然し乍ら決して其意味ではなく、日露の風雲急なるに際し、児玉将軍が
 - 第28巻 p.474 -ページ画像 
国家の為め大に憂慮して、其緻密にして機敏なる頭脳より、是等方面の関係を察して、私等如き者に対し、其執るべき手段方法の一端を語られ、国家をして都合好く進展せしめたのである。併して此際に於ける此児玉将軍との相談、即ち如何に経済界の者をして、風雲急なるに際し、確固たる覚悟を抱持せしむるに就ての相談は、児玉将軍と私、及び郵船関係者たる近藤男より知る者なかつたのである。而して此事計劃せられて後、私は郵船会社の何かの集りの時、渋沢は平常平和論者でありながら、其当時頻りに主戦論者と化したのは、甚だ可笑しいと疑はれたのであるが、斯く私が平和論者でありながら主戦論を主張するに至つたのは、前述の如く彼に無理がありし為め、且つ其執れる無礼に対して、酬ゆるには戦を以てするより外、国として途なき為め主戦論を主張したのだと云つて大笑をしたことがある。
○下略


雨夜譚会談話筆記 下・第六五七―六五九頁 昭和二年一一月―昭和五年七月(DK280067k-0003)
第28巻 p.474 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第六五七―六五九頁 昭和二年一一月―昭和五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第二十四回 昭和四年九月十七日午後四時 於飛鳥山邸
    一、日英関係に就て
先生「○中略或日児玉源太郎さんが私の処へ来られて『渋沢さん、あなたは大変戦争に反対される様であるが、あなた方が平和論を唱へる事は却って戦争を促す事になる、寧ろ主戦論になれば戦争にはならぬかも知れぬ』との話だつたから、私が『私は一向軍事上の細かい事は判りませんが、国家が常に戦争をして其為めに版図を増し、国力を伸ばして行かねばならぬと云ふ考へは間違つてゐると思ふから戦争に反対する迄です。併し只今のお話に私に主戦論者になれと仰言つたのはどう云ふ理由ですか』と聴くと、児玉さんが『其事は秘密に亘る事であるがそれを打開けぬとわかるまい。今日本が平和論を唱へ弱腰に出ると云ふ事は露西亜の腰を強くするばかりで、そうなると露西亜は益々増長して朝鮮を併呑しようと云ふ気になるのだから、此処であなたが主戦論を唱へて、日本は此際戦争を避ける事は出来ぬと経済界に其気分を促して下されば、或ひは却つて戦争はしなくて済むかもしれない。』との答だつたので、『そんな事情なら已むを得ません。私もどうしても戦争をしてはならぬと云ふのではありませんから、御話の事は引受けました』と云つて遽にマア主戦論者になつた次第ではないけれども銀行倶楽部に銀行業者を集めて主戦論を唱へた事がある。 ○中略 私は元々戦争嫌ひで、自分の方から働きかけて他と戦争するなど云ふ意見は全然なかつた。 ○下略
   ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢敬三・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・佐治祐吉・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。


