デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
9款 福田会
■綱文

第30巻 p.398-401(DK300040k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)

是ヨリ先栄一、当会創立ノ当初ヨリ名誉顧問トシテ尽力ス。栄一逝去ニツキ是日当会ヨリ弔詞ヲ贈ル。


■資料

青淵先生関係事業調 雨夜譚会編 昭和三年五月八日(DK300040k-0001)
第30巻 p.398-399 ページ画像

青淵先生関係事業調 雨夜譚会編  昭和三年五月八日
                      (渋沢子爵家所蔵)
    福田会に就て (福田会常務理事 北越戒定氏談)
福田会が創立しましたのは明治九年でございます。創立の趣旨や、福田会と云ふ名称を附した理由等は只今差上げました福田会沿革略史に書いてありますから略します。会の組織に就いては、明治卅一年民法が我国に実施されると同時に、社団法人と致しましたが、大正十一年に至つて会の拡張を謀つて其寄附金募集の都合から財団法人と致しました。
渋沢子爵との御関係に就ては、子爵は当会創立の時から大変御尽力下さつて、其後明治卅年頃迄は度々御出下さつて種々御世話下さいました。当時迄は寄附金等の管理の為第一銀行員・三井銀行員の方が隔日に会に御出掛下さいました。子爵は創立当時から現在迄名誉顧問になつておいでゞございます。
それから育児院の事でございますが、院内に収容する育児は家庭貧困其他の事情から親が育て得ない子供を乳呑児時代から引取つて育てます。だから孤児・遺児などを育てるのは養育院の仕事ですから、私方では主に親があつて養ひ得ないと云ふ幼児を預かります。現在では一日平均百四十人の育児が居りまして、保護期を三期に分つて育てゝ居ります。第一期は里子として里に預けて置くので之が義務教育を受ける年齢迄と定めて居ります。第二期が義務教育を受ける時代です。此時になつて初めて里子から引取つて、此福田会内の育児院で生活させます。それから言ひ忘れましたが、里子に出す所は多摩川電車の終点で、神奈川県都築郡山の内村の農家でございます。そして里子に居る間でも仕着せ等一切会から送つて居ります。第三期は義務教育を終つてから愈々独立し得る迄の間の期間で、勉強が好きな児は上の学校へやります。勉強に余り気が向かない者は種々の職業を見習はせます。そして男子の児は愈々独立が出来る迄世話をして種々就職の事も心配してやります。女の子には縁組も手伝つてやります。勿論育児院で育てゝ居る間に、親が生活に余裕が出来て引取り得る様になれば返してやります。育児院で育つて、今では立派な者になつてゐる人があります。一人は三田四国町で東京医専を卒業して開業して居ります。一人は東京で有数な寺の住職になつて居ります。或ひは洋服屋と成つたり八百屋を出して立派に生活をして居ります。けれども残念な事には立派な者になればなる程、此福田会を訪れる事を厭がります。それは自
 - 第30巻 p.399 -ページ画像 
分が育児であると云ふ事を世間に知られる事を大変気にするのでございます。然し之は世間の罪でせう。世間が『あれは育児院の児だ』と別扱ひにするから、そう言はれる身になつて見れば恥かしいのは当り前です。それで福田会でも此点は充分に考へて、成る丈け育児院に育つた児だと云ふ事は秘して居ります。そして会に此人々が訪れて来ても、社会的地位を考へて相当に尊敬をして居るのでございます。それから育児を一人育てるには年二百四・五十円は掛ります。現在では子供ばかりで大きい者は居りませんが、近く此処に印刷や木工の作業場を設けて、大きい子供でも会内で技術を覚えられる様にしたいと思つて居ります。会は創立から今年で五十二年目になります。一昨年創立五十年祝賀会を催す積りでございましたけれども、伏見総裁の宮がお亡なりになりまして、続いて御大喪に会つたりして、今年迄延び延びになつて居りましたが、此廿七日に紀念祝賀会を催す積りでございます。此五十年紀念の事業として、前に云つた様な作業場を設ける事に致して居ります。渋沢子爵にも御出を願ふ積りでございます。近い中に子爵の御屋敷を御尋ね致して御案内申上げる筈でございます。次に育児院内には明治廿五年から幼稚園がありますが、大正十四年に之を公開して、普通の家庭のお児さんも容れる様になつて居ります。実は其理由が従来附近の父兄と福田会との間に親しみがなかつたので、両方の融和を図る為めと、今一つは院内の幼児がどうも育児根性が脱けないのであらゆる方法をやつて見た後、一般家庭の子供と一処に交つて遊ばしたらと云ふ事でやつて見たのでありますが、実行して見ると大変結果が良くて、気性も快活になり、食事も進んで体が健康になつて来ました。そこで公開して満三ケ年後即ち本年の四月一日に文部省から幼稚園として公認を受けて、名を宮代幼稚園としました。それは此処が宮代町一番地に在るからでございます。


財団法人福田会概要 第二三―二四頁 昭和三年五月刊(DK300040k-0002)
第30巻 p.399 ページ画像

財団法人福田会概要  第二三―二四頁 昭和三年五月刊
    ○本会役員
昭和三年四月現在氏名左の如し(位次不同)
 一、総裁 伏見宮博恭王妃経子殿下
 一、副総裁 侯爵夫人 山内禎子
 一、名誉顧問 子爵 渋沢栄一  同公爵夫人 毛利美佐子
 一、顧問 男爵 小早川四郎  同男爵 長松篤棐
 一、監事 窪川旭丈  同 木下武夫  同子爵夫人 鳥尾泰子
 一、評議員長 進十六
 一、理事長 影山佳雄
 一、理事 安川繁種 ○下略


福田 第三三〇号・第一頁 昭和六年一一月二八日 謹弔(DK300040k-0003)
第30巻 p.399-400 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕慈善観劇会趣旨書 福田会育児院慈善会編 昭和五年刊(DK300040k-0004)
第30巻 p.400-401 ページ画像

慈善観劇会趣旨書 福田会育児院慈善会編  昭和五年刊
    慈善観劇会趣旨書
福田会育児院は我国に於て最も旧き歴史を有する救済機関にして、創立已来星霜を閲すること五十余年、此間能く精励尽瘁して国家人類の為に貢献したる其功蹟洵に偉大なるを識る、然るに時代の進運に従ひ事業は一層活動を要する傾向を来したるも、経営費は却つて世上不景気の影響を受け漸次窮迫を告くるに至り、昨年已来より収支決算上年年四千円内外の不足を見、経営上頗る困難を感ずること痛切なりとす依之此度新橋演舞場三月興行を好機に五日・六日・十二日・十三日の四日間、東京報知機株式会社其他の後援を得、慈善観劇会を開催し其純益を挙げて事業資金に充当せんことを玆に発起せり、冀くは江湖の仁人淑女、今玆に訴ふる衷情を諒とせられ、慈善会に対して御同情の上奮つて御来観の栄を給らんことを、発起人一同懇請して止まざる次第であります
  昭和五年三月 日
                福田会育児院慈善会発企人一同
                   電話青山(36)五八三三番
      発企人(イロハ順)
     石崎鶴子       織田活道  子爵夫人 曾我晟子
     今関房子       沖鳳道   男爵夫人 園田銈子
     今井宗恭       若宮米子       角田栄子
     池月順孝       影山佳雄       津村錠子
     芳賀幸子       神田沢子    男爵 長松篤棐
     原田霊道       賀田道子  男爵夫人 長松菅子
     西村節子  子爵夫人 河鰭久子       中村林盛
     新山雅楽子 子爵夫人 河鰭為子       中里日勝
     西川米子       何婦美子       向井恵廉
     保坂真哉       加藤観澄       村瀬宗賀
子爵夫人 鳥尾泰子  子爵夫人 吉田貞子  子爵夫人 裏松千代子
子爵夫人 鳥尾知勢子      玉塚豊子       宇野喜代子
     小野与志子      棚橋絢子       野村友子
     及川真能       辰野秀子       窪川旭丈
     小栗ラク子      高橋徳子       黒田琴子
 - 第30巻 p.401 -ページ画像 
     黒川光栄       寺島盛雄       清水教誉
     工藤美子       朝倉タキ子      進道子
     柳谷千代子      浅田万子       白井菫子
     家寿多作治      網代智海       島田八重子
     家寿多安子      天野竜子  男爵夫人 斯波久満子
     山本寿々子      斎藤勝子       平野鶴子
     山本琴子       佐藤梅峰  公爵夫人 毛利美佐子
     松島たけ子      佐藤ソフイ 子爵夫人 本野久子
     松原祖来       木下武夫    男爵 毛利元雄
     福原米子       北越戒定       関谷徳子
     福井富久子      壬生雄舜  男爵夫人 周布貞子
  男爵 小早川四郎      三宅藤子       菅原義文
     厚東仙子       三宅秀        以上
     小峰融憲    子爵 渋沢栄一
   ○本資料第二十四巻所収「福田会」参照。