渋沢祖父上様御話の筆記 市川晴子記[市河晴子記](DK280067k-0004)
第28巻 p.474-476 ページ画像

渋沢祖父上様御話の筆記 市川晴子記  (市川晴子氏所蔵) [市河晴子記 (市河晴子氏所蔵)]
    児玉大将について
 あれはと、開戦が三十七年のはじめだから三十六年と思ひますが、突然児玉さんが兜町に見えたんですがね、それまでこれと云つてさし
 - 第28巻 p.475 -ページ画像 
むかひで坐について話したと云う様なことは有りませんでした、軍人の中でも只の戦さ人ではない、勿論帷幕の内に計を廻らす参謀でも居なさるが、その俊敏さの中に黒幕とでも云うかね、こう油断のならない様な策士じみた処の無い、本当の智恵のある御人と云うのはこんなものかと、私もよそながら頼もしく思ひ、あちらでも又私を只の算盤はじき許りの人とも思つてござらない様子でした
 そう、いつのことだつたか、桂さん・伊藤さんなんかと、こう皆でどこかの官邸で待ち合つて、そろつて出かけると云う様な時でした、児玉さんが私を一寸合図して、わざと一歩皆より遅れて立話半分、歩きながら半分に、さつきの話についてあなた一個の御見込みを伺ひたい、政治家たちの意見にどうも大ざつぱなところがあるやうだがつてね、それが何の件だつたかその辺は忘れましたけれど、その時と、日清戦争の時天機奉伺に出て御世話になつたのと、その位なものでしたその以前交際の有つたのは
 でその三十六年に見えた時はまつたくの突然で、まあ一寸「居るか」位の電話でもかゝつたろうが、御使でも来なさるのだろう位に軽く考えてゐると、じきに御自身出むいて見えたので、何しに来なすつたかと怪んだ気持を今もつて覚えてゐます、ことに「今日は変つた事でちと重大な御話に来たのだが、今落ついて熟考して頂く程の御隙があるか」つて様に手重く話し出しなさつてね、「何なりとも伺つて十分考えて御返答いたしましよう」と云うと「いや実はロシヤとの国交の問題だが、これがどうなり行くか、どうすればいゝか、例えばいよいよとなれば戦争をも辞せぬ覚悟で応接するが御国の為か、どんな事があつても今は戦はないと云うたてまえの方が国家百年の計か、御互に御国を思うことは一つで、只まるで違つた立場の私とあなただから、そこを話し合つてみたいと思う」つて云はれるからね「そりやどんな事が有つても戦はないなんてことは、それじや国をよこせと云はれたらどうするつて云う様なもので、思はずとも知れた、まるで考えられないことじやありませんか、只私は実業界にあつて、その発展充実につくしてゐる上から、目前の戦争から来る国力を気づかう許りでなく、一体に我が国民性がどうもワツと浮いた目立つ事が好きで、鼻つぱりが強くて、じつくり力を貯えて行くと云う風にとぼしい、その欠点につけ込んでそれをあほつて置いて、国民が「戦争だ戦争だ」と騒いだからと云つてすぐ輿論呼はりするのは正しいことでなし、そうして戦争して勝てば又この国民性の欠点を助長し、世界中に日本を好戦国として印象させることは決して御国の為にはならないと常に存じて居りますので、自然どうしても、戦ひを急ぎがちにならざるをえぬ軍人の御意見を後から制する形となり、又それで国論が丁度よい点に置かれるとも信じてゐます、それ故今日の場合にしても今の露国との折り合ひがどの辺でつくものか、つく見込か、私ども門外の者には全くわかりません、したがつてそこを明かにして下されば、私どもとてどこどこまでも押しつけられて萎縮して行つても、目前の一寸逃れがしたいと云う程の腰抜けではありませんから、その程度では我慢がならない、直ぐにも主戦論に同意しようと云うまいものでもなし、又「その位のこ
 - 第28巻 p.476 -ページ画像 
とはどうでしよう、犠牲にしても今しばらくは国力を養つて後、大いになす処ある方が結局利ではありませんか」と申すか、その二つのいづれかにきまるのですが、問題を明かにして下さらないことには御答えに苦しみます、聞かせてよくば、露国の要求がどの辺にあるかを知らせて下さい」つて云うと「そうおつしやるのは解つてゐたが、御推察通りこれは今はまだ秘密に属すことなので、早晩公開されることながら、一寸わたしの口からこうとも云ひにくいが、どこからかもれ聞いて推察されてではないか」「いや私は新聞紙上に有る形勢以上のことは知らん、したがつて『何でも意見をたてろ』なら、その程度の智識を土台にして何とか申すより外はないが」「いやそれはこまる、なる程こゝまで踏み込んでその眼目を申さぬ訳にも行きますまい、実は大づかみに云へば朝鮮は皆よこせつて云うのです」つてね
 それは私にも意外でしたよ、その頃はしきりと北緯何十度を境にしてとか云う様なことが問題になつて居たので、今度の要求もせいぜいその程度のことと思つてゐたんですから、憤然として「それはけしからん、そんなにまで激しいとは勿論知らなかつた、さうと知らされゝば誰れだつて堪忍は出来まいじやありませんか、戦あるのみ、戦ひのやむをえぬのは解り切つてゐるじやありませんか」つて云うとね「あなたが左様思つてくれるなら甚だ幸だ、それならどうか銀行関係の人人に、いよいよ戦の覚悟をかためるやうにしむけてもらへまいか、そうして挙国一致で、どうしてもそんな乱暴な要求は聞き入れられぬ、無理を通そうとすれば戦ひあるのみと強く出たら、あるひはロシヤも一歩ゆづつて、戦はずして折り合へる様になるまいものでもない、平和、戦争、いづれの為にもこゝは日本国中団結して、主戦論となる必要があるのだ」つてね「さあ只では多少めんどうだが、ロシヤの要求の真相を公言してよくば話は簡単だが」「いやまだしばらく明言してもらつては困る」「いやよろしうございます、こうこうと明さまに云はんでも何とかほのめかす法もありましよう、御懸念には及びません、かしこまりました」つてね
 当時私などがまあ非戦論の一番重なものだつたのだから、話はしよかつたのですよ、あの男さへアヽ云うからにはよほど堪忍ならないことが有るに違いないと誰れも思つてくれますからね、で銀行集会所で二度程皆をよせて話ましたよ、朝鮮のことはこゝろみにこんな場合を考えたらつて位にしか云はなかつたけれども、それで銀行がはの人の考えもはつきりとまとまつてたしか大蔵大臣へむけてだつたつけ建議なんかしたりしたよ、ま児玉さんの思ひ通りになつたわけでしてね
 戦後宮中で、これもほんの立ち話だつたつけが、あの前ぶれもない様なフラリと来なすつた訪問、さしむかひの短い対談ではあつたけれど、あれで御互に国家を背をつて話たのだつたつて意味のことを児玉さんが云はれましたつけ、一体にこうごく短いすくない言葉数で多くの内容を汲み取らせなさる、一寸のことでも流石はと思はれて、奥ゆかしく思はれる御人柄でしたよ
   ○本資料第八巻所収「日本郵船株式会社」明治三十六年十月二十四日ノ条参照